ダンスという仕事
昨日の公演のプログラムには、スペシャルサンクスとして私の名前が書かれてあったので、思わず「おっ」と思った。
ヤニス達に武道の身体を教えているのをはじめ、この作品を作る4年前に何か所か演出を頼まれてやったからだ。
ヨーロッパは不況で、文化芸術面の予算がどんどん削られている。
そうなると、ヤニスを始めプロのダンサー達が、食べていけなくなる。
その意味で、彼らは生き残りをかけて必死だ。
世界各地のプロデューサに認めて貰おうと売り込みにも力が入る。
それに引き換え日本人ダンサーは、その辺りの事がピンとこない。
というのは、彼らは子供の頃からバレエをし、義務教育終了後すぐにバレエやダンスの専門学校に入り、その後それぞれカンパニーに入り、ダンスを生業として来ている。
つまり、潰しがきかないということであり、ダンス馬鹿なのだ。
ヤニスなどは、ギリシャの学校、フランスの学校と転々としたため、どちらの言葉でも、正式な文章など書けないという。
だから、ダンスか振付を仕事とするしかないのだ。
しかし、日本のダンサーは、ダンスを生業にしなくても、他の仕事でいくらでも生活を成り立たせる事が出来る。
というよりも、他の仕事が出来る保険的役割である、大学や高校を出ている。
だから、その切羽詰まった状況は実感できないのだ。
だから、日本のダンサーは、本当にダンスで生活しなければならない、というようなことは有り得ないとも言える。
その意味で、一度ダンスを止めて見れば良いのだ。
そして、普通の仕事で生活をし、それでもダンスを生業としたいかどうか、を見定めればいい。
でなければ、ダンサーということでの基準の違いが、ダンスそのものの質の違いを生み出している事に気付かない。
気付かないということは、もしダンスを生業とするならば、そこを何で埋めるかという具体的な作業にも気付かない。
ということは、永遠に彼らのクオリティに迫る事は出来ないということだ。
それは、また日本の高校に当たる一番感受性が強い時期に、彼らは専門的にダンスをしている。
それは、日本での高校でダンスをしたり大学でダンスをしたり、というのとは、全く異なる。
その時期の感性や意識の形成が、趣味と職業の差として現れるのだ。
格闘技の世界では、ハングリー精神という言い方があるが、タイのキックボクサー達は、ここでいうダンサー達と同じで、子供の頃からキックボクシングを生活の糧としてきている。
だから強いのだ。
しかし単に、子供の頃からやっている、ということで同一線上に並べることは出来ない。
子供の頃を支える生活基盤、社会基盤が全く違うのだから。
そして多感な時期を、そのものを体感しながら過ごしているが、日本では殆どの高校生は塾や大学受験に時間を費やしている。
つまり、感性の成長度や、そこに蓄積された様々な情報がまるで違うということだ。