今日は楽日
結局「表現塾」は「武禅」になってしまう。
例えば、こんにちは、の声が相手に届かない。
もちろん、聞こえる。
しかし、届いているのではない。
そこを丁寧に行っていくと、全く届いていない事が体感できるようになる。
しかし、届かせてもらう側の人は、届いて欲しいと、相手に表現できない。
あるいは思っていない。
つまり、相手を拒否したり、無視しているのだ。
相互に拒否し、無視している関係なのに、そこに関係が築ける筈も無い。
そう育ってしまっているのは何故だ?
特に昨日は、楽日前ということもあって、相当厳しい「表現」基準とした。
一番ピンと来てくれるのは、ある程度の年齢の人だ。
もちろん、ピンとくるということと出来るということはイコールではない。
しかし、「これは大事だ」と、心底感じるから、否定されてもめげずに取り組む。
悔し涙さえ浮かべる。
しかし、ピンとこない人は、頭での理解なので、その取り組み方はぬるい。
お互いに和気あいあい「のように」なる。
だから、本当の和気あいあいではない。
自分を否定されているということを、誤魔化してしまうのだ。
否定される、つまり、自分は間違っているという現実に、まるで対応出来ない、しないのだ。
ここが難しいところだ。
ピンと来てくれることを願って、様々なヒントを重ねるが、結局どこまで行っても頭での理解、納得のところで止まってしまう。
自分自身に大手をかける事ができないのだ。
ピンと来た人は、顔が完全に引き締まるので、誰が見ても分かる。
先日、シゲヤンが参加した時、内から湧きあがる「欲求」と、「思っている」との違いはなにか、と質問があった。
もう少し分かり易く言えば、自分の中から湧いた自然な欲求と、頭で作った目標や目的の違いということだ。
その時、欲求は、その事が実現するまで、何が有ってもやり続けるが、思っている、は、最もな理由を付けて途中で止める、といった。
何があってもやり続ける、というのは、それ以外のことは目に入らない、気が散らない、意識が散漫にならない、ということだ。
それをもう少し考えると、欲求であれば、絶対に言葉を持たない。
理屈は無い、だ。
しかし、思っているは、全てに言葉や理屈が必要だという違いだ。
これは、ピンと来たのか、頭が理解したのかの違いとも同じだ。
頭だけで分かった人は、見事に何を分かったかを説明する。
もちろん、「それで?」ということなのだが。
その見事な説明に、自分自身も騙されてしまうのだろう。
昨日は背骨、胸骨と肘、意識を変えて胸骨と肘。肩動かし、肩動かしでの誘導だった。
今日は楽日。
急ピッチで復習をしよう。