すれ違い
一昨年から今月まで、かなり密にダンサー達と関った。
そこで頭を抱えたのが「言葉」だ。
むろん、指示のことばだ。
「~感じで」というと、~感じで、と思うのだ。
そうするとどうなるか。臭くなるのだ。
芝居じみてしまうということだ。
芝居になっているならそれでよい。
しかし、そうではなく、例えばそんな顔をしているだけ、そんな風に動いているだけ、になるということだ。頭の中で思うだけだから、どんどん自分の中に入る。
ところが、山田君や高原さんは~感じで、というと、試行錯誤を繰り返し、それをする。
前者は、~な感じ、という言葉をこねくり回すだけで、一向に~感じをしないのだ。
そういったことの繰り返しだから、偶然素晴らしく良い時もあるが、それには再現性はゼロだ。
だから、極力言葉を排除していった。
偶然でも良い時があると、それでいこう、という。
ところが偶然だから、そのことも再現できない。
あるいは、再現しようとする。
再現しようとする、というのは、成功体験をそっくりそのままコピーするということで、出来る筈も無い。
だから、つもり、になり、また臭くなる。
そんなこんなで、つくづく日本語を通じさせるというのは、難しいものだと認識した。
しかし、一人でも通じる人がいる、ということは、その指示は間違っていないということだ。
そこにはどんなレベル差があるのか分からないが、確かにある。
山田君は吉祥寺から比べて、180度変わった。
誰の目にも良くなったのだ。
「身体がとっても軽くなりました」と言っていた。
頭が変わったからだ。
つまり、何かを発見したということだ。
高原さんも同じだ。
よく考えると、この二人は自分の場を持っている。
だから、私の理論を活用しようとするには、必然がある。
だから、自分として一生懸命に取り組む。
そして、私がやっていることを見て体感できる。
しかし、自分の場を持たないダンサーは、私の理論をやれば、ダンスになる表現になる、として取り組む。
それは無理な話だ。
理論の必要性など自分の中に全く無いのだから。
そんなことが浮き彫りになった公演だった。