La Fiesta 134  -祭り-

60 歳。
30 代の時、スティックを置かざるを得なくなったその場に、スティックを拾いに行ってやる!
但し、一人で!

武道は音を鋭く鋭く、深くしてくれた。
私が置いてきた場、残してきた仲間たち。
背中にいる仲間たち。
そのおとしまえをつけてやる!

という、私自身の思いの丈を大阪と東京でぶつけてみた。
伏線としては、教室に来るダンサーや役者の人たちに「表現」ということについて教えているが、その実際を実際として見せてやろう、というのがあった。
また、ドラマーとして無名の日野晃が、大阪で 500 人の客席、東京で 400 人の客席を埋め尽くすことなど不可能だという、ごく当たり前の、あるいは常識的な考え方を覆してやろう、もあった。
巷では、やれ癒し系だのと耳障りのよさそうな引きこもり的音楽が横行し、はたまたロックにもならない音をロックだと幅を利かせているのを、実は本気の音がそれら全てを包含しているのだ、というのを知らしめてやろう、というのもあった。
1 時間もドラムを叩き続けられないだろう、という常識をひっくり返してやろう、というのもあった。
ドラムセットだけで 1 時間もソロが出来ないだろう、という固定観念をひっくり返してやろう、というのもあった。
60 歳という年齢と、やる気は正比例しないということを見せてやろう、というのもあった。

それを実現するために、フルで動いてくれたのは、大阪と東京の道場生たち、友人知人たちだった。
彼ら彼女達が動いてくれていなければ、コンサート自体失敗に終わっていただろう。
みんなで協力し合ってものを作り上げていく。
その楽しさは、実現後しか味わえない。
そのリスクを背負い頑張ってくれた。
みんなと打ち上げで美味しい乾杯が出来たのは、大成功といわずして何といおう。
ロビーの受付周りに、黒のジャケットで揃った道場生達は、誰もが凛々しく、まるでプロのようにも見えたのは私だけではあるまい。
大阪では、そんな皆に賛辞の声が多く上がっていたのは、本当に誇らしい限りだった。

25年前にスティックを置いた。
その時の時間を蘇らせる為に、コルトレーンを、アーチーシップを、マイルスを改めて聴いた。
しかし、今の私にはどれもピンと来なかった。
その音では熱くなれなくなっているのだ。
それだけでも、 25 年前の私ではなかった。
ではどうすれば、熱くなれるのか。
答えは見当たらなかった。
しかし、答えは私自身の身体に見つけた。
身体のプロフェショナルとしてドラムを鳴らす。
表現としてドラムを演奏する。
この 2 点が、練習に拍車をかけてくれた。

イメージは何にするか。
「さくら さくら」からどこへ行くのか。
その苦しみは久しぶりの嬉しい苦しみだった。
本番 3 日前くらいまで、何一つ決まらなかった。
焦る気持ちが、どれほど楽しいか。
そうなってくると、頭も身体もフルに回転しだす。

1978フリージャズ。
私の出す音は、私のグループの出す音はフリージャズ。
究極の即興演奏を求めて、 1970 年頃にアルトサックスの T 、ベースの Y と、トリオから始まった。
集合即興演奏という形式の可能性を求めた。
AACM や JCOA といったアメリカのグループや、ヨーロッパの前衛音楽の旗手達の演奏を研究した。
私は、アーノルド・シェーンベルクの 12 音技法を用いた。
そんな中で、ジャズという代物が私自身とさほど密接ではない、ということに気付いていった。
探求の目は、「日本」に向きだした。
とはいっても暗中模索だったのだが。

ドン・チェリーが来日した。
それを富樫雅彦がサポートした。
「この方向ではない」
ジャック・デ・ジョネットやロイ・ヘインズ、メル・ルイスが来日した。
「これらのドラミングではない」
阿部薫をはじめ、色々な前衛ミュージシャン達と舞台に立った。
「違うな」
ではどんな音なのだ?そんな葛藤が常にあった。
京大西部講堂でのあるコンサートで、山下洋輔トリオ、高木元輝七重奏とジョイントした。
2 日間に渡って行われた。
初日の演奏が終わり、私達 3 人は不完全燃焼でモヤモヤしていた。
何か弾かれ足りない。
結局頭で音を出しているに過ぎないと、 3 人とも分かっていた。
「よし、声を出そう」
ステージ上で叫んでやろう。
いや叫びたくなるような熱さをもっともとう。
3 人の意見はまとまった。
ただテナーサックスは、吹いているので叫べない。
では叫べる隙間を作ろう。
とにかく目一杯のスピードでエンディングまで突っ走ろう。
絶対に途中休憩を無しにしよう。
2 日目叫んだ。
楽屋から何が起こったのだろうと、山下洋輔トリオの面々や、七重奏団の面々が飛び出してきた。
日野明トリオは、ここに本当の意味で誕生したのだ。
「坊さんがへをこいた、その時はくさかった」

久しぶりに練習台に向かいメトロノームと格闘した。
一つ打ち。肘から上方に上がり、肘から落とす。
スティックの先端に力が出るように、指も腕も解放させる。
武道での突きである。
武道での突きがスティックのコントロールを教えてくれ、スティックのコントロールが刀や棒という道具の使い方を教えてくれる。
もちろん、そこに最初から共通点があったのではない。
共通させる為に「力」という要素を持ち込んだのだ。
その要素を共通とした時、相互に関係性が生まれ、それが身体の動きとしても関係性を発生させたのだ。
ドラムの基本練習の一つ打ちは楽しい。
ドラムをやり始めた時は、文字通り「一つ打ち」しか出来ないしイメージが貧困なので、これほど面白くなく退屈な練習はなかった。
しかし、だんだんとドラミングを理解してくるにつれ、そして自分の求める音、単純には叩きたいことが増えるに連れ一つ打ちが面白くなっていった。
一つ打ちは、確かに一つのストロークで一つの音しか出さない。
しかし、それは 4 分音符であったり、 8 分音符、 2 分音符…、もしくは 3 連の中の 8 分、 4 連の中の 16 分と、いくらでもイメージが膨らむ。
そんな練習が好きになると同時に、ドラミングも成長して行ったものだ。

今回は、それだけではなく「力」をスティック先端から出す、をテーマにしていたので、余計に一つ打ちに楽しく取り組めた。

2 月 11 日朝 8 時。
会場近くのカフェで妻とモーニングコーヒーを飲む。
頭の中は演奏のことよりも会場の段取りや、舞台の進行の方で一杯だ。
本番になればやることはやれる。
カッコを付けて客を満足させる。
何時もそうだった。
だから、そういった意味で、私自身には不安はない。
8 時 30 分会場入り。
ドラムセットを搬入。
会場は円形で、床は可動式。床材はパンチだから、音を吸収する。
私は音を吸収する環境は苦手だ。
それを事前に分かっていたので、ドラムはコンパネの上に乗せることにした。
少しでも、その場での跳ね返りの音が欲しかったからだ。
照明スタッフ、音響スタッフが目まぐるしく動き回る。
何しろ予算の関係で当日本番だから、リハもゲネも一回しか出来ない。
手直しを綿密に出来ないということだ。
両スタッフとも、最善の方法を事前に考え計画通りにセッティングを進める。
ドラムの位置決め、ピアノの位置決め。
照明あわせ。
サウンドチェック。
あっという間に昼になった。
東京の生徒達も応援に乗り込んで来た。
ロビー周りの進行も滞りなく進む。

私だけのゲネで照明や音響をチェック。
30 分間、本番同様のモードで叩いた。
身体が硬い。
やはり音がピンと来ないことが影響している。
無理に身体を動かさなければ動かない。
4 時 15 分開場。
お客さんが、どんどん入ってくる。
チケットを捌くのに動き回ってくれた人達の顔もある。
皆川さんが会場に入る。奥さんも一緒だ。
「似合いますか」
皆川さんが私の為に作ってくれたスーツを披露。
「似合ってますよ」
皆川さんがこぼれる笑顔を見せてくれた。
本番前は、雑談に限る。
何時ものように、何時もの自分を出す。
余計な緊張を作らない為だ。
その姿にダンサー達が驚いていた。

「さくら さくら」からステージは始まる。
どうして「さくら さくら」なのですか、と色々な人に質問された。
しかし、そこには何の理由も無い。
「さくら さくら」が良いなあ、と思ったからそうしただけだ。
ただ、本番で観客の合唱する歌から、何が生まれどう発展するのかの可能性が一番高いのでは、と思ったからだ。

 

●「さるさる日記より」

1 時間叩き終わった。
皆川さんの奥さんが「一体、私は何を見ているのだろう」と、皆川さんと顔を見合わせてお互いに思った、と言っていたそうだ。
叩いている私は、「一体自分は何をしているのだろう」と思った瞬間があった。
ドラムを叩いているのか、ドラムを叩こうとしているのか、音楽を演奏しようとしているのか、 Jazz を演奏しているのか、スティックを動かそうとしているのか、身体を駆使しようとしているのか、難解なパッセージを間違いなく叩こうとしているのか、バスドラムで 3 連を叩こうとしているのか。
どれも間違いではないが、大間違いでもある。
そんなことをしようと、ドラムの前に座ったのでもないし、それを聞いてもらうために 500 人に 3000 円のチケットを購入してもらったのではない。
そうではないから、小さな赤ちゃんから、お年寄りまで喜んでくれた。
遠くから列車を乗り継ぎ、身体が不自由にも関わらず駆けつけてくれた人が本当に喜んでくれた。
音楽のコンサートなどいったことがない人が喜んでくれた。
20 年ぶりに再会した人もいた。
70 年代の私の現役時代に聴いてくれていた人も来てくれていた。
それぞれが、それぞれの全く異なった感動を持ってくれていた。
また、私を全く知らない人が、大多数だったろう。
それは、私の周りの人たちが、熱意を持ってチケットを売ってくれたからだ。
生徒のお母さんが感動してくれていた。
みんなが応援してくれたから、 500 人という途方も無い数字が実現したのだ。
東京から生徒たちが手伝いに来てくれた。
新幹線で、深夜バスで。
これこそ人の温もりのある、温もりの見えた会場だ。
共演した田中さんが「日野さんは凄いわ」と言ってくれた。
では、一体私は何をしたのだろう。
確かにドラムを 1 時間叩いたのは間違いない。
ある人が「魂の連弾」と言ってくれた。
24 日は、東京だ。
もう頭の中は、東京のことで一杯だ。

 

●「ブログより http://page.sgy3.com/index.php?ID=1573

La Fiesta 134 / 08.2.11 日野晃のドラム・ソロ

1時間のドロム・ソロを演ると予告していた。
ぼくは実際に計っていないから何十分を経過した頃か分からないが、プレイが山場を迎えていたのだろう。
ぼくはドラムのサウンドに溶け込こんでいた。
そして、たまらずに叫んだ。ちょうど演奏が終わるタイミングだった。

最初に司会者がタイトルの「祭り」が示すように、踊っても歓声をあげてもかまいません、と言っていた。
さすがに踊る人はいなかったが歓声がたびたびあがっていた。
ぼくはなにげに遠慮していたが、最後の最後に押さえきれずに声を出した。
イってしまった。
日常に戻るにはしんどいだろうと心配になった。
夜通し飲みなたくなるような気分だった。
実際はそうもいかない。
コンサート翌日は仕事をサボるわけにもいかず、案の定、仕事はとてもしんどかった。

凝った演出だった。
「さくらさくら」を会場を埋めた 500 人の合唱から始まった。
何度か繰り返して、照明が落とされてからさらに2回繰り返した。
合唱が終わりかけた時、闇の中でドラムの第1音が響いた。
背筋を電流が走ったみたいだった。
そして目頭が熱くなった。

会場で配られたフライヤーに 25 年前にスティックを置いたと書いてあった。
80 年代の前半だ。
記録がないので定かでないが、その最後か、少なくとも最後の頃の演奏を聞いている。
日野氏を初めて聞いたのは 70 年代の始めで、知人のサックス奏者の演奏を心斎橋のジャズ喫茶に聞きに行った時だ。
それ以来、大阪や京都で行われる演奏を 10 年間追っかけた。
このコンサートのドラムの第1音はその 10 年間に聞いたどの音よりも鋭く、まるで日本刀の切っ先から放たれたような音だった。

その第1音は阿部薫と重なった。
70 年代は大阪と京都の阿部薫も追っかけていたが、 70 年頃に初めて聞いた京大西部講堂でのライブからだった。
その夜のフリージャズ・コンサートで阿部はどちらかというと前座のようだった。
全く知らないアルトサックス奏者だったが、その最初の音はぼくの感性をつらぬいて、疾走した。
遠くへ走り去ったその音を追いかけるようにして阿部を聞き続けることになった。その約 40 年前の阿倍の最初の瞬間を忘れていない。
「 La Fiesta 134 」の日野晃の最初の音も忘れないだろう。

78 年に死去した阿部薫のその1ヵ月前の最後の演奏である北海道ツアーに共演したのが日野晃だった。
延々と続くドラムソロを聞いていると、コルトレーンや阿部の長い長いソロが重なった。
60 年代から 70 年代のフリー・ジャズプレイヤーはジャズを演りながら、ジャズを越えようとしていたのかも知れないと、 La Fiesta 134 の日野晃を聞きながら思った。
エリック・ドルフィーもジョン・コルトレーンも、そして阿部薫も答えを出す前に死んでしまったのかもしれない。
このコンサートの日野晃のプレイはジャズを越えていた。
これが日野晃の 70 年代への決着なのだと思った。

日野氏はコンサートの公式サイトに書いている。

60 歳。
30 代の時、スティックを置かざるを得なくなったその場に、スティックを拾いに行ってやる!
但し、一人で!
武道は音を鋭く鋭く、深くしてくれた。
私が置いてきた場、残してきた仲間たち。
背中にいる仲間たち。
そのおとしまえをつけてやる!

ステックを拾った現場を目撃できて良かった。
スティックを置いてから日野氏とは会うこともなくなり長い年月が経った。
その間に日野氏は武道家として名をなし、コンテンポラリーダンスのウィリアム・フォーサイスに招聘されてヨーロッパでダンサーへのワークショップを開催するまでになった。
大勢の若い弟子たちがスタッフとしてきびきびと働き、彼らの輪の中に日野氏がいる。
美しい光景で、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。

「 La Fiesta 134 」は日野氏の年齢と第2部で登場するピアニスト田中武久氏の年齢を合わせたものだという。
ベースの宮野友巴氏も入ったピアノトリオはドラム・ソロでの上りつめたテンションを冷ます美しいプレイだった。

《追記  2008.2.27 》

2 月 24 日の東京での公演があって「 La Fiesta 134 」は本当に終わった。
氏のブログでその感想を読むことができる。
「落とし前はついた」だ。
ぼくは2月 11 日の大阪公演後、すぐには現実生活に戻れないという、しんどい気分を引きずっていた。
あの日の演奏はとても短く感じられ、1時間だったということは今も信じられない。
これまでに体験したことのない、すごく凝縮された音楽の時間を過ごしていたのだと思う。

ぼくは 60 年代から 70 年代、魂をこめた生演奏を求めてフリージャズを聞いていた。
それが 70 年代も後半にさしかかると、時代の流れは魂よりも頭で演奏するフリージャズになっていったと思う。
日野明(当時の名前)はそのなかにあって魂で演奏するミュージシャンとして孤軍奮闘していたように思う。
しかし日野明はスティックを置き、ぼくは魂のプレイを当時のパンクロックに求めていった。

ぼくはプレイヤーでないので、好みの音楽ジャンル簡単に変えることができる。
しかし、どこかに後味の悪い気分を持ち続けていた。
今回の日野晃のドラムソロはあの 70 年代と今をつなげてくれた。
もちろん、魂をこめた演奏などというものでなくて、さらに次元を越えたプレイだったからいえることだ。
そんな今回のドラムソロがあったから、ぼくにとっては、 70 年代にフリージャズを聞いていたことが意味のあることになった。
もし、今回のドラムソロに出会うことがなかったら、ぼくの 70 年代のフリージャズ体験はいつまでも宙ぶらりんの状態だったに違いない。

ぼくにとってこんなに大切な公演を知ったのはわずか3日前の偶然だった。
すぐにチケットの予約を入れて聞くことができた。
今は、このネット社会で起こった偶然が本当にありがたいと思っている。

 

●「ブログより http://d.hatena.ne.jp/meuto/20080211

ところで、会場外の誘導や受付などに、おそらく日野先生のところの稽古生の方々がたくさんスタッフされていた。
武道の稽古生にありがちな「武張った」ところのない、「いまどき珍しくきちんとした方」ばかりだった。
そりゃそうだ。
「お前、何もできへんやんけ」
ということを毎週骨の髄まで思い知らされたら、逃げ出すか謙虚になるしかないじゃない。
逃げ出さなかった皆さんだ。
日野晃は『劇薬』である。
ちょっと他ではなかなかお目にかかれないすばらしい『劇薬』である。

 

●「さるさる日記より」

本番、何時ものようにスティックを振り上げる。
スネアを一打。
「違う」
一寸した違和感が、身体の動きを狂わせる。
それの原因は、音が違うことだ。
ホールの響き、PAの具合、それらが相まって、違和感と感じさせる。
となると、作為が働き出す。
どういう曲構成にするか、どう観客を掴まえるか。
これはいたし方の無いことだ。
プロのミュージシャンという染み付いた意識が、自動的に身体を操作させてしまうからだ。
観客が堪能する音を身体が作り出していく。
だから、悪い音だったのではない。
実際に観客の人たちの全てとは言わないが、殆どの人は堪能してくれたことが、悪い音だったのではない証だ。
しかし、私自身の違和感が払拭されたのでもない。
しかし、しかし、それが私の実力だから、これまた仕方の無いことだ。

東京のコンサートまで 10 日だ。
10 日で実力が上がる筈もない。
しかし、それをあがいてみようとしている。
きっと、余程のことが無い限り、公の場ではドラムを叩くのは最後になる。
その最後の一回に向けてもがかなければどうしようもない。
40 年前の私の音を知っている友人が、コンサートに来てくれていた。
彼が曰く「 40 年前の音や、現役の時のコンサートのどの音よりも凄かった。思わず涙が出てきたよ」と本当に嬉しい言葉をかけてくれた。
40 年前よりも良いと思ったから、コンサートを開いてみたのだから、そうでなかったのなら、一体私の 40 年間は何だったのか、ということだ。
今、家でドラムの前に座り、東京での音をこしらえている。
大阪の時の音よりも凄いと唸らせる音を。
しかし、それは本当に難しい。
赤ちゃんからお年寄りまで、感動してくれた大阪での音。
それを越える音でなければならないからだ。

 

●「ミクシー日記より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=713255149&owner_id=10329106

この日はいつもお世話になっているセントジェームスの田中せんせとベースの宮野サンがゲスト出演される Dr) 日野晃サンの還暦記念、1時間ブッ叩きライブでした
日野サンは武道家でフリージャズのドラマーで。。。いやいやいろんな顔を持っておられるスーパー60歳です。

それにしても・・・1時間即興でたたきっぱなしのライブ???
どんなお客様がいらして、一体どんなライブなんだ??
となんだかフシギなカンジで会場に行って驚いたのは年齢層の広さなんと家族連れまで広いのは年齢層だけではなく、異業界の方々がごった返しの満員御礼500人くらいは余裕で入ってたでしょうか??

その観客全員で『さくらさくら』の大合唱。少しづつ照明が落ち、真っ暗に・・・そのなかで響きわたるさくらさくらに合わせて和太鼓のような、一打一打に魂のこもった響きが聞こえてきました。

とても幻想的なオープニング。

真っ暗の静寂のなかに、隙のない居合いのような音が響きます。
夜が明けるように姿を現した真っ赤なベルベットスーツの日野サンのドラムはどんどん勢いを増し、圧倒されまくりでした。
そしてまた突然やって来る静寂。
でもまったく隙がない。
最初に司会者のかたが『歌っても立ち上がっても声を出してもかまいません』とおっしゃったので、どこかでセッションするタイミングを見計らっていましたが、到底ムリでした。
怒涛のドラムに白熱し絶叫するお客様もいらっしゃいましたが、音がなくなった瞬間には、何もないからこそどこにも入り込むところがなく、息をも潜めてじっと次の音を受け止める準備をしていました。
驚いたのは、向こう隣にいた小さな男の子が日野サンのドラムに合わせて何か棒状のものを一緒になって叩いていたこと。
ただバタバタしているのではなく、ちゃんと日野サンの音を聴いて答えていました。
周りにも一人としてぐずってる子供はいませんでした。
約2時間、出入り禁止ですよ??
ドラムソロが1時間ですよ??
それを小さな子供にまでじっと聞かせてしまう計り知れない『何か』がありました。
驚いたことに少しも長いと感じない1時間、むしろホントに??ってカンジでしたが、きっちり1時間スーパー60歳日野サンはブッ叩ききりました。
ただ1時間と書くと、あまり叩かず休んでいた時間も多いと思われるかも知れませんが、殆どが『動』でした。しかもものすっごいスピードで!!
バスドラもずーっと雷の様に鳴り響き、スティックさばきなんて、ダブルストロークがシングル並みの力強さでした。

驚きと感動のドラムソロのあとは、なんと休憩ナシで!!田中せんせ、宮野サンとのセッション凄すぎ。
お二人ともタキシード☆宮野サンは合計134歳コンビにすこし緊張気味??
演奏はバトルでした134歳に押され気味だった宮野サンも、食って掛かって主導権をゲット!!!
したかと思ったらすぐに持っていかれたり。。。
セントジェームス連合に日野サンが一人で戦いを挑んだり、田中せんせが二人を挑発したり・・・とてもスリリングなライブでした。

ゲストタイムはあっと言う間でしたが、ソロとは全然違ったステージで楽しかったです
ライブ終了後、ロビーでお客様全員にドリンクが配られみんなで日野サンを囲んで乾杯。
日野サンのお人柄溢れる、とても暖かいライブでした
お着替えも済んだ田中せんせを発見し、セントジェームスでよくお会いするボーカリストさんとお話してると、なんと打ち上げにお誘いいただきました。
ずーずーしくも参加すると対面にお座りになったのは、日野サンの衣装の赤いベルベットスーツをお作りになった、世界的デザイナーの皆川明さん。
そしてそしてガラス作家の奥様イイノナホさんお二人ともとってもステキで、私のような小娘の話も温かく優しく聞いてくだいました!!
とってもステキな飾らないけれどとても贅沢な、肌触りもデザインも素晴らしいニットをお召しで、いつかわたしも皆川サンのお洋服に袖を通してみたいなぁ(夢)と思いました。

楽しい打ち上げも終了。日野サンにご挨拶して帰ろうとした所、田中せんせと日野サンに『2次会いくで!!!』 と誘っていただき、もう一人の方も一緒に参加。
たのしい夜の話はどこまでもつきそうにありません
日野サンとステキな仲間たちにしばらくのあいだでも入れていただけて、とってもシアワセでしたぁ田中せんせに感謝。

日野せんせい、おめでとうございました。

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ドラムの前に座った時、「ドラムを叩こう」と気付いた。
イメージも何もいらない。
ドラムに真っ向勝負をしてやろう。
でなければ、燃焼しきれない。
小ざかしい屁理屈はいらない。
ただドラムを叩き込んでやろう。
思えば、ドラムを叩いたのは、ドラマーになって以来初めてのことなのではないか、と思う。
ドラムではなく、曲であったり、伴奏であったり、音楽であったり、イメージであったり、共演者のサポートであったり。
純粋にドラムという楽器と渡り合ったことがなかったのでは、と思う。
音が変わったと、傍で聞く妻がその変化を聞いた。
やっぱりそうだ。
様々な意識が音を濁らせていたのだ。

暗転になり「さくら さくら」が小気味良く会場に響く。
バスドラムをピアニシモの不規則な連打。
アクセントを変えながら。
その音は、私の身体を揺すってくれた。
猛烈なスピードでタムとリムを変則的に叩き分けて 1 時間の幕は切って落とされた。

 

 

●「さるさる日記より」

2 回に渡って行った、「L a Fiesta 134 」も昨日無事終わった。
スパイラルホールの責任者の方が
「スパイラルでこんなに人が集まるなんでありませんよ、ましてチケットが完売なんて。これなら昼夜 2 回公演にしても良かったですね」
と会話が弾んだ。
満席状態なので、どう工夫をしても座席が足らない。
では、誰を立ち見にするか、そんな嬉しいことを考えなければならない本番前だった。

2 年前にこの企画を思いつき、昨年から本格的に始動した。
会場を決め予算が出た。フライヤーのデザインから、照明、音響とテクニカルな部分の煮詰め、動員をかけるための方法の検討。結局のところ、友人知人、生徒達のコネ。
ネットやメディアへの宣伝。
私達で出来る事は全部した。
本番前 3 ヶ月から、舞台監督が陣頭指揮をとり、会場の具体的設営に向け突貫工事並みの作業に入った。
本番当日、機材の搬入とともに、細密な時間割どおり作業が滞りなく行われ、リハ、ゲネと済んでいく。
本番、そこで私の出番だ。
受付周りから、客席誘導、その他諸々の一切は、日野武道研究所の生徒達や、その周辺の人たちが協力してくれた。
つまり、このイベントに関わってくれた全ての人たちの、熱意や思いは、 1 時間という本番の為に結集しているのだ。
それぞれが役目をきちんと果たしたから、この本番があるのだ。
スタッフや一切の人の思いを背中に背負って舞台に上がる。
私がこけたら、その背中にのしかかっている人たちに申し開きが出来ないのだ。
そのプレッシャーが、どれほど快感か。
「後はまかせ!俺が観客をノックダウンさせるから」
それが舞台だ。
一人では何も出来ないんだ、ということの典型である。
それぞれがみんな楽しんでくれ、打ち上げで美味しいお酒を酌み交わせた。
大成功だった。
本当に、みんなありがとう。
聴きに来てくれた人たち、本当にありがとうございました。

25 年前にスティックを置いた、そのおとしまえをつける、というのが、私の個人的なドラムを叩く意味だった。
おとしまえがついたのか、ついていないのか、それを知るのは「私」なのだが、実際はそうではなく、聴きに来てくれた観客だ。
もちろん、観客は私の文章として、それを知っているが、実際にはどんなことなのか、誰も知らない。
どういうことかと言うと、 25 年前の私の観客はいわゆるフリージャズのファンばかりだった。
だから、ある意味で温室の中で、甘やかされていたとも言える。
その温室の中で、我侭なことを言っていたに過ぎない。
もちろん、自分の中ではそんなことは微塵にも思っていなかったが、客観的に見ればそういうことだった。
25 年経った今、今回のコンサートの観客のほとんどは、フリージャズなど知らないし、私の演奏など全く知らない。
そこで 1 時間ドラムソロをするというのは無謀というしかない。
ある意味で、 400 人の敵の真っ只中に一人で突入し、全滅させようとしているのだからだ。
全滅させなければ、落とし前をつけたことにはならない。
それが、落とし前をつけられたか、そうでないかの答えだ。
だから、私の個人的な意味ではあるが、客観的に誰にでも分かるというものだ。

皆川明さんのお子さん 3 人も、東京公演に来てくれていた。
3 人は大喜びではしゃいでいたそうだ。
終演後ホワイエで、奥さんと子供達にあった。
どの子もはしゃいで喜んでいてくれた。
今回広告をボランティアで担当してくれた女性のお母さん(きっと私よりも年長だと思う)も来てくれていたが、同じように「元気を貰いました」とたいそう喜んでくれた。
フリージャズ現役の頃、こんな光景は一度たりとも無かったし、想像の中にはなかった。
年齢や性別、音楽の趣向という様々な垣根を越えていたのが、今回のコンサートだった。
言わばボーダーレスコンサートだ。
それが本当の意味で、フリージャズだったのではないか。
音楽なのではないか。
音一つ出せないコンサートなど無意味だし、何よりも趣向によって左右されるような音など音楽ではない。
作家の押切さんに
「生まれて初めてのものを見たから言葉など出ません」
と嬉しい言葉を貰った。
落とし前はついた。
改めて、今ここにスティックを置こう。

 

●「ミクシー日記より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=725765628&owner_id=732595

平成 20 年 2 月 24 日。
今日は、青山スパイラルホールで行われた「 La Fiesta134 日野晃ドラムソロコンサート」を観て来た。
否、目撃したと言った方がいいかも知れない...週末の二日間大寒波に見舞われた東京。
この竜巻の目のド真ん中にコンサートは行われた。
正に「嵐を呼ぶ男」!(笑)

現代バレー界最高峰の振付家ウイリアム・フォーサイスに召還されプロのダンサーに身体表現の指導をする武道家にして元プロ・フリー・ジャズ・ドラマー(阿部薫トリオ最後のメンバー、山下洋輔、坂田明他共演、ドラマー東○力○の師匠)。
しかも、元東京オリンピックの強化選手。
17 歳でスナック 2 店舗経営?こんなプロフィールを持つ人物が他にいるだろうか?

そんな日野氏が 25 年間封印して来たドラム業を大阪と東京のそれぞれで一回限り復活させるハプニングが起きた。

コンサートは、落語の音声、そして、名司会による「フリー・ジャズなんだからお客の反応もフリーで構わない」という旨のメッセージに始まり、観客による「さくら さくら」(一部歌詞アレンジ)の大合唱で照明が暗転。
そこから怒濤の 1 時間ドラムソロ。
最後にゲストの田中武久氏( P )、宮野友巴氏( B )とのトリオで 2 曲という内容。

ソロコンサートについての感想だけ述べよう。
その場に居合わせた者が聴いた音、感じた波は、恐らく予約発売される DVD でも CD でも再現されることはないだろう。
それほど繊細な音色(ねいろ)が会場を満たしていた。

薄明かりに奇麗な残像を残すルーディメント。
限りなく優しい小刻みなテンションをつくる左足ハイハットにリムショットのアルペジオ、或る種の不気味さを醸し雨乞いの打音にも似た右足のバス。
鳴ることのないシンバル。
スネア、 3 つのタム、とめどもなく連なるパルスが描き出す曲線。
瞬間
「何だこの音は?」
と思ってしまった。
既に分解して語ることが意味を成さない連続する打音の塊がこれまで聴いたこともない響きで異次元の世界へと誘っていた。
もはやそれはドラムの音ではなかった。
想像を絶するスピードに驚異の念を抱かせる正確なトリル。
更にそれは想像を絶する繊細さで情緒的に迫って来る。
音が生きているのだ。
しかも、そこに至る瞬間、日野晃がいない。
「何だこれは?」
と驚いてしまった。

かつて、小説家中上健次は「打つということは神様に届こうとする最も原初的な行為だ」と言っていた。

また、「ユーモアの神髄とは、或る永き歴史物語(長編小説や大河ドラマ等)を早回しに3分で上演するとそこにおのずと現れるもので、それがどんなに深刻な話でも人生を写すユーモアになっているようなものだ」と伊藤四郎は言った。

ソロは、タムの連打の怒濤の荒波をくぐり、シンバルを打ち鳴らす場面に移った。
早さに似つかわしくない優しく異様な響き。
お鈴の連続打音のように聴いていたのは私だけだろうか?
そしてまた、バスの連打が形成されかけた情緒の束を掻き消す様に幕を引き、別な歴史を語り始める。

Jazz 好きの人であれば、 Jazz 自体へのオマージュのように映るシーンがあったかも知れない。
例えば、クインテットの奏でる音楽にビッグバンドの音量で起承転結のおとしまいをつけていたトニー・ウィリアムス、歌うようにドラムを叩くジャック・ディジョネット、ジョン・コルトレーンの祈りを支えたエルビン・ジョーンズ etc...  
しかし、基底にあるリズムはどの Jazz とも違っていた。
そして、間違えなくそのどの Jazz ドラマーにもできないことがそこにあった。
勿論、技巧的にどうこう言うようなレベルではない。
敢えて言うなら、カラダを表現しきる ...  
否、「表現するカラダの奇跡的な持続」とでも言うべき超人的な存在の仕方そのものの圧倒的な姿のことだ。
日野晃恐るべし!
Jazz 史に残るハプニング!
「 25 年の空白へのおとしまい」は完全についていた!

この「奇跡」に立ち会えたこと、得られた「元気」、「勇気」に感謝すると共にこのつたない報告を松田優作の名言で締めくくることにする。

なんじゃこりゃ〜!(笑)

 

●「ミクシー日記より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=725448682&owner_id=132932

今日は前々から楽しみにしていた、マイミクの日野さんのコンサートでした。

フライヤーには、一時間ドラムぶったたき!とありましたが、本当にぶったたきでした。
ミナ・ペルフォネンのデザイナー皆川さんが、日野さんのために作られたという深紅のベルベットのジャケットがぐっしょりになるほど、日野さんが頭を振るととびちるほど、スティックがすぽーんと抜けたりするほどの汗。
それほどの激しいドラム。
私と息子は、ドラムの前から三列目に陣取り、日野さんの一時間のぶったたきと、そのあとのピアノの田中武久さん、バスの宮野友巴さんとのトリオでの、これまたものすごく素敵としかいいようのないジャズを、うっとりと聞いて帰ってきたのでした。

日野さんのドラムは、みじんも定型的なもののない、本当にフリーなドラムでした。
圧倒的としか言えないそのドラムに、まるごと受け身になる開放感。
日野さんがこれまでのすべてを投げ入れて演奏してるものを、頭で考えよう、受け取ろうなどと思っていたら、そのとたんに取り残されるでしょう。
日野さんの自由の彼方にぽーんと放ってもらう快感、と言えばいいのかな。
夏の夜の雷があちらこちらで活発にまたたいているのに魅せられているような、何も考えずに、ただ感じていることの自由さ。
そんな快感がありました。

息子のほうですが、ドラムの音が激しく鳴り出したとたん、あぐらをかいていたのが正座になりました(笑)。
前に乗り出して、食い入るように日野さんのドラムに見入っておりました。
それからは、自分も激しく手をふるわせてみたり、それから、面白かったのが、ライトに照らし出された日野さんの影を、彼がときどき、じいっと見ていたこと。
実は、正面からだと、日野さんの身体がドラムに隠れて、上半身しか見えないのですが、影のほうが日野さんの動きを良く写していたのです。
息子があらぬほうを見るので、私も気がついたのでした。
うちの息子は、知的な障害があるものですから、勉強や世俗のルールですとかは苦手ですが、こういう感受性が本当に素晴らしい(親ばか)。
喜んで私に抱きついてくる息子。
あんまり素敵なので、顔中満面の笑顔。

もうすぐ終わり、という時になって、なんだか涙が出てきてしまいました。
まさに「これでお祭りが終わっちゃうんだ」という寂しさ。
かーちゃんも、君と日野さんのコンサートに行けて本当に良かったよ。

ソロも良かったし、また、トリオの田中さんのダンディーなこと!
もう小娘に戻った気分で、こちらの音楽にもうっとりしました。
大阪の St.James に、機会がありましたら皆様ぜひどうぞ。
日野さんには、終わったあとに息子に声をかけていただきました。
息子は、感謝と感激を込めて熱く日野さんをハグしていました。
息子と「わけのわからないもの」を味わう機会があって、本当に良かったと思っています。

なんだか褒め言葉になってないかもしれない。
でも、私にとっても息子にとっても、「今だかって経験したことのないもの」「これからも二度と同じ経験をしないだろうもの」でありました。
こういう経験は財産だと思います。

私のとなりの人はとちゅうからじゅるじゅる泣いてましたし、あちこちで泣いている人が居ました。
本当にものすごい場に立ち会わせていただいたことに感謝し、あらためて素敵な時間をいただいたことに感謝したいと思います。
勝手ながら、本日より先生と呼ばせていただくことにしました (^^) 。
私自身は日野先生に直接教わったことがないので、これまで遠慮しておりましたが、心から尊敬する先達のおひとりであ ると、昨日確信し、教わりました。

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25 年前にスティックを置いた。
その年、妻は私の最後のライブを聴いていた。
25 年前の音を知るのは妻だ。
そこから武道に道を変え猛進した。
それはもちろん平坦な道ではなかった。
山あり谷あり、それは私だから仕方の無い道なのだ。
私が選ぶのは、常に山側であり谷側だからだ。
その全ての私の時間を共に歩いて来た妻。
その妻に25年の感謝を込めて。

 

●マイミクのみなさんや、ブログに書き込んでくださった人たちのご好意で、ここに掲載させて頂きました。
少しでも客観的な方が、コンサートの模様が伝わると思ったからです。 ありがとうございました。

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