道場建設は、当初から現地のマスコミに注目されており、様々な形で新聞や雑誌、ラジオ等に取り上げられた。おかげで、田辺市から串本、那智勝浦、新宮市に至る海岸沿いの町や村で、道場を知らない人はいなかった。
しかし何故か警察が動いた。彼らは「何者だ?」新興宗教?都会で悪いことをした逃亡者?過激派の拠点?等々。どうして?新聞や雑誌に我々の正体が載っているのに。
答えは、地元の人達だった。地元の人達が警察に通報していたのだ。私服の刑事を伴って地元の巡査が頻繁にやってきた。私に直接は何も質問しないが、場所を提供してくれた山主さんや、私達に近い人達は警察の事情聴取を受けた。
道場の基礎を作る時には、地元の土建屋さんも関わってくれているにも関わらず。それが「村」であり、閉鎖社会日本の現状だと実感した。揚げ句の果ては、「泥棒」と呼ばれたこともある。「えっ、俺がここの何を盗るの?盗るものなどあるの?」しかし、それが現実だ。余りにも訳が分からないので、知り合いの弁護士に相談し、警察を相手取って裁判を起こそうかとも考えたが、弁護士は「日野君、日本はそんなものだから放っておきなさい、もしも、日野君が引っ張られるようなことがあったら裁判に訴えていこう」というアドバイスを受けた。
行政にしても、子供と共に現地に住んでいるにも関わらず、7年間もの間、集落の有線放送を設置に来なかった。
村八分という言葉は存在していたのだ。もちろん、今でも存在している。私は村八分になるのは大好きだから問題はないが、今の人達は「無視」という事に非常に敏感になるように育っているので、無視される事が原因で、子供達は不登校になったり、大人は病気になってしまう。
皆、過保護に育っているから弱くなっているのでしょうね。
いずれにしても、日本という社会で、何か新しいことをする、というのは非常に難しいという事を改めて実感した。しかし、私は絶対にやり通す。
今迄生きて来たように。壁が、困難が大きければ大きいほどうれしくなる。ワクワクしてくる。
絶対にやってやる!
だって、自分の人生だから自分を通さなければ面白くないからだ。

目次
一ページ 二ページ 三ページ 四ページ
道場建築開始 現地乗り込み
地鎮祭1984-5-20  
材料の買い付け
材料が搬入された
本格作業へ
上棟式
屋根材を決める

初めての運動会
垂木の釘打ちと武道の奥義
電柱搬入
三階の屋根から
天窓作り

 

イントロダクション

当時、大阪北浜の一角にどこからみても倒壊寸前のボロビルがあった。一階から四階迄と五階から屋上はオーナーが違う。
「えー!」そう、えーっという事件ビルが日野武道研究所の始まりだった。 エレベーターは途中で止まる。停電する。向かいの部屋にはやくざの取り立て屋が事務所を構えている。とにかく、胡散臭いビルだった。
道場は弟子四人と一緒に掃除したり、鏡を貼り付けたり、カーテンを縫ったり、ペンキを塗ったり、チラシをまいたり、絨毯を貼ったり、と、今から思えば道場の手作りはここからはじまっていたのかな。
当初は、口コミで沢山の弟子や、色々な流派の方の見学があったのだが、稽古が過酷になるに連れ、一人減り二人減りで、とうとう六人しか弟子はいなくなった。当然、家賃は払えない。生活はできない。最終的には夜逃げしかない。
しかし、私は「武道」を掘り下げたい。私一人で稽古できる場所があれば充分だから、小さな小屋だったら何とかなるのでは。
そこで、家賃がゼロ、という事で場所を考え、自分で道場を建てたら家賃はゼロ、という発想が生まれたのです。当初は、私だけの小屋を造る、という事で進んでいたのが、弟子達も「一緒にやりたい」という事になり、規模が拡大していったのです。
そして、ただ同然の場所、となると、競売物件をあたるしかない、もしくは、田舎の方に探しに行く。という事で、色々当たった結果、現在の場所が色々な人の絡みで見つかったのだ。

1983年7月26日。白浜で海水浴を兼ね、現地を見ることにした。

廃校になった小学校の前で

国道42号線で紀伊田辺を過ぎ朝来(あっそう)から311号へ。
「どこが国道やねん!」大型バスがすれ違えるかな?という程度。もちろん、それも42号から分かれて30分くらい だったかな? 栗栖川という所までだった。そこをすぎたら後は峠を二つばかり越える、これは乗用車がすれ違うのは非常に困難。当然ガードレールがない場所は沢山あった。
一つ目の峠の頂上には、逢坂トンネルという名の整備されていなくて電灯がないトンネルがあり、これは一寸恐かった。
42号線を離れて一時間30分くらいだったかな?
箸折れ峠を降りたら近露(ちかつゆ)という集落が見えた。その集落で案内してくれる人と落ち合い、取り敢えずの場所として小学校の廃校を見学した。相当昔に建てられたものらしく、太い梁や屋根組みが驚くほどしっかりしていた。
これだったら、教室の一つを道場にして、他の教室を間じきれば個人のスペースができるかな、等とイメージを膨らませたが、具体的にこの学校を手に入れる為に役場に問いあわせると、老朽化しているので取り壊すから駄目、との事だった(日本の行政は、昔から古いものは駄目なもの、というミソもクソも一緒にしか考えられない幼児並の頭しかもたない人間の集まりだったのです。特に田舎はお上は偉い、お上のいう事は絶対、というまるで時代劇のような事が未だに引きずられています)。
現地で案内をしてくれた人が、もっと他にもあるから探しておく、という事で、一路白浜へ。

1983年9月9日、再び現地へ。

現地国道側から西南方向を見る

この時に、昔からの山持ち(旦那衆)の人に出会えた。私は、道場を造りたい、という事、そして、お金がない事などを話した。その山主さんは、思い当たる場所があるから明日朝連れていってあげる、という事で話しがついた。
朝、山主さんに連れられて現地へ。そこからもっと細い国道をひた走る。これは、民家の庭ではないのか、という位細い道を抜け人家が途切れてどれほど走ったか分からないところに、開けた一角があった。
山の稜線がきれいに西側に走った見晴らしの良い平地だったので、一も二もなくこの場所を借りることに決めた。年明けとともに現地入りし、作業に取り掛かることを決め、道場建設の第一歩が始まった。
がしかし、「誰が建てるんや?」「誰が建て方を知っているんや?」という根本的な大問題は心の隅にくすぼっていた。ジャズをやっていた時の絡みで、劇団維新派の主宰者マッチャンこと松本雄吉氏に相談。
維新派の公演は舞台を自分たちで作るところから始まる。
その技術は本当に凄い。とんでもなく巨大な舞台をどこにでも出現させてしまうのだ。
維新派の古株の人達と現地を改めて見に行ったり、道場の建て方を考えてもらったり、維新派のブレーンの一級建築士にアドバイスを貰ったり、テンヤワンヤするが具体的には何も進まない。
業を煮やした映像研究家のIさんが、「日野さんここに100万円ありますから、始めましょう」と現金を持ってきてしまった。これには理由があった。私は「仲間になりたかったら100万円持ってこい」と公言していた(雑誌にも取り上げられていた)ので、Iさんが一番に持ってきたものだ。
「あ〜あ、やるしかない」かくて設計や模型作りから始まった。
1984年1月5日だった。(続く)


合計7人が住む集合住宅を考える。一番合理的な形として円形を考え、それに基づき七角形で中央部に道場を配した設計をするが。 とにかく、最初の設計図通り模型を作り、丸太の本数を拾い出す(模型製作はマッシュ)