合気道研究

 

目次(更新中)
● 合気という意識同調
● 合気という無意識反射の活用
● 達人は何故小柄なのか?




● 植芝翁没後三十周年記念催

平成十年五月八・九日と、私の道場の近く、和歌山県田辺市で、合気道開祖植芝盛平師の没後三十周年催がとりおこなわられた。
新宮市におられる最高段位十段を持つ引土道雄師をはじめ、現宗家植芝守央師や全国の合気道関係者が揃い、私にとっては非常に興味深い催しだった。
それは、開祖植芝翁が広められた「合気道」という一つの武術形式が、現在どう受け継がれているのか?という興味で、それは、直接植芝翁から伝授された方達の「植芝翁の何を理解したのか?」という点の、「解釈の違い・個性の違い・技量の差異」、又、植芝翁の「どの時期に指導を受けたのか」によっても、現在の表現の違いを発見できるのでは、だ。
 
八日は、現道主、植芝翁の孫にあたられる植芝守央師の講習会から始まった。
ここでは、基本的なことの見直しということで、「正面打ち一教、入り身投げ、四方投げ、呼吸投げ他」などが丁寧に指導されていった。
私は、こういった合気道の特徴を、きちんとした形でみるのは初めてだったので、それ自身も楽しく拝見させていただいた。

この講習を拝見していて、先程の「受け継がれたものの違い」、そして、それは「何を受け継ぐのか?」という、指導された側の主体の問題を浮き彫りにされるところでの、伝承の難しさ、又、武術とは直接関係ないことだが、こと「受け継ぐ」というところでは大きく関係する、「組織」としての教伝システムの難しさなど、改めて目のあたりに出来た。
私が目にしたのは、私が知るかぎりの合気道とは、遠くかけ離れたものも少なくなかった。
もちろん、なにが良いのか悪いのか、正しいのか間違いなのか、という問題ではない。
「違い」なのだ。
私が知る合気道とは、一つは、養神館合気道故塩田宗家のもの、一つは、植芝翁晩年に指導を受けられた、熊野塾の故砥島靖氏(後で紹介する)のもの、そして、植芝翁のビデオの三つだ。
ここにも、「何を受け継ぎ」「何を伝えるのか」の違いが含まれている。

こういった問題を深く探っていけば、大東流柔術武田惣角から植芝翁が学ばれ、同じ頃、大東流合気柔術の宗師堀川幸道師が学び、それを現在六方会岡本正剛宗師が受け継がれているが、何故、両者が全く異なった形式になったのか?各々武術の本質は損なわれていないのか?ということの問題も興味深い。
そこから考えれば、そもそも「大東流柔術とは」にさかのぼるのだが、残念ながら歴史的にしか見えない。
私の興味は、机上の文化論ではなく実体としてのものだけなので、探す術はない。
そして、合気道ということだけでも、植芝翁から学ばれた、故植芝吉祥丸師、養神館合気道を創られた故塩田宗家、心身統一合気道藤平光一会長、親英体道故井上鑑昭道主の四人の方達の「何を学んだのか?」を掘り下げれば、「人は自分の見えるものしか見えない」、つまり、「個人の違い」が浮き彫りになるのではないか、と私の研究心をくすぐる。
同時に、学ぼうとした「武術の本質」を立体的に浮き彫りに出来る可能性もある。

 

● 「合気道」とは「無意識反射のコントロールと体重の伝導?」



「合気道」という武術には、私は武術研究当初全く興味がなかった。
それは、私が主に打撃系や刀での攻防から、武術を、そして身体を見ていたからだ。
ところが、もう十数年前になるだろうか、何かの雑誌で、養神館合気道の塩田館長(当時)の写真に目が止まった。
その姿は、力みが全く無く、いわゆるきれいにバランスされた姿だったのだ。
それを見て、塩田館長の「技」に興味が湧き(合気道ということではなく、塩田館長個人に)、当時公開練習をしていた新宿の道場へ見学にいったのだ(この辺りのことは、雑誌「秘伝」96年5月号で書いている)。

そこで見た塩田館長の「技」、つまり総合的な身体技術は、私のそれ迄の武術研究や方向が間違いでなかったことを確信させてくれた。
具体的には、私がポイントとして発見した、全身を移動させるための足の転び、胸の使い方、背中の使い方、腰の使い方、後足の使い方、無意識反射のコントロール他などが具体的な身体技術として、塩田館長によって表現されていたからだ。
しかし、不思議なのは、私は主に打撃系から「身体の使い方」を考えていったのだが、塩田館長はどちらかといえば打撃系ではないのに(塩田館長の『技』には当て身があるが、それが主体ではないので)身体の使い方が共通していたことだ。
その共通していたことがきっかけで、武術的な身体の使い方というより、武術的身体の「要素」をより深く掘り下げていくことになったのだ。

塩田館長の「技」を拝見しての、私の新しい発見は当研究所が言うところの「体重の伝導」だった。
それは、塩田館長の百五十センチ四十三キロの体重を、ご自分の腕や相手に触れている肉体の部分を使って見事に相手に伝えていることだ。
そうでなければ、お互いに静止状態でありながら塩田館長の小柄な身体から、倍以上もある体重や体格の人を簡単に投げたり、操るという「力」が出ることは不可能だ。
例えば、塩田館長の左手を百八十センチもあるかと思う人が、がっちりと掴む。
館長の膝が少し緩んだかと思う瞬間、その左手を掴んでいる人が崩れてしまう、という、「片手、片手持ち」という練習だ(技そのものの名前には興味がないし知らない、叉、学ぶという点では逆に邪魔になることがあるので、具体的な形として、私は『片手・片手持ち』としている)。

当初、狐につままれたような気がしたが、館長の身体の使い方を分析するにつれ、これは「体重の移動」であり、移動に際しての運動線の変化そのものが、相手への「体重の伝わり」だと解釈した。
この発見は、俗に言う「体重を乗せる」ということの、確かな発見につながった。
だから、体重を乗せる、というのは、自分の手であったり、胴体であったり、刀、槍、拳他、とにかく、相手と接するところどこへでも、どうにでも乗せられなければいけないのだ。
つまり、この「自分の体重→移動(運動線)→相手に」というところが、武術での力の源である、という発見に至ったのだ。

その、体重を相手に伝える技術を、私は独自に「体重の伝導」と呼び、武術にとっての「力の源」と位置付け新たに研究工夫をすることにしたのだ。
つまり、塩田館長の小柄な身体と年令を見て、日本武術史に残る達人の共通項である「年老いても強い」、もしくは「年とともに強くなる」の一つの柱を手に入れた、ということになった。
そういった経緯から、「合気道(塩田館長個人の身体技術))」とは、「人の無意識反射を巧みにコントロールし、体重の伝導を使った武術」と理解したのだ。


● 具体的な「合気道」との出会い



この「体重の伝導」の仕組みを具体化でき、当時の内弟子の人たちに指導し、技術として普遍化しようと試みていた頃、近くの新宮市で「気功」ということで講演を頼まれた。
その講演の最後に質問で「よく雑誌やテレビなどで、相手に触れずに気の力で飛ばしているのがあるが、日野さんは出来るのですか?」が出た。
そこで私は、「どうぞこちらへ出てきてください」と言い、質問をした若い人をステージに引っ張りだした。
「触れずに飛ばす、といった時には色々な条件が必要です、だから、一概に出来る出来ないと論じることは出来ません。
しかし、わざわざその条件を作らなくても、私はあなたを親指一本で倒しますから、そこで倒されないように頑張ってください」と言った。
身長百八十センチくらいある若い人は、しっかりと四股に構えたので、私は「体重の移動と伝導」を使ったところ、彼は苦もなく後に転倒してしまった。

その講演が終わったとき、見るからに武術をたしなんでいる、という風貌の私より年配の方が私に話しかけてこられた。
その方が刀鍛冶でもある故砥島靖氏だった。
砥島氏曰く「私は合気道の植芝翁について指導を受けたものだが、日野さんの動きや足の転び方は、翁先生の動き方にそっくりだ、今日は良いものを見せていただきました、後日道場の方へ伺ってもいいですか?」私は「もちろん、いつでも来てください、そして植芝翁のことを教えてください」といって別れた。
そこから、この砥島氏とのお付き合いが始まるのだが、私は、最初に説明したように「合気道」という武術に興味がなかったので、植芝翁の名前は知っているが、どんな武術なのかの知識は全く無かった。
養神館合気道の塩田館長を拝見して、塩田館長の「技」から、「合気道」というものを推察したが、しかしそれは「合気道」なのか塩田館長個人の「技」なのかが区別できない。
実際に植芝翁が「何を指導し、何を学ばそうとしたか」ということについては、全く白紙だったからだ。
たまたま声を掛けてくださった砥島氏のおかげで、ここから初めて植芝翁の「技」、そして「合気道」という武術分解の入り口に立ったのだ。

 

● 当て身七分逆技三分



砥島氏が、道場へ尋ねてきて下さったときは、終日合気道を初め武術談義に花が咲いた。
砥島氏がアメリカへ合気道を広めにいった時のエピソードなど、話が弾んでくると、身体で直接会話しなければニュアンスが分からない。
「日野さん、合気道は決して逆に決めるだけのもではないのですよ、まず当て身を入れたり、ちょっとした隙を見付けては当て身をいれる、そういったものです。
翁先生は『当て身七分に逆技三分』とよくおっしゃっていました。」そういって、色々な形を実際に体験させて頂いた。

「翁先生の動きは、日野さんが動くように「足の裏のどこが中心になって動いているか分からない位静かで、身体がブレないのです」この言葉は、刀鍛冶技術屋としての目である。植芝翁の姿勢の角度や、目の配り方手を挙げる角度に至まで、砥島氏は仔細に観察されていたようだ。
私が「いま見かける合気道では、手を掴ませるところから始まりますが、あれは、間違いでしょう」と、問い掛けてみた。
砥島氏は、「あれは、手を掴ませるように誘導する練習と、相手の手に付いていく練習です」
「やっぱり、私はどうも不自然なので、逆から考えれば、いかに自分の有利なように相手を動かせるか、という練習として、手を握らせる、があるのではないか、と思っていたのです」
「そうです、そうですよ、じゃあ、ちょっとやってみましょう」
といって、お互いに向かい合い、試合形式で実際に行なって確かめ合いをしたものだ。

砥島氏との稽古で分かったもう一つの特徴は、「相手を掴まない」ということだ。
砥島氏に手を掴まれて、そのまま砥島氏の側に引き寄せられた。
この時の、手の感触が微妙な力の配分で、こちらの変化を察知する手だったのだ。
だから、こちらも警戒する方向に意識が働き、知らない間にこちらのバランスを崩されていたのだ。
したがって、私と砥島氏はお互いに仕掛けるのを待つので、全く動けない状態になってしまうことが多々あった。
その度に、顔を見合わせて笑ったものだ。

◎ 『植芝宇宙は伝わるのか?』

日本の中には色々な形態を持つ武術が存在する。
その多くは、「何をしているのか」が素人目にも分かるものが多い。
例えば、剣術であれば、刀を振っているか、形を表演しているので、剣を使って斬り合いをしている「剣術だと分かる」ということだ。
そこから考えたとき、一番分かりにくい部類に属するのが「合気道」だろう。
柔術のように組み合いをするわけではなく、逆関節ばかりを極めるのではなく、剣術や居合いのように、刀の抜けや納まり、剣線などに深く注意を払っている様でもない、打撃を鍛えるでもない。
そういった表れから、武術としての要素を汲み出すのは至難の業だ。
又、色々な方達が「合気道」について解説したり、分析されてはいるが、どれをとっても「どう動くのか?論」になっており、中々正体が掴めない。砥島氏のように技術屋の目で観察した人が少ないため、曖昧な観念論や情緒論、そして、神格化だけになってしまったのだろう。
そういったところから、私はあえて現在の「合気道」を捨て、『植芝翁の技』として、ビデオや写真・本等から分析できる限りのもの、そして、塩田宗家の技、砥島氏との実際の稽古の中で捉えた特徴を加味し、分析していこうと思っている。

● 植芝翁の根源を探る



武術の「技」を探るとき、「何を探りたいか」が明確でなければ何も掴むことは出来ない。
「植芝翁の技とは?」といった時、そこに構造的に含まれてくることに「強さ」がある。
そして「肉体としての資質」「運動能力」、さらに、武術という限りにおいてさけられない、相手と立ち向かう「胆力(精神力・意志の強さなど)」がある。
また、武術というものに対する「自分の価値観」、武術に何故取り組んでいるのか?といったところでの、大きな意味での「哲学・志し」、そういったものが絡み合って「植芝翁の技」となって我々が目で見、身体で実感しているのだ。
こういったことは、合気道や植芝翁固有のものではない、武術一般、そして達人全てに共通する構造だ。

ここでは、植芝翁の「技」から、現代の我々が学べるもの、そして学ぶべきものを、こういった要素の中から引き出していく。
そのためにはまずはじめに、植芝翁の特殊性を明確にしておかなければならない。
特殊性とは、武術の基本にある「肉体としての資質」そして、「胆力」などだ。
そういったところが、「強さ」と決定的につながっている点であり、「強さそのもの」といっても良いほどの本質的な要素だ。

1 遺伝的要因

砂泊兼基氏の著書「合気道開祖植芝盛平 講談社」によると、
「盛平は少年のころ剣術を習いたいと思っていたが、身体が丈夫でないという理由で父母に反対されて稽古をしていない。
しかし彼の父与六は近郷きっての力持ちで、四斗俵(米俵)を二俵天びんにかけて、それを両手の小指で何回も上げ下げしするというほどであったというし、曾祖父の吉右衛門という人は、紀州藩の代表として上京し、将軍家の御前で力試しを上覧に供したこともある豪の者であったという。
そういう血を受け継いで生まれた盛平であるから、後年武道で大成する素質は生まれながらにしてもっていたのである。」
 と書かれてある。

こういったところからも、我々一般人とは資質的に全く異なったものを備えていた、というところを押さえておかなければならない。
でなければ「強さ」というものを誤解して捉えてしまうのだ。
つまり、ノウハウで手に入れられるもの、と誤解してしまうのだ。

2 肉体的資質

又、「明治三十四年、盛平青年十八歳のとき、生れ故郷を後にして、東京への初旅にのぼるのである。
東京では、親類の商家に世話になって働きながら、夜は町道場に通って柔術の稽古をした。」とあり、その後脚気を患い、わずか一年たらずで田辺の町に帰ってきたそうだ。
そして「生家の農業を手伝ったり、漁師の仲間入りをして、漁船に乗って沖へも出る。
町の青年会の世話もするというわけで、何事も率先してやるから人々に尊敬され、見る見る頑健そのものの張り切った肉体が出来てきていった。
血統というのだろうか父祖伝来のたくましい若者になった。
五尺一寸五分(一五六センチ)と身長はさほどでないが、がっちりと横に広がった体躯は、二十二貫(八三キロ)を上下する見事な状態であった。
先にも述べたように、父祖もたいへんなつわものであったが、曾祖父吉右衛門にも劣らぬ力量を持つようになった。」とも書かれてある。

日露戦争で兵隊に志願し、訓練の時、実戦的重装備で二十〜四十キロを走ったりしたそうだし、猛訓練に落伍するものが続出したとき、盛平は二人分、三人分の装備を引き受けて担ぎ、戦友を助けたそうだ。
そういったことは満州の戦地へ行ってからも、弾が飛ぶ中幾度もあったそうだ。
これは尋常だろうか?やはり特殊だといわねばならないだろう。
こういった肉体的資質があったからこそ「強い」が既にあったのだ。
逆に言えば「強い人」は、はじめから強いのであって、弱い人が「何かを習ったから」強くなる、ということなどあり得ないのだ。
この辺りの構造的(この章の冒頭に書いた事)なことを無視したり、幻想を持つと人は失敗をすることになる。
そして、合気道にとって根本的なことは、この時点では植芝翁は大東流柔術を習っていない、つまり、武田惣角とは出会っていない、ということだ。


3 精神的資質

戦争が終わって、田辺の町に帰ってきた植芝翁は、山にこもったり滝にうたれたり、とにかく難行苦行の荒行をしたそうだ。
たまたま通りかかり、その修業を見た人は、あの山には天狗がいるとか、いや気違いだというような噂が飛びかったそうだ。
こういったことは、植芝翁の内にある何か(精神的・肉体的)をご自身が押さえきれず、暴走していた状態だろうと推察される。
 又、北海道開拓を志願し、紋別郡白滝へ渡っていった話は有名だ。開拓など、現在の我々には想像も出来ない。
そこでは苦労の数々があったろうし、予期せぬ出来事に出くわしたであろうことは想像できる。
そういったことにめげずに、リーダーシップを発揮し白滝王と呼ばれ人々の尊敬を集めるにいたり、村会議員にまで推され村建設や地域のために身を粉にして働かれたそうだ。

ここでも精神や肉体の不屈さが浮き彫りにされている。
「武術で鍛え、軍隊で鍛え、人一倍体力旺盛である盛平などは、自然木の巨木に向かっては、土佐鍛冶に特別に注文してつくらせた一貫匁(約四キロ)の大まさかりをふるって伐採にあたった。
普通の人はせいぜい二百匁(一・五キロ前後)のものしかつかえないのだ。(ちなみに、現在私が薪割り用に使っている斧は三キロあるが、あくまでも薪割りであって伐採として長時間振り回すのは不可能だ)」
どこまでいっても、植芝翁は人並はずれた肉体と強靭な精神力をもっていたのだ。
つまり、すでに「常人ではない強い人」であったことを裏付けている。
この後、やっと武田惣角と出会っているのだ。

 

● 植芝翁の「技」は誰にも出来ない

植芝翁の、肉体的資質や精神的な資質と体験を引き出していくと、「我々とは違う」ということがはっきりしただろう。
つまり、植芝翁の「強さ」は、北海道時代に大東流の武田惣角に教えを受けたからではないのだ。
それを解釈すれば、植芝翁自身の「強さ」を表現する手段の一つを習った、であり、「強さ」を整理する手段を学んだ、もう一つ政治的にいうならば、伝統のあるもの(伝統武術としての大東流)に籍を置くことで価値を付ける、社会は常にそういった価値を評価する傾向があるから、それを逆手にとったものという推察もできる。
したがって、植芝翁の「強さ」というものは、大東流のせいでも、ご自身が編み出した合気道というもののせいでもなく「もともと強かった」のだ。
そこから考えれば、植芝翁の「技」を受け継ぐなどということは、資質の点、体験の点などから考慮して、一般の人には不可能だと断言できる。
ここで、植芝翁が何かの影響を受けて「強さの質が転化した」と敢えて考えるなら、それは宗教だろう。
大本教の教えなのか、出口王仁三郎のカリスマ性なのか、誰にでも何とでも言うことは出来るが、その辺りの本当のところは分からない。
しかし、当時の植芝翁の心境にピタッときたことには間違いないだろう。

● 植芝翁の「何を学べるのか」

ここまで並べてきたことは「習えない」こと、つまり、植芝翁の才能だ。
そして、ここまでのことがなければ植芝翁の「技」にはならないということだ。
つまり、ここからは「表現の手段」を手に入れられた植芝翁ということになるので、その「表現の手段としての、柔術であり合気道」ということになる。
したがって、ここでいう植芝翁の才能を抜いてしまったところでの柔術や合気道は、ガソリンの入っていない自動車と同じだと理解しておかなければならない。
しかし、この植芝翁の「表現の手段としての武術」から「強さ」は学べないが、武術の中での「強さを表現した技術」は学ぶことが出来る。
それを自らの力で学び取ったのが、塩田宗家をはじめ数人の高弟の方達に他ならない。
何故自らの力で、と言ったかと言えば、きちんとした教伝システムがないことと、植芝翁自身がインスピレーションで、その場限りのことをやっていたと想像できるからだ。
しかし、これは逆に考えれば、植芝翁は弟子たち相手に創意研究していたのだろう、と考えられる。
幸運にも学び取れた数人の高弟の方達は、植芝翁と同じで、それぞれの方が才能に恵まれた稀な人達だったのだ。
その人たちの「強さ」も植芝翁と同じで、資質と、体験に支えられたものなのだ。

◎ 植芝翁が表現したもの

植芝翁がビデオで見せられている演武の中で、何に注目しなければいけないのか?
それは、時折入っている一見トリックのように見える演武だ。
もちろん、トリックなのだが、それを誤解してはいけない。
身体の仕組みを隅々まで熟知しているから、自分自身も相手も操ることが可能なのだ。
つまり、日野武道研究所が言う「身体マジック(トリック)」こそ、武術での重要な手段であり、武術そのものなのだ。
その中には、「体重の伝導・無意識反射の活用・身体の痛点(圧点)に対する錯覚性・平衡感覚の崩し・軸のずらし・視覚の錯覚性他」身体に関するあらゆる仕組みや特性があり、それをフルに活用出来る人が「武術の達人」なのだ。
そして、そういったことが日本の武術史に残っている「達人の共通項」だ。
したがって、こういった要素を使えていない人は達人ではない、と言い切っておこう。
そういった意味において、トリックだというのだ(別のページで展開する、今世紀最後の達人武神館初見宗家も、ここで言う『身体トリック』の最高級難度を表現されている)。

《植芝翁の技にみる武術の本質的な原理》

1 軸への力の集中とバランス、そして聴經

植芝翁が座っておられ、翁の頭を数人のお弟子さんたちが押さえ付ける、という演武がある。
そして、それはいとも簡単に崩されお弟子さんたちは倒れてしまう。
これを、翁の「技」の一部ととるか、全く別のことととるか、それとも、それ以外の何かととるか、で学ぶレベルが決定してしまうのだ。
これのポイントになるのが、それぞれの人の「異なった力を一つにまとめる」ところ、そして、押す人の押す力と方向のバラバラの「タイミングを一つにする」ところだ。
翁自身の肉体的なポイントは、肉体のうちに軸を設けてその「軸先一点で、押してくる力をバランスさせる」ことだろう。
だから、その軸の一方は畳に接しているので、翁を押しているのではなく畳を押していることになるのだ(日野武道研究所では、軸と骨格で持たすと説明し訓練する)。
つまり、肉体的負担は全く無い、という状態であり、押してくる人は軸一本にバランスしているので、非常に不安定な状態にある、という状態だ。
問題は、そういったことを「考え付く」そして「瞬時に出来る」というところが、植芝翁の技術であり身体感覚のずば抜けたところなのだ。

さて、この演武はどういった意味があるのかが、見えてきただろう。
多人数掛けの時の、力のまとめ方を感覚として養うためであり、相手の力と場とをバランスさせてしまうという稽古、そして、そのバランスされた力を崩す方向と、いつ崩せば良いのか、という、相手方との力と精神的なものの駆け引きを知る、という、かなり高度な要素が含まれているのだ。
この演武一点だけで、これだけ重要な要素が入っているのだが、私が知っているかぎりでは、これを見抜いて活用されているのは塩田宗家だ。
養神館にある「片手胸掴み・両手胸掴み」といった稽古は、全てこの演武の要素の活用であり、要素を分かりやすくした形だ。相手が掴んでくる力を、後足で地面とバランスさせその事によって、相手の力と場とのバランスを作りだす。
そして、バランスされた力の方向を、前膝によって変えてしまう。
もちろん、ここには「体重の伝導」も入ってはいるが、原理的には、このバランスだ。

逆に言えば、そういった「掴み系」の技を植芝翁は頻繁にされていたのかもしれない。
その中で、こういった相手とのバランスを強調するために、分かりやすい形として、この「頭押さえ」の演武を思いつかれたのかもしれない、と推察される。
又、塩田宗家は、よく二人に胸を掴ませたり、帯を掴ませ「その力を統一するのが難しい」とお話されている。
そういったところから考えても、この演武は「植芝翁の技」の根幹の一つであったことがうかがえる。
この「力を統一する」は、どう高度かと言えば、相手の掴んでいる力や押している力を、「相手と接している自分の肉体で感知してしまわなければならない」難しさだ。そこには卓越した肉体的感性が要求されていることが分かるだろう。
つまり、「聴經」の技術だ。
だから、「聴經」とは、ここで述べた全ての要素を感知する能力であることが分かるだろう。
したがって、武術の根本的な技術である、と言い切れるのだ。

2 アイキという無意識的同調

合気道の「アイキ」ということがよく問題にされ、色々な方達が色々な解釈をされている。
又、大東流柔術にも「アイキ」という言葉があり、「あいき」という技術がある。
私も、空手をやっていた当時、先生から「アイキ」という言葉を聞き、それを習ったことがある。
しかし、それぞれは多分違った「表現技術」だろうと推察する。
だから問題は、それぞれが異なったものであり、その流派独特のものだ、と言い切れるものなのか?だ。

そこでよく考えてみなければいけない。それほど頻繁に使われるには、「アイキ」という具体的なモノがある、ということだろうが、有るとすれば、そのものの実体は何だ?
それは、「アイキ」という言葉そのものはどこから来たのか?という問題や、技術として本当はどうなのか?という問題か、といえばそうではない。
その言葉を使った人たちが「実際として何を『実感』して、どういった表現形態をアイキと呼んだのか」という問題だ。
この「アイキ」に関しては、非常に分かりやすいヒントが、植芝翁の演武の中に存在するし、言葉の中にも登場する。
それは、剣を使っての演武であり、頻繁に使われている「アイ」と「和合」という言葉だ。
「和合」を先に片付けるが、これは、先程の1で紹介した「バランス」だ。
それは、相手の「力・方向・意識・無意識」に対する「バランス」を指している。
「和合」といったときに、非常に観念的に解釈してしまいがちだが、そういった曖昧なものではなく、植芝翁自身が相手との関係において、明確な身体感覚として実感されているから「和合」という言葉が、口から出ているのである。

つまり、植芝翁としては、ここで述べているような、相手との具体的なバランスを感覚されていた、それを言葉化したときに「和合」とすることが、一番ピタッときた、と解釈することが、適切だと言うことだ。
したがって、観念的に「和合」ということをいくら研究しようが、実際としての身体感覚が開発されなければ、ここで言うバランスを解明したり、実現することは出来ない。
だから、言葉をいくら知っていても意味がないし、身体で実感している人以外は使う言葉ではない、と言い切れるほど高度なものなのだ。

次に「アイ」だ。
これも非常に観念的で曖昧に受け取れる表現だ。
しかし、先程の「和合」から辿って考えれば、曖昧で観念的な表現ではないことが見えてくるだろう。
つまり、ここで述べたような「相手の力・方向・攻撃の意識・相手の無意識的なもの」に対して、「合わせる」という意味だ。
簡単に言えば、相手の動きに全て合わせる、ということになるのだが、ここで言う「動き」とは、人の内的な動きのことだ。

つまり、「攻撃の意識や方向他」だ。
だから、武術でよく使われている「気配」という、人の内的なものの総合的な現れに、「合わせる」ということになる。
だから、先程の「相手の動きに全て合わせる」というのは、至難の業だということになる。
寸分たがわず相手と一緒に動く、それは、伊藤一刀斎をはじめ歴史に残る達人達が口にした「水月移写」そのものだ。
つまり、鏡に向かって自分が写ったのを確認する作業と同じであり、その鏡そのものに自分がなっているか否か、というレベルのものが「和合」であり、「アイ」である、と解釈することが武術的であり、武術と言う技術そのものが作り出している境地にたどり着く道筋だということだ。

つまり、実現できるかどうかは別にして、実現でき得る方向でモノを考えなければ、考えていること自体が無意味であり、武術に取り組んでいる意味がない、とも言えるのだ。
もちろん、現代においても「合気」という言葉があり、実際として使われている。
そして、「あいき」という技術もジャンルや流派により個別に存在し、何が正統で何が亜流なのかを判断することは出来ない。
叉、判断すべきものではない。
なぜなら、それぞれが「武術」をどう捉えているのか?という価値観の集大成が、個別の表現しているもの、そのものだからだ。
だから、私がここで述べているのは、私自身の武術に対する価値観から生み出された「合気」であって、植芝翁が本当にそうだったのかどうか?は、定かではない。
それを、分かる人は植芝翁自身でもないだろう。
なぜなら、植芝翁にとっては「言葉的解釈の必要はなく、自分自身が体現している、ということに意味があっただけだ」からだ。

さて、こういった仮説を私がどこから発見しているのか?だ。
それは、植芝翁の剣を使っての演武が、一番分かりやすかった。
常に、「相手と一緒に動いている」ことが確認できるだろう。
しかし、見た目には「相手より早く動いている」ように見える。
だから誤解が生まれてしまうのだが、相手の具体的動きと一緒なのではなく、「相手の意識と一緒に」動いているのだ。
この辺りが対戦相手との実力差だ。

つまり、一般的には「自分の攻撃の意志や意識が起こるのと、攻撃動作の間に時間差がある」のだ。
これは、かなり自覚的に稽古を重ねなければ解消できないし、実感することも出来ない。
だから、植芝翁の相手側、つまり、動かれた側から言えば、何が何だか分からない、となるか、自分が植芝翁につられて動いてしまった、となるのだ。
相手は、そういう実感をもってしまう、つまり、植芝翁は相手の「意識に同調」しているということになるのだ。
それが「合わせる」ということであり、「和合」ということだ。
ここでの最大の難関は、自分自身が「意志や意識と行動が一致していなければ、何も理解できない」があるのと、相手に合わせるのではなく「すでに合ってしまっている」という、無意識レベルでの行為でなければ、植芝翁の「合わせる・和合」にはならない、ということだ。



3 合気という無意識反射の活用

2のアイキが、「合気」の絶対必要条件であり、これから説明する「無意識反射の活用」の入り口にあたる。
2の、一緒に動く、「相手に同調する」が出来たとき、相手との完全なバランスを感じることが出来るので、それを一つの定規とすることが出来る。その上に立って、その定規よりも先か後か、を選択肢として持つことが出来るのだ。
つまり、それが武術で言われる「先の先」「後の先」なのだ。

さて、この「先の先」「後の先」だが、剣術での攻防の中にしかないと思われている方達もおられるだろうが、実はそういうジャンルや流派の問題ではなく、全ての人間の関係に当てはまる「人との相互の関係を持つ手段としての本質」なのだ。
この意識に対するコントロールを具体化したとき、「合気」といわれる現象が実現するのだ。

先日本紙の取材を通して、大東流合気柔術の岡本正剛宗師とお会いしたとき、「合気」についてふれ、「相手が掴みにきたとき、その瞬間に後に引き相手の掴みに合わせる」とおっしゃっていた。
つまり、先程の定規を体感されているから、掴まる瞬間を分かっており、だからその前に後に引く、という作業が出来るのであり、だから、その後相手に合わせて掴まえさせることが出来るのだ。
だから、岡本宗師を掴まえた瞬間に、大東流合気柔術で言う「合気」にかかるのだ。
そこから考えれば、大東流合気柔術の「合気」は、いかに難しいことか理解出来るだろう。
と言うところで、植芝翁の「合気」だが、これに関しては、最初に紹介した砥島氏との稽古の中にヒントがあったのだ。

こちらが攻撃としたとき、こちらの手が出るように砥島氏の動きがあるのだ。
つまり、砥島氏はこちらが合わせなければならないように、自分の動きを作りその事でこちらを誘導しているのだ。
だから、こちらが仕掛けているはずなのだが、実は、その仕掛けは砥島氏に作られてしまっているということだ。

そのようにこちらが誘導され、砥島氏に向かって動いたときに、こちらが砥島氏に仕掛けた攻撃の目標点をずらされてしまうのだ。
その事で、こちらの攻撃の力が出る前に、砥島氏にその攻撃の方向を変えられてしまい、結果としてこちらの身体の軸をずらされてしまうのでいとも簡単に投げられるなり、押さえ込まれるという状態を作られてしまうのだ。
つまり、岡本正剛宗師が行なっている「合気」という技術を、大きな動きの中で砥島氏は行なっていたということだ。
もちろん、ここで紹介している砥島氏の一連の動きを、道場で一緒に稽古していたほとんどの方は、見抜く力はなかっただろう。
そこが問題なのだ。
つまり、砥島氏は植芝翁を匠の目で観察した結果、植芝翁のこの技術を見抜き、ご自分で創意工夫したから自分のものと出来たのだ。
ところが、一般的には自分の植芝翁に対する「思い」のフィルターをかけているか、強いということへの「憧れ」の目だけで捉えているか、いずれにしてもそう言った「情緒的な目」で植芝翁を捉えているので、こういった「技術(技)」を捉えることが出来なかったのだ。
それと同じように、砥島氏と稽古を共にした方達も捉えることが出来なかったのだ。

そして、塩田宗家だ。
塩田宗家も、この武術にとって必要絶対条件である「合気」を自分のものにされたから、私が公開練習で拝見した「片手胸掴み・腕掴み他」の、見事な技が表演出来ていたのだ。
つまり、塩田宗家が一人で立っているときの身体バランスを明確に体感されている、という大前提があり、そこに相手が胸を掴みにくる、その時相手には塩田宗家の胸という目標点が無意識的にインプットされている。
その無意識的にインプットされた目標点に向かって、又無意識的な具体的な運動が起こる。
その瞬間に、膝を緩めるか、伸ばすかというどちらかの微妙な運動が塩田宗家に起こる。
そして、「相手に胸を掴ませる」という行動になる。

もちろん、この時、胸を掴ませるという行動は、相手の「掴まえる」という無意識的な目標点をずらして行なわれているのだ。
そのことによって、相手が胸を掴んだときには、塩田宗家の体重が伝わりやすい状態であり、相手がバランスを崩した状態になっている。
だから、任意の方向にバランスを崩されてしまうのだ。
つまり、「合気」なのだ。

こうして考えてみると、塩田宗家も砥島氏も岡本正剛宗師も「合気」を体得されている。
ということは、逆に辿っていけば、植芝翁は当然体得されており、岡本正剛宗師の師である堀川幸道師も体得されていた、というところで武田惣角に辿りつく。
それでは、この「合気」は武田惣角個人のものなのか、大東流という流派のものなのか?となるが、実はそういったローカルな問題ではない。
日本の伝統武術に残る「拍子を合わせる」又は、「拍子をはずす」がこれと同じ要素が含まれてあり、「間」という言葉にも同じ要素が含まれている。

 
つまり「合気」とは、武術にとっての絶対必要条件としての「基本的技術」なのだ。

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「達人」はなぜ小柄なのか?



武術を研究していて気が付いたおもしろいことがある。
それは、「技」を極めた人達には、小柄な人が多いことだ。
今回の合気道にしても、ルーツから言えば、武田惣角師、植芝盛平師、塩田剛三師と全て百五十センチ代だ。
もちろん、時代的なものもあり現代の平均身長と比べることは出来ないが、だからといって大柄ではないだろう。
もちろん、武術史の中では大柄な人でも「技」を極めた人はいるし、強かった人もいるが、体格が小さいということが武術の大前提として、かなり不利な条件の一つではあるので、なぜ小柄な人が「達人」になるのか?を研究することが「技」の要素を探り出すことの近道だ。

というのは、体格が恵まれないがゆえに一つの動作にも神経を使うからだ。
つまり、体格の優れたものと立ち合ったとき、少しの無駄な動きが命取りになるからだ。
これは、相撲を例に取ればすぐに理解できるだろう。
ただ、相撲の場合は投げつけられるか、土俵の外に出されることで負けということになっているが、武術の場合で考えれば、そういった瞬間を作りだされることは死を意味するのだ。
もとから小柄な人間は、どの世界でもそういったことを肌を通して熟知している。
だから、人一倍の工夫をするのだ。
しかし逆に、もとから体格に恵まれている人は、喧嘩にせよ相撲にせよ武術にせよ、その恵まれた体格ゆえに、小柄な人間が絶対にクリアしなければならない工夫をする必要はない。
つまり、恵まれた体格をどう生かすか、ということに絞るだけでさほど工夫をする事無く「強さ」を示すことが出来る。

そういったことは、相撲での大柄な力士の勝ち方を見れば一目瞭然だろう。
つまり、体格を生かした押し出しや寄り切りでの勝ち方が圧倒的に多いということで分かるだろう。
逆に小柄な人達は、押し出しや寄り切りという勝ちが少ない。
つまり、そういった体格そのもので争うことは出来ない、という宿命を背負っているので工夫をする。
それが、小柄な人間が絶対にクリアしなければならない条件だ。
したがって、どんなジャンルにしろこと無差別のものでは、小柄な人間が「技」を作り上げる確立が高い、ということになるのだ。
武術にもしもは無いのだが、もしも塩田宗家が体格に恵まれていたとしたら、金魚を研究したり、犬を相手に工夫をしなかっただろうし、そういう発想が無いところからは宗家ご自身が披露されていた「技」は、「技として出来上がっていなかっただろうと推察される。
つまり、小柄であるがゆえに自分の肉体や相手との関係を徹底的に研究したのだ(これは金魚の研究、犬との研究で分かるように単純な肉体鍛練をしたと言うものではない)。
だから、塩田宗家という存在が出来上がったのだ。
自分の肉体を研究していくことは、相手の肉体というものの仕組みや性質を暴きだす。

そういったものを組み立てることで、塩田宗家はあの見事な「技」と言うものを誕生させていったのだ。
だから、ここから考えれば、武田惣角師であろうが、植芝翁であろうが、小柄であるがゆえに体格の優れた人にはない発想にはない発想をし、個人の身体運動を「技化」出来たのだ。

ここで、一つだけ絶対に加えておかなければならないものがある。
それは、この小柄な人達の工夫の原点である「負けず嫌い」という性分だ。
この負けず嫌いが「勝つための工夫」あるいは「負けないための工夫」をさせたのであって、決して頭で工夫をしたのではない、ということだ。


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