
言葉にならない事を言葉にするのは難しい。
それは、日頃説明や解説、もしくは評論的な言葉、伝達だけの言葉しか使っていないからです。
私達は、「人間」です、それは「動物」だという事です。
それは「気持ち・感情」を持った生き物であり、その事が全ての生物と共有する機能です。
言葉にするのが難しいのは、「気持ち・感情」に属する働きが自分に起こっており、その事を言葉にしようとしているからです。
もちろん、それで良いのです。
言葉にする事で、その感情や感性を磨けるのですから。
わからない。
わからないから聞く。質問をする。
すると、答えが返ってくる。
返ってきた答えをヒントに、またやる。
やれた気がする。
でも、「出来てない」と言われる。笑
どこが出来ていないのか、どうすればそれになるのか、
言葉で説明してくれーという思いになる。
そんなことじゃないんだ。
わかってる、でもわからない。
そんなことの繰り返しで。
でも、最後、私の中では奇跡がおこる。
実体験、実感する、実感する、共鳴する。
そんな時間は時間の流れすらなく、ただただそこに。
(講座:私を届ける。より)
109回「武禅一の行」2024-10月12-13-14日
秋なのか夏の終わりなのか10月に入っても分からない、その意味で微妙な気候だった。
今回の「武禅」は、何時もの約半分の人数だった。
その分、どのセクションも何時もより濃い感じのする時間だった。
今回は、初参加は少なく常連の人達がきちんとリードした「武禅」になりました。
レポートの掲載が遅れたのは、かなり色々な行事が重なり、webページに手が回らなかったのです。
正面向かい合い1
●木刀を構えての向かい合いは、体も固まり、相手の前に立つと、独りよがりに相手に向かおう向かおうとする自分だった。
向かい合った人達からの言葉は「遠い」「伺っている」「眺めているだけ」「一人でやっている」等の言葉ばかりだった。
スマホで撮ってもらうと、意思のない自分、眺めているだけの自分、相手との距離が遠すぎる自分ばかりだった。
でも、回数を重ねていくうちに、段々と意思が強く出て行っている感じがでた。
ただの写真なのに、誤魔化しが効かずそのまま写るのだと思い、日頃の自分の態度は他人からはこう見えているのかと思った。
他人にとって、スッキリとした自分、気持ちの良い自分で居たいと思います。
●相手と向かい合った時に「遠い」「ただ立っているだけ」「もっと来れそう」「引いている」などと指摘され、言われていることは理解出来ているが、自分の意志や気持ちを強く出そうとしているが、実際が出来ておらず同じ指摘を何度も頂き、中々分からない状態が続いていました。
日野先生と向かい合ってた時に、日野先生の存在感というか、自分が木刀を持っているにもかかわらず、逃げ出したくなる様な、怖気付きそうになる感覚に襲われ体感しました。
●自分が立つ側になった時、パッと合わせられずに迷われる方が多い。
日常でも、自分の存在感が薄いのかな?という時がある。
存在感のある人でありたいのだが。
●自分の意志、気持ちをからだで表現する、出すということと(実際と)自分の思った「意志、気持ちを出す」が、まだまだ合致しないのだと実感しました。
後、日野先生に「子供を怒る時の様に」と言われた際、子供を怒っている時の様子は浮かぶし具体的に分かったが、いざその様に、とやっても臨場感が出せない難しさを感じました。
●最初の正面向い合いで、3人で雑談をして、他の2人を聴く様に話しかけた後向い合いをした。
先生に画像を見せていただき「相手にさっきよりも意志が向いているやろ。雑談の時の感じで、それをより強くしていかなあかんねんで」といって頂きました。
自分は、全く別の事をしていることに気が付きました。相手に興味を持って話しかけてから、もう一度やり直して行こうと思います。
●自分が捉える自分というものと、他人が捉える私は全く違うのだという事を知った。
お勉強しようとする自分を脱したい!アカン!自分で自分をややこしくしているなぁと思う。
稽古に励もう!
●刀を持つ相手に「斬った!」という気持ちで向かい合うと「少し来ている」と言われるが、意識が相手の目や体にいくと「やろうとしているだけ」「眺めているだけ」と言われた。
相手に何をしなければならないのか、意志が明確かつ強くないと駄目だということだろうか?しかしながら雑談の時に先生から「メチャメチャ弱いけど意思が向いている、相手と向かい合っている時はゼロだ」と指摘された。
相手と向かい合っている時は、相手に意志が行っていないと愕然とした。
●雑談の時、先生が「何でも良いから相手に興味をもって~」と仰った時、興味と言うのは受動ではなく能動何だなと感じました。
相手との距離を縮めようと話をしていると、自然と相手に興味を持っている事に驚きました。
そうやって話をしていると、3人の雰囲気も良く、話す言葉も多く聞きやすくなり、今考えると、これが関係の入り口なのかな?と思います。
普段でもこの事を忘れずに、人と向かい合ってみます。
●今回、先生の前に立った時、初めて「生死」というものを感じた。
今まで、どう立つか、体はどうするのか、とかそんな事ばかりやっていて、相手の前には全く立てていなかった。
常に、いつどうなるか分からない状況に対処していくには、相手や目の前に起きている事と、真正面に向かい合わなければ死がまっていうだけだと感じた。
その事を踏まえて、自分が木刀を持って相手に立って貰った時、相手が自分勝手に前に立ったりすると、イラっとした。
形だけやってこちらを全然みていない事にもイラっとした。
しかし、自分もまた同じことを相手にやっているんだとも思い、人と関係する事にもっと緊張感を持たなければいけないと思った。
●8割くらいの人に「ただ立っているだけ」「ただ眺めているだけ」と言われた。
自分では真剣に存在感を示し、相手の動きを捉えようとやっていたのだが、それは「つもり」になっている事を知らされた。
「意志を向ける」とはどういうことなんだろう?と考えているあたり、もう頭だけになっているから違うのだろう。難しい、分からないけど分かりたい。
●真剣向かい合い。自分では向かい合いに行っているつもりが、大方の方から「ただ立っているだけ」あるいは「形をしているだけ」と指摘される。
「何で?」とまた方法を深めそうになるが、いやそっちは違うといましめる。
悔しさが募る。
●セクションの中でグループになり雑談を行う場面があった。
本来の真剣向かい合いは、日常のそんな場面で発揮されなければならない。
自分が雑談でグループの人の話を聞いている時の写真を先生に見せて貰った。
完全に客観の顔をしていた。もっと自分から聞きに行かなければならないのだろうが、それはすぐには手が届きそうにないので、まずは相手の言葉から明確なイメージを描けるか、その世界に入っていけるかを自分に課してみる。
●相手と向かい合う時、ゴチャゴチャ余計な事を考えてしまう。
考えない為にはどうすべきか?もっと感情を出そうと思い、相手に対して「コノヤロー」という気持ちで向かい合った。
すると、それまでより、相手の反応が良くなり「見られている感じがする」等のコメントが多くなった。
しかし、感情を出すのもだんだん作為的になって来て、すると「睨んでいる感じがする」「怖くない」等、相手の反応も悪くなる。





相手に話す1
●「オイ!」と前を歩く人を呼び止めるでは何時も意思の強さが足りないと思う。
相手に!と先生はよく言われ、その様にしているつもりが、全く出来ていない。
●3人の歌のワークは、聴く、歌を届けるを見てジャッジをするのですが、2人が通じ合っていないというか、違和感があり、どちらもやりにくそうに見えたり、自分が聴く側になった時も、声が入ってこない。
どう聴き取りにいったら良いのか、しっくりきませんでした。
日野先生が歌って下さった時、先生の声が自分の中にスーッと真っ直ぐ入ってくる感じがし、先生の声が自分の中で響いている感じと言うか、表現が難しいですが涙がこぼれました。
聴くと言うことが、いかに奥深く届けると言うことのキャッチボール、様々な場面で、本当に大事だなと感じたので、自分だけにならない様にしていきたいと思いました。
●歌のワークは、相手と噛み合う時と、そうならない時との区別が最近分かる様になった様に思う。
「聴く」事、掴みにいく事、これがまず大事だ。
日常これが出来たら、もっと人とうまく関われるし、楽しい人生が送れる。
●3人組で歌を届けるで、1人が歌い聴いている人が2人に口パクで歌い変えるは、聴きやすく歌いやすくなり3人全員が、力が抜け軽い感じになりました。
応用を即興で作り出す先生を凄いと思いました。
遠い位置から、先生の口パクの歌が飛んで来て、自由自在に皆さんに届けられていた。
中には涙を流される方々を見て、自分も泣きそうになりました。
自分もあんな風に聴いて届けたいです。
●「オイ」と後ろを向いている相手に声を届ける。
ここでも声が広がってしまって、相手に届いていない、弱い、相手とチグハグになっている様な感じで、どうしたら届くのか、迷子になりそうな状態でした。
自分の声が散っているのも感じました。
●歩く人の後ろから「オイ」で呼び止める。
首にかじりつく様にと言う先生のヒントを元に前を歩く方の首をかじる「かじってやろう」「かじったる」でやってみたところ、少し前進しましたが、まだしっくり来ないです。
歩く人によって「オイ」の言いやすさが変わるところを見て、受け手の難しさを感じました。
●先生の仰ることはもちろん、他の人のアドバイス等も、どこまで聞けて自分で考え深められるかが重要なんだと感じました。
●朝のスワイショウ。隣に立った時点で、相手に違和感を与えてしまう。
相手の流れに乗るをやっているのではなく、自分が勝手に動いているだけ。
前に行こうとする時に意識が変わって、相手の存在は無くなってしまう。
自分が腕を振っている側になると、相手に違和感をハッキリと感じる。
不躾に入ってこられた感じや、急に前に引っ張られる感じを自分がやってる動画を見てみたら、相手と離れていて何もやっていない。
存在が薄い感じがした。
●一人が一人に歌う、もう一人はジャッジ。
自分が歌う時、意識を相手に向けようとしても、やろうとしているだけで結局自分に意識が向いて力みや強張りになってしまう。
雑談の時のことを思い出し、自分が相手に歌っていても相手に質問をする様に、相手に興味を持つ様にやってみたら、強張りがすこし緩和され相手に集中できた。
●日野先生に歌を聴いてもらった時、力みがなくなったと同時に、涙が込み上げて来た。
なんなんだろう、、、不思議。先生は、“自分から取りに行かなければ駄目”と言って頂いたけど、そこに強引さのようなものは感じられず、こちらが、委ねても良いというような感覚になった。
私も聴ける人になりたい!!はげもう。
●「オイ」自分ではめちゃくちゃ呼びかけている“つもり”。
しかし、相手には思うように伝わっていない。
迷走しながら、とにかく全身で「オイ!」を出そうとしていました。
●前を歩いている人を「オイ」と呼び止める。自分ではめちゃくちゃ呼びかけている“つもり”。
しかし、相手には思うように伝わっていない。
迷走しながら、とにかく全身で「オイ!」を出そうとしていました。
●届ける事よりも、聴く事の方に難しさを感じた。
なぜなら、聴こうとしているものの、余計な思考やおしゃべりが頭の中で始まる事がよくあったから。
そんな時は、そのまま相手に伝わっていた。
聴いているフリをする自分を嫌だなぁと思ったし、聴いているフリをされるのはめちゃくちゃ嫌だと思った。
日常、よく子供にしている事を思い出しアカンと思った。
●前を行く人を「オイ」と呼び止めるのだが、動画で見ると、まるで相手に向けておらず、ただ一人でやっているだけ。
声を出しているだけ。子供を叱ったり、呼び止める時も同じようにしているのだろうか?と頭に浮かび、その後、多少ジャッジが好転した。
途中、方法の方向へ踏み入れると、自分の感じと相手の感じが大きく食い違う発見をする。
方法の方向に誤って舵を切っても気が付いたら戻りたい。
自分が何をしているのか、どこへ向かうのか明確に。
●「オイ」の途中、先生に「先を歩いている時、何か考えていないか?」と指摘される。
考えていた。
相手の「オイ」を聞きに行く必要はないが、余計なことをしていた。
日常考え事をしていて、家族の声が聴けていなかったり、話しかけ辛いようにしていたに違いない。
心当たりがある。それでも声を掛けてくれる家族に改めて感謝。
●前を歩く人を後ろから呼び止める。
この稽古のシチュエーションは感情が出しやすい。
声の大きさやテクニックではなく感情の爆発が大事。
しかし、上手く行った時と同じように方法でやろうとすると、声が届かなくなる。
「聴く」で先生が見本をやられたが、相手の声を聴くことにより、その空間を支配するというか、操作しているようにだった。
聴く力は奥が深く凄いと感じた。
●前を歩く人に「オイ」と声を掛ける時、相手の首元をかじるようにという先生のアドバイスを受けてやってみると、相手にもジャッジをする人にも「出てますよ」と言われた。
●後ろから「オイ」で呼び止める。顔見知りの2人と組んだ。
どうやって歩いているかを確認した。
一人は「真っ直ぐ歩こうと考えている」と答えていた。
頭の中に何かがあると、それだけで壁になってしまう。
という事を目の当たりにした。壁になっているので、当然相手も声が出ない。
壁になるつもりもなく、壁になってしまう。
自分が「こうしようという事をする」と、他人にとって壁になってしまう事を忘れてはならない。






相手に声を掛ける2
●スワイショウの人をその流れに乗って動かす。
相手に違和感を与えずに、相手の傍に立つのは難しい。
自分に何か意図があると、相手は違和感を持つ。
簡単にそれを突破できるものではない。
そこをクリア出来ないのに、相手を動かすことなど出来ない。
休憩時間の雑談タイムも、場の流れに乗り遅れてると会話についていく事が出来ない。
まさにセクションの実践である。
●「一生懸命だけしか見えない、だからぎこちないし硬い」と終始指摘を受けた。
先生がおっしゃっていた「適当にやれ、その適当が難しいんやけどな」という事が本当に難しい。
「とうりゃんせ」では、自分が相手を壊していると先生に指摘され、相手に申し訳なくて、日頃から相手に失礼で馬鹿にしている事をしてしまっていると、自分自身が情けなくて愚かで悲しいと感じた。
いかに自分が社会で、自分ばかりになっているのか。
「相手に」無意識にでも馬鹿にしてしまっているのか!真剣に自分を変えて行かなくては!変えなきゃいけない、変えてやる。
「工夫しろ、ずっと同じことをやっている駄目やろー」と先生に言われた事を、自分なりに次はこうしようとつもりになっているだけで、気持ちや意志がともなっていないことなのだろうか?何もない自分に対して「一回死んで来い!」と叫びたいくらいだ。
そこを気付かせてくれた先生には、感謝してもしきれないくらいだ。
●「とうりゃんせ」で相手の歌を聴くのも気持ちの強さが大事だと感じた。
気持ちを出した方が、より相手の意見を聴く事が出来た。
●スワイショウで横に立っている違和感、触れる違和感は本業と直結。注意しているつもりだったが、実際の行動はついてきていないに違いない。
動画をみると、自分が如何に独り相撲をいているか、また相手にやられると違和感の実際に驚く。
考えようによっては伸びしろは果てしない。
●日常で家族を連れている時、あるいはクライアントと接している時、プレッシャーがかかって、自分が誤作動してゆくことを思うとゾッとする。
少なくとも、クライアントのリピートに繋がらない時は、そういう状態なのではないか。
身体に負担を強いっているに違いない。
●昨日も言われたが、やり続けるという事をしていない。
一時的な「出来る」から、身に付けるを目指そう。
●3人で歌う。相手の歌を受け取り、次の相手へつないで行くワークでは、受け取るよりも渡す方に難しさを感じた。
他のワークに比べチンプンカンプン度合いは低いように感じたが、これが別の歌をやり始めたら途端に難しくなり、“聴く”事が出来なくなった。
日野先生が同じことを繰り返しても駄目、途中で変化を入れ脳を刺激する必要があると仰っていた言葉がひびいた。
●腕を握り合っている事で、相手と一体になりやすいのかと思っていたが、動きを合わせる事に難しさを感じた。
動画を撮り振り返ると、私は相手の動きを自然に受け取って無いことが分かった。
型としてやっているという感じだった。
●朝のスワイショウ。隣に立った時点で、相手に違和感を与えてしまう。
相手の流れに乗るをやっているのではなく、自分が勝手に動いているだけ。
前に行こうとする時に意識が変わって、相手の存在は無くなってしまう。
自分が腕を振っている側になると、相手に違和感をハッキリと感じる。
不躾に入ってこられた感じや、急に前に引っ張られる感じを自分がやってる動画を見てみたら、相手と離れていて何もやっていない。
存在が薄い感じがした。
●とおりゃんせ。動きだけでも滞りなくやれるといいのだが、それすらもぎこちない。
先生が「気分や」とおっしゃったのがヒントになったが、すぐやり方をやるに戻ってしまう自分がいる。
もっとそこに早く気付いて修正していける様になりたい。
●自分で考えるからアカン。手本をそのままやる、その手本を見ている自分が手本のどこを何を見ているのか、見れているのか。
それは稽古場で、どうこう出来ることではなく普段の生活をしている中で、周りで起きている事に対して、どこまで突っ込んで考えているかで決まって来ると思います。
●稽古で手本を見切れて無いのは、普段何となく生きているんだと、物事について深く突っ込まずにいるんだと、改めて思い知りました。
もっと「何故なんだろう」と疑問を持って考えてみようと思います。
●腕振りで(スワイショウ)相手に合わせるワークで、相手に近く、あるいは、近づく距離感、違和感を無視してやってしまっていた。
相手に触れる以前に、相手に違和感を抱かせない様に近づいて同調。
手で触れる時に違和感を感じさせない、触れることがどう言うことなのか再認識。
指先まで感覚を途切らせないと言うか、緊張が入ってしまったりと、相手への配慮が足りていないと感じました。
●相手の流れに乗るのは、相手の流れを無視していたのだと思いました。
流れの中での動きに混乱して、最後は何をやっているのかよく分からない状態になってしまいましたが、「相手の流れに乗る」と言うのを、自分の中で先生とは違う様に解釈というか、ズレがあったのだと認識しました。
午前のワークも通して、最初の入りが違ってしまえば、同じ事をやっている様に見えて、全く別のものになっていく事を感じました。
●目だけで相手に合図を送り、合図を受け取った相手は立つ、のワークでは、一度も相手に伝わらなかった。明確な意志の強さが私には無いのだろうかと思った。
●「ここはどこの細道じゃ」のワークでは、体の硬さ、気持
ちの独りよがり、意志の弱さがよく見えた。





相手に声を掛ける3
●3人(2:1)で、2人に歌を届けることで、自分は煮詰まってしまった。
他の2人に色々と指摘されるが、その度に考え過ぎてだんだんと出来なくなってしまった。
●1対5で歌う。向い合って、目の前の人に歌おうとしているが、歌う前からの入りが上手くいかず中々歌わせて貰えなかった。
歌い出しでチグハグだったり、声が遠いだったり、何をどうすれば良いのかよく分からない状態が続いていた。
このワークの間中、「届ける」が出来ておらず、何をどうしたら良いのか分からず迷子になっていた感じが最後までだった。
●1対5、1対2、1対11人で、届ける聴くは、相手をしっかり聴いて、相手を感じてから、「今から私が歌います」と言う意志がしっかり現れていないと、相手も聴いてくれないし、自分が何をしているのか分からない事をしても意味はない。
本当に相手に届けようと言う気持ちがどれだけ強いかが、一番大事だと改めて感じました。
●2日目ということもあり、バテバテで疲れていたんですけど、全力で取り組んでみると終わった後に、体が元気になっているのが何だか嬉しかった。
思い切り大声を出してする「ナマムギ合戦」は、これが関係するということだろうと感じる。
●全員で「ナマムギ」思いっ切り相手にぶっつける。出せる限り。
すると相手もちゃんと返してくれる。
「絶対に負けない!」と向かって行くと、緊張している余裕なんか無くなってくる。
この気持ちのまま1対11人で歌う。
もちろん、すぐに×が出たが、この気持ちの方が全員の前に立ちやすい。
1対11人なのだから、もっと強い気持ちを持たなきゃいけない。
何度かやって気付いたのは、歌う時になると意識が変わってしまう事。
意識が変わってしまうくらいの余裕、気の緩みがあると言うこと。
生きるか死ぬかなら、そんな余裕はない筈。色んな場面で緊張が起こるけど、それは相手との緊張感ではなく、自分勝手に緊張しているだけ。
もっと緊張感、緊迫感がないといけないと思った。
相手と関係するのは、そんなたやすく生温いものではない。
●2人に届ける場合に、目線をどう向けるかに気を取られ、不自然に思われる事が多かった。
目線を向けていない方に届けるにはどうすればよいか、という事を考えていた。
●「ナマムギ合戦」これは私が一番好きなワークだ。
車で1人の時などに自主練していたりするが、相手がいるのといないのでは全然違う。
自分と相手が思い切りぶつけ合っている瞬間は、一切思考の入るスキがない、必死である。
このくらいのエネルギーを持続できる状態の自分でありたい。
●全員が歌い出しで☓だったが、私は何が☓なのか良く分からない事が多かった。
不自然さをキャッチする繊細さが足りないのか、見ている所が違うのか。
先生の歌も聴いてみたかったです。
●先程のメンバーから変わり、ジャッジも一段と厳しいものになった。ともかく、省エネを思い知る。今更だが、日頃からあまりにも省エネに慣れていたのを自覚なく過ごしていた。
●常連さんの指摘は刺さる。ズバッと容赦ない指摘は相手を活かす(心を開ける)力がある。
●如何に自分の思い込んでいる自分と、人に現されているモノとの違いが大きいか、ということ。
●「ナマムギ合戦」これも省エネを痛感。
もっともっとと思う頭とは裏腹にエネルギーは出ているかは?だ。
周りの疲れた様子と比べると自分は大したことがない。
●歌を届けるでも、届けるのは歌ではなく気持ちだ。
相手に必死にならなければ伝わらない。
組んだ人が口先だけで歌っている感じがしたので、口パクでやったらそちらの方が良かった。
しかし、声を出すとわざとらしくなってしまい、必死さも無くなってしまう。
●「もっと届けて」「自分だけで歌ってる」「来てない」のオンパレード。
出来ないから具体を修正するように。
「ナマムギ合戦」のような頭が痛くなるほどのエネルギーの気持ちが歌になると何故出来ない?
ナマムギでも全てを出し切れていない自分がいる?気持ちも考えもグチャグチャになって分からなくなってしまった。
●基本的に毎回感じる事は、エネルギー不足である、ということ。
3人でのナマムギをやった後に歌に戻ると、皆よくなっていた。
とここまで書いて、自分の馬鹿さに気が付いた。
なんで駄目だしされて、悔しいという気持ちがもっと溢れて来ないのか。
それこそ方法をやっているという事だと思う。
誰に何を届けるのか?





5身体で聴く
●「ストップ」で止める。本当にこの相手を止めないと相手が死んでしまうから何が何でも止める気持ちで言ったが、それでも「少しだけ来ている」だけで、止まる程ではないと指摘される。
難しい!死ぬ気のつもりで止めようとしている「つもり」から抜け出せない。
●歩いて来る相手に正面から「ストップ」で止める。声をいくら張り上げても止まらない。全身で感情を爆発させ、相手にぶつけると何とか反応がある。これも気持ちの強さが大事だ。
●肩動かしで、後ろの相手を流れに乗って倒す。倒そうという意識があると、相手は離れてしまう。相手の意見を聞き入れていないという事だ。
●「ストップで止める」前から歩いて来る人に「ストップ」と思い切り叫んでいるのだけど、相手は全然止まらない。
全力でやっているつもりになっているだけでできない。
気持ちが一点に集中出来ていないという事なのか?自分がいま何をしたか、ということが抜け落ちて、出来た、出来ないで、出来た時の感覚を頼りにもう一回やるということをしていた事に気付いた。
届かない。
独りよがりにやっているという事を、思い知らされるが、相手との関係性がどうやったら作る事ができるのか、ちんぷんかんぷんである。
関係性を作るという事は、自分が思っているよりも甘くないのだろう。
そもそも自分が捉えている自分と、実際とのギャップが大きくあるので、そこをすっ飛ばして相手との関係性を作るという事をする事は難しいのかもしれない。
きっとそうだと思っている。
だんだん「クソー」という気持ちになってきて、声を荒げていた。
先生が「殺すぞ、くらいの勢いでいけ!」とニコニコと仰ったので、オリャーと全開でいった。
誰も振り向かず、何で無視すんねん、というむなしさ悔しさの気持ちになった。
全力で出ている時は周りなんて一切気にならず、集中出来ていた。
逆に普段は凄く省エネで生きているのだな、と思った。
自分の人生、ちゃんと生きたいと思った。
●2人1組のストップ。前から歩いて来る人を「ストップ」で止める。は、相手を止めるのではなく「ストップ」をやっているだけになっていた。
もっと全身で、出した手も指からも「止める」をやってみたら少しましになった。
組んだ人からは「全身で感情を出す感じで」と言われ、何度か試している内にましになったが、まだ止まる程ではない。
●2人とも椅子に座り、後ろの人が前の人を動かし、前の人は後ろの人の動かすのを感じてついていくで、先生のを見ていると、初めから主導権を持ってついていっているように見える。
私はやろうとすると、相手が不在で無理やりやっているだけ。
もっと相手の発するものを微細に繊細に感じなければいけない。
自分の硬さや機械的なところは、そこに原因があると思った。
●「身体で聴く」の最後に先生が「動かないものとして触っているのと、細胞は動いているとして触るのでは全く違う」と仰ったのが印象的でした。
私の場合、今考えてみても「脈がドクドクと打っている」のを動いていると考えるくらいです。
細胞が動いていてもそんなものは感じられる筈はない、感じられたとしてもどうなる?という考えから、「感じようとしなくても良い」となっていました。
実際に「感じられる・感じられない」ということよりも、「細胞は動いている」ということを意識するかどうかで、人の触り方は変わる。どこまで繊細に物事を考える(捉える)かで、やれることが変わって来る。
自分が色々な物事をいかに大雑把に考えているかを思い知らされました。
少しずつでももっと深く、繊細に物事を見て行く癖を付けます。
●相手にストップというが、それが相手に届いているかが分からず、気迫を感じるかどうかを探りながらやっていました。
●違和感のないように心掛けて吐いたが、それがうまくいかず相手とぶつかってしまった。
同調していなくて形だけになってしまったりと、中々相手を感じる事が出来なかった。
●椅子に座り、後ろの人が動かす指示を身体で聞き、その流れに乗って後ろの人を転がすワークで、「相手を聞こう」という思いが頭に浮かぶが、それを振り払い相手の手に集中した。
その為に何となくスムーズに出来た様に思う。
6相手に声を掛ける
●椅子に座っての3人での「おい!」で、他の人を見ていると、体の使い方が小さい為、エネルギーがいまいち出ていないのが分かる。
上半身の使い方を工夫し変えるだけで、大きくエネルギーが出てくるのが見えた。
●最後のピラミッドでは「受け取る事」に注意を払った。
後ろからの自分に向かうエネルギーをキャッチできるかどうか?何回かは手を挙げたがハズレだった。
これからは、道を歩いていても職場でも後ろからのもの、横からのものに注意を払っていこうと思う。
108回「武禅一の行」2024-5月3-4-5日
春のゴールデンウイーク中の「武禅一の行」。
比較的少ない人数での行会になった、とは言っても16名の参加です。
初参加の方も1/3おり、新旧の具合が丁度よい感じの行会になりました。
「武禅一の行」は、人間関係という社会の渦をどう抜け切るか、どう泳ぎ切るか、どう渦を味方に付けるか、その地力を付ける為の講座です。
こういった人間関係の中で生きる知恵は、本来子供の頃からの遊びを通した生活で培います。
年齢幅がある子供達全体での遊びです。
しかし、戦後のどさくさが落ち着いて来る1970年以降、むやみやたらと過保護になっていく傾向を持ちました。
「私達は苦労をしたから、子供達には苦労をさせたくない」という声を、当時はよく聴きました。
私は、そういう親達に「それは逆だよ、私達以上の苦労をさせなければ弱くなるよ」と散々言ってきました。
弱くなるのは「こころ」や「気持ち」です。
もちろん、それは身体に影響し、今日の日本の状態です。
「武禅」の講座は、その時々で2人3人4人等々組んで行います。
それは「関係」は独習できないし、実践形式の方がお互いにリアルに打ち込めるからです。
そして、コメントを出せるからです。
しかし、とはいうものの現在の私達は反応せずに、考えて答えを出すクセが付いており、それが駄目なのです。
その時の答えと言うか相手への言葉は、正論かそれに準ずるものになり、「その人」に対してのものは出て来ないのです。
つまり、「正しい答え」を出して、その人にその場の出来事としての応答にはならないのです。
そういった事も「間違いだと知る事」も講座の中身になります。
今回参加者のレポートから抜粋して掲載します。
セクションは、ここに入っていない自主練も含めて9セクションあります。
全員同じ事をしているのですが、人それぞれの目的があり、そこから導かれる解釈や理解度、そして、何よりも自分が抱える問題と置き換えて臨むので、同じ体験を誰もしていないのです。
つまり、人はそれぞれに同じものを見ていないし感じていないのです。
そんな事も頭に置きながら感想を読めば、「本当に人はそれぞれに違う」が明確になるとおもいます。
109回「武禅一の行」秋 は10月12,13,14日です。
「セクション1 向かい合い・相手と真正面から向かい合う」
●今回初めて「武禅」で真剣向かい合いを行いましたが、いかに自分が人とむかいあっていないかを痛感しました。
木刀を構えた相手に向かいましたが「遠い」「遠い」のオンパレード。
自分でも気づかない内に人と距離を置いている?もしくは人と壁を作ってと感じました。
●私は普段「なんとなく相手を見ているつもりで見ていない」という事を考えてませんでした。
そして、ワークを通して「相手に向かって見ているのに見ていないと言われるなんて妙だな?」と思いました。
それに「人が相手を見る」という当たり前の事が自分にはできなくて、とても悔しかったです。
●「真剣向かい合い」だけでも、動作の入り口、姿勢、気持ちの強さ等、様々な事に気を掛け、全てを統一し目的遂行の為に表現していかなければいけない。
目に見えない物も含めれば「相手」と対するという事に、どれだけ気を配らないといけないのか、また、目的の為にどれほど自分の中身を高めつよくなければならないのか。
問題は山積みであるが「思い切り、本気」の強さを上げて行く事を一番として、様々な気付きを一つずつクリアしていく事を目指していきたい。
●自分が感じた印象と全く異なった印象になっている。真剣と言う言葉には程遠い結果になっていた。
●「自分は見えない」を身を持って体験した。
「もっと欲しい」と言われたって事は、仕事でも同じで患者さんクライアントさんも「もっと欲しい」と感じている可能性があるという事。
「遠い」「カベがある」「欲しい」他と言われた事に対して、とにかく「やる」しかないという事を痛感したセクション1だった。
●3人組のワークでは、私が伝えた感想に先生と観察者から笑いが起き、自分の浅はかさを知った。
先生の実践を目の前にその笑いの意味を深く理解する事が出来た。
そこから、自分の中で何かが変わり、少しだけ前に進めた気がする。
●全然来てない、流れているだけ、遠くから見てる感じ、そこにいない。
皆さんから頂いたフィードバックです。
職業柄もあり、そうだよなと、自らも感じるばかり。
また、自分の働きかけにより、相手も反応が変わり噛み合っている事を実感出来る場面がありました。
関係性とは働きかけることにより変わり、動くものだという事が体感出来たのも収穫です。
●相手がこちらに真剣な時のみ、その気持ちに答えようと思います。
相手がこちらに真剣でない時は笑いたくなります。
●「遠い」「もっと前に来れます」といったコメントを頂き、まだまだ気持ちが足りない、真剣に向かい合っている様な事をやってしまっていました。
3人組みになり、写真を見てみると、自分では思いっきり前に出ている様にしていたが、写真ではただ木刀を持って突っ立っているだけの、腑抜けた顔をした自分がそこにいました。「なんや、これは」
●3年振りの「武禅」気合を入れて臨んだが、当然思うようにはいかない。
それぞれの木刀を構えた前に立つと「遠く感じる」「作業をしているよう」等と指摘された。
他人からはそう見えるのだ。
自分がゴチャゴチャ考えながら相手の前に立っているので、そう見られても仕方がない。
久しぶりとはいえ、これだけ「武禅」に通っていて、そのような不甲斐ない自分がもどかしいし、とても悔しい。
●普段の自分の意志の弱さを感じた。
「自分はこうする、何が何でも!」という事を日常でも忘れないように紙に書いて目に付くところに貼っておこうと思った。
自分の力みの発生源は、囚われ、自意識、マニュアル通りにしかやれない、真剣、本気、必死が普段欠け過ぎていること。
もっと行動をしながら、深く本質的な事を考えられる自分になりたい。
改めて、自分の硬さを感じてため息がでました。
●自分のことはおよそ見えていない。自分を外から見る事の重要性を強く痛感いたしました。
●私はハッとしました。つまり、私には何かする時に「思う」という思考の癖が出来上がってしまっていたのです。
このクセを出る度に取っ払うのは大変だけれど、今の自分の課題が見つかったので対処していきます。
まさかこんなに「相手を見る」ことに自分の癖が入ってしまうだなんて思ってもしなかったです。
「セクション2声を届ける・目で聴く」
●相手の正面に立つと、分かりやすい人と分かり難い人がいる。
自分の正面に立って貰う時も、人によってこちらが正面と感じる場所が違う気がする。
この正面に立つをやった後、後ろ向きの相手を呼ぶと、声を受けた感覚が全然違っている事に驚いた。
明らかに声がこちらに向かうようになっていた。
●向い合って目を合わせる、という動作は、今までの生活で行って来た筈なのに、こんなに独りよがりで「自分を相手に合わせていると思い込んでいただけ」だという自分を発見しました。
つまり、自分は思い込みが激しい人間なんだということに気付きました。
●聴こうとすると、やろうとすると、自分の事だけになってしまって勝手に頑張ってる自分になる。
自分がやっている事は平面的な感じ。
もっと微細に相手のことを感じられるようになりたい。
今までも自分の固さを感じたが、今回は特にそれを感じて愕然としている。
何か一つでもいいから、相手を感じられる手掛かりを見付けたい。
●ただ、目の前の相手に声を届ける事が、これほど難しいとは今まで思いませんでした。
いかにただ声をだしているだけになっていたか思い知らされました。
とにかく相手を感じるようにしたいです。
●一番心に残ったのは「相手の流れに乗る」です。
●「オイ」が全然届かない。喉がかれるばかりで届かない。
それが早口言葉で力を振り絞って声を出した後は、相手にぶつけるエネルギー感が全然違う事が体感出来ました。
もちろん、全然弱いのですが。
●椅子に座った相手が、ワークを終え「最初よりあなたの呼びかけが聞こえるようなったよ」と行って下さって驚きました。
私の方も、相手となった方からの呼びかけが、よりよく聞こえるようになっていたので、何でだろう?あの早口言葉のワークは、何のトレーニングだったのか?と思いました。
●相手に合わせて波のリズムで対話する体感を得るワークでした。
ビデオを撮ってみると、相手の歌を全然聴けていない事がよく分かりました。
自己中心で対話しているのだという事です。
●始めの「オイ」は相手の言葉にしか意識が向いて来なかった。
声に反応して頭で聴いていたような気がします。
正面を取るワークも始めは、相手の目の位置や体の位置ばかりに目が向いていて、本当の意味で相手を見れていなかったのだと思います。
●最初から相手に話せていない事を実感したのと、周りもそうなっている事を体感できた。
●二人に三人にと歌を届けるのは難易度が上がっていく。
成立させる為にクリアーしなければいけない条件が今まで以上に有ると認識した。
いくつもの条件を満たすのは至難であり、これ以前に「自我」と言うのか、先生がよく言われる自分の幼稚な部分、これが自分の邪魔をしているのがよく分かった。
●呼吸を合わせて「こんにちは」は、相手の人に届けるぞ!という気持ちをしっかり持って伝えると自然な感じで届く。
力みが無い分違和感がない。
●先生のお手本の「聴く」を自分の「聴く」を分析して真似ようにも、「聴き方」は天と地の差になっているので、どこからどうしたら良いか?「相手を聴く」事がこんなにも難しいとは思いませんでした。
●「とうりゃんせ」ワークでは、会話のリズムを感じる事が出来た。
始めのビデオを見ると、一方的な「話す」と一方的な「聴く」で自己中心的会話に見えた。
「セクション3 気持ちを届ける・気持ちを聴く」
●先生がワークの中で歌い終わった後に、全員がその空気に一体となって飲み込まれていて、ただただ信じられませんでした。
●過ごす時間と共に、参加メンバーとの関りや関係が刺激し合い、気を抜けない中でも、スムーズな流れが出来ているのが不思議であった。
●聴くに注力を向けている時に、余計な緊張がある事に気付かされた。
「聴かなきゃ」というキーワードが頭にある時には聴けていない状態である事を改めて実感しました。
●3人で歌うリレーセッションは愉しかった。
だんだん、前の人のタイミングが感覚で分かって来た。
具体的には言えないが、息遣いや体の動き、目や表情など全身で受け止めるといったことだろうか?
●最初声を出す事に意識が行きすぎて、目の前の相手に向けていない状態でした。
フィードバックを頂きながら回数を重ねる内に、少しずつ相手に届ける事に意識を向けられるようになりましたが、いかに普段自分の都合、自分の思考の中だけで対話しているかを実感しました。
相手に意識を向け続ける訓練が必要だと改めて確認できました。
●話す聴くという日常生活で当たり前に行っている行為が、本当の意味では全くできていない事を思い知らされましたし悲しくなりました。
●普段如何に勝手にやり方やルールにとらわれて「勝手に一人だけでやってるか」が分かった。
やり方やルールがあったとしても、その場の状況、相手に対して働きかけられていたら、こんなにも軽やかで、さわやかで相手に興味を持てるのかと。
「セクション4 相手に届ける・聴く」
●「気持ちがある」という事を他者が感じていないのであれば「気持ちはない」という事。
●もうグッタリ疲れてしまいました。
2人に届けるは、そもそもの歌い出しで××続きで、全く何をすればよいか分からない状態でした。
普段、数名相手の会議進行等で、複数の人間に意識を向け乍ら進行する場面は、日常的にあるものの、いかに全体を捉え発信していくことが出来ていないかが良く分かりました。
この経験を活かして、全体に意識を向ける事に取り組んで行きたいと思います。
●意識すると緊張する。相手が多人数になると更に緊張が入ってしまう事を実感した。
「上手くやらなきゃ」が頭に存在し、上手く出来ない状態を自分がやってしまっていました。
●午前中の2.3人で歌を届けるのも大変な思いをしたのに、7人15人となると、自分の存在がいかに小さいのかを思い知らされる。それをものともせず吹きとばす強さ、これを定着させ相手に伝えるように工夫していきたい。
これは必須である。
●「オイ」をoさんから「自分に声を掛けられたと感じない」と、何度もコメントがあり工夫をしても結局声が届かず終わってしまった。
日常で声を届けた人は沢山するけれど、それは「相手に声を届けたつもり」が沢山あって、今後は少しでも「相手を意識する」ことを大切にして「相手会ってのコミュニケーションだ」と独りよがりのコミュニケーションにならないように成長したいです。
●とにかく、自分があまりにもできていなくて悲しいを通り越して、なんだか楽しくなってきました。
●先程よりも相手に行くようになっているし、先程よりは二人を感じられるようになっている。
なぜ最初からこのように出来ないのか?日常の送り方が問題なのか?常にその状態で出来るようにならないと意味が無い。
●先生が全員に歌を届けてくれた時涙が出たという結果を、僕の身体が現してくれました。これが「届いた」ということなんだ。
「セクション5 相手に届けるⅢ・肩動かし」
●今迄の自分の意識の低さを痛感させられ、自分が「何故届けられないのか?」に対して怒りの感情が湧いた。
「何が何でもの気持ち」「欲」これらを持っているつもりなだけで、自分には「弱い」気持ちだったことが発見できた。
●最後の口パクでの「こんにちは」でOさんの「こんにちは」を受けて見た。
受けを取った時のОさんの必死さを目の当たりにして、私の中の何かが動いた。
●7人に向けての歌、全員に向けての歌、暗闇の中の無限ループ、思考停止。
何をどうすれば良いか全く分からない。
先生の最後の言葉「誰に向けて歌うのか?」確かに全く考えていなかった。
目の前の人や人数に囚われ、誰の為何の為という大切な事が抜けていた。
独りに届かないものが多人数に届く筈がない。
と、頭では理解したつもりだが、分かると出来るは違う。
日頃の繰り返しの訓練が必要だ。
●声を出さずに正面から相手をオイと呼ぶ。
先生がこちらのオイを受けて、オイと倍にしてはえされ、後ろに倒されてしまった。
ちゃんと相手のオイを聴いて、相手を引き出さないと成立しない。
●1対15の時、全員を捉えるのが難しく、聴いていない人に焦点を合わせてしまって、「聴け~!」という気持ちになるが、それを抑えて「どうしよう?」となってしまった。
「何が何でも相手に届ける」が持続できない。何か難しい事にぶち当たると、どこかで「私には出来ない」という気持ちに「絶対にやったろ!」が負けてしまう癖がある。怖い事、難しい事から逃げてしまう自分。
でも片っぽで、それに立ち向かえない自分が悔しかったり腹が立つ。普段の生活では、そこに向き合わず逃げてしまう。
自分のストレスの根源は、その自分じゃないか。
もっとリスクをおかしてでも、自分を窮地に追い込んで、正面からぶつからなければいけない。
●駄目だしされた相手にアドバイスをする、ただ聴いた感想だけを伝えるのではなく、どうすれば良くなるのかを、相手が分かるように説明する、というワークでは何も浮かびませんでした。
今まで私は、相手が分かるようなアドバイスはせずに、ただ自分の感想を言っていた事に気付かされました。
今後の課題です(相手に分かるように、具体的に)
●本気で怒れない自分。感情をぶつけるのが怖い自分。人を呼び止める事さえ出来ない自分。
どうしてこんな自分を築き上げてしまったのか。
●加えて「オイ」を受け取るというのが、日野先生からもご指摘頂きましたが出来ませんでした。
相手の「オイ」を引き入れて返す。昨日の「天神様」のワーク同様、相手に合わせて受けて返す。
全てはこの関係性作りなのだと、強く学びました。
また、声を出さない「オイ」のワークで身体が熱く汗ばみました。
身体の中が熱くなりました。
●無言での「オイ」パワーを意識した時と、思う心を意識した時とで、相手の反応が違った。
やはり「誰?」が大切なのかと思った。
「オイ」返しは、、先生の動きを観察していると、相手の「オイ」を利用して倍返しというのをとても感じた。それを意識して実践する。全て相手との関係性、相手がいて私がいる。
「セクション6 ピラミッド」
●歩いている人を後ろから「オイ」始めは声だけで「軽い」と言われ、腹から出す事を心がけると力強さが増した。
カメラで撮りながら自分の姿を見ると、まだ表面的な「オイ」になっているのが分かった。
全身を使っていない。続いてスキップをする相手に向かって声をかけた時は、相手を必死に呼び止めようと、こころからの「オイ」に変わった気がする。
昨日から引き続きのワークで、分かった気になっていた。人それぞれ、伝わり方は違うので「これ」と決めつけず、その場、相手に応じて変化させる事が大切なのだと思った。
●相手に声を掛け歩くのを止める。これだけの事が出来ない。
例えば、会社勤めの頃にこんな場面はいくらでもあり、その度に相手とお互い出来ていた。
深い内容は分からないが、これが出来ないのが「何これ?」である。
もっと年齢的に早い時期に、こんなことを考えて実行できてたならと、今更だが、これより以降を充実させる為、今回の「武禅」を最大限に活かしたいと思いました。
●精一杯じゃないと前に進めないと感じます。
精一杯生きた方がいいと思いました。
●夜の稽古でNさんにずっと届けていたが、反応されず、終わってから話を聞くと、自分に来ているのは分かっていたけど弱いし明確ではないので、明日のピラミッドでしんどくなるだろうから、手は上げませんでした。とコメントして貰いました。自分の為にとてもありがたかったです。
で本番では、昨夜のリベンジで行きました。最後、気持ちだけでNさんを呼び、手を上げて頂いた時は、大変嬉しい気持ちになり、心が温かくなりました。
人とのつながりは、相手の為になるコメントや相手が実現できる方法を探し見付けるようにやっていこうと思います。
●昨日、声を出さずにオイと呼ぶ時実感したのは、とにかく全身で声を出すことだ。
先生が声を出す時、テンションが瞬間でMaxになるような爆発力を感じる。
「相手に」という認識と「何としても振り向かせてやる」という気持ちが大事。とにかく強い意志の力が必要だ。
●全員でのピラミッドワーク。全員が達成できると正直思っていなかった。
皆の真剣な取り組みと良い場が出来た結果なのだろう?素直に嬉しく思う。
自分自身を振り返ると、中々上手くいかなかった。
しかし、焦りなどは無く時折深呼吸をしながら落ち着いて取り組むことが出来た。何人かを呼んでみたが、最後は2人に絞り取り組んだ。
狙った逆の方が手を上げたり、2人が手を上げる事もあった。気持ち、想いも伝わったのだろうか、、、、最後は一番奥のSさんに、今回の3日間の感謝を込めながら気持ちを届けられたのでとても嬉しい。
「セクション7 気持ちが届く・同調する」
●最後に全員でボルテージを上げた時に、歌詞は無茶苦茶でも全体として一体感が生まれた。
●1日目に組んだメンバーとの最後の向かい合いで、1日目の写真と今日の3日目の写真を比べたところ、大きく変化したのは目付きでした。
1日目は目付きが「ぼんやり」していましたが、3日目の今日は「キリッ」とした目付きになっていました。
自分の目付きの変化が3日間で、こんなに変化した経験は今までありません、とても驚きました。
●初日に組んだ人達と真剣向かい合いをする。初日との違いを写真を撮って確認した。
●真剣向かい合いの際、相手に向かっている自分の写真を見て泣きたくなる程である。
全てを削ぎ落した、ただ相手の前に立つワークではあるが、これが一番苦手である。
しかし、このワークは自分というものを磨き、相手の人の前に本当の人と関われる自分を確認する為には最高だと感じた。
見ず知らずの人が互いに協力、関係しあい最後の大合唱に昇華されていったのは、本当に神聖な空間を体感出来感動しました。
●向き合いの構え、初日の写真と比べると、明らかに顔付きと姿勢が変わっていた。
同じ見る行為でも、こころの持ちようで変化が生まれる。
相手が何を考え何をしようとしているのか?見えないものを見る、感じる。
相手を知るとはそういう事なのだろうか?全員での合唱、ぶっつけ本番のセッション。
心と体が響き合う。愉しさ爆発最後の「こんにちは」も自然と声が出る。
●力を合わせて歌い上げる。3日間一緒だった皆さんと聴き合いながら歌う。最後は叫びまくってのフィナーレ!最高でした。
●これからの生活のなかでも、少しずつこういった訓練を入れようと思います。
そして、周りの人とも真剣に向き合って繋がって行こうと思います。人間も動物だという事を忘れずに。
●「武禅」で体験したことは、実際に自分がやったことで、決して出来ない事ではないので、せめて「ナマムギ合戦」後の自分の感覚、モチベーション、前に出やすさ等を、普通の日常でも維持できるよう、努力し獲得します。
●最後はすがすがしい気分になりました。
とにかく出来ない、分からないことだらけでしたが、遠慮のない仲間達と一緒だったからなのか、終わった時に感じた気持ちです。みんな初日の時と雰囲気が違いました。
自分も含めてたった1日2日でも人間変わるし変われるのだと思いました。
●自分にはプレッシャーが足りないということか。
生ぬるい日常の中で自分にどれだけ圧をかけられるかが肝だと思った。
圧に負けないように立ち向かっていけば、何も怖くないし何より力が湧き起こる。
問題や嫌な事にぶち当たった時、私は勝手に憂鬱になって、勝手に問題を大きくしたのだと気付いた。
まだまだ必死、真剣とは言えない自分だが、今の精一杯でぶつかって行けば、どんどん世界や可能性は広がるんだと思った。
107回「武禅一の行」2023-10月7.8.9日
秋の「武禅一の行」は、気温がどんと下がって少し肌寒い感じの中で行われました。
薪ストーブの準備だけは完全に出来ていました。
でも、その冷たさ寒さが「集中力」を必要とする講座にはピッタリでした。
「武禅一の行」では、自分が相手から感じた事を相手に話す。それは、子供の頃ならあっただろう言い回しになったりします。私は大阪の下町ですから「アホ、ボケ、カス、、、」が挨拶代わりの言葉でした。
今日の日本のご時世では、きっと日本ではここだけでそういった会話が繰り広げられているのだろうと思います。
人生を生き切る最大の武器は、気持ちの強さと学べる力、最高の笑顔、それらが絶対に必要です。
それは、「人は関係の中で生きる」という大前提があるからです。
そういった事を知識として持っていても、全く意味もなければ価値もありません。
自分がそうあるのかないのか、なのです。
もちろん、それを生きているといい、その生命が無くなるのも自分だからです。
今回参加者のレポートから抜粋して掲載します。
セクションは、ここに入っていない自主練も含めて9セクションあります。
全員同じ事をしているのですが、人それぞれの目的があり、そこから導かれる解釈や理解度、そして、何よりも自分が抱える問題と置き換えて臨むので、同じ体験を誰もしていないのです。
つまり、人はそれぞれに同じものを見ていないし感じていないのです。
そんな事も頭に置きながら感想を読めば、「本当に人はそれぞれに違う」が明確になるとおもいます。
「セクション1 向かい合い・相手と真正面から向かい合う」
●向会った時、遠い、テレビを見ている様だと、相手の方から伝えて貰った。3人ペアでやった時、やっと全然向き合えていない自分に気が付いた。
●ボヤっとしている、ボヤけている自分自身を感じました。写真に写っている自分と、向かい合っているつもりの自分、その溝の中に頭の中で言葉として理解しようとしている自分がいる。
自分、自分、自分と思っている間に相手と向かい合う相手がいない。自分はそこにいるつもりになってしまう。それでも向かい合おうとするその時間はあたたかく、「遠い」「前に何も来ない」「立っているだけ」という声に、少しずつ勇気を感じた。
●頭を働かせない様にするのではなく、「もうすでにそうなっている時」に良い感じになる事を感じ取れました。先生に前に立って頂いた時、静かでもの凄く気持ちが良い感覚が湧き上がり、そのまま吸い込まれそうでした。
●最後、魚釣りのワークで、タイミングが全然ズレていました。出来ている人は、相手が釣ろうとする瞬間を察する事が出来るという事が分かった。悔しくて焦る気持ちも出てきました。
●何人かの人から「来てくれてはいるが固い(堅い)」と言われた。「かたい」これが今の自分だ。剣先で魚を釣り上げる時は、相手の目、意識に集中した。そうすると、写真での姿がましになってくる。腰もひけている、足先もひけている、手指も不安定で、何をしているか分からない。そんな自分の映りだったが、だんだんと前に向かっている自分が最後には居た。一緒に組んでいたMちゃんは、最後にはスッキリとした姿になっていた。色々削ぎ落ちて行った様子が伺えた。
●刀を構える人に向かっているつもりでも、皆さんに「遠い!傍観者!自分を後ろから見ているetc。もっと近くに行こう、向き合おうとすればするほど、頭で考えてしまうし、ここにはいない感じと言われて、向き合うって本当に難しい。いかに人と向き合えていないのだろうと、また考えてしまう。今まで「感じている」と思っていた感じるも、もう、ちょっと、分からない。
●「力み」というのは、色々と余計なことを考えて相手を見ずに、自分一人だけで何かをしようとした時の状態なんだと感じました。もっと「相手に」をやっていきたいと思います。
●一緒に組んだHさんMさんの感性は素晴らしい。特にHさんは初めての参加で、どうしてそんな事が分かるの?と思ってしまう意見を聞いた。自分ももっと食い付いて行こう。
●聴くに関しては、掴みに行く意識が決定的に足りなかった。昨日「バシッ」と合わす事が出来なかったのも、ここが大きかった。掴み取りに行く感覚が持てたら、「バシッ」という感じは出て来た。何れにしても、これまでは相手に向かう姿勢が全然足りていなかった。特に聴くに於いても、向かって掴みに行く重要性が分かった。
●「もっと来て欲しい」「形だけでやっている」「弱い」等のコメントを貰い、また形に気を取られてしまう自分を気付かされました。「こうしよう」と思った途端、それが相手にとって違和感になる。ちゃんとやろうとすると力んでしまう。ちゃんとやろうと思わずに、ちゃんとやれる自分に早くなりたい。また、気持ちは、出そうと思って出すものではなく、出るものだと思いました。
●釣りのシャワリ上げにはびっくりした。釣る方も釣られる方も、意気が合う時がある。
●どんどん取り組むとマシになる、ということは、シンプルに生活でも取り組みそれで良しとする。そうなっていないのは、自分の思い込み、決め付けがあって、自分がやっていない事が見えていないからだと思う。
●「何もない・弱い・形だけ・ジャッジされる事を前提にやっていて、自分の前に立っていない・始まる前の状態でやれば良いのに、始まる時に違う状態になっている」と言われた。それぞれに言われた事と、自分自身で「今、こうなっているな」が一致していたので、言われた事全部がその通りだった。この空っぽ、中身の無い薄っぺらい自分って何なんだろう、、、、と。
●やってやろう、圧倒してやろうという意志を持ってしまうと、かえって「来ていません」「見ているだけ」「目に力がありすぎ」といわれた。
●木刀を構える相手にただ向かい合うだけで、「おやっ?」「あれっ?」と感じられる瞬間があり、その時に手を上げたら「今のは合っていたかも」「遅くはない」と言われた。目の前にいる相手をただ見る、目の前にいる相手に自分の中で感じた事に対して素直になればいいのか?
●普段から無意識でセーフモードになってしまう。アドバイスを頂いてから、早口言葉をやった後の状態を体で思い出して、相手の前に立ってみた。そうしたら「来てます」「ちゃんと見てくれて嬉しい」に変わって来た。自分の体の感覚的に一本真っ直ぐに芯が通って力みが抜けているかんじがした。
●3人組で向かい合いをした時、鏡で自分を見ている感じのままの方が余計な事はやらなくなるから良い、というので、やってみると確かにましだ。特に自分は「鏡を見ている時の顔は見た事ない顔だ。人といるとぼけてしまう」とOさんに言われた。人といる時、何か変な癖が付いているらしい。それが何なのか分からないが、日和見といおうか、ナアナアで事を済まそうという根性が顔に出ているのでは?まあ、こんなことは考えても仕方が無い。
●真剣って何だろう?私は今まで何かに真剣に取り組んだ事があるのだろうか?若い時は、感じるままに動けた事も、年月が経つ間に色んな思考に占拠されて、身動きがとれない自分が出来上がっている事に気付きました。
●相手と向かい合う時の自分のクセが「遠い」ということが、関わっているようで関わっていない現状の自分の人間付き合い、関わってもすぐに一歩引いてしまう。それが大多数の人に写り出る事を実感しました。ここで相手と向かい合うと書きたいけれど、その言葉を書いて片付けようとする、自分から抜け出し変わりたい。
●人からどう見えているのか、皆さんからいただいた言葉が同じでその通りだと思いました。言葉の無いコミュニケーションの難しさ。きっと子供は出来ているであろうことが、大人になるとこうも難しくなるのかと・・・・・
●指示されたからそのフリでいたら、ただの個体としての肉の塊。目の前の人を生モノ、何が起こるか分からない生モノとして見ていない事を、うっすらと感じ始めてきました。日野先生と向き合った時は、全てがビターっと新世界の感じだった。
●最初は分からなかったがアドバイスをいただいたり、鏡の中の自分を見てからの焦点の合う感じ、定まる感覚が少しずつ落ち着いてきた。
「セクション2声を届ける・目で聴く」
●「意識のレール」届けたい気持ちをレールに乗せて強く届ける。そのレール自体が、とてもおぼろげで無いもののように生きてきた。自分が周囲からどのように見られるのかの方に、意識の大部分をむけていて、自分が本当にどうしたいのかが抜け落ちていた。
●声を届けているつもり、ただ声を出しているだけだった。中々つかめなかった。難しい!たまに手を上げて貰えるが違いも分からなかった。
●自分が思っている「気持ち」は、自分自身が相手に届いたと言って貰いたいだけの、自分よがりの思いなのかもしれない。本当の気持ちは、届けるとか届けたいとか思ったり考えたりする以前に、感覚として瞬時に反応する事なのかもしれない。「おい」や「おはよう」を届けられない自分は単純に嫌だ。
●正面をきっちりとって、流れのまま相手に話すとスムーズに相手に入っていけたように感じました。
まだまだ気持ちが前に出ていない自分がいます。セーブしているわけでは無いのですが、もっともっと前に、遠慮せずにアクセル全開で行きます。色々な方と組む事で、フィードバックの違いを実感し、そこから自分自身がどのように相手に写っているのかを客観視すると、また違った気付きがありました。もっと色々な人と深く関わって、高めあえたらと思います。
●やはり、自分に挨拶されたり、自分に話をしに来てくれる、そして本当に話を聞いてくれている、挨拶を受け取ってくれていると感じる時は、なんて幸せな瞬間なのかと思う。何時も何時の時でも、出来る限りこの事を大切にして行こうと思う。
●「おはようを聴く」聴いているうちに思考が色々出て来て、ひたすら聴く事は出来なかった。逆の「おはようを言う」では、最初作業のようにやってしまった。「おはよう」を言う為にやっていた。相手と繋がって、ちゃんと届くように言う事。
●向い合って「オイ」と声を届ける?伝える?呼ぶ?をするも、相手に全く届かない。大きな声をだすから振り向いてくれるのじゃない。小さい声でも、小手先なんて全く届かない。正面向いても難しいけど、背中はもっと難しい。大声出しているだけで、向き合えてなくて、私は何時も、子供と向き合えていたのかを考える。日野先生が後ろから呼ぶ、あのパワーを見て、人が関わるって!このエネルギーって!と圧倒されました。
●2人組で組んだ女性の方が、先生のアドバイスを受けそのまま素直にアドバイス通りやったり、先生の手本を見た後にやったワークが良くなっていたのを見て、やはり素直さは大事なんだと感じました。
●「声を出す」という事が作業になってしまう。目を閉じて、色々な人の「オイ」という呼びかけを聞いていると「カッコ付けた声」というものがある事に気付きました。声にも、余計なものがついていたり、感情が無い声では、「私そのモノ」は相手に届かない。
●相手の背中から「オイ」は全然パワーが出せない。色々やって、最後の方でやっと頭に血が上る感じがあって「今までで一番マシ」と言われた。では、それまでは何をやっていたのか。気持ちなんて殆ど動いていなかった。
●声が出ない。絞れていない時、今まではやり方で解決しようとしてきた。でも今回は、とにかく「気持ち」を強くする事。やり方でその場を乗り切れても何の意味も無い。私は特に気持ちや意思が弱いから、それを強くする事が自分に一番必要な事。
●Aさんとの組みに戻って、背中に声を掛けると「最初は物に向かって言っている感じだったが、今は人として言われている感じがする」と言ってくれた。今回の「武禅」は、何だか求められる(?)精度というか細やかさが高いように感じる。初めての「武禅」の時のように、何もできず混乱している。
●相手とピタッと会ったとしても、声を発する前に意識が変わってしまう。「迷いがある」と指摘があり、躊躇せずにそのまま声を発した時は、少しましになっても、相手に届くかどうかを心配してしまう、私のクセを感じました。シャッフルして色々な方と初日から取り組めたのは良かったです。
●「声を届ける」日常生活で何気なくしている事が「届いていない」。「ブレる」「遠い」「どこに向けてる?」という事実。何気なくしている、何気なく過ごしている事が現れる。相手に届けようとすればするほど、「ブレて遠くなる」それでもそこにある「気持ち」は大事なのか分からなくなる。
●自分がどれほど相手に興味(エネルギー)を使わずに生きて来たか分かった。先生に「省エネ」と言われて、その通り!と思った。本気でエネルギーを使っていたら疲れるだろう。だからよく眠れるだろうと思う。きっと不眠が多いのは、皆省エネで生きているからだ。
●勝手にリミッターを決めて、これ以上は出来ないと決めつけていた事に、日野先生のお手本を見て気付いた。
「セクション3 気持ちを届ける・気持ちを聴く」
●Sさんとペアになった時に歌う前から聴く、しっかり聴いて貰っているから全部ゆだねる感じがした。距離がとてつもなく近く感じた。次に自分が聴く側になった時、相手と一定のスペース距離を保とうとしている事が、初めて分かった。もっと厚かましく、相手の胸に入っていく感じが必要だ。
人を聴くが全くできていないと気が付いた。
●声と身体と自分と相手と、シンプルになればなるほど関係が強くなれる。と言葉にすると頭で分かった気になるから、この後もただ感じる事に集中する。
●形を真似てるだけ、体感として届いていない、聴いていない、人と関わっていない。何となくワークをしている自分はそこにはいない自分になっている。
●「歌の歌い出し」に、自分がやろうとしているという言葉を頂き、今まで言われてこなかったので、新しい気付きになりました。また、相手の方の為にも、〇☓を直ぐに出さなければ駄目だと、改めて気付きました。
●「ナマムギ合戦」の後、皆のワークの変化が大きくあった。中途半端な生温い関係が一変して強化された。声も相手に届けやすくなり、相手の声も受け取りやすくなった事に現れた。ということは、日常もしっかした声でハッキリと相手に向かって声も気持ちも届ける事これがあれば社会でもしっかりと関係が出来ていく事が出来る。世の中の無人化、デジタル化、なんて悲しい世界かと思う。
●2人に歌を唄う。もう、これは難しすぎる。どれだけ意識を広げていくのか。でもすぐ、目を向けていない人から「届いていない」と手を上げられてしまう。あー私、子育てでも、こっちに手をかけてても、向こうをみているつもりでも、全然向けられて無かったことに気付く、、、遅いけど。
●「武禅」に来てからここだけでやれると思うのは無理やで、普段からやって無かったら絶対に出来ない。と組んだ方が教えてくれた事が、一番印象的でした。稽古の為の稽古ではなく、何かを稽古しただけで安心・満足するのではなく、普段生活の中で使えるように稽古していく。そんな当たり前の事を再確認しました。
●「両腕を振る相手を動かす」の説明で、先生が腕を振る人を動かしているのを見入ってしまいました。それは、先生は両腕を振る人に触れていなかったからです。それを見て、私は何かに動かされるという事をほとんど経験して来なかったというのが、頭に浮かびました。いつも「私が」と自分中心でやってきたし、それが「頑張るという事」だと思っていたから。その考えを変えるだけで、全ての状況がより深く楽しくなりそうな気がします。
●自分が勝手に作り出したものを、その人にぶつけても上手くいく筈がない。「人はそれぞれに違う」日野先生がずっと言い続けてくれた事だ。だから色んな人と組むのが大事なのだ。物凄く!と書いたが、要は「私が相手に」「気持ちが一番」それだけだ。
●上手くやろうとする自分の癖。相手に対して強く出れないのも、何も失いたくないと無意識で思ってしまうから。何かを選んだら、何かを失わなきゃいけない。その覚悟が自分にはない。
●自分勝手に動いている、相手と会っていない、と言われ続ける。正面向かい合いをしっかり感じ取るようにすると「さっきよりは悪くない」と言われた。相手とバチッと向き合う気持ちが、日頃から全くない事を実感した。
●「なまむぎ~~」集中している時、考える余裕が無い時の方が、届いているし聴いている。考える自分はどこかハスに構えている。これ位で良い、これで十分、やっている事が相手に伝わらないままで、自己満足してしまっている。その自己満足には誰も関わらないし、関われない。自己満足で良い、にしてしまっている自分は、自分の思い切りを出して相手にぶつかるのを怖れている。だから、その程度で終わらせている。人に関わる事をせずに苦しんでいるフリをして日常を繰り返す。分かって貰いたいとか、分かり合いたいとかを切り離して、向かい合える人になりたい。なりたいで終わらせようとする自分は、自分と向き合ってすらいない。
●「ナマムギ」をやった後は相手を捉えやすくなったが、それが長続きしない。うまくいった時のやり方を追ってしまうのを、もっと意識的にやめていかなければいけない。
●相手が変わると、正面向かい合いで相手に入っていく感覚も異なって来る。相手を感じた上で、それに合わさって自分が相手と向き合う事を感じ取っているのが「関係性」なのか?と思われた。いずれにしても、いかに相手との関係性を普段から疎かにしていたかを実感したので、しっかりと相手と向かい合う事を日常生活で、当たり前に出来るようにしていくべきだと思った。
「セクション4 相手に届ける・聴く」
●相手を聞く時の気持ちも大切だった。相手が自分と向き合ってないと感じられた時、自分から何とか相手と会うようにしていたが、相手が自分と向き合っていない状態だと、そもそも相手の歌が自分に届かない感じで聴く事が出来なかった。
●自分をぼんやりさせているものが何なのか、洗い出してそこをつぶしていきたい。
●全員での「ナマムギ合戦」をやると「相手に」という状態がどういう事なのかが体感的に確認できたので、そこを基準にジャッジをするようにしました。日常の中で「相手に」が無いと直ぐに感覚が薄れて「相手に」をただ知っているだけの状態になってしまう。
●分析しても仕方が無い。
●何を届けるのかが自分の中で整理されていないまま取り組んでいるので、上っ面の事しか出来ていかないのだろう。誰に届けるのか、届けたい気持ちがあるのか。でも他の人は私に歌っているのだろうか?自分は忖度していないだろうか?もしくは届いていると思い込んでいないだろうか?それって、自分に誠実であるとは言えない。自分に誠実であることが、私にとっての課題かもしれない。
●常に思考が邪魔をする。そうすると同調や相手と関係など出来ない。椅子にゆっくり導くのはもっと難しい。導けず、あ~!と諦めてしまう。それでも最後まで繋げていく事、諦めない事が本当に大事なんだ。人との関係性、これが日常での人との関係性にも、もろに出ていると思った。涙が出て来て仕方が無いけど届かない。どこまでも「人との関係性って!自分の気持ちを届けるって、聴くって、向かい合うって、全く出来てないんだ!」昨日夜、死んだように生きていると言っていたけど、そう言う事なんだ、、、
●7対1になり、皆に詰まっていたところAMちゃんが何かを思い出してか、今の胸の高まりかは分からないが、突然涙して歌い出した。彼女の胸の内がストレートに皆に伝わった。
●自分の失敗→歌に囚われて、正しくきれいに歌おうとして、相手にが飛んでしまった。形だけで皆と繋がろうとした。だから、皆と繋がる事が難しかった。
●歌をLIVEで歌う時に、相手がいるから成立する事を、自分で先に完結させてしまっている。
どんな仕事も、その時その時に相手とどのように関わるかはとても重要な中で、舞台に立つ事を仕事としている自分には必修である事。自己満足、自分の気持ち良さで線引きをするのは、甘えてしまっている事だと思う。芸術、本当かどうかを見抜く力が足りない。自分にも他人にも足りない。何でもOKは、自分にも他人にも甘え続けている。芸術という言葉を表現出来る迄、芸術に関わり続ける。
●ぶつけあいをした後だからか、全員の前に立った時、普段なら大人数の前はとても緊張するのに冷静に立てた。自分にとっては大きな進歩。
●先生のお手本で歌って貰った時、吸い付くようにつながり、感じて貰い続けているのが良く分かった。自分のとは、届ける聴くが全く違うかった。頭で考えて聴いている限りは妄想。届かないし聴けない。
「セクション5 相手に届けるⅢ・肩動かし」
●先生の身体に触れて肩動かしをやらせて頂いた時、自分が思っているよりも先生の体がとても繊細に動き、自分の手と身体が雑に動いている事に気付き驚いた。
●身体が「よし」というか「違う」と言うか、その身体の声も聴けていないくらい、現状と向き合えていない。自分自身の感性に甘えると、濁りぼやけた感覚になっていく。身体の限界、性能、感覚を先に決めて制限してしまっている。誰かに頼まれて制限しているわけでもないのに、何を制限してしまっているのだろう。そんな考えもまた制限になる。まだ何も出来ていない。相当な練習が必要だ。
●「肩を動かす」で、取られないように逆らっていたら、それは駄目だと言われました。稽古の本質を見失わない様にしなければ駄目だと思いました。
●ナマムギ合戦で、相手に本気でぶつかった時、その相手が適当にと言うか、流すというか正面から来なかったので、「絶対こいつには負けない」と思い、やり合っていくと、逃げるのでその相手に腹が立ちドンドンボルテージが上がっていきました。やっている最中は「この野郎、ふざけんな」と思っていたのですが、結果的にはその方にボルテージを引き出された事に気付きました。どんな相手であろうと諦めずに向き合う事の大切さを教えて貰いました。
●「身体で聴く」はHさんの探求心を強く感じ、組んでいて楽しく刺激を貰いました。先生が動かす側になった時にやっている事の内容が余りにも深く大きく、そこまで「相手を」感じ考えるのかと驚き、同時に私の「相手を」は、何て浅くてちっぽけなのかとハッとしました。
●日野先生が肩動かしをやられる側の時、以前は気持ち良さそうに見えたが、今回、手足の末端を観察したが操り人形のようにダラリとは垂れ下がってはおられなかった。やる側の時、ロクロを回す陶芸家のように、大きな弦楽器奏者のように静謐で華麗で優美でした。超越カッコ良かったです。
●休憩後、集中が散漫になり、歌がスタート出来ない、上手くいかない。☓を出されるのではと、つまらないことに注意が向く。余計出来なくなる。似たり寄ったりな事を繰り返して、パッと変える事が出来なかった。相手が思った通りに、期待通りにうごいてくれず、そんな当たり前の事に腹を立て、自分の今やっている事から逃げていく子供の様なパターンが浮き彫りになった。何にもならない、どこにも向かわない。
●前のレポートに「失敗するぞ!」と書いたのに、失敗してめげるのはなんなんだ。色々原因はあるにせよ、まあ癖だ。
●人数が増えた分だけ自分の気持ちを強く持って、「皆に届ける」に集中した。そうしたら不安や恐れが無くなって見え方が明るくなり、皆のそれぞれの顔が飛び込んで来た感じがした。すると、皆がちゃんと私を聴こうとしてくれるのを感じ「届けたい」という気持ちがより強くなった。
「セクション6 ピラミッド」
●前進して来る相手に本気で「止まれ!」と強い気持ちで言った時は、相手も止まる感じを受けたと言ってくれたので、余計な事は何も思わず、ただその気持ちを伝える事に専念する事を、日頃からやっていかなければ、周りには何も自分の気持ちが伝わらない事になってしまう。
●ピラミッドでSさんが、一発で手を上げてくれた。しばらくジーンとしてしまった。これが感動なら、普段感動する事無く生きている、それは人と関係しないという事だ。本気になって無いし、ガムシャラにもなってないからだ。
●ピラミッドでSさんを呼ぶ、をやったら手が上がった。私としては、声を出し終わった瞬間に、声が拡散したと感じたが、「Sさんを」という意志で手を上げて貰えたのだと思いました。この3日間で、集まった方達とちゃんと関われば関わる程に、このピラミッドは面白くなると思いました。
●ピラミッドでは、「こいつの手を絶対上げさせる」という気持ちで臨んだ。後ろから正面を取り、そいつだけに呼びかける。そうすると、同時に他の奴も手を上げた。その時に無性に腹が立った。相手に対して、自分が一生懸命であるから感情が湧き上がって来ることを感じた。日野先生も一生懸命だから感情が豊かなのだろう。自分も絶対にそうなる。
●今まで「こうだ」と思っていた事を変えて見る事、別の事を試してみる事の大事さを知りました。
●「ピラミッド」8人中の1人を決めておいて呼ぶ。その後、自分の番の時は、自分を落ち着かせていく途中、誰を呼ぶかを決めて準備し、集中してその人をめがけて「オイ!」と届けた。一度で届いたのは嬉しかったあっ、私は私にシンプルに向き合っていない、私の人生なのに。
●私にとっては恐怖のピラミッドだが、いつもよりは何故か落ち着いていた。自分の番になった時は、的の人を順々に変えていった。2~3回ずつ、一人の人を射てみたが、駄目の連続でした。あの人なら大丈夫かもしれないと思ってやってみましたが、ことごとく駄目で、結局最後の人がようやく手を上げてくれました。それでも、焦る事なく落ち着いていました。
●ピラミッドで、数回目に狙った人が手を上げてくれ「よし!」と喜んだが、隣の方も手を上げ駄目になる事が4回続きました。苦しくなったが、的を絞り込み届けると反応して貰えました。「何が何でもいったる!」「気持ち」これしかないと実感しました。
●「声を届けるワーク」ワークとして取り組んでしまう癖、本当に相手に声を届けるって思えていない。ためらい、ちゅうちょ、本当の身体になっていない。本当にという言葉を、本当じゃない時に思い、使い過ぎてしまっているから、本当そのものがボヤけてしまっている。
●届くにはまだまだ弱い。真剣、本気はまだまだ遠いという事が分かる。これが初日に皆さんが「打ちのめされる」と言っていたことかな?私はそれが楽しいと感じてる。今までの日常生活が、どれほど情報に左右されているか、街中でどう生きればそこから離れられるか、なるべく早めに解決したい。
●ピラミッドで「この人に届け」の気持ちだけに集中出来ていたのか、自分が狙っていた相手の反応が良かったのか、2回目で手を上げてくれた。まずは、気持ちが大切だと感じた。ほんの少しでも何か別の事が自分の中にあると駄目になるのは、この「武禅」で痛感した。
相手に届ける、相手を聴く、の気持ちがなければ自分勝手になる。相手と自分が合わさるようにならなければ、歌い合う時に歌が混ざらずぶつかり合いになる。「相手」と「自分の気持ち」を日々の生活で意識して、自分を変えていきたい、いや変えてやる!
「セクション7 気持ちが届く・同調する」
●相手があって自分もある、常に意識して自然に出来るようになりたい。果てしない稽古になるが。18人全員の気持ちが一つになった感じがした。一人一人が全力で気持ちを出し切って、ぶつかり合うわけでもなく混じり合った感じだった。歌っていて感動し涙が出た。
初日よりも、自分が木刀を構えた時も、木刀を持つ相手を見る時も、相手が来ている事、相手を見ている事を感じられた気がした。いかに初日は、自分もいなければ、相手を感じられなかったかと思う。
できないことばかりだったが、「武禅」を通じて気付いた事、絶対無駄にする事無く生活していくぞ
●2人で同時に歌う→昨日歌った時は、お互いが探りながら聴いている感じがして、お互いに集中出来ずギクシャクしていた。今日は向かい合って歌っている時、ただただ嬉しくて喜びで涙が溢れた。こんなに一生懸命自分と幹あってくれる場を本当に有難いと思った。
自分に囚われている事が、いかに周りに閉鎖的な影響を与えてしまうのかと思う。
毎回そうだけれど、今回は特にあたたかく真っ直ぐな方達に向かい合って頂いた。自分が以前よりも力まなくなったのは、周りの方達のお陰だし、自分も皆にもと、繊細にやわらかく暖かく接していけるようになりたい。「関係性」ということを一番柔らかく感じられた3日間でした。
●円陣での歌。体の中が熱くなって頭がカーッとする感じ。これまでのセクションでも、ましな時はそんな感じで、どんな風にやったか、後から聞かれてもよく分からん。
それが、気持ちが動いたという事で、組んでいる中でどういう理由があってそうなったかも、よく分からないが、思い返すと、相手からのアドバイス、言葉に反応して気持ちが動いた。
それ以外、自分勝手に気持ちを動かそうとするとダメだった。他人が僕に言葉や思いをかけてくれるから気持ちが動くのだ。
それからこちらが、必死でないと絶対動かないのだ。
●皆さんにお礼を伝え合う。涙が出る。本当に有難いことだと、これまでで一番思った。当たり前の事だけど、当たり前ではない。人と人、全力で向き合う他の人がいるからこそだ。今回参加する為にショートスティに入っている母に、帰ったら「ありがとうございました」と伝えよう。
●ピラミッドは困難だとか、複雑だとか思ってしまうと、必ず思い通りの98%は困難か複雑になる。素直に思い切り直球を投げようとすると、そのようにはならない。そんなジレンマの中、開き直るとうまい具合になる。再現したくなるのだが、そのタイミングは何時も異なる。当たり前だが、時は流れているのだから心も体も変化・変容しています。
ありがとうございました。完全燃焼しました。
●相手に助けられて声が出る。ボリュームも変化する。思わぬところで、声と声が波動になって響き合う、を感じました。全員で歌うと、より複雑な波動で、それが少しずつまとまって、何時の間にかロックを歌っている事になっていました。歌い終わった瞬間の一体感、言葉はいらないと思いました。
●自分をもう一度見つめ直す必要がある。今回ほど、参加していた皆に有難さを感じた事はない。日野先生がいつも仰っている事だが、皆がいなければ今回のような体験も感動も無い。最後のSさんの言葉で、「武禅」という場が有限だという事を改めて感じた。「毎回最後かもしれないと思って参加している」というSさんのように、自分はそこまでの覚悟を持って参加しているのか、日常を過ごしているのか、最後にそれを感じました。
●2人で向かい合い歌うワークで、初めて自分の声じゃないような声を経験しました。もしかしたら、これが混じり合う事なのか?目で聴くを今までの経験や、先生、皆さんのアドバイス等を受け、自分なりの解釈でやれるだけやった結果そうなりました。ただただそれをやる、思いや方法論や思考はそこには要らない。これは色々な事に当てはまると感じます。
●真剣に、ただただ真剣に向かい合った。最後らへんから相手と上手く循環出来なくて、、、、それが今の私なのだ。心から真剣に取り組む事をしてなかった私は、真剣に向かい合って、相手の声を聞く為にどうするか、真剣にきいて自分の声を届けるのを、ただ真剣に取り組むから、その相手と関係性が出来るのであって、それをしなければ関係は作れない。これからの人生に、私は私に真剣に向かい合う。
●皆で歌った最後では、相手の表情も手も腕も解放され、共に飛び上がりジャンプ回転までした。心が開かれ、共にのびのびジャンプし合える関係は最高だ。日々の暮らしの中でも、相手を大切にし心開かれる関係にまで持っていきたい。
●自分を知ったり、自分を探求するには他人が大事です。相手との関係性の中に身を置かないと、まず気付く事は殆どないと思います。人は誰かに関わる事が大事です。親睦会は、深夜遅くまで色々なお話が飛び回って、今回は眠くても楽しく中に入って参加出来ました。自分が皆の外にいて頭だけで理解する事より、中に入って味わう方がより面白くて理解を深めます。
●それぞれの歌声が曲が違ってもぶつからずに合わさっていくのを、美しいと思いました。個人個人がしっかり存在している。そしてぶつからない静かな世界でした。人間て、凄いんだなと改めて感じた「武禅」でした。
●暖かい。その「時」がもの凄く暖かかった。聴こえて来る歌声が、相手の存在が、そこにその時に在る事が、道場の奥底から暖かかった。「武禅」の2泊3日の稽古があった事を、このレポートを書きながら心の底から有難いと感じます。
積み上げていく事と、掘り下げていく事。とことん続けていかないと見付けていく事の出来ない事。無駄にしてはいけない事と、無駄な自分一人の考え、殻に閉じこもっては何も始まらない。よしよっしゃ
おいっ
こらっ
挨拶一つ出来ずに何をゴチャゴチャしゃべっとるんだ。そんなゴチャゴチャ自分の考えの小さな殻に閉じこもっているなら、自分で穴を掘って入ってしまえ
そこに、その時に在る事、いる人と関係せずに、自分の考えに制御されるな
●最後の「こんにちは!」の時、何をすれば?と脳が働いて少しブレた。全身全霊であの一瞬に気持ちをそそげなかった事に後悔している。
初日と写真を比べると明らかに目が違うけれど、皆さんを感じさせて貰うと、自分はもっともっと真剣に向かい合えるんだろうと感じた。
今までの生活の中で、人間として最も濃い生命という魂を使った時間でした。まだこれからもっともっと振り返って感じられる事気付きがあると想います。それを噛みしめて生活、日常を過ごしたい。本当にありがとうございました!
●昨夜も3時迄、話し込んで起きていたけれど、2日目3日目と、どんどん身体が柔らかくなっている事に驚いた。普段どれだけいらん事ばかりをやっているのかに気付いた。
オイ!をやっていても、いらん事ばかり考えて、目の前の人を見ていなかった事に唖然としました。


106回武禅一の行感想文2023-4
今年も春のゴールデンウイークの前半に「武禅一の行・春」を行った。※4月28,29,30日
前回も参加していた中国人の女性が、感想文の中に「今回、参加者全体のレベルは、去年の秋より高いと感じました」と書いていました。
確かにそうだったかもしれません。
中身が相当濃い感じがしたからです。
それは、目的が明確な人が多数いたから、そして、その人達に引っ張られて良くなったのです。
良くなっていくと「良い場」が発生し、それに連られて皆も熱く濃くなっていきます。
その意味で、「場」とは不思議なもので、生モノだと何時も思います。
参加者が半分以上同じ時があるのですが、だからといって同じような濃厚な場になるとは限らないからです。
昨今、言える事は「独りぼっち」の人が間違いなく増えています。
しかし、その事を自覚していないのが問題なのです。
私達は、人間社会でしか生きる事が出来ないのです。
にも拘らず、それは一体何を意味するのかを考えない人が大多数になっているのが、現在の日本です。
そんな中で、自分の人生を深く見つめ貴重な気付きをした人がいたので、その一部を紹介します。
47歳の誕生日は、日野先生の山籠り合宿「武禅」の最終日でした。
父が亡くなり、ここ数年の自分をぶつけるつもりで、5年ぶりに参加して参りました。
1人になったとき、ふとこれだけ真剣に考えて向き合ってくれる人の有り難さが胸に溢れました。
同時に、父がどれだけの気持ちで私に向き合ってくれていたのか、どれだけの人が私を支えてくれてきたのか、自分しか見えなかった自分が浮かんきて、悔しくて涙が溢れました。
死んだら、もうケンカすることも、謝ることも、笑い合うこともできないのだから。。
ずっと外側に答えがあると思い込んでおりました。その答えが「自分」だと勘違いしておりました。
違う!自らの内側にこそ、本当の力がある。
その「自分」とは目の前にいる人の(命)が教えてくれている、と思うようになりました。
「人は、人によりて、人になる」最後に先生がお話してくれた言葉です。
ここだけ切り取ると意味だけになってしまいますが、今の自分にとって、とても突き刺さった言葉でした。「人」なんです、、。
これからも、人に揉まれて、悩んで、笑って泣いて、生きていきます。どうしようもない自分なんですが、本当に導いていただいている師匠との出会いは、恵まれています。
「武禅」では、2泊3日、深夜の懇親会まで、人と真剣に向かい合い、声を届け聴きます。
その事が、それぞれの人の持つ課題、あるいは問題に対して化学変化を起こさせるのです。
決して「習う」のではなく、「教わる」のでもなく、もちろん「理解」するのではなく、自分の感性のまま獲得、体感、そして、その場で実践できなければ価値も意味も無い、本当に人生そのものが「武禅一の行」です。
最年長は80歳の女性です。
その女性をして「先生に指摘して頂いた事が、とてもとても大きかった。80年間引きずって来た生き方を、大きく修正するキッカケを頂きました。」と死ぬまで成長していく気構えを持っているのです。
それこそが「生きているから」です。
106回「武禅」を終え、一呼吸してから感想をくれました。
日野先生、和子先生、先日は武禅で大変お世話になりました。
ありがとうございました。
真剣に向き合っていただいた皆様に感謝です。声を届ける、夜の自主練の時、長い時間なかなか上手くいかないので、休憩しようとした、私に対してTさんが「もうええの?」と言われたので、「ええわけないがな、Tさん」と届けても届けても「全然反応せーへんやないか、くそ~」「人に鈍いとかゆうてきて、おっさんもにぶいがな、なめてんのか、くそったれ」と「反応せ~や、おっさん、こら~」心の中で叫びながら、届けました。
「反応せーや、おっさん、おら~」で届けた時、頷いてもらいました。
とれるまで終わらない、野球のノックのようで、昔を思い出しました。
Tさんや真剣に向き合ってくださった方々がいたから、どんどん突っ込んでいけました。
「くっそ~おら~」の気持ちでずっといったります。
【今しかないその瞬間にやる】
私につき合っていただいた、皆様に感謝します。
三日間を通して、和子先生の料理が非常に美味しくて、楽しみで、早く飯こいと思っておりました。
最高に美味しい料理、ものすごい量の仕込み、準備・後片付けなど、ありがとうございました。
武禅を通して、血のつながりを超えた兄弟みたいになってくれる方が沢山いて心が躍りました。
遠い昔を思い出します。
忘れていたものが蘇り、やっぱりこの感じが良いな。
そんなふうに関わってくれる方々が沢山いて、めちゃくちゃありがたかったです。
夜中の稽古の時の先生のマイウエイ 最高でした。
涙があふれでて、心が震えました。痺れました。
自分も60歳すぎたときに、カッコよくマイウエイ歌えるように生きたいと思いました。
武禅後、患者さんが、頻繁に悩みを相談しに来るようになるといった変化もあります。
治療所の玄関で一生懸命聴いていたら、話始める前に、涙を流して話をしてくださり、「聴いてもらったら身体も楽になりました。ありがとうございました。」と言って、施術は受けずに、話だけして帰って行かれることもあります。
完全無料の目で聴くカウンセリング状態です。
武禅での経験を元に、自分の周りの方々に良い影響を与える存在となり、人々に還元していこうと思います。
今日、先生がブログでおっしゃっていたように、よくよく考えていたら野球をしていた時、私もリミッターなんて言葉は持っていなかったですし、知らなかったです。
リミッターがかかっているから、燃え上がれないのではなくて、情熱を向ける対象があるかないか、ただそれだけの事でした。
自分にはリミッターがかかっている。だから燃え上がれない自分自身がいる、というような思考をしてかってに頭で自分を作っていました。とてもややこしいことをしていた事に気づけました。
今回参加者のレポートから抜粋して掲載します。
セクションは、ここに入っていない自主練も含めて9セクションあります。
同じ事をしているのですが、人それぞれ解釈や理解度、何よりも自分が抱える問題と置き換えて臨むので、同じ体験を誰もしていないのです。
つまり、人はそれぞれに同じものを見ていないし感じていないのです。
そんな事も頭に置きながら感想を読めば、「本当に人はそれぞれに違う」が明確になるとおもいます。
「セクション1 真剣向かい合い」
●本気で向き合うのが怖い。
それは自分を見透かされるのが嫌だから、省エネで何時も人に接したり、普段生活して生きている。
テクニックややり方を身に付けて何となく表面的にやり過ごしている。
まずは、自分が人と向き合えていない、人をしっかりと見ていない、その事をしっかりと受け止めます。
●約5年ぶりの「真剣向かい合い」日野先生の顔が迫って来る様に感じた。
以前は「自分がどうするか」ばかり考えていて、相手の事など何も見ていなかったです。
●「いない」「遠い」「近づくのを恐れている」と、ほぼ言われ続けておりました。
また「関わろうとしていない」とも、何度も言われたのですが、日々の仕事や出来事の中で、最近特に感じている不毛感や疲れは、この自分の遠くから見物しているような、いつもお客のようにその場限りで通り過ぎていた事から来るのではないかと思いました。
特に「遠い」は、今に始まった事ではないので、直ぐに見破られるものなんだなと驚きでした。
他人どころか自分とも繋がっていないのかと、向き合いをしながら納得していました。
自分とも繋がっていない、カラをかぶっていたらそこにいないのも当然ですし、内から出て来るものが無いのにも納得していた、そんな時間でした。まだ始まったばかりなのですが、「これは、来なきゃ」と思ったはずだと思いました。
●「4人の方の前に立つ」では、Sさんに言われた事がズバリそのものでした。
「上手くやろうとしている」その時点で頭で何とかしようとしていると分かりました。
しかし、次は止めようとしようと、頭が働いていて、やはり、頭が動いていました。
ただ、前に立って向かい合うだけなのに、そこも動かされる自分がいる。
影響を受けている事は認識できるので、この3日間でどこまで、結果、頭がやらないところへどれだけアプローチできるのか、やってみようと思います。
●「正面向い合い」で、「目の前にあなたはいないです」「ただ眺めているだけ」「遠い」「私の事を見ていない」等々の言葉を皆様に言われました。何も考えずに向かい合ってみた時、数名の方に「前にいるけど遠い」「もっとこれます」等の言葉に変化していったが、まだまだ駄目だ。
写真を撮って見た。自分の無様な恰好に驚きました。
これではいかん。なんとかせなあかん。
●最初は、相手の事を観察する、感じる、ありのまま受け入れる、意識を同調させる事が必要と思った。
しかし、それは受け身でありどこか他人事になってしまっている状態ではなかったか。
相互の関係性が重要という事ではないか。
そこで、戦っている、相手が攻撃してくると想定して、こちらも向かって行く気になってやってみたが、そうすると、相手はそれを受け取ってくれない。空回りをしている。
自分の一人よがりになっていたような気もした。
これは練習すれば、だんだんコツが掴めてくるような経験や技術の側面も少なくない。
それはつまり、相手と真剣に向かい合う闘争の場面に身を置くという経験が、自分は少ないという事ではないかと思う。
●相手への興味=感情?、相手に興味を持てない、感情が発動しない自分にもっと危機感を持たなければいけないと感じた。
写真に映っている自分は「ただの呑気な何もしていない自分」で愕然とした。
●「正面向い合い」で、どん底に落ちる自分がいて良かった。
この気持ち悪い幻想が出てきた。
素直、今、今だけなのに。気持ちが動くと(向かい合いで)見ていて遠くなるのに気が付いた。
●人と向き合う前提が必要なのに、相手に与えている印象は「薄い」「無い」結果が返って来た。
有ると無いのちがいは言語化出来ないけれど、確かにそう感じた。
実際に写真を撮る事で、自分の印象と相手・他者が教えて下さった結果が一致していて、自分自身は「やっているつもりになっている」だけだという事に改めて認識出来ました。
●感想で言われたのは「方法でやろうとしている」「上手くやろうとしている」「弱い感じ」何度やっても大人しい自分、おさまっている自分になってしまう。
強く向かい会おうとしても、顔や上半身にきんちょうが走り、強張ってしまい相手と関係する入り口にさえ立っていないと感じた。
●「真剣向かい合い」で、先生と向かい合った時、先生は全くブレずに真っ直ぐに、私に向かい続けている。
その感じにたじろいで、頭の中がざわつき身体がゆらゆら定まらない。
集中力の弱さも感じました。自分が木刀を持つ側になると、目の前の人が私を見ずに、ただ立っているだけなのが分かりました。
その逆の時は、「腰が引けている」「弱い」「もっと来て欲しい」等のコメントを貰いました。
Tさんには「何か護っている感じ」とコメントを貰った時に、またカッコを付けている部分があると思った。
●初めて「武禅」に参加して、何をやればいいかと迷いました。
相手と向き合い、何を感じたか、相手にどう感じたかの実習で、「あなたはここにいない」と言われ、理解できませんでした。
「何故、何故、何故」と考えても分からない。
普通なら分かったフリをしてしまうのですが、この機会にフリをしない自分になりたいとおもいました。
今は、やるだけと思い、一生懸命やります。私自身、他の人に関心があまりないので、きちんと対峙して良い関係を作れるようにしたいと思います。
●気持ちだけが先走りすぎ、やるべきことを見失っている。現在の私の形に似ていると感じた。
自分一人がやっている事に酔いしれて周りが見えていない。
全てにおいて、今の私は表面上だけのものであると、今のセッションで感じた。
ここを何とかしないと、このままスキーの様に滑り降りる人生になってしまうと感じた。何をどうしたら良いのか?何とかしなきゃ
「セクション2 相手に届ける」
●脳内でイメージしている自分と、写真や動画に映った自分のギャップに驚いた。
自分自身の為に聴くが出来ていないと感じた。
自分の身体を観る事、聴く事、気づく事の至らなさに気がついた。
脳内のイメージと実際の自分が一致すると、すんなり行く事が鏡を使ったワーク(ヒント)で感じた。
●ちゃんと聞くとは、相手の言葉を正確に理解する事だけではないらしい。
筒の様にトンネルの様に通す透すだけらしい。分からない自分がいる。
口から入った食べ物のように、ただ排泄作用に任せれば良いのだろうか?消化吸収は考えて出来るものでは無いのだから。
●Sさんと組んで「背中側からオイ、こんにちはと呼びかける」Sさんは、少しの違和感もフィードバックを直ぐにしてくれるから稽古になる。
自分が意識できていない力みや、わざとらしさをその場で指摘してくれる。
言われてみると、何か変わった感じがある。
そこで考え込むよりもどんどんやった方が良いと言ってくれたのも良かった。
まだ曖昧な体感を頼りに頭で考えるよりも、ジャッジを繰り返して、とにかく体感の数を熟して少しでも曖昧さを無くしていく方が先だ。
その片の感覚も無いのに、考え過ぎだ。
写真に写った自分の無表情な顔、あんな顔を家や職場で何時も晒していると思うと嫌気がさす、情けなくなる。
●今のセクションで、しっかりと声を前に出し思いを届ける事は重要だと感じた。写真を見てビックリした。
顔が恐ろしすぎる真面目過ぎる
鏡を見た後は、少し肩の力が抜けてマシになった。
自分の姿がいかに自分の感じ入るものと違っているのが分かった。
●聞いている風なおっさん、分かってる風なおっさん、自分が気持ち良くなる為に歌うおっさん。
全てが自分だけの世界でやっている。
声が伝わらないと感じたら、直ぐ諦めてしまって。
そうすると、どんどん自分一人だけで声を出しているのが強くなり、相手がいなくなった。普段から出来なかったら直ぐに諦めてしまって、出来る風でごまかしている自分に、改めて気付いた。
●「こんにちは」ではアナウンサーのような話し方になりやすく、言うにも聞くにも自分の硬さに驚きました。
●「こんにちは」を伝えるでは、やろうと準備してやると不自然そのものになるのが、自分でも良く分かった。
自然にやろうとすると、余計に不自然になる。
またなんとか自然に出たものだと、弱くて届かない。
この繰り返しの中で何か気付けるものが出てくるといいのですが。
●相手に届けようとすると、わざとらしくなってしまう。
自分としてはちゃんとやっているつもりが、相手にとっては違和感になっていた。
「一生懸命」と思うと、目が力む。
私がやっている「ちゃんとやる」や「一生懸命」は、私が思っているだけ。それではない事が分かりました。
鏡に映っている自分にコンニチワは、良かった。
自分に向かってだと脳内は静か。
他人に向かってやると、無意識的に壁を作っている。
何故か?相手に対して持つ、自分勝手な固定観念が壁となっているのか?
●「こんにちは」の顔を動画で見て、これじゃダメだと思う。
気持ち悪いし、「こんにちは」も言えていない。
その後、鏡に向かって「こんにちは」を練習した。これなら毎日練習できる。
●相手に届けるという行為をしている風になっている事が、動画を通して見えました。
何故できないのか?自分では気づけなかったのですが、鏡を通して行った時、自分の姿に違和感と距離を感じました。
●今まで、お相手に届けると思っても、その相手は単なる対象でしかなくて、その個人、唯一の人ではなかったと思い当たる。
何と失礼だったのだろう。顔無しを相手にしていたみたいで。
そして、それは自分自身ものっぺらぼうなのだと思った。
●鏡を見て挨拶を練習した時に、こんな自分から挨拶されたくないと思った。
相手に媚びる感じで、気に入られようとしている自分が映ったから。
●とにかく自分から何かを出すのも、相手を聞くのももの凄く恐怖がある。
その恐怖よりも大きな欲求や相手への関心を持つ事が、恐怖を乗り越える第一歩だと思った。
あと、「出来ないという前提でやっている」とも言われた。
多分、「出来ない自分」でいる事の方が楽だから、努力や工夫をしないですむから。
そういう思考になってしまっているのだと思う。
怠け者の自分が自分を弱くしているとも思った。
写真の自分は、相変わらず訳の分からない顔をしていて、そんな顔で生きている事が、とても恥ずかしいし残念に思った。
●「声を届けるワーク」後ろ向きの人に「オイ」と届ける。
的を絞って叫んだ時と、そうでない時との違いに気付いた。
●的を絞っていない時は、声が大きく広がって、相手に向かっていかないが。的を絞ると、ポンと届いたような時もあったが、毎回はそうはならない。やはり気持ちが足りていないと届かない事を改めて実感しました。


「セクション4 相手に届ける・聴く」
●人にアドバイスをして、少しでも変わってくれるのが嬉しい。
そうやって人の表情が変わったら、「ああ良かったなぁ」と思う。
人の事を気にしている場合か、と突っ込まれそうだが、全ては相互関係だ、という事を思って何でも全力でやろう。
●「委ねることと、流れに乗るのは全く違う」というお話を頂き、自分軸のブレに気付いた。
自分の人生も同様で、自分軸と流れに乗る事が掛け算された時は、物事が進みやすい。
単に相手に委ねてしまうと、結果が出せなくなる。「武禅」の「禅」に触れた気がした。
●天神様の細道じゃにて、又も迷子になってしまった。迷えば迷う程に、けど底なし沼ではなさそうだ。
今回も疲れるまで、とことん疲れてみよう。脳も体も神経も、普段意識しないところも。
●先生に指摘して頂いた事が、とてもとても大きかった。
80年間引きずって来た生き方を、大きく修正するキッカケを頂きました。
毎回ゼロに戻る。毎回過去は消去して新たに出発、ということを意識して「聴く・届ける」をTさんとさせて頂きました。
Tさんにしっかり受け取って頂いたり、届けて貰ったり余韻が残る程、身体が微妙に振動していました。
●最後に鏡の前で練習をしてから歌を聞いた時、今までで一番聞けている感じがした。
その時は、自分も相手も気持ちいい感じがした。やっぱり人の話を聴きたい人にしっかりと伝えたい
●前日の自主稽古で、自分は相手によってまるで態度が変わると指摘を受けた。
先生のお話で、「自分のバイアスに気付くこと、人を見るフィルターに気付くこと、最初はオープンマインドでなければいけない」というお話があって、正にそこに気付くことが出来た。
ずっと前から「何となく」気付いていて、放置していた問題だとも気付いた。
その相手が気に入らない訳ではない。何かくだらない小さな事が気になって、それが態度に現われてしまっているという事だ。
職場でそういう態度をとってしまっているのだと思う。恥ずかしくてならない。
●一つ一つの稽古をリセットして0から行う。
過去は引き摺らない事。声が相手に吸収されてゆくのと、跳ね返さているのを明確に感じた。
関係性が大切。相手に届けようという、強い気持ちを忘れがちになっている日常。
何を伝えたいのか、ハッキリと思いを込めて。
●自分を録られた動画を見て、客観的に見ると全くできていない、一人でやっている自分がもろに見えて、こんなにも出来ていないのかという事を本当に思った。
小手先でやり方を少し変えて、本当に思い切りやるのをビビッている。
何時も人の顔色を見て、無理くり嫌われないように人に接している。
●相手と関係するのに、自分がやることばかり。
相手にとってどうなのか、よくよく注意しなければ独りよがりに、やり続けるだけだ。
相手に届けるでは、動画をみて、「もっとこうしてみよう」と形に注意がいくと、途端に相手から離れてしまうのが動画でも分かった。
●相手に届ける際、入り口がとても大切で、入り口を失敗すると流れて行かない。
自分がやっている事に気付かない自分がいて、本当に鈍いなと感じています。
●「腕ふり」で組んだ相手の人が上手くなっていくのが嬉しかった。
●朝の「相手の流れに乗る」も「とおりゃんせ」も、今まで「相手に委ねる」いう方向でやっていたが、先生からコメントを頂いて、相手の流れに乗るけど、主体はあくまでも自分と思ってやってみたら、お互いに少し影響を与えられるようになった。
今まで、どこか相手任せでやってしまっていたと気付いた。
それが普段から色んな場面で出てしまって、雑な行動を取ってしまっていたように思う。
●スワイショウの動きに合わせて入る。リズムの流れが途切れる時に、人は動かない事を改めて感じた。相手との関係があって動かされた身体は、相手も動かされる身体の状態になっている事を実感できました。
●流れに乗る、真っ直ぐ届けるがキーワード。自分がやってみた事と、動画でのズレを確認できました。
届ける前提でも、相手への配慮と準備が必要で、それがないと声が衝突し流れに滞りが生じてしまう。
出す前に相手を感じ、それからがスタートである事。
身を持って「今、出来ていない」を実感する事が、自分をクリアにする唯一の手掛かりなのではないか?という事を実感しました。
「セクション5 相手に届けるⅢ」
●円になっての早口言葉は強烈だった。
自分の全てのエネルギーが外に飛び出した感じがあり、凄く気持ちが良かった。
普段の生活の中では、感情を内に向け、他人に対して表す事が少ない。今日からはこれを改めようと思う。
まずは、子供達には全力で伝えよう。
●ずっと先生が言ってくれていた「届いたか、届いてないか」それを自分でややこしくしている。
ややこしく色々と考えて、相手に届けるというシンプルな事をやろうとしていない。
●早口言葉で、相手に根負けする時があった。
自分は逃げてるのか、もうええわと諦めているのか、何かわからないけど、パワーを感じる人は年齢に関係なく、凄いと思う。
●早口言葉では、本気で相手と対峙する事が出来た。空手の練習でもここまで本気でぶつかる事はない。
「歌を届ける・聴く」理屈で考えると、声の出し方や表情、ボディランゲージを手段として用いてミラーニューロンを持続することを技術として身に付けるプロセスかと思うが、ではどうすべきなのか、何が良くて何が駄目なのか言語化が難しい。
出来なくて当然であると同時に「ただ本気になってやればいい」ということではないかと感じた。
また、それは自分がいかに日々あらゆる物事に注意を向けず、関係性を結ばずに生きているか、ということに繋がる。
というか、そこが人間と動物の違いであるように思う。
●目線は舐めるように動かす。目だけを動かさない。
一人ずつ指を指して確認すると意識しやすかった。
色々と試していく事は出来たが、そこに私の気持ちがまだまだ弱く感じる。
「日常でも武禅でやった事を活かします」と言ってきたが、そこが全然弱い。量が少ない。練ってもいないから、それがそのまま気持ちの弱さになっている。全く足りていない自分を感じます。
●「2人の歌を聴く」をやってみて、2人に集中して意識を向けると、少し聴けるようになったが、多人数になると意識を広げられず届けられない。
端っこの人には届きにくくなり、次にそこを意識すると逆が無くなったりしました。
●今回のセクションはTさんと同じグループになった。
的確なアドバイスは、気付きに繋がる。
「目に力が入っている」そのアドバイスと、Tさんの目の表情を見て、自分の過ちに気が付いた。「目で聴く」その事を失念していた。
目で聴くに変えた途端OKを貰える事が多くなった。大事な事、忘れてはならない。
●自分自身に疑問が持てた事が今回の気付きだった。
●9人から19人になった時は、皆の圧が強くて一気に緊張が走った。
2回目やる前に19人と対峙するつもりで、気持ちを切り替えたけど、直ぐに☓を出されてしまった。
自分に足りないのは、相手を聞く周り(全体を捉える)、多人数になってもそこに立ち向かって直面する事。
その為に必要なのは、成功体験ではなく失敗を沢山する事。
いちいちへこたれずに、直ぐに切り替えて挑戦し続ける事。
●私の「一生懸命」は「独りよがり」、「思い切りよく」は「カッコ付け」、「真剣」は「構えてしまう」だ。言葉と私のやっている事の実際が全く違う事を感じました。
●対10人の歌では、全身に力が入り過ぎていたけれど、思いを前面に出せて気持ち良かった。
只、20人と倍になった時に、全体を掴む感覚が取れず、少し気持ちが引いてしまった。かなり残念!次回こそ悔しい
他のメンバーが前に立った段階で、なんとなく違うだろうというのを感じるようになった。
「セクション6 身体で聴く」
●手の平と手の平の接触、支配と被支配。絶妙な駆け引き、スリリングでもあり、悔しくもなり、優雅なダンスに見えて、内情は大変な心も体も。
セクション6までくると、整理したいが、脳はオーバーヒート状態になった。私的には正常で良好だと判断しています。
●「体験できない」という日野先生の言葉が脳内で繰り返された。繰り返し繰り返し「何でだろう?」と、取り組むことでしかないと思った。
自分の意識を持つ事と、自分が動かそうとする事はまるで違う。
何か相手をコントロールしようとするのではない、「そうなってしまう」という事は一体何なのか?問い続けたいと思った。
●今までのセクションより、「出来ない」という事を受け入れる事が出来た。
今までは出来なかった後、ごちゃごちゃ聞いていったが、今回は「事実出来なかった」という事だけを受け止める事が出来た。
色々な自分に気付けるのは、やっぱり良い普段同じ事ばかりしているので、自分の見たくない部分は見なくていい。
やっぱり、トライアンドエラーで、やったことなことをどんどんしていく。
●身体のみになる。身体のみの感覚を掴みに向かっている時は、身体の自由さは非常に面白いというか、頭は必要以外はいらない。
瞬間に切り替わらないと、両党使いは不可能だと思う。
とにかく感覚を指針に、身体が一体になるような感覚は、体感すると気持ちが良い。
つまり、結果的には身体に良い事になる。つくづくこの世は身体に害になる事ばかりである。さあ、動物にもどろう
●手を合わせた時、全然距離が遠いと言われて、全く訳が分からなかった。
力の強弱ではなく、気持ちの問題という事なのだろうが、そういったセンサー全く開発されていない人と、開発されている人がいる、ということなのか、それとも自分のこころが開いていないだけで、一瞬で開くこともあるものなのか。
とても奥が深いということは分かった。
●「肩動かし」で、動かされる方をやっている時、感じて動かされるをやっていたつもりだったが、組んだ人から操られるのではなく、体で聴いて下さいと言われ、間違った事をやっていたのが明確になった。
また、同じ方に自分では気づかなかった微妙な上下の動きについて来れてない事を指摘されて、それが分かった事も良かったです。
●「手のひら合わせ」リーダーを乗っ取るをやっていると、どんどん相手との密着が良くなって行きました。
先生から「どうぞの感じで」とアドバイスがあってから、組んでいたCさんの雰囲気や動きが変わり、リーダーの乗っ取りが出来るようになってきました。
思い返すと、出来なかった時の動きは直線的で、出来るようになって来た時は、曲線の動きになっていた。
●「手の平合わせ」で、取り合うをやってみて、手の平に意識を集中する事で、流れが変化するタイミングがあり、その時に取りに行くと取りやすくなりました。手と身体が繋がっているのを感じられるワークでした。
●2人組のセッションは、自分では良い感じだと思ったが、人数が多くなるにつれて諦め、何時もの妥協。応用しろや
「肩動かし」では皆さんと交代でやったが、人それぞれに違い過ぎる。
当たり前だ。違いに対応するには感じるだけ。
●手の平重ねで主導権を取り合うゲームは、自分が取る側になる時、直ぐにバレてしまったり、直ぐに取り返されてしまって、自分のしようとしている事が、相手にははっきり見えてしまうものなんだなと思った。
自分の存在が薄っぺらい感じがした。
「セクション8 ピラミッド」
●前回の「武禅」の終わりに戦線が「余裕がある、ふんどしを締めていない」と言われたことを思い出す。
これまでのピラミッドは、何か方法ばかりをやっていたと思う。
今回は悔しかった。
自分一人でやっていたり、拡散したりがハッキリ分かった。
悔しくなって余裕が無くなり思い切りやって、手を上げてくれた時に、嬉しさとか色々な感情が出て来た。
これまでは、そういう事は今回ほどなかった。
ほんまにギリギリまでやって、余裕がなくなって無我夢中になって、やっと方向性が定まったという、入り口のところなのだ。
●自分がやっていること、やろうとしていることは、実際に自分が思っているよりもずっとズレがある事、タイミングもズレがある事が分かった。頭であれこれ考えず、気持ちと行動が一緒になった時は、声が出しやすかったり、シュッと一本に絞れていたように思う。
●「オイと呼び止める」では、比較的至近距離では、相手がビクッと反応して立ち止まらせられるが、距離が離れると声が散って、その人に行っていないようになる。
そもそも至近距離でも声が散っているのではないか。
至近距離では指向性で反応しているのではなく、近くで散っていることで影響を受けやすいだけではないか。
今回の「武禅」でも、声をぶつけられているように感じるとの感想も頂いているので、同じことのように思います。
●相手から「そうです」と言われた時には、声だけでなく頭部全体にビンと矢が当たった感覚がありました。
自分の番の時は、正直なところ夢中で余り覚えていないのですが、「そうです」と言う言葉が出るまで、狙った人の斜め前や後ろの人が手を上げられることが続きました。
自分が気持ちを向けるところと、相手が受け取るだけの届け方に、開きがある事に気付けました。
声も拡散しやすく、パンとその人に向かって発するのは、積み重ねて行くしかないと思いました。
●人を呼び止める実習では、相手が感じ止まってくれる時があるが、なぜ、何をした時に伝わったのか、自分の気持ちがどのような状態の時になるのか、ほんの少し感じられたと思います。
「待て!コラ!お前じゃ!」と本気で思った時、感じて貰えたようです。
ピラミッドでは、自分は受ける力が弱いと思いました。
相手の発信するものを受け取れるように、今回の実習で気付いた事、感じた事を忘れないようにしたいと思います。
●的を絞る、対象をハッキリさせる。声の出し方を気にしだすと、途端に声が上ずっていく。
独りでやっている感じ。相手を無視している。
これまで、その事に気付かなかった。
何というかどういうか、自分の言いたいことだけぶつけているだけ、もっと言えば、憂さ晴らしをしていたのかも知れない。
●昨日の続きですが「現象を見る→それを見たまま行う」の間に、ポイントを聞いた段階で、その単語が頭に残り、それはそうなのだがその単語を完全に忘れる事が「それを見たまま行う」事にフィルターがかかっているのだと思う。
●人に作られた世界で生きて、自分が無い。誰かに依存して誰かに何時もやって貰えると思っている。
だから、隣に誰かがいても違和感も感じない。
誰かがやってくれると思っているから、何時も待っていて自分からいかない。
先生をみて、自分からやって自分でやって、自分を高めていく事が本当に大切なんだと思った。
●前を歩く人に向かって「オイ」と呼ぶ。
相手も自分も動いているから、目標が定まり難い上に、気迫に欠け自分の声を前を歩く人を突き抜ける事が出来ない。
今まで生きて来た自分が、いかに適当にその場をやり過ごして来たか。
苦しい思いから逃げて来たかを感じている。
真剣に向き合い自分を変えていこう。
●ピラミッドで座っている時、声が届いていないけれど、自分のほうに来ているかな?と思う事があったけれど、邪魔をしたらいけないと思い、手を挙げなかった事が度々あった。
届ける側になった時、拡散するのは減ったと思うが、指差しの方向がずれてばかり、指した隣の人が手を挙げるという事が、度々あった。体の向きが影響しているのでは?と、届ける相手の人の体の向きに合わせ、指差しの方向を定める事によって、今回はその人に届いた。
●「オイ」と声を届ける時に、既に相手と繋がっていると感じた。狙いを定める=相手に入る事だと思った。
「感性が衰えている」という休憩の時の日野先生の言葉が、ピラミッドを終えてから思い起こされた。
感性の衰えで人を聴きにいくから、届ける事が的を絞り切れず漠然としている。
身体はもっと広く深く何かを感じいる事が出来るのに、それを閉じて来ている自分がいた。
「セクション9 歌を届ける」
●現場を味わう事を知った。
歌が重なり合い、その言葉が意味を脱ぎ捨て、音の響き合い、共振へと昇っていく事は、決して言葉化できないし、してはならない事だと感じた。
この時空間に、自分が在るということに、すくっと立てた。
日野先生の総括にあったが「人は人の関りの中で、人となって行く」事が、道場という場に縁あった仲間のお陰で経験できた。
この事は新しい自分の発見でもあった。それは何時もそこにあった自分でもあった。
●20人が10曲、2人1組で同時歌い合い。
混線するもお互いが邪魔になったりしつつも、何時も調和しあう不思議な空間・時間・みんなでした。
将来同じメンバーが集まっても、2度と味わえない尊いなぁと。
明日になったら忘れるかもしれないけど。それも良いかも。
●「武禅」に参加しておられる人に助けて頂いて、無事に全部のセッションに参加させて頂けて嬉しかったです。
先生のお話も沢山聞かせて頂き、まだ整理ができず忘れている事も沢山ありますが、思い出し乍ら日常生活に活かしていきます。
やる前に「出来ない」と思ってしまう事もチャレンジに変化させていきます。
●円陣で歌。生きている感じ。普段の「これが自分」と思っているのは自分でも何でもない。
日野先生が著書の中だったかブログだったかで「関係している状態が、別の言い方をすると『生きている』ということ」と書かれていて、これがその実際だ。
とすると、普段は生きていない、当然だ。
子供の頃の自分を思い出してみろ、昔の自分に負けていると思うと悔しいなぁ。
さらに考えると、昨日の懇親会で太郎さんの質問に対して先生が「コップを丁寧に触るがあるわけではない。状況によって変わる」という事と同じで「相手に声を届ける」というものがある訳ではない。
それを具体まで落とし込んでいかないと日常で稽古は出来る筈はない。
自分などに関わってくれた皆様。
みんな素晴らしい人達でした。
今回もありがとうございました。
●全体合唱?では、全く異なる歌であるにも関わらず、徐々に一つのものとしてまとまってゆくのを感じた。
お互いがそれぞれに正面の人と向き合い、声を届けようと懸命だった。
30分以上歌う事を続けていたのだろうか?私の喉は限界だった筈なのに、皆も同じ状態なのにしっかり声が出て、一体感が増していた。
皆の声が大きな渦になって六角形の天井へ龍が空を昇るように上昇していくように感じた。
私もこのパワーに乗って、人生を生き抜いていきたい。
●前に「武禅」に参加して日常に戻ってから、全く「武禅」での稽古を意識していなかった。今までも、セミナーや勉強会に参加してもその時だけで、全く振り返りや復習をしていなかった。
それなのに変わりたい人ともっと関わりたい
等の自分勝手な事ばかりでした。
そして、人に変えて貰えるまで待っている。本当に自分の癖、生き方の癖がそのまま出ていました。
次また「武禅」に参加させて頂くまでに自分で意識して、人と真剣に関わっていきます。
●声が出ない→声を出してないだけ等、自分が勝手にやっておいて、出来ない、やってない。そもそもそれに気付いていない状態で過ごしていた事も~~体験と写真、動画で動かぬ証拠として見てみると、こんなに薄っぺらなものかと衝撃的でした。
何れにしろ気付けた事と、その入り口に立てた事が、今回得られたものだと思います。
●関係性から全ては始まる。関係性とは一緒に歌うという事であり、お互いに拮抗する事であり、真剣に向かい合う、届けようとしなければ他人が存在していない為に自分も存在しない。そして届ける事は難しい。日々是修行であると思う。
●3日前の最初の向かい合いと比べると、全員に変化があった。
顔がクリアになった人、きちんとどこを見定めているか分かる顔、気持ちが引いてただ立っていたところから、前に向かって来ているのが分かるようになる人。
顔、人によって変化は様々ですが、向き合った時に相手がそのような顔であれば、こちらも自然と向き合ってしまう顔なんだと思います。
●「人は人を糧として人となる」正にこの言葉通りの実際を見て体感する毎回の「武禅」ですが、今回は特に皆さんが時間の経過と共に輝いていく、そんな「武禅」でした。
組んだ相手の方に「歌いやすくなった」と言って頂いて、相手に一生懸命にする事で喜んでもらえるのが、本当に嬉しく感じました。
●一人一人がぶつからないのは、本当に心地の良いものだと感動しました。
●最後の合唱。最後の歌、最高の一時。皆が一つになる素晴らしさ。私はこの瞬間が大好きだ。関係?共鳴する為に生きている。
●声の指向性と気分の方向性。色んなものが交じりあって、何か新しいモノ(場)が出来上がるのを自分の目で観て体験できた事は、今までにないモノでした。
●全員で歌うのは、これだけ沢山の曲を一緒に歌っているのに、皆の気持ちが一つに向かっていてもの凄くパワフルな歌声の渦になっていた。
歌う前は、声が枯れて出なかったのに、相手に強く届ける、ちゃんと聴くをしていたら、自分の声が体の奥から意思を持って出て来た。
自分にはこんなしっかりした声が眠っていたんだと驚いた。
本気になって一瞬一瞬を出し切る事が、自分も周りも輝かせる事なんだと体験した。