旬の重要性
何事にも時期がある。
「旬の」食べ物というのが、それの典型的なものだ。
先日立秋だった。
この日を境に空も風も変わった。
どうして、昔の人はこの日を見つけたのだろう、と思いを馳せる。
もちろん、それは農作物の収穫と密接に関わっているからだろうと、想像は出来るが、その観察する力には驚くばかりだ。
もちろん、これは人にも共通する。
その人、その人の時期がある。
もちろん、それは誰にも分からない。
当人にも分からない。
先日、愚息が孫を連れて熊野の道場に来た。
愚息が道場に来たのは、多分14,5年ぶりではないかと思う。
それくらい、愚息とのじっくりとした時間を持っていないということだ。
和太鼓の仕事ということでは、その14,5年の間に数回は会っている。
今回の時間の中で、「音楽とは何か」を話せた。
もちろん、それは言葉としてではない。
実際にスティックを持って体感させたのだ。
また、武道を使って体感させ、歌を使って体感させた。
もちろん、これらは共通していると、私は考えるからだ。
ここで「体感させた」と書いたが、体感出来るだろうという時期だったからだ。
だからといって「今が、時期だ」と意識下に上がって来たのではない。
そうなった事を、後付けで考えると「時期だった」という事だ。
その証拠に、熊野から帰宅後愚息のライブが有り、その動画がアップされていた。
もちろん、デジタルの動画だから情報が少ないのでハッキリとはしないが、明らかに、それまでの愚息とは変わっていた。
太鼓の音も、有り様も変わっていた。
もちろん、進化していたのだ。
これを愚息が深化させれば、もっと迫力が出るし音楽に近く。
その節目が、今回の熊野道場への帰宅だった。
と後付けで知った。
その時期でなければ、人は吸収出来ないことがある。
変化することが出来ないのだ。
飛躍出来ないのだ。
それは「変わりたい」という意識ではなく、「上達したい」の延長に有るから、どこかで何かと化学変化、化学反応が起こるのだ。
全ては時期だ