今=必死に

本来、自分自身の欲求に合わせ形式が生まれる筈だ。
しかし、既に形式がある場合、その形式を超えるものがある筈だ。
表現ということでは、私はその一点だけに興味がある。
というよりも、そこを超えるものがあるから、その形式の必然があるのだ。

よく例に引っ張り出すのは、幼児の舞台だ。
もちろん、劇団〇〇や事務所絡みの子役の話ではない。
単なる幼稚園児の話だ。
大方の場合、幼児は形式を超えるものだ。
だから、それを見る親たちは感動するのだ。

超える要素は、必死さだ。
何に対して、というものが明確ではなく、それこそ全身全霊で向かう姿があるから感動するのだ。
そこには方法もなければ、こざかしい小細工はない。
だからその「素」の姿に感動するのだ。

それはアスリートの世界ともリンクする。
競争の瞬間、素が全開しているからだ。
それが形式を超えた姿だし、形式を存分に自分のものにしている姿だ。

それは生きる姿であり、今、流行の「今を生きている姿」だ。
つまり、今とか、今を生きるというのは、必死さが満ち溢れている生の姿がそこにある、そういうことだ。
それこそが、日常にある様々な形式を超えているということだ。

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