上から目線は人を駄目にする
当然の時差ボケ。午前4時に目が覚めた。
ベッドど6時くらいまでゴロゴロし、起きてホテルの周りを散歩した。
今から朝食だ。
身体を使って、相手に作用しているのかいないのかで、自分自身の技術度合いを測る。
これは、私の稽古の定番だ。
もちろん「明鏡塾」や「武道」「ワークショップ」でも定番だ。
ここには難しさが潜んでいる。
潜んでいるというのは、身体での作用だから当然誰かと組む。
そして、二人で工夫をしあって練り上げていく。
ここでは、工夫をしあうのではなく「一方的な意見」を相手に押し付けている姿をよく見かけるのだ。
もちろん、これは「一方的な意見」を言っているのか、工夫をしあっているのかを分かっていない事が原因でもある。
この場合は、いわゆる「共同作業」の体験が無い人の場合に起こる。
また、もう一つの場合は、「自分には分かる」と勝手に思い込んでいる人の場合、そして、何故か人の上に立っていると思いたい人の場合だ。
これが意外に多い。
目に余る場合は注意をし、それでも聞かない人は出て行って貰うことになる。
それは、相手の人の稽古にならないからだ。
例えば、「押されないように頑張ってください」と片側の人に指示を出す。
で、足を転がすと頑張れなくなって動いてしまう、という検証をする。
しかし、この時に頑張る側の人が頑張らずに「うん、それで良い、出来ているよ」と動いてしまう人だ。
こうなると、その相手の人は「出来た」と思い込んでしまう。
人を駄目にする典型的なパターンだ。
もちろん、「うん、良いよ」と言った当人は上から目線なので満足をしている。
こういう事が起こるのが、身体での検証であり、稽古の常だ。
しかし、それが社会であり人生であり、人間との関係なのだ。
だから、敢えて注意をしない場合も多々ある。
自分で「ああ、こういう人は信用できないな」ということに気付いて欲しいという、側面もあるからだ。
その意味でも稽古では口を酸っぱくして、指示通りにやること、という。
もちろん、私も弟子たちを相手に何かをするとき、一番注意をしているのはここだ。
私が、お山の大将にならないように、ちゃんと稽古が出来る人としかしない。
踏ん張ってくれない人、身体が緩んでしまう人。
これらの人は弟子でも相手にしない。
私の技術が鈍るからだ。
新しく来た人でも、ちゃんと指示通りにやってくれる人であれば、相手をして貰う。
その方が「反応」が新鮮だからだ。
いずれにしても、身体での稽古は難しい。
だから、感覚が鋭くなっていくのであって、「出来た」側を追求すると、結果としての状態しか見えていないから、何がどうなっているのか、さっぱり分からないし、「出来た」ことは「それが何?」なのだ。
「出来た」は、水に映った「何か」のようなもので、実体は無いのだ。