身体を使えるから、身体で考えることができる
今日は台風。
にも関わらず、新しい人が受講してくれた。
新しい人が来ると一から説明ということになる。
胸骨操作から、背骨への連結、そして連動となるが、上っ面の言葉は理解できても、身体は理解しない。
そこにギャップがあることを、新しい人には分からない。
そして、実際的な動きに入る。
例えば、「胸骨操作」だとすると、例外なく肩を動かす。
「いやいや、肩が動いていますよ」「はい、分かりました」と、ここから漫才になっていく。
「分かったと言ったでしょう」「はい」「でも肩が動いていますよ」という調子だ。
頭、つまり、理解した、理解するということと、実際に身体が感覚されていく、というのは全くの別の問題だ。
もしかしたら、全く次元の異なることなのかもしれない。
新しい人は、どんどんパンク寸前になっていく。
「合理的を作り出すのは、むちゃくちゃ難しいでしょう」「はい」
もはや目はうつろだ。
しかし、しかし、パッと出来る人もいるのだ。
だから、無茶苦茶難しいとは一概に言えないのだ。
その新しい人の隣で、教室2回めの男性がやっていた。
彼は少々動くようになっているし、「肘のコントロール」は、2人が持っても、そのストレスにめげずにやれていた。
「という具合に出来る人もいるのですよ、さて、何が難しいのでしょうか?」という具合に、教室では進行する。
もちろん、ワーク・ショップも同じだ。
今日は、またまた「身体が動く」ということでの、新しいバージョンを見つけた。
脇腹のストレッチとねじれを混ぜたものだ。
そして、それは全身運動になる。
2.3回やるだけで、脇腹はバキバキだ。
新しい動きは面白いが、身体が動かなくなるほど筋肉痛が起こる。
武道のクラスは、久しぶりに総合の選手が、試合前の一汗を流しにきた。
色々な状況からの優位なポジションへのアプローチをやった。
こうも出来る、こうも出来る、という具合にアイディアが浮かぶ。
それでは練習にならないので、絞り込んで現実的な動きに汗を流した。
身体を使えるようになると、どんなことにでも応用がきくようになる。
そこが、運動が出来る、身体が動く、という事とは違うところだ。
肝心要とは良く言ったものだ。
枝葉末節をするのは楽しいが、肝心要は難しい。
だから、楽しいのだ。
是非、大阪・東京のワーク・ショップに足を運んで下さい。
知らない間に作っている、自分の垣根を外してみましょう。
そうすると、知らない間に「出来る」ようになっていますから。
http://hinobudo.wixsite.com/workshop