他者評価に依存しない
以前、少し書いた北海道にお住いの植松さん。
たまたま、その植松さんのブログを見つけた。
それを読んで、氷塊した事がある。
常々不思議に思っていたのは、「どうして他人の言葉を自分の言葉に変換する人がいるのだろう」だ。
植松さんは「他者評価に依存せず、自己評価が出来たので、自分の自信を失わないですんだのかもしれません」と平易な言葉で書いてくれている。
この中の「他者評価に依存せず」の中身が大事なのだ。
自分として自分を評価できる、という事がなければならないのだ。
そして、自己評価に値する自分自身で取り組んでいる事があり、ある種の結果を出している事が必要なのだ。
植松さんは、「他者評価の得られないもの」に取り組んでいたのだ。
「登山が好きだから、山に登りました。体力が増えました。〜〜飛行機やロケットが好きだから、さんざん勉強しました。それはやがて仕事になりました」と書かれておられる。
私と植松さんを比較することは出来ないし、そんな失礼なことは出来ないが、私自身も同じ道筋を通っている。
「こうしよう・こうしたい」と思ったことを、自分勝手にどんどんやっていっただけだ。
例えば、それがオリンピックの強化選手に選ばれた、ということになっただけだ。
もちろん、ここに来れば他者評価は付く。
しかし、そんなものは私とは全く関係ないので、私はその評価を「体操はしません」といった。
あくまでも、自己評価だけで生きていくと決めたからだ。
つまり、自分自身が自分自身で決めたことをやり通し、何かしらの結果を持っている、という取り組みをしている人は、「他者評価に依存しない」のだろうと考える。
で、どうして言葉を変換するかということになる。
もちろん、一つは自分として理解しやすくする為に、変換するというのはある。
もちろん、本質を損なわずに。
しかし、私のいう変換は、すれ違いと同じ、責任転嫁と同じで、全く別物にしてしまう変換のことだ。
それは、この「自分で決めて自分で取り組んでいる」という実際が少なく、にも関わらず分析された言葉数を沢山知っていることに由来する。
そして、自分で取り組んでいる事が少ないから、書かれている文章からその人の実態を読み取れない。
だから、書いた人の言葉面だけに反応して、自分勝手に疑問を持ち、自分の知る言葉に置き換えるからだ。
もちろん、自分の知る言葉といっても、またそこにその言葉はどういうことかを、自分自身の実態に置き換える事をしないから、幻想の世界を幻想を持ったまま生きている、つまり、迷路を自分で作り出しその迷路で迷子になっているのだろうと考える。
「暇」なのだ。