言葉での説明は意味がない
説明するのは言葉だから簡単だが、実際の感覚的なところは言語化出来ない。
例えば「真剣に」「本気で」等々。
その言葉を出した途端に、あるいは、その言葉を聞くと、それではなくなる。
それは、習性として意味を考えてしまうからだ。
実際は、そこに意味などない。
その在り様だからだ。
例えば「真剣にならなければ」と思うと、もう既にそれは真剣ではない。
「真剣なよう」だ。
だから、そこからその言葉の実際になるには、殆ど無理だ。
もちろん、何かの弾みでひっくり返ることもある。
また、その言葉から直感的に、自分自身に届き本気になる人もいる。
「人生、80年か90年か知らないけれど、折角生まれて来ているのだから、『ちゃんと』生きなければ損だ」
昨日のワークショップはそんな話で盛り上がった。
そこに他人の目も見えも体裁もないし、必要ではない。
自分を全うすればよいのだ。
もちろん、私自身の「本気」という状態を説明することは出来ない。
本気だからこうなった、という状況説明は出来るが、そんなことはまるっきり意味がない。
自分で話をしていて、違和感を覚える。
ただ、本気で人と接するから昨日は「2017年2月から思考と感情で煮詰まってたこと、それと今まで思考でわかっているつもりで、実感できない"本気"を感じ取れた場でした。
『おまえは、頭大丈夫か?』と本気で僕に対して仰って下さった日野先生の言葉には、言葉に表せない本気の気持ちがありました。先生が僕にその言葉を仰って下さった時、その言葉の意味合いや言葉尻でイメージする僕の過去のストーリーや妄想ではない言葉の奥にある先生の本気と愛を感じました。本気の気持ちってどんな言葉にしても相手に伝わるから。真面目に不真面目で頭のおかしな人として、あるがままのバカな自分で生きてきた僕には、先生の言葉に込められた本気の気持ちが感じ取れて、とても嬉しかったです。」というメールを貰った。
さて、ワークショップも始まってみれば、何時もの事ながら一瞬で終わる。
今日と明日、あと、2日だ。