私は一体何をしているのか?
ツールーズからアリビへ1時間のドライブ。
ホテルにチェックインし、1時間ほどで稽古になった。
道場は、若いシモン君という青年が1年がかりで改造した、真新しい道場だ。
照明は舞台でも使われている、明るいが影が薄いものだ。
直接照明が目に入っても、普通の照明よりも目に優しいのだ。
どこかの舞台で見たのだが思い出せない。
そういった、細かいところにも拘って道場を作る人は、外国には多い。
だから、行く先々の道場は、本当に美しい。
2年ぶりのアリビの街、同じホテルだ。
窓から見える景色も同じ。
昨日の昼食のサンドイッチが堪えて、胃が悲鳴を上げている。
自分自身のやっていることは何か?
ざっくりと言えば、日本の伝統武道の達人たちが残した言葉の再現だ。
だが、そこにあるのは、それではない。
「そうであろう」という仮説でしかない。
こうして、海外でワークショップを持つようになって、丁度13年になる。日本でやっていると、考えないことを考えざるを得なくなる。
もちろん、「言葉での理解」あるいは、「言葉からの想像」だ。
先ほど、常に話しているにも関わらず、その言葉を実際には使っていないことに気付いた。
それは、「私の伝えている現象は『単なる検証』に過ぎない」という言葉だ。
肘を知り、肩を知り、胸骨を知る。
同時にその知るは「刺激を感じ取る」という実際を伴ったものだ。
「本当に肘を知ったのか、使えているのか」を検証しているのだ。
だから、「武道の技ではありません」となるのだ。
だから、「刺激を通して肘を知り」を「使える」というところで検証というのだ。
「使えているかどうかを検証する」これが、ワークショップや教室で行っている事の実際だ。どうしてそう厳密性を求めるのか、というと、それこそが「身体技術」だからだ。
技術に曖昧はない。
数学と同じだ。
だから、使えた時、その姿の全ては美しい、となるのだ。
使えた時というのは、自分の持つあらゆる雑念が削除された状態だからだ。
人特有の幻想や自意識や、思い込みや欲求というものが削除された時、それは使えているのだ。
感覚されている一点だけに焦点を当てたり、外からの刺激に焦点を当ていたり、という行為が、ここでいう美しさや強さを現すのだ。
私のやるワークショップにしろ、教室にしろ、「明鏡塾」にしろ、全てはこの構造で出来ている。
この構造が、人との関係での、それぞれの持つ壁を自然と越えた状態を作り出すからだ。
「自分が動く」から「動いてしまった」あるいは「動いている・動かされた」に、自分自身のプログラムを変換してしまおう、というのが、私のやっていることだ。
「明鏡塾」になると、もう一つ抽象度が高くなる。
それは、目的が医療だからだ。
だから、検証で現れる現象の質が高くなるのだ。
大阪「明鏡塾」は、帰国後の28日にある。
申し込んでくれているのは、医師や歯科医師、理学療法士、柔整、福祉関係の方達だ。
歯科医師の方は、現在の東京「明鏡塾」を受講している人の中にもいるし、再受講してくれている人の中にもいる。
これは、本当に嬉しい。予期せぬことだからだ。
「口」は、身体の入り口であり、原初受信機関でもある。
その意味で、生命体として非常に重要な位置づけなのだ。
虫歯を治す、ということだけではなく、「口」を通して生命を診て欲しい。
大阪「明鏡塾」まだ空きがありますよ。
https://www.meikyojuku.com/