量をこなす、しかも的確な仕組みの中で

一般的に当たり前のこと、例えば、算数の計算だ。
足し算は出来て当たり前、九九は言えて当たり前、というような当たり前と言われている、当たり前の事だ。
私は、この当たり前でつまずいた。
そこに「何でやねん」を持ち込んでしまったからだ。
もちろん、実際としては算盤をやっていたので、高学年になってからは追いついた。
しかし、「何でやねん」の答えは出ていないから、何か釈然としないものがあった。

愚息も小学1年生の始めでつまずいた。
それは、引っ越してきた、こちらの言葉がサッパリ分からなかったからだ。
言葉に関しては、私達大人も分からなかったので仕方がない。

それはさておき、算数でつまずいてしまった。
さぁ、どうしようか。
当たり前なのだから、概念もへったくれもない。
で、一桁の足し算で、何とはなしに分かれば良いだろうと、+1の問題を山ほど作った。
毎日だ。
2にし、+3にしていく。
毎日、問題を作るのはほんと大変だった。
大変というのは、書くのが大変だっただけだ。
現在のように、PCが有るわけでもないので、ひたすら書いた。

という具合に、「当たり前」を改めてと言った時、当たり前では無い状態を、当たり前にするには相当労力がいる。

私は、愚息が生まれてから、「物事を考える」という習慣が付いた。
それまでは、直感的一発で向かっていったが、こういった局面が訪れると、そういう訳には行かない。

面白かったのは、こういった形で足し算の問題を作っていた時、義弟が「それは公文式と同じや」と言ってくれた。
もちろん、その公文式なるものは知らない。
田辺の街で探すと一軒だけあった。
今なら通えるかも知れないが、当時は山を3つは越えなければいけないので無理。
公文式の先生に頼んで、問題を家に持って帰ってやることにした。
徹底的に量だ。
しかも、的確に向上する仕組みの中での量だ。
これは、私が器械体操やドラム習得のパターンと同じだ。
だから、無意識的にそんな問題作りをしていたということだ。

当たり前が分からなくても、知らなくても、出来なくても何の問題もない。
自分で、それが必要だと思った時に、考えればよいだけだ。
それの方が、流れ作業でやれてしまうより、遥かに豊かな事だ。
どんなことでも量が必要だから、時間がかかるものなのだ。
愚息は公文のお陰で、計算は克服した。
しかも田辺で一番成長した一人になった。
小学1年生で毎日1.000問もこなしたからだ。

愚息のこういった姿を見ているし、私自身がどんなことでもゼロからスタートしている。
人に出来ないことなどないのだ。
まず「決めること」だ。
決めることで方法は見つかるからだ。
そして、量だ。
これが全てを決めるのだ。

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