ワークショップで見えたこと

一昨日は、慶良間ブルーの海で波と遊んでいた。
昨日は、熊野の道場に帰宅。
現実はこのように明確に違いがあるのだが、それを管理する意識が違いを曖昧にさせている。
結果、意識の切り替えが出来なくなり、やることや、やっていることと、頭がバラバラになるのである。
また、頭は自分の持つ過去の情報を引き出してくるから、余計に「行動している自分」とギャップが生まれるし、思い出に引きずられたり、過去に戻されたりするのだ。
現実は、決して思い出でも過去でもなく、たった「今」なのだ。
その意味で、こういった環境の強制的な変化は、意識の切り替えに相当役に立つのである。

帰宅と言えば、早速水だ。
「大丈夫」水はチョロッと流れている。
夏や冬は、これで十分だ。
道場に入ると、カビの匂いが一杯だ。
今日から修理に入ろうと思っていたが、今日は大阪の稽古だ。

今回の沖縄のワークショップは、私にとって大変有意義なワークになった。
自分の中でモヤモヤしていたものが、かなり明確になったからだ。

それは身体のワークで「出来る・出来ない」に含まれる要素の事だ。
「出来る」のは、どこが出発地点なのかというと、もちろん、自分自身の好奇心や必然性だ。
「どうしても」という「気持ち」がそこを後押ししたり、けん引したりする。
方法としては、手本をどれだけ「目に焼き付けられるか」だ。
目に焼き付けられた像を、どれだけ身体でなぞっていけるかになる。
それ以外には無い。
つまり、言葉を介在させないというところがポイントになるのだ。

また、そういった「身体」のワーク以外のワークは全て「関係性」を実際化するワークだ。
関係が「生じた時」に起こる様々な現象を体感する事が稽古だ。
沖縄のワークショップが、他のどの地域のワークショップよりも良い点がある。
それは、基本的に人との距離感が近い事だ。
もちろん、シャイで一歩踏み出しきれない人も沢山いる。
しかし、その雰囲気に乗ってしまうという気質もあるので、時間と共に組む相手を変えワークを工夫していくのだ。
つまり、関係性ということでは、既に一歩リードしているということだ。

では、大方はどうなのかというと、折角二人で組んでいるにもかかわらず「関係性」ということを、一人で悶々と思い込んでいる、あるいは、考えても仕方が無いのに考えている、という状態になっているのだ。
それでは、どこまでいっても、ワークであれ関係性であれ、独り相撲をやっているということで、自己満足は出来ても実際は伴わないということだ。
畳の上の水練状態なのだ。
しかし、殆どの人はそれなのだ。

ただはしゃぐのではない、奇声を発するのでもない。
色々な人と組んで、真剣に工夫をする。
体感する。
そうしている事が「関係性」の入口だからだ。
そこには手応えは無い。
しかし、ある。
大方の人の持つ「手応え」という感覚は、間違っている、あるいは、誤解しているだけなのだ。

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