遊びという主体性

私達は「好きなこと」を見つける力があった。
「あった」と言えば過去形になってしまうが、もちろん今でも、自分の取り組むことは、好きなことにしてしまう。
どうしてそうなったのかは、全く分からないが、言えることは「遊びを作り出していた」からではないかと思う。
言われたことをやるのではなく、言われないことを考えだしていた。
それと、遊びという何か、例えば私の時代から言えば、後に現れるテレビゲームのように、遊ばせてくれるものが無かったからだ。
自分自身が遊べなければ、遊びにはならなかったのだ。
その意味では、どんなことでも遊びに変えてしまう能力があったということだ。
遊びとはそういうものであって、遊ばせてくれる何かに身を任せること、受け身になることではない。
だから、遊びから「何か」が生まれるのだ。
沖縄では12,3歳の子供達も参加していたので、そんな話もした。
社会に、あるいは世間に、学校に「好きなこと」が有る人はラッキーだ。
大方の人は無いと思う。
もちろん、「好きなこと」というものが有る筈もない。
好きなことは見つけ出さなければ、そこには無いのだ。
もっと言うと、自分の取り組むことを、好きなことにする能力が必要なのだ。
ワークショップを見ていても、指示されたことに取り組む力が不足している。
それはこの「好きなことにする能力」が不足しているからだ。
何時の頃からか、親が子供の好きなことまで与えるようになってきた。
何となく親に余裕が出てきたからか、あるいは、親自身に好奇心や楽しみが無くなり、子供だけに目を向けるようになって来たからだ。
子供がサッカーを好きだと言ったら、親がその環境を探して来る。
そんな感じだ。
そこに端を発し、全てのお膳立てを親が整える。
そんな環境で育った子供には、好奇心の欠片も生まれないし、好奇心を育てるのは至難の業だ。
きっと「好きなこと」という感覚すら無いのではないかと思う。
ただただ時間を消化するだけの為にゲームをする。
だから、指示された事を消化するのが精一杯になり、全く余裕が無くなる。
その子供には、何の責任も無い。
しかし、これは12.3歳だからではない。
40歳代でも50歳代でも同じだ。
ただその割合が違うだけだ。
取り組んでいることに対して好奇心のない人を見ていると、何をしているのか全く分からない。
指示された作業を繰り返しているだけだからだ。
だから、アドバイスのしようも無い。
人の持つ好奇心は、人に伝播する。
だから、思わず「今、何をしているの?」と声をかけてしまうし、アドバイスをしてあげようと思うのだ。
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