好奇心は
あれもこれもと、好奇心は尽きない。
しかし、身体は一つしかない。
時間も限られている。
そうなると、あれもこれも、というわけにはいかない。
だから、優先順位を決める。
もちろん、決めずに一番好奇心のあるものに挑戦していく場合もある。
好奇心とは何か、は全く分からないが、生命と直結している何かだとは分かる。
原初の人類を考えてみた時、好奇心がなければ、食物に有りつけないし、敵か味方も判別出来ない。
現代において、好奇心とは自分の挑戦の為のキッカケだ。
だから、好奇心を失っては駄目だ。
ただ、好奇心があるから、もしくは興味があるから、と取り組んだが、自分の想像していたのとは異なるのでやめる、という場合が多々ある。
それは、好奇心は挑戦の為のキッカケだと認識していないからだ。
教室に来る、そういったタイプの人を推察すると、きっと学生時代は勉強が有る程度出来たのだろうと思う。
ある程度出来たというのは、自分のその時期の能力だけで処理出来たということだ。
そして、社会に出ても、その時点での自然成長的な自分の能力だけで、処理出来ている人だ。
つまり、相当の工夫なり努力なりをしなくても、何でも出来ると思っているということだ。
それは無い。
もちろん、余程の天才は別だ。
工夫なしに出来ると思っている人は、自分の能力を伸ばすことは出来ないし、他人の能力の価値を理解することが出来ない。
他人の能力を理解出来るというのは、自分自身の体験の中に置き換えることの出来る体験があるからだ。
それと、他人の能力を比較することが出来る、あるいは、少しの体験から想像することが出来るからだ。
もし、何かに好奇心が湧いたなら、ゼロからしっかり取り組んでいけばよい。
ゼロからというのは、「何も知らない・何も分からない」というゼロだ。
それをしないから、直ぐに嫌になったり諦めたりするのだ。
幾つ何十歳になっても、ゼロからの発進なのだ。
しかし、人は直ぐに安住する。
現在の自分で満足するということだ。
もちろん、それは自由だ。
しかし、確実に時は進み、自分は老化していっており、「これは!」とある時好奇心が湧いた時、もはや何も取り組めない自分になっているのだ。
つまり、安住するということは、何もしない自分を形成しているということだ。
ということは、単なる好奇心でも、しっかり取り組むということは、本当に人生を賭けるような「これだ!」に出会ったとき、全力で取り組める自分作り、その予行演習だと思えば良いのだ。