否定する
大学で講演したさいの感想文の中に、ある意味で全面否定した感想文があった。
私の話を勘違いしているのだが、正論的へ理屈になっている。
それが間違っているのではない。
それを読んで、ふと私の若い頃を思い出したのだ。
年齢とはそんなもの、という面もある。
自分が引っ掛かった言葉にだけ反応してしまうのだ。
その事に何時気付くのか。
それは、もっともっと屁理屈をこね回さなければ分からない。
単発では駄目だ。
誰にでも、どんな意見にも屁理屈を振り回せば、その内、自分の理屈の矛盾点が見えてくる。
それでも続けていると、全体が見えるようになってくる……かな?
とにかく、否定するということは、対面するということ、対立するという事で、肯定するよりもエネルギーが必要だ。
否定されると、相手の視点が見えるが、肯定されるとそこが分からなくなる。
本当に共通の認識を持っていて肯定したのか、単に言葉を気に入って肯定しているのか、面倒だから肯定したのか。
そこが不明瞭になる。
先日の特養での研修の時、そんな話もした。
自分の持っている価値観や考え方とは、全く異なった価値観、考え方を持っている人と出会うのは楽しい、という話だ。
それは、特養のある施設の長が、面接をした。
その時、とんでもない意見を言った人がいたそうだ。
その人に対して、内心感情的になりすぎ、的確な返答が出来なかったことが悔やまれる、と述懐した。
それがあってからの話だ。
しばらく、その面接に来た人についての討論をした。
とんでもない意見というのは、それほど価値があるのだ。