いつも結果は同居

どうやるのか、を深く考えずに、どうなった、をやろうとする。
どうやるのかは、自分の眼力に頼るしかない。
もちろん、どうなった、を知るのも眼力だ。
もちろん、どうなったは、どうやるのかとの原因と結果だ。
そして、そのどうやるのかと、どうなったは、常に二重構造で進行している。
どうやるのか、を考えて、どうやるのかをやるとしても、そのどうやるのかの、どうやっているのかというどうなったと表裏一体にある。
大きな意味で、例えば、足を引っ掛けたから相手が転んだ、とすると、足を引っ掛けたという、どうやるのかと、相手が転んだというどうなった、だけが、原因と結果ではない。
足を引っ掛けたは、どうやるのかを一人で実際に動いてみるとすると、それもどうなったがそこに現れているということだ。
その事で、自分のやっていることが、大きな結果である相手が転んだに、結びつくのかどうかを考えていけるのだ。
しかし、大方は先ほどの大きな意味での原因と結果の結果に主きをおいている。
もちろん、それ自体は間違っては無いが、その結果を見る眼力は備わっているのか、育てていたのか、という問題はおざなりにされたまま、あるいは、自然成長的に備わっているままだ。
つまり、放ったらかしだ。
見る目の持たない人が、骨董品を見たところで、価値など分かるはずも無いし、本物か偽者かも判別できない。
というような視点を持つという発想さえないのはおかしいと思わないのだろうか。

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