誰が誰に?
私はよく「それは独り言だろう」という。
それは、「ここはどこ?誰に?何を?」が無く、自分の思ったことだけを発声していることだ。
単純には「場違い」のことだ。
また、思った事を発声している、それが言葉としての表現になっているのだと勘違いしていることでもある。
企業の研修で、私が質問をすると専門用語を多用し、流暢に話をする中間管理職がいた。
話が終わって最後に
「あなたは、自分が馬鹿だということを表現していましたが、そう他人から見られたかったのでしょうか」
と指摘した事がある。
会場は大爆笑だったが、果たしてその場にいた数人しか、その意味を理解していなかった。
それは、専門用語を聞いていただけで、その人そのものを聞いていなかったのだ。専門用語を聞きたいだけなら、それは誰であってもよい。
聞く側も実は何を聞かなければいけないのかを分かっていなかったのだ。
自分が抱く自分に対するイメージ、つまり、自分の思っている自分は、他人の見ている自分ではない。
そのことに気付いた人にとっては、「表現」という大きな壁があり、そのことに気付かない人にとっては、永久に「私を分かってくれない」つまり、関係の問題を自分から他人へと問題転嫁するのだ。
そんなことをつくづく考えさせられた「北村成美リバイバル公演」だった。