ダンスが「好き」

どうも日本でダンスを好きだという人の言葉は信じられない。
特にコンテンポラリーダンス界の人は信じられない。
普段の素振りに「ダンスが好き」が見られないからだ。
フォーサイスカンパニーや、NDTの人達を見ていると、何気ない日常の中にもダンスが身体から見える。
だから、「本当にダンスが好き、身体を動かすのが好きなのだな」ということが伝わってくる。
安藤洋子さんにしても、島地君にしても、それが伝わってくる。
それは、山田君や高原さんからも同種の匂いとして伝わってくる。
もちろん、それと表現が素晴らしいかどうかは別だ。
しかし、ダンスを好きだという身体がある、というのは基本的なことだ。
だから、そんな人達に「ここをこすればもっと、自分の思うように出来るよ」とアドバイスするのは楽しい。
その一言で、色々と工夫をするからだ。
自分の場に対しての工夫だ。
だから、どんどん声をかけたくなる。
そして、声をかけて欲しいと身体が言っているのが分かる。
それに引き換え、ダンスを好きだとは言っているが、それが身体から見えない人は、声をかけて欲しいという身体ではない。
逆に声をかけていらないと、拒否をしている感じがする。
私はそれに反応して声は出て来ない。
それってどういうことだろう、と何時も思う。
多分、ダンスを好きだと「思っているだけ」なのではないか、ということだ。
何故なら、好きであれば色々と工夫をする筈なのだが、それが見えないからだ。
直ぐに飽きてしまうように見える。
あるいは、どうしていいのか分からないように見える。
どうして?どうも言葉というのは曖昧でいけない。
「ダンスを好き」という言葉を、どのレベルで用いているのか、そこが見えないからだ。
共通言語としての、恐ろしく中和された「ダンスが好き」なのだろう。
私には「○○が好き」という「好き」には基準がある。
前述したように、安藤さんや島地君、そして山田君や高原さんの「好き」が見える事が、最低ラインとしてあるのだ。
つまり、それ以下の「好き」の人達に対しても、同等の扱いをするということだ。
ということは、そこで温度差があり、様々な行き違いも生まれる。
しかし、それは仕方の無いことでもある。
それが私なのだから。
先日の東京でのワークショップで、嬉しい報告を受けた。
沖縄で知り合ったダンサー志望だった女の子。その子が、ダンスを諦めサーカスの道へ踏み出した。
そして、ロスアンゼルスのシルクド・ソレイユの登録メンバーに選ばれたという。
彼女は好きだったのだ。
美しいもの、身体を動かして表現すること、それが好きだったのだ。
だから、自ら別の道を選び、そこに挑戦した。
「好き」というのは、そんな力を持ったものなのだ。

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