貧弱な舞台
昨年は岡山と埼玉で公演をし、今年は東京と神戸公演。舞台が続いていると、それはそれで面白い。
というのは、私自身の過去、つまり、ジャズをやっていた頃の舞台や演劇の音楽を作ったりしていた頃、母の舞踊の舞台、叔母の常磐津の舞台、衣装を作っていた大衆演劇の舞台他、私が関わったり当事者だった頃を思い出す。
その事で、そういった舞台を統合した何かが言葉として、今整理され口をついて出て来るからだ。
むろん、昔は良かった、という懐古趣味的妄想の話ではない。
そんな様々な舞台を体験していると、現在の舞台の貧弱さが目につく。
昨日は照明の話しになった。
照明機材の発達が、舞台空間を変えていっている。
それは、ある意味で素晴らしい事だ。
しかし、私が知っている舞台は、アナログそのものだったから、照明技師の腕一つで、舞台に立つ人が死ぬか生きるかになる。
現在は、パソコン抜きでは成り立たない。
しかし、パソコンにプログラミングしたもの、そのプログラム通りでなければ成立しない舞台と、舞台での進行に合わせてどうとでも対応できる照明と、と言えば、私は後者を選ぶ。
プログラミングした照明が悪い、と一概には言えないが、何が起こるか分からない舞台には対応できない。
何も起こらない舞台では、つまり、計算だけで作られた舞台には完全に適応する。
それはショービジネスの世界の話しだ。
その世界の舞台と、演者の「生=リアル」が売り物の舞台とは、自ずと異なる。
以前、私の作った舞台でどう見ていても照明のタイミングが悪かったので、ここをもう少し遅らせてくれ、と言うと、「何秒ですか」と返事された。
何秒なのかではなく、見ていたら気持ちの流れが分かるだろうに。
それが分からない、見えないのだろうと思った。
そういった生の鼓動が好きで照明しているのではなく、照明という技術を習ってやっているだけ、そして、そのプログラム技術が好きなだけでやっているとしか思えない。
そんな人は、明りそのものの事を、やたらと分析的に知っている。
もちろん、それも大事な事だが、それを現場で有効にどう使えるかということの方が、当たり前だが大事だし、それが目的の筈だ。
そんな話が通用しない技術人が増えている。
そうなると、私は古いのかもしれないと思う。
しかし、演者の気持ちの流れを体感出来ない人と、関わる事は出来ない。
関わりたくない。
そういうことを最も体感できる人が、様々な舞台を作っているのであって、そうではない人は作ってはいけない、と私は思う。