「稽古の意味=意識の統一性が運動身体を作りだす」

「私は今、何をしているのか」
「トレーニング版バカの壁」

「稽古の意味=意識の統一性が運動身体を作りだす」

バレエ・様々なダンス・様々なスポーツにとって、そして、表現者の身体にとって大切な要素は、目的に対して「意識が統一されている(一つは目的に向かって、一つは、目的と運動との関係)」という事です。
それは、その身体運動そのものが“表現”であったり、“競技として何らかの結果を出さなければいけないもの”だからです。
もしも、目的に向って意識が統一されていない表現の場合、それは観客を幻から現実へと引き戻してしまいます。
つまり、表現者の意図する表現にはならないばかりか、表現身体以前の「生の身体」もしくは下品な「思い込みの身体」を観客に見せることになるということです。
また、それが結果を求められる競技の場合、意識と身体運動とが統一されていないのですから、良い結果を残せることはありません。

では、なぜここでいう「意識が統一される」という事について言及しないのでしょう。
それは、この一番大切な要素を、表現者あるいは競技者に委ねられているからなのです。
逆に言えば、この要素は、自然成長的に成長すると考えられているからです。
もしくは“センス”という一言で括ってしまって、ブラックボックス化してしまっているからです。
例えば、バレエのレッスンを積み重ねることで、この要素は培うことが出きる、というようなことです。
しかし、残念ながら、その個人に委ねられている、という点から生まれてくるのはごく一部の天才(センスの良い人)であって、残りの多くの人にはこの要素は育ちません。
なぜなら、この要素が必要なことを知らないからです。
レッスンにおいて一番知っておかなければならないこと、それは、自分自身の身体を巡る“意識と身体運動の目的そのものとは層構造になっている”という点です。
そして、それらは“常に段階的に取り組んでいかなければならないもの”であって、レッスンの質が変わっても、百年一日の如く意識レベルが同じであれば、運動には熟練しますが運動の質は向上しません。
つまり、目的は達成されないという事です。

武術や格闘技の稽古やバレエ・ダンスのレッスンを見ていて一番気になるのは、皆の「意識が散漫」という事です。もしくは、「意識が途切れている」です。
それは、運動のテーマそのものの動きに対して(運動の順番など)、自分自身がその運動に注意を向けることに対して(運動の順番を注意している自分に対して)、また、運動そのものの目的に対して、といったその運動を支える内的な対象に対して、「意識が散漫・意識が途切れている」という事です。
つまり、意識と運動、運動そのもの、意識そのものが「散漫であり途切れている」という事です。
簡単に武術の「突き」を例で説明すれば、例えば、左右連続して突きを出すとして、右腕を前方に突きだす時と続く左腕を突きだす時の「意識が変化している」という事です。
また、一歩前進して右突きを出すとした時で言えば、静止の状態で右突きを用意した時、一歩前進しようとした時、足が停止した時、それぞれで「意識は途切れ」ています。
そして、後に下がるという動作をしている時は「全く違う意識」になり、改めて左突きを用意した時、一歩踏みだす時、停止した時、それぞれの動作の区切り目で「意識が途切れるもしくは意識が変化する」という事です。
これでは、厳密な意味での「運動する身体」を形成することは出来ません。
というのは、具体的肉体運動としては一つの身体であり時間的にも、左右の突きを出すという動作は連なっていますが、それぞれの動作の区切り目で意識が途切れているので「身体に目的の運動を一連の運動として記憶させることが出来ない」のです。
具体的には、筋肉に記憶させることが出来ない、つまり、意識の途切れがバラバラの“運動身体体”を作りだしている、という事です。
結果として、その運動に隙間が出来、運動ロスが発生したり、頭には雑念が入り込む余地を与えているという事になり、余計な思いが頭を埋める事になるのです。

しかし、ここで問題にしていることは、殆どの人に自覚がない事です。
ですから、こういった問題提起をしても、キョトンとした顔をします。
という事は、どういう事でしょう。
それは、“自分自身が自分の起こしている行動に対して全く責任を持っていない”という事です。
「えっ!そんなはずは無い」と皆が思います。
しかし、もしも自分の行動に対して責任を持っているのなら、この一番大切なことに気付くはずなのです。
なぜなら、自分の行動を管理しているはずの自分を知らないなんてバカみたいなことだからです。

これらの一番大きな原因は、“自分自身の思っている事に熱中している”事が上げられます。
といえば、訳が分からないでしょうが、例えば突きなら突きを、ひたすら汗をかいて反復練習している自分に熱中している(単にその気になっているだけ)という事です。
つまり、目的のテーマに熱中するのではなく、自分の行為や思いに熱中しているという“幻想に熱中している”という事です。
熱中しているのですから、自分の身体の管理などできるはずもありませんが、大方の人はこの自分に熱中する、という事と稽古をするレッスンをするとの区別がつかないので目的を達成できないでいるのです。

もちろん、自分に熱中する、という事で通用するレベル、そして、自分さえ満足すれば良いという目的、例えば趣味の世界はそれで良いのです。
しかし、どんなジャンルでもプロだと名のつくもの、もしくは、世界で活躍しようとしているアマチュアスポーツの世界では、自分に熱中している、というレベルでは目的を達成することは不可能だと断言しておきましょう(アメリカ大リーグで活躍するイチロー選手は取材に答えて『……というトレーニングが、選手イチローの能力を引きだすのに一番最適な方法なのです』と、見事に自分自身を客観的にプロデュースした発言をしています。
つまり、このイチロー選手のやっている事がレッスンであり稽古だという事です)。
そして、別の原因としては、この例で言えば、「突き」の見本(テーマ)を自分なりに解釈してしまう事です。
そのことにより、自分の解釈しているところにだけ注意が向き、解釈していないところ、解釈できないところは全く注意されないという事が起こります。
つまり、身体に対する「意識が途切れている・意識が分裂している」です。
ですから、解釈というものを導入することで、運動をバラバラにしてしまっているという結果になったり、全く別の、つまり、自分なりの「突き」を作りだすという結果になるのですから、見本(テーマ)はいらない、教えてもらっているのに教えてもらう必要がない、という訳の分からない事態を現実に起しているのです。

運動に隙間ができ運動ロスの発生の原因は、意識の現れですから、当然意識の隙間に雑念が入り込み余計な思いが頭を埋めるという事の原因にもなります。ですから、例えば試合の時に「その場でやらなければならない事」に集中できずに、例え出来ていたとしても隙間が発生するのですから、余計なこと、例えば「勝たなければ」とか、「腕が思うように動かない」といった雑念が身体を支配するという事に繋がります。
当然、自分の思うような結果を出せない、という事になるのです。

もちろん、それがバレエ等の表現の世界であれば、「うまくやらなければ」「失敗しないように」等と、当然のことを重複させること(意識の重複化〕による身体運動(操作)の混乱が無意識の内に起こり、良い結果を残せないのです。
この「意識が散漫・意識が途切れる」というのが、取り組んでいる自分自身の本来の姿です。
如何なるジャンルでもレッスンの目的の本質は、その本来の姿をレベルアップさせる事であり、“目的の運動身体体を形成すること”です。

つまり、いかなるジャンルであっても、そのジャンル固有の運動形式で自分自身を作っていくことがレッスンや稽古の目的です。
ですから、ジャンル固有の定規が身に付き“ジャンルらしく”なったり、ジャンルを保存したり存続させたりするのであって、形式に“自分自身を持ち込む事ではない”のです。
くれぐれも“自分なりに”という言葉に振り回されないようにしましょう。

この「意識の統一」を獲得するためには、自分が取り組むジャンル、そして、ジャンルそのものの持つ目的、個別の運動、その個別の運動を支えるパーツ分けされた個別の運動等が階層構造になっていることを理解しておかなければなりませんし、常にその階層を意識して取り組まなければ駄目だということです。

それが冒頭にある“常に段階的に取り組んでいかなければならないもの”にかかってくるのです。
例えばバレエを例にいうと、自分が取り組むジャンルは“バレエ”です。
そして、そのものの持つ目的は“身体を使った舞台表現”です。
個別の運動とは“振り付けられた形式”で、それを支えるパーツ分けされた個別の運動は“バーなどを使った基礎的運動”になります。

まず一番下の階層、つまり、常に自分自身が自覚しておかなければならないもの、もしくは、日常化されていなければならない事は“自分はバレエに取り組んでいる”という意識です。
という事は、そこから、「バレエとは?」「バレエに見る美とは?」「表現とは?」その他諸々の問題が沸き上がってくるはずです。
それら沸き上がってきた問題の答えを出すのではなく、また、文献や先輩諸氏が発言したこと、発言していることを理解するのではなく、自分自身の体験の中である種の答えがイメージとして沸き上がってくるまで問題を持ち続けるという作業が必要なのです。

そして、その問題を常に頭において“舞台表現”を乗せます。
そこでも先程と同じように様々な問題を抱え込みます。
ここまでは、どちらかと言えば頭の作業で主に
想像力が要求されます。
これが無ければ、抱え込んでいる様々な問題を一つにまとめたり、何かをきっかけにまとまったりしません。
それらを土台にして、“振り付けられた形式”という具体的身体運動が展開されるのです。この時点で“振り付けられた形式”という具体的身体運動は、「体操」から「表現」へと身体の深みを獲得することになりますが、ここまでの土台が常に自分を支えていなければ舞台表現の方向や質が決定されません。
土台が無ければ永久に体操の域を出ないということです。

そして、“バーなどを使った基礎的運動”ですが、ここまでの土台を表現するための基本的な身体操作ですから、当然、あらゆる基礎的運動はこの土台に結びついていなければなりません。
そして、その基礎的運動の繰り返しは土台に向うためにあるものですから、段階的に取り組めなければならないのです。つまり、
その都度テーマを見つけ取り組まなければいけないという事です。
しかし、この順序は全く逆のように見えるでしょう。
そうです、一般的にはこの逆から入ります。
当然、例えばバレエや音楽他、あらゆる芸術は子供の頃から取り組みますから、逆からしか入ることは出来ません。
しかし、ここでいう土台は実は形成されていくのです。
何故でしょう?それは、一流の人という手本であり、それに取り組む感性の動きがこちら側にあるからです。
その手本から土台がイメージされたり、手本をイメージとして取り入れることによって、イメージに沿った身体操作が可能になります。
ですから、そのイメージを再現することで自分自身はイメージに近づくことが出来、やがてはプリマドンナであるとか、プリンシバルに到達する可能性が出てくるのです。

つまり、イメージというのはこれらの土台を彷彿させるものでなければいけない、ということは、ここで言う土台を体現している一流の人を手本としなければならない、という事です。
イメージは本体そのものです。ですから、こちらの解釈を超え、こちら側のそれぞれのレベルでは見る事が出来ない全体を含んでいるものです。
ですから、ここでこちらの勝手な解釈を働かせれば、その全体を取り込むことが出来なくなるのです。

 ●ギエムという芸術

「私は今、何をしているのか」


「今、何をしているのか?」
これは、日常の全ての行動に当てはまる問題(質問)です。
したがって、この質問を投げ掛ければ「人は、自分が何をしているのか知らない」という奇妙さを知ることが出きます。


「今、何をしているのか」

例えば、私の道場で生徒達が稽古をしているのを観察していると、ほとんどの人が「今、何をしているのか」を分かっていないことが、稽古から見えてきます。
全員黙々と身体を動かしているだけなのです。
その黙々と、の中身は大方が「自分自身が抱いている幻想の中にドップリ浸かっている」や「こうであろうという勝手な解釈」、もしくは、稽古のために指示したこちらの言葉、例えば、「腕を触るだけ」であれば、“腕を触るだけ”という言葉を、お題目のように頭の中で唱えているかです。
と言葉化すれば、奇妙に思われる方がおられるでしょうが、実際こうなのです。
ですから、ここの時点で「今何をしているのか」という問いには、「自分自身が抱いている幻想の中にドップリ浸かっている」「こうであろうという勝手な解釈」“腕を触るだけ”という言葉を、お題目のように頭の中で唱えている、という答えなのですが、残念ながらそういった答えは返ってきません。
だから、「今何をしているのか知らない」になるのです。
大方は、「武道をしています」と答えるでしょうが、残念ながら実際の行動はこれ等なのです。 
身体を動かすことだけが稽古ならこれ程楽なことはありません。
身体を動かすことだけで上達するのならこれ程楽なことはありません。
そして、頭の中身と実際の行動とが掛け離れているにも関わらず上達するのであれば、与えられた課題を消化するだけで何かが出きるようになるのなら、これまた楽で仕方がありません。


「今、何をしているのか」

それは改めて考えなければならない問題なのか、それとも、考えなくともすでに理解して取り組んでいなければならない事柄なのか。
一般的には、すでに理解している事だと思っています。
しかし、一歩踏み込んで見ると冒頭にあるように「自分は何をしているのかを知らない」という事実に突き当たってしまうのです。


「今、何をしているのか」

例えば私の道場ならば「武道をしています」あるいは「突きをしています・組み手をしています」と答えが返ってくるでしょう。
それは誰にでも分かるし、誰にでも見えていることです。
じゃあ、「あなたが『今』行動している『武道って何なんでしょうか』」「突きとは何?」「組み手って何?」と、突っ込んだときどんな答えが返ってくるのか、もしくは返ってこないのか。
あなたがしている武道というのは体操と同じなのですか?あなたのしている突きは、腕を伸ばす体操なのですか?あなたのしている組み手は、子供の殴り合いなのですか?喧嘩の稽古なのでしょうか?大衆演劇のような泥臭い芝居なのでしょうか?
そこには、何が抜け落ちているのか?
例えば、ここでいう「突きって?組み手って?武道って?」から云えば、何が目的で何を手段としているのか、が明確化されていない、という事が問題なのです。
それが明確ではないから、あらゆる事が目的に転嫁してしまっている、という事です。
つまり、本末転倒なのですが、それは、何が目的で何が手段なのかが明確ではないから起こる矛盾なのです。


「今何をしているのか」

例えば一つの動きを、私が習ったとしましょう。
それは、いわゆる「突き」だったとした時、その運動を自分自身の身体が納得するまで続けます。
その納得とは、自分の身体が「今稽古していることが、突きだという答えを出してくれるまで」やり続ける事です。
そこまでは「何をしているのか」に対する答えは出しません。
つまり、身体が答えを出していない場合、答えとしてある「突き」は、私にとっては単なる言葉に過ぎないからです。

しかし、「何をしているのか」という自問自答をし続けます。
つまり、冒頭から書き続いている皆への投げかけは、実は私自身が自分の中で行っている作業なのです。
何故そうするのか?それは、この私の例でいえば、「突き」を習った、という事ですが、「じゃあ、何故突きを習ったのか?」がその前にあります。
つまり、私自身の目的です。その目的を満たす為に手段としての「突き」なのです。
その時に、私の目的に対しての「突き」になっていくのかどうか、なっているのかどうかが問題ですから、常に目的とこの手段を付き合わせをします。

例えば、「武術」に取り組むとした時の「突き」だとすれば、私のいう「武術」というのは一体なんだ?が、大きい問題としてあり、そこから、この突きはその武術を構成する要因としての突きなのかどうなのか、と目的と手段とを付き合わせるのです。
そして、私のいう「武術」というのは一体なんだ?の、ある程度の答えが出たとき、その答えは「私としてどんな意味があるのか」という、新たな問い掛けを持ちます。

つまり、自分自身という主体が取り組むべき価値があるのかないのか、もしもなければその答えは浅いものですから、もっと深い答えが出てくるまで問い掛け続けます。
それは、その時点での「突き」を止めて問い掛けるのではありません。
その「突き」を答えが出るまでひたすら続けながら、問い掛けながらという事です。

もちろん、一回では無いですよ。
永遠にですよ。
つまり、これを書いている現時点でも問いかけている、という事です。
ですから、その「突き」を構成する“身体運動の要素”、さらには「武術とは」といった“思想”が明確になりながら取り組むことが出来、同時にその突きは、武術としての突きに成長していくのです。
そういった経過が、新たな発見や今迄の間違いに気付いたりもさせるのです。
そして、それらは全て「私という主体」へ還元されるのです。
その還元されたもので私を形成する、つまり、「道」を歩いているのです。

では私は何故そう考えるのか?それには最も単純な答えを持っています。
「それをするのは、つまり、その目的を持ったのは私そのものだから」です。
私は、私の行動していることが、私の目的に合致していないという事を許さないのです。
何故なら、全ては私の人生だからです。
というところで、あなたはあなたを生きているのですか?

「ギエムという芸術」
意識と稽古
 ●関根選手ワールドカップで3位入賞 ●トレーニングの仕方 ●メンタルトレーニング?

 

「トレーニング版バカの壁」


稽古とは、何かを学び取る事であり最も「具体的な作業」だ。
身体を使った具体的な作業、そこには、何一つ曖昧なものはない。
例えば、「威力のある突き」を目指すとした時に、そこに必要な要素は「スピードと体重の移動」だ。
そして、そのスピードはある特定の姿勢からしか出せないものではなく、どんな姿勢からでもという条件が付く。
そして、体重の移動だ。
この場合もある特定の姿勢から、ではなくどんな姿勢からでも、である。

であれば、どんな順序で身体を組み上げていかなければならないのか、そこに順序の違いはあったところで、要素の違いがあるはずもない。要素が満たされなければその目的は果たせないからだ。
つまり、具体として現れる事はない、ということである。
明確な要素と明確な組み立てが「威力のある突き」を具現化するのである。
という具体であるから、その過程は全て具体である。
具体だから目的が実現するのであって、具体でなければ何も実現しない。
幻の目標に向かって、幻のはしごを作り上るというのが、何事も実現させない為の象徴である。
であるから、当然目的を実現する事など出来ない。
何故なら、この場合の目的は幻であり実際にはないのだから。

ここでいう「幻の」というのは、ほとんどが言葉だ。
例えば、先ほどの威力のある突きとした時、それは中国では「発勁」と呼ばれているので、「発勁」という言葉を使う。これが「幻」だという事だ。
「発勁」という実際が目の前にあった時、それは実現性を持つ。
つまり、「発勁」の実際を見た、具体を目にした、であれば、目標は発勁という言葉ではなく、その「実際・具体」でありそれがイメージとして焼き付いているのだから、何かしらの手がかりを探る事は可能である。
しかし、言葉としての発勁には何一つ具体はない。
そこにあるのは説明的意味としての言葉である。

つまり、何一つ具体はそこにはないのだから実現しない、「幻」なのだから実現しないという事である。
このトリックに多くの人が引っかかり、上達停止状態になってしまっているのだ。
しかし、そのトリックは、自分の外にあるのではなく、まぎれもなく自分自身の頭がトリックを作り出すと同時に引っかかっているのである。
目的は「具体」だから実現する、この当たり前の事をもっともった認識する必要がある。

先日20才の青年にそういった質問をされた。
どうすれば「発勁」が出来るようになるの?「浮き身」は素早い動きなの?これらは小学生レベルの質問だ。
つまり、自分自身の行動の、もしくは、トレーニングの中で生まれた疑問ではなく、頭の中に漂っている単なる「言葉」であって、そこに何一つ具体化させるための手だてを持たない。
つまり、質問に対する答えがあった時、その答えを実現させるための能力が全くない、という状態の事である。
自分自身のトレーニングの中で、もしくは稽古の中での疑問とした時、こんな漠然として夢のような疑問が出るはずもない。
トレーニングは具体だからだ。
それらの質問に対して、答えてあげたのだが、そのことがどんな意味を持っているのか。
つまり、先ほど記したように、答えを聞いても何一つ具体的に行動出来ない、という事を知らない人間である、という前提をどうするのか?だ。

その質問の答えは簡単だ。
身体をどこからでも連動出来るようにする事、浮き身は知らないから、具体的にどんな運動なのかやって見せてほしい、という二つだ。
もちろん、私のいう連動など5年掛かっても出来るか出来ないか、という代物だが、言葉では簡単に発する事は出来るから、「こうだよ」というと、「はい、分かりました」と答える。私は思わず「えっ」となった。
何が分かったというのだろう。
言葉を聞いたら出来るとでも思っているのだろうか。
それでは小学生以下だ。
それが「幻」に引っかかっている、という事なのである。

また、フットワーク云々の事になった時、面倒だから「k-1のミルコは強いでしょう、ミルコは飛び跳ねるようなフットワークはしないけど相手の懐に入るのが早いでしょう、であれば、ミルコの真似をしたらいいのですよ」と答えたら目が点になっていた。
つまり、これも具体であって幻ではない、という事だ。
具体的にミルコは飛び跳ねない、しかも、素早く相手を捉える、という具体的運動をしているのだ。
だから、その具体を目標や目的にすればよいのであって、「フットワークで素早く」という言葉の幻を排除しなければ駄目なのである。
これとて、非常に不思議な事だ。
例えば、何かしらの競技で優勝したい、というのは具体ではないのだろうか。
夢の中で優勝すれば良いのだろうか?
私であれば、現実のこの社会にある競技で優勝したい、だから、目的に沿ったトレーニングを考えそして実行する。
もちろん、結果は優勝になるのかすぐに敗れるのか、それはやってみなければ分からない。
しかし、実際に優勝したい、であれば、改めてトレーニング方法を考えるだろう。

東京セミナーに参加している常連の人との会話
「日野武道研究所には夢がないですよね、現実しか、でも武道とかをやっている人は、夢を見たいのではないでしょうか?」
「いや、夢を追いかけるんやで、例えば、火星に人を着陸させよう、という夢を人類は数十年前に持ったんや、だから、その夢を実現する為に『具体的作業を積み重ねた』だから、今、火星探査機が火星で活躍しているんや。つまり、夢を実現させるには超現実的な具体的作業の連続しかないんや」
「そうですよね、でも、皆は最初から最後まで夢の中にいるようです、それはここで稽古させてもらっているから分かる事で、向こうにいてたら皆とまだ一緒ですよ、だから、秘伝で先生が書いている事は分かりにくい、といい、どうとでも取れるような事を書いているのを分かりやすい、というんですよね」
「まあな、ある意味で私の書いているのは数学の公式のようなモノだから、あるレベルでないと分からないで、小学生の低学年に高等数学の定理が分からないのと一緒や、でも、それやったら積み重ねたら分かってくるやろ、それと一緒で、積み重ねなかったら何も出来ない、私の話している事は分からない、という事やねんで」

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