人間関係が得意になる

次回の第100回熊野武禅一の行特別行会は今秋頃の予定です。

参加者の声

 「達人入門2」で「武禅」は取り上げられています  ●禅について  

第99回「武禅一の行行会」レポートより(平成29年3月18日〜20日)

今回は数年ぶりの人や初参加の人、10数年通っている人、数年通っている人と、結構バラエティに富んでいた。

その意味で、どんな展開になるのか予想が付かない「武禅」だった。

もちろん、毎回予想はつかないのだが……。

少し遅れてのスタートは、緊張感が無く中途半端な出だしとなった。

数年参加している人のレポートに「まったりとした雰囲気で始まった」と、行を案じていたことが書かれてあった。

今回は99回目の「武禅一の行」だった。

武道は人と対峙することが基本であり、原則でもある。

この事が、人間関係の基本だと気付くのには時間がかかった。

原因は私の「思い込み」だ。

武道という枠、しかし、「道」ではなく私自身の欲求だけで突っ走っていたからである。

その意味で「道」に気付けなかったのだ。

というように、どんなことでも自分自身の人生の中に、全ての人の要素はあるのだ。

その意味で「武禅」は、私自身をも成長させてくれているのだ。

ワークショップや教室でも話す事は、「きっと、誰よりも私の方が学んでいるよ」と。

「先生、また進化していますね」常連の人が言う。

だから、「武禅」はマイナーチェンジを繰り返す。

基本的には同じことをやっているのだが、若干変わるのだ。

それは、行会に参加した人達からの影響を受けるからだ。

その人たちにとって、どの方法が一番気付きやすいか、あるいは、理解しやすいか、応用しやすいか、実感しやすいか、日常に持ち込みやすいか。

そういった事を始終考えているからだ。

今回も新しいワークが生まれた。

それは今回の参加者の様子から発見したものだ。

しかし、場当たり的なことではない。

100回目の「武禅」でも行う筈だ。

実感しやすいのだ。

その意味では、このアプローチはどの場でも使えるものだ。

今回は、「明鏡塾」を受講してくれている医療関係者も参加していた。

もちろん、「武禅」に医療関係者の参加は珍しくない。

今回も、臨床心理士の先生もいるし、カナダ在住の鍼灸師もいる。

だから、今回の医療関係者は5名いた。

医療関係者にとっては、患者さんとの向かい合いは絶対条件だから、誰よりも熱心な取り組み方をする。

そうなると、単純に「人間関係をよくしたい」的な目的の人とは、完全に差が付いてしまう。

もちろん、本来的に言えば差が付くのは、そういった目的の事ではなく、ワークそのものをどんな視点で取り組むのか、の違いが差を生んでいくのだ。

しかし、人それぞれのペースというか、求めるものの違いというか、そういったことがあるので差とは別のものでもある。

とはいっても同じ場で、同じワークをするのだから、相互に影響し合う。

その影響が良い方向に受け取れる人と、関係性を学びに来ている筈なのに、自分の殻から全く出て来ない人もいる。

もったいない限りだ。

しかし、それが社会だ。

当然「武禅」も同じ小さな社会である。

常連の一人が「あれで24歳とは、恐ろしささえ感じる。自分は何をやっているのか?」と、直球で影響を受けた人もいる。

人と向かい合う

自己紹介

 

初日にやった人との「聴く」は、初日とは全然変わってきていてビックリした。
相手の歌は聴きやすくなっていた。
聴きやすいという印象を持ったのは、相手の歌が届いてきているというのと、自分自身の耳で聴く事の質が上がってきていることがある。
徐々に質は変わってきているという実感はあったが、最後はまるっきり変化していた。

 

K君と組めたことはとても大きかった。
彼の取り組み方、見ている視点に、とてもヒントを貰った。
彼のアドバイス、感想がスーッと受け取れるのは、そして、受取り易いのは何故か。
声を届ける時のHさんのアドバイス、感想は入って来ない。
頭の中の分析と、具体的に感じたところからの話しているのかの違いだろうか?

 

最初に撮った写真は、まさに幽霊としか言えなかった。
この顔はあかんやろと思うが、実際日々こんな顔をして生活しているのだ。
ナマムギの後、再び写真。
その違いに驚く。
後の写真には、きちんと生気が宿っていたからだ。
普段から生気を抑え込んで生きている事に気付く。

 

私が向かい合おうとした時の、相手の方の私に対する感想は、「ただ突っ立っているだけ・遠い感じがする・こういうことを真似てすれば良いのだろうという、どこかで高を括った感じ・形を真似ているだけ・地蔵のよう」等々というものであった。
向かい合う気持ちを強くしよう、しっかり見よう、もっと感じようと思っても、「独りよがり・自分だけ熱くなっている・私に向かい合っていない・自分のことだけを気にしている」との感想を受けた。
結局、全て自己満足でしかなかった。
「武禅」の場で、相手の方はハッキリ私に対して感想を言ってくれて、私自身はこんなにも思い込みの中で、自分勝手に自分を良いように考えていただけであったことを知りました。
やろうと思っている事が出来ておらず、それにもかかわらず出来ていると勘違いの自分が日常なのだという事を知りました。

 

「聴く」ということ。
これが自分にとっては最も難しく、「ただ聴く」「ちゃんと聴く」これが本当に出来たら、相手と本当に良い関係が結べるのだろうなと思う。

先生の言葉で「自分がちゃんとすべきことをしていれば、相手は気持ちいいし、それが結果、相手に貢献していることになる」があった。
自分は心理学で貢献感こそ最も大切な事と受け取っていたが、それよりも前の段階でもう達成されること…でした。

 

自己紹介程、自意識がでるものは無いなと痛感!
自分の情報というモノが、こんなにも喋りにくいものなのかと共に、普段自分を分かって貰いたい気持ちも持っている事に気付き、自意識過剰の人見知りって最悪だなと思いました。
皆、多かれ少なかれそういうモノで葛藤していて、この「武禅」の場に来てるのだと、改めて考えました。

 

初日、Oさんにかなり突っ込まれたおかげで「悔しい!」気持ちが沸々と湧き上がったのが、今回の武禅のスタートでした。
お互いが歌いながら、私は初日のOさんに対して「なんだか、いちいち突っ込むな〜本当かよ〜!」と少しむかついた事、その後引っ掛かる言葉があって「悔しい見てろよ〜次!」とやる気に火が付いたのを思い返していました。
おかげ様で最終日まで、やる気に火が付いたままこれました。本当に関係性です。
感謝の一言です。

 

「座れ」と声をかけるワークでは、大声を出せば座ってくれるという思い込みが出ていた。
今までの「声を届ける」ワークでは、おそらくハッキリしない部分だったが、それが如実に明るみにでた。
写真で撮ると、本当にふざけた顔だった。
まだまだ殻がある。
もっと出していかないといけないし、余裕を残してはいけない。

 

Hさんの自己紹介を先生が聴き役に回った時、Hさんの話をどんどん引き出され、場が盛り上がって行くのを感じた。
受けによってこれだけ場の空気が変わってしまう事に驚いた。
逆に、場に影響が出ないという事は、他の要素も含めて相手の話をちゃんと聴けていないという事かもしれない。

 

「他人の為にしてやれる事を考えるのではなく、自分がするべき事をした事が、他人にとって役に立つ事がある」「自分のちゃんとした事は他人に伝わるし、他人のちゃんとした事は自分に伝わる」その2つの言葉が、凄く印象に残っています。

 

美味しい料理

夜食

伝える

1対2

 

今日、初めて自分自身で発見した。
オイに関わる指先が何と「オイ」とは関係が無いという事。
今迄は気持ちの優先が指先の事を気付かせなくしていた様に思います。
ですが、今回「オイ」をやっている時、ふと自分の指先が自分の内から出る「オイ」を殺していると気付きました。
内から出ている「オイ」の方向性と指先が一致していないという事実に、改めて自分の指を誘導しているこの「身体は何?」。
ある種、初めて無意識的に身体を使っていたことに気付き驚きました。
この事で、指先、手、等に対する見方が変わりました。
自分で気付く事が出来てよかったです。

 

自己紹介をしている時に、自分の話す事ばかりに集中してしまっていて、相手に伝えるということから、どんどんかけ離れてしまっていた。
しかし、目で聴くワークは、お互いの声を引き出すということを、日野先生から意識付けされると声の響きがかなり変わっていた。
そのワークをした後では、自己紹介が相手に伝わりやすくなったし、聴き手の姿勢が変わった。
人と話す時に「何を話そう」など、自分の事で一杯になってしまっていた自分というのが、生活の中で多いが、それは意識を変える事で、相手に届く言葉となり、話しとなるのだと痛感した。

 

口パクにすると、途端に届かなくなる。
声というモノに如何に頼ってきたのがよく分かる。
話すや呼びかけるという行為が雑に行われてきたという事だ。
今まで非常に失礼なことをしてきたんだと思った。

 

「とても弱い」「遠くから見ている」共通して言われた意見はこんなものだった。
それは日常でも自分で感じていることだった。
相手を見て、どこか引いてしまう自分。
引くことで安全地帯へと逃がそうとしている自分が強く感じられた。
結局は、人に判断されることが怖いのだ。
最初、先生がおっしゃっられた「武禅は、足し算というより引き算だということが思い浮かんだ。
こう書いていて気付いたのは、ワーク中も自分のことしか考えていなかったかもしれないということだ。
結局相手を見ていなかった。
自分、自分のループから抜け出したいと強く思う。

 

先生が雑巾を用いた時におっしゃった、抽象的なものを具体に落とす時に、丁寧な“工夫”をするという話が、一番印象に残りました。
普段物事が出来ない時、「どうやったら出来るか?」に意識が働きアイディアを出して、別の方法で取り組んでいる事が有ります。
結果、それが出来るようになったとしても、本来の目的から外れているから、ずっと目指していたことが出来る訳がないのだと、ストンと腑に落ちました。
ずっと、ごまかしているから状態が変わる訳がないということです。
なりたい、やりたいようになる、する、ということを間違ってというか、はき違えてました。

 

Tさんにオイッ!と届ける自らの動画を見て、あまりの省エネぶりが目に付き、舐めている。
相手をそして自分の問題を余りにも舐めていることを知った。

 

一貫して、自分では向かい合おうとしているつもりが、相手には「ただ立っているだけ」「遠い」「形だけ」などとジャッジされた。
出来なくて悔しいと感じるが、その感じ方も弱いと感じる。

 

自分の技術の成長、人間的成長のヒントが盛り込まれていて、1日1日を丁寧に生きて行く。
工夫をして生きて行くことが本当に大切だなと痛感した。

 

「座れ!」のワーク。
座れと言っている自分の写真を見る。
「何だこの表情は」と思う。
自分ではふざけているつもりはなかったのに、完全に半笑いでふざけている表情をしていたことに驚く。
自分が思っている自分が、そのまま他人に見えている自分と同じではない事を思い知る。

 

牛丼

多人数に自己紹介

自己紹介

決断する


「Kは自己紹介をする場面が多いのでは?だからこなれ感が出ている」と感想を貰った時、ハッとした。
確かに私は、色んな現場で自己紹介をすることが多い。
本当は苦手なのに、いや苦手だからここでも「こういうやり方」という方法を使って「そつなく」自己紹介をしていたんだということに気付かされた。
一番初めに先生が「方法を知っても意味はない」と言われたことを思い出すと同時に恥ずかしくなった。
苦手を克服したかのように見えるが、それは本当のそれではないということです。
相手が人であるからこそ、自分を教えてくれるのに、相手を何か物や空気や空間のように扱っていた事は、とても恥ずかしく駄目だと思いました。

 

それにしても若い理学療法士の感覚と集中力には感心しました。
ほぼ、全員が注目しているにもかかわらず、集中を切らさずワークをしている事、その姿が美しかった事が素晴らしかったです。

 

「武禅」に来る前に「こころある理学療法士になりたい」と言葉をメールで送った。
歌を歌い、歩きながら、離れたりしても声が届く。
ルールは多くない。
初日から言われている「目で聴く」というのが深くなっている。
ただそれだけなのに、歌をうたっていると気分が良くなる。
ふと、こういう事が出来ればよいのだと思った。
結果的に「相手を思いやった」ということを実現できればよい。
僕自身、理学療法士をまっとうすればいい。
その中身を深めていけば、それが患者さんの喜び、希望に繋がると感じた。
人為的言葉を並べるのではなく、自分がやるべき事に集中すればよいだけなのだろう。

 

Oさんの全身がどんどんハッキリ見えるようになっていった。
例えていうならば、写真のピントがボヤケていたのが、ピッタリあって浮き上がってくる感じだった。
今までずっとピントのズレた世界で生きて来てボヤケた風景が普通だと思い込んでいた。
人と関係を持てた時の世界は、それは美しくて驚いた。
今まで生きて来た中で、一番美しい光景だったかもしれない。

 

雑巾投げ「オイ」で、Yちゃんへのアドバイスの曖昧さを指摘され、どれだけ日常での出来事を的確に見、考えず過ごしているのか。
ましてや先生という職業で、生徒達に曖昧で、混乱させ、ボャッとした感じ方を促進するようなことを言っていたのか!
しっかりと考え、見、話す内容の具体化をやります!

 

前に座っている相手を後ろから動かす時、手では相手に触れているつもりでも、動かそうとした瞬間抵抗にあう。
自分勝手な意志が顕著に現れた。
今度こそ相手に触れようとするも、動かない相手にしびれを切らしつつ自分勝手に動かそうとしてしまう。
相手の事より、自分のことを優先していた。
後ろから触れられている時、どこか表面にしか触れられていないように感じた。
先生に何の抵抗もなく動かされた時、凄くワクワクした。自分の枠の外の世界に触れた感じだった。
関係性と言葉で言うのは簡単であるけど、その裏にとても深い部分が広がっている事が少しわかった。

最初、みなさんから言われた事、セクションの途中で言われた事、最後の方で言われた事が、どんどん同じことに集約していっていた。
それは「引いている」ということだった。
後半に向かっていって、同じことを又は似ているような事を言われていたので、自分はそういう風に見えているのだと思い知らされた。
それなら、前にもっと気持ちを出してやろうと試したが、自分の思いとは逆に、相手からの印象は「どんどん引いているように見える」だった。
やればやるほど、自分の思いとは逆に行くということは、今しようとしている事が違うのではないかと思った。


客観的な目


自己紹介では、相手に伝えることよりも、自分が話すことに意識が向いてしまい何もできなかった。
頭のなかでは、上手に話そうとか、次に話す事が流れるようにとか、そのことに意識が働いていたのだ。
そういった意識が働くのが分かっているのに、相手に伝えようとしても、ついそちらに引っ張られていた。
「上手に話そう」は、相手に良く思われたいという意識の現れだと思う。
セクション1の「引いている」も人に何かを思われるのが怖いのだと思う。
そこのストッパーを外したいと思う。
やるだけ、やるだけ。

 

先生に聴いて貰った時、今まで見た事の無い光景を見た。
全身を吸い取られるような勢いだった。
ブラックホールに、私のこころの奥底に沈んでいたエネルギーさえも全て引き出された感覚だった。
これが「聴く」なのか。

 

ピラミッドの後、初日に組んだ相手と向かい合った。
2人の歌がすごくよく響き合った。
その瞬間の自分の顔の写真を先生に見せて頂いた。
驚くほど良い顔をしていた。
来た時は、生きているか死んでいるか分からない顔をしていた自分が、こんな表情が出来るのだと感動した。

 

ルールを少なくする為には、人のレベルが必要。
ルールが少ないというのは自由度が広がるということ。
今の日本は真逆にいっている。
相手と向かったまま動いている心地よさ。
別の人も感じられている、ぶつからない。相手の為に気持ちよくさせよう、というのは偽善だと言われた。
今日の体験のあと理屈抜きで、そんな思いは偽善だと分かった。

 

1対5の時は、突っ込みがきびしくなった為、駄目だしが多く入った。
それはまだ捉える力が弱く、捉えるまで時間がかかってしまうからだろう。
そんな事はどうでもよく、誰かに直接言われたことではなく、自分で試した事で方向が間違っていなかったというより、方向が見えたことが嬉しかった。

 

10人で同じ歌を歌うワーク。
ビックリするほど気持ちよく歌えた。
自分の声がまさにそこにピッタリはまっている感覚。
自分の居場所がそこに存在するという感覚に思わず気分が上がる。
もっともっと続けて歌いたい。そんな気持ちになった。
一体何がどう変わってそうなったのか。

 

身体で聴くのワークでは「手」が、本当に大事だと思う。
自分が相手を動かすというのか、それよりも相手が動くというのを念頭に置かないといけない。
主語は常に「相手」だ。
先生の手本を見ていると、先生が楽器を奏でているように見えた。
相手の奥の響きを感じているのが見て取れた。
だから、楽器を奏でているように見えたのだと思う。
相手の身体の響きを聴くは「明鏡塾」から取り組んで来た。
そのスピードが以前より早くなっている事を体感した。
これも永遠の課題であり、より早く深く入れるようにする事が大事。

 

「これをやる?」やることか、トライすることが明確でないと集中は生まれないと、当たり前の事にハッとした。
具体的に何をトライしたら、変化が生まれるのか。
その為にどこを感覚したら良いのか、それを見つける事が「考える」こと。
そして変化があったら検証する。
ここが無い。
考えていないから検証もないのだと思う。

 

カメラで歌っている姿を撮ると、自分の姿が非常に醜かった。
そして、早口言葉、やワーの連続の後は、クリアな姿に変わっていた。
エネルギーを日常では温存しているのが分かる。
如何に日常の中で開けている自分を作るかが課題だろう。

 

夕食

おかず

呼ぶ

意識を届かせる

 

相手の背中越しに「オイ」。
自分の声が散らばってしまっている。
言葉を目標に向けて届ける時に、どこを目標にするかが曖昧になっていることに気が付いた。
相手の背中としたら、背中のどこなのか?や、背中だと漠然としているから、髪の毛の一つを目標物として声を出してみるなどをしてみた。
そうすると、「少しはくる感じがする」という言葉を貰った。
注意していくところを細かくしていくと、意思が届きやすくなることが検証されたので、これからも試そうと思う。

 

タオルを投げるという日常的に行えそうな行動でも、相手がいなければ成立しない。
その行為の中身というのは、どのくらい考えて行動しているか。
そこが問われている。
ワークをしていて、先生が言われた言葉、見本を通じて意識が変わる。
それによって、ワークの中身が変わってくる。
つまり、生活の中で、我々個人が意識を変える、行動の中身を掘り下げる事が出来れば、生活の中で必ず成長することが出来る。
先生がおっしゃる言葉によって、気が引き締まった。

 

相手の自己紹介を聴くでは、「聴いていない・上の空・興味なさそうに聞いている」が私に対する印象だった。
聞こうとすればする程目に力が入って、相手の方は話しずらくなるとのことであった。
私がもっと聞こうとしていることは、相手の方には全くそのように受け取られておらず、聞こうとするフリ、仕草でしかない。
私がやろうとしていることが、相手にとって全く違っているとは、一体今まで自分のやっている事は何だったのだろうと、情けなくなってしまう。

 

何かが成功した後、もう一度同じことをやる時、前回のコピーをやってしまうから出来ない。
というクセを以前気付いた筈なのに、忘れている生ぬるい自分がいた。
こうして少しも前に進んでいないことに気が付いても、普通にしていられるのは何故か?
ショックで立ち上がれない心境にならないのか。
「お前はアホか!」と自分に叫びたい。

 

からだで聴く、とはどういう事だろう。
そのことだけが頭の中をグルグル回転している。
そう考えて見ると、「武禅」でやっている事、何一つとして自分の言葉で話した事がない。
正面向かい合い、声を届ける、聴く、触れる、ただの記号でしかない。
それらの言葉に辿り着く、そんな事すら考えた事がなかった。

 

私がやろう、届けようとしていることは、相手にとって全然そうはなっていないどころか、相手を無視して、尚且つその事を気にも留めていない態度だということだ。
もし、そんな人が私の前にいたら、何だこいつと思うだろう。
そんな気持ちを相手にさせていたとは情けなくなる。
心を開いていないのが私なのだろう。
悔しくて泣きながら歌ったら、少しましになったとの感想が聞けた。
感情が出たのか、心が開いたのか、変化に繋がったのかもしれない。
授業で学生は下を向いてよく寝ているが、私自身が伝える事、学生に届けることを舐めていた。

 

6人、10人と届ける人数が増えると一気に届かなくなった。
どうしよう?という方法論に目がいってしまっていた。
先生が前に立った時、自分が捉えられている感覚があった。
自分では捉えているつもりでも、実際には、つもりになっていただけだった。

 

自己紹介で先生がMちゃんの話を聴いた時、Mちゃんの表情が一気に、ダムがぶっ壊れた見たいに流れ出した。
悔しい気持ち。
こんな風に繋がりたいのに出来ない。
でも今日は、この自分に会う為に来た。
さーどうするか。どうする!?悔しい。

 

自己紹介で先生がMちゃんの話を聴いた時、Mちゃんの表情が一気に、ダムがぶっ壊れた見たいに流れ出した。
悔しい気持ち。
こんな風に繋がりたいのに出来ない。
でも今日は、この自分に会う為に来た。
さーどうするか。
どうする!?
悔しい。

 

他の人がやっている事のジャッジでも、一瞬で判断を下さないと、頭の中にどうだろう?やっぱりダメかな?
と思考がなだれ込み動けなくなった。
自分の中の思考が、こんなに自分を制限することに驚いた。
本気でそのことに向かえていないからだと思った。

 

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