たった2泊3日48時間は、それこそ「禊(みそぎ)」です。

「武禅一の行」では、自分を閉じ込めている、​思い込みや固定観念を見事に壊してしまうからです。
本当の自分とは、「素直な状態」であり、意思の発動、感情が豊かで直観的に行動している事です。

みんなのサポートがなければ私は人と関わることの楽しさの感覚も気がつかないまま、薄っぺらい表面だけの人生を幽霊みたいに生きていったと思います。
みんなが私の声を受け取ってくれようとしているのを感じると、本当にうれしかった!
うれしくてしょうがなかったです。人とつながるというのはこういうことかと身をもって体験しました。

(参加者の声より)

写真は一人の話を三人が聞く。三人の中で、誰かが「私には話していない」と感じたら×を出す

まず「こんにちは」と相手に伝えることからはじめます。
そして、その「こんにちは」を受け取れたら、不思議なことに、つまり、こころが伝わったとき「からだが反応」するのです。その反応は感動として、自分のこころがふるえます。そこが、このカリキュラムの入り口です。あなたとの会話で、誰もが感動するっていうのは素晴らしいことでしょう。

「一生懸命話をしても、どうしても分かってもらえない」

それは、相手のこころを開く姿勢が出来ていないからです。
ということは、説得力や信頼関係・恋愛関係他という人間関係が築き難いという事になります。
それは、あなたが、「会話」を誤解しているだけです。

会話とは、「言葉の意味を理解することではない」と分かって下さい。
もちろん、言葉を理解することは大切なことなのですが、その前にもっと大切なことがあるのです。
自分の「こころ」が相手に向っているのかどうかなのです。
そして、相手に伝えたい気持ちが溢れているかどうかなのです。
極論を言えば、「こころの叫び」を持っているかどうかです。

もし言葉が全てだとすると、どうして言葉を知らない赤ちゃんの気持ちを、お母さんやその時期を体験している人には分かるのでしょうか?
どうして、言葉を理解しあえない、例えば外国の方、言葉が不自由な方の気持ちを汲み取る事が出来るのでしょう?

こころが相手に向っていない言葉は「音」でしかありません。
ですから、やかましく聞えてしまうのです。(居酒屋での騒々しさや、カフェでのガチャガチャ感、街宣車のうるささがそれです)

こころの上に乗った“伝えたいこと”は、「言葉」として相手のこころに届きます。
すると、相手はあなたに対して強い印象を持ち「存在感のある人」だと捉えます。

話術が巧みであったとしても、相手が「存在感の無い人」だと捉えた時、「自分の意見を押し付けてくる人」だと感じた時、あなたの言葉は空に消え、あなたの事は印象に残りません。
逆に「嫌な人」という印象を植え付けてしまうのです。

つまり、「人と人のつながり」は色々な手法や手段、マニュアルが作り出すものでは無という事です。
あくまでも、双方の「こころの共鳴」が作り出すものなのです。

こころに「からだ」でふれる(握手で気持ちは伝わる)


誰であっても、人のこころに直接ふれる事は出来ません。
しかし、「声」のセクションのように、何かを介在させればこころにふれることが出きるのです。
その一つがここでは「からだ」です。

相手の両腕を後からふれます。
あるいは手を握ります。
その時、からだは相手のこころに対して「快」を感じたり「不快」を感じたりという反応をします。
と同時にふれている相手も同じように快や不快を感じます。
それが「こころ」の反応です。

その不快を快に変えるのがここでの目的の一つです。
あなたが握手をしたり、部下の肩をたたいたり、恋人の、子供の、友人のどこかにふれた時、相手が心地よく思えば、相手はあなたに自然にこころを開きます。

もう一つの重要な目的は、後の人があなたの両腕をさわって、あなたを動かします。
その時、相手の指示する通り動く、という作業です。
これは、「人の意見を聞き入れられる、豊かな自分を作る」事を目的としたものです。

よく考えてみましょう。
あなたは、あなたの言葉や意見を受け入れてくれる相手を好きになるでしょう。
そして、信頼するでしょう。

つまり、それの逆で、あなた自身が誰からも好かれ信頼してもらえる人になるのが目的なのです。
まず、イスに座って、後の人の指示に従うところからが入り口です。