初めて、このページを見る方達へ
ここに掲載されている短いコメントは、
受講者のレポートからの抜粋です。
どれもこれも、当人のナマの声です。

105回「武禅一の行行会を終えて」(2022年10月8,9,10日)

コロナ禍で行う行事は、ドタキャンも発生する。こればかりは仕方のない事だ。
「武禅」の場合は、出来るだけ奇数人数を避ける。それは組んで行う事ばかりだからだ。

「関係」は知識ではどうする事も出来ない。「関係」について話をし、どういう具合にするか、を説明しても理解は出来るがそこで終わる。いくら知識を仕入れても、それを聞いている当人は「関係」を体感したことが無いので、その場で一歩足を出すのが非常に難しいのだ。いわゆる「引きこもり状態」なのだ。

とはいっても、それでも社会生活は行われている。だから厄介なのだ。
その日常に違和感を感じていたり、味気無さを感じてはいる。だから「武禅」に参加しているのだが。

今回は、過去104回の中で一度も起こらなかった雰囲気になった。今回も何時ものように何度も「武禅」に参加する、いわゆる常連さんのような人もいる。数回参加の人もいる。初めての人も1/3程いた。
その比率なのか、何なのかは分からないが、最初から何かしら温さが漂っていた。
それは、常連さんや数回来ている人の中でも気付いた人がいた。もちろん原因は分からない、私も含めて「??」だった。
つまり、それが「関係」でありその事で「場」が出来るのだ。「場」が出来てしまうと、個人の意志だけではどうにかする事は出来ない。余程の真剣さが必要になるのだ。それが「場」である。

ワークが2コマ進み、そのレポートを書いている時、その原因が見えた。どうして温い「場」になったのか。
それは、「引きこもり状態」の人が1/3おり、その人達が常連の人達と交らずに、自分達で雑談に興じていたからだ。
いわゆる「セミナー」で、レポートを書く時間は「休憩」として捉えられたからだ。

それは、常連の人達にも責任というか、ある種の責任がある。それは、その温い雰囲気を壊してしまう「真剣さ・集中具合」が足りなかったからでもあるのだ。

というような事も起こる「武禅」だ。「武禅」はそのもので生き物・生ものであり社会そのものという事を常連の人達は再認識した。その意味で、良い勉強になったのだ。

受講生のレポートから抜粋

最後のセクション

  • 先生も仰っていらしていましたが、やはり今回の武禅は以前の武禅と比べると、緊張感に欠けるていると感じました。
    周りがどうであれ自分自身がやる事はやらなければこの場に来た意味がありません「やってやる」この事だけを胸に置いて三日間稽古をしました。以前の自分にはこれが欠けていました。
    それを決めて稽古をしていると、そう言った思い入れの無い人達がハッキリとわかり、何故この場にいるのか不思議に思えてきます。
    こいつが向かい合うまで向かい合ってやる!向かい合ってくれないのは、自分の向かい合い方が足りないからだ。
    そう思い稽古をしていたのですが、そういった人達とは空気が張り詰める程の向かい合いにはなりませんでした。
    自分自身の力不足を思い知らされました。
  • 今まで掲げて来た100%は、「本気」ではなかった・・・「本気のつもり」だっただけ・・・に気が付いた。ワーク中に訳の分からない感情が湧き上がって来て泣けてきた。理性が追い付かずに感情だけが溢れだした感じ。本気でなかった自分を目の当たりにして、悲しく情けなかったのだと、時間の経過とともに分かった。
  • 以前から「この人は俺に怒っているのかな? 俺嫌われたかな?」などと勝手に思い込む悪い癖があったが、それは「相手を見ている」とは真逆の「相手を勝手に解釈している」事で、結局これも自分勝手な事だったんだと気がつきました。
  • 他人との関係の仕方を見直したいです。家族、職場の同僚、上司、プライベートの友人、はもちろん買い物先の店員さんに至るまで色々な所に関係性があって、本当に今までないがしろにしていたなと思いました。
  • ワークで感じたことを振り返り少しでも具体的に実践できそうなことを日々の生活(現場)で試して失敗と修正を繰り返して行きたいです。そうしないと今回の武禅がただの【思い出】で終わってしまいそうで怖いです。

  • 初日に武禅に参加した理由を「人生に閉塞感、行き詰まりを感じたから」と言いましたが、結局自分の人生をつまらなくしているのは自分なんだなと突きつけられた気がします。(自分と向き合っていないとも言える。)
  • 自分が木刀を持つ側になると相手の変わり様が良く分かる。初日はお互いに、ただ目を合わせているだけでした。そのため気持ち悪く感じ疲れてしまいました。
  • ピラミッドでは一発で決めてやる!と思い気合いを入れてやりました。
    絶対に届ける!この一心で結果は7〜8回かかったと思いますが、先に言ったような心構えがなければかなりの時間かかっていたと思います。
    この様なことを経験して、自分が「絶対やってやる」と決めることの大切さをしりました。
    言い訳や不安がっているのは、余裕があるからなんだと感じました。これから生きていく上で大切なものを教えてもらいました。
  • 今回体験させて頂いたものを、自分に落とし込んで人と向き合い、今を大切に真剣に生きて行きます。
  • 届いたかな~。全身全霊で届けた。「届けたい!届けー!」と心から思った。普段「届けたい!」なんて微塵も思わず、ただ声を発してるんだと思った。
    日常もこのような気持ちでコミュニケーションがとれたらどんなにステキなことだろう。
    「相手がいて」届ける。受け取る。をしっかり意識していこうと思う。
  • 2人4人、、、最後18人の声が一つの歌になった時の一体感は忘れない。あらゆる声や言葉が入り混じっているのに、清々しく心地よく一つの光る球体の中にいるような、不思議な感覚。何の雑念もなく、凛と一つになった歌があるだけだった。このように生きてみたい。
  • わたしは翼をくださいのチームだったが、古時計チームだけで歌っていたのを聞いた時、涙が出そうになった。人は人の歌を聴きながら、関係しながら歌っているときにこんな素敵な響きというか、歌を歌えるんだと思った。
  • 回数を重ねるごとに感じる「相手に届ける」「受け取る」「一体感」「同調」このような体験も初めてだった。途中から涙が溢れた。「本気」のやりとりは心が揺り動かされるものだと思った。
  • セクション1で組んだ人全員が改善しておられました。大きく変わったのを初めて体験しました。嬉しかったです。本当にありがとうございました。
  • Kさんと二人組で歌った時 Kさんの歌をしっかり聞いた時 二人の歌声の響きが大きく変わったのを 初めて体験しました。嬉しかったです。
  • 3日間、本当にお世話になりました。バス停で最後に声かけてくれた『お前、頑張れよ』を、昨晩1人になってから咀嚼しはじめてます。今、涙と鼻水を垂らしながら嬉しいです。ありがとうございます。
  • 動画の中の自分の顔はヘラヘラ笑っていた。汚い言葉だが「反吐が出る」がピッタリくる。感情と裏腹の表情、嘘つきな自分を見た。真剣に聞いてくれている仲間に対して、自分の気持ち、体裁だけが身勝手に辞めた。携帯をぶっ壊したかった。

真剣向かい合い

  • 最初、正解を探す自分が出てきました。相手と本気で向き合うことから逃げている自分。
    そこから気を逸らそうとする自分。笑いに逃げようとする自分が出てきました。
    終わって、今このレポートを書いている自分は、真剣に人と向き合いたいと思う自分が出て来ている。
  • 相手と向き合う前に、どれだけ自分を奮い立たせないといけないのか。そこにじぶんを持っていく迄の時間の長さにゲンナリしました。
  • 普段WSで学んだことを注意しているつもりでしたが、やはり「つもり」の範疇を出ていなかった事を知らされました。自分のやっている事を理解してないんだと。
  • 相手と向き合う事に耐えられない自分がいる。相手と向き合うのではなく、いつも自分の事ばかりを考えている。
    そう感じていたが、最後に木刀を持って真剣に相手と向き合った時、ピリピリとした緊張感が、何故か心躍る感じがした。
  • 相手と向き合う、人として基本的なことがこうも難しくて出来ない事か、、、、痛感した。
  • 相手の目の前に立って、自分では向き合っていると思っても、相手からは「ただ見ているだけ・遠く感じる・そこにいるだけ」と言われ、最初は意味が良く分かりませんでした。
    次に自分が木刀を持つ側に回ると、言われたことが感覚で分かりました。
  • セクション1の行に入った時、今まで生活をしている中の自分では足りないと思いました。スタート地点から真剣さが足りていないようです。皆さんに向かい合って貰っている中で、もっともっと自分の慣れた向き合い方ではなく、命がけで関わりたいと思いました。皆さんが真剣に向かって下さる事に、とても喜びを感じたので。

歌を届ける・アイコンタクト

  • 相手に届いていない人の「こんにちは」は、ご本人の中に向けて発しているように聞こえて来て、鼻歌を歌っているように感じました。
  • 一生懸命にやる、という事は「自分が満足する為だけ」にやっていたと思います。歌のセクションで言えば、相手に歌う事が、相手に一生懸命になっているわけで、自分がそう思う事ではないと気付きました。
    もっと自分ではなく、相手に一生懸命にならなければと思いました。
  • 歌を届けるで、「相手に歌う」が分からずにいました。自分が大きな声を出したり、「思いを込めて」とか「一生懸命に」とか、とにかくそんな事ばかりをやっていましたが、それは自分がやっているだけで相手には何の関係もなく、それどころか「気持ち悪い」と受け取られているのだと知りました。
  • 相手の歌を「聞かない」「歌っていない」になり、いかに他人と真剣に向き合えていないのかを痛感しました。
  • 相手と目が合ったら椅子から立ち、相手と入れ替わるという「椅子取りゲーム」をした際は、自分が目が合ったと思っても、相手はそう思っていなかった為立ち上がらない。
  • 自分の一方通行、相手を感じ取れていないと再認識させられました。歌うワークでは、途中疲労感でクタクタになり、集中力も途切れました。
  • アイコンタクトでは、きちっと目が合うと「バキッ」となって一緒に動き出す感じがした。
    また、人と目がちゃんと合うと嬉しい感じがした。この「バチっ」とという感じは、一人では決して感じ得ないことで、これがあるから人と反応しあうから面白い?ワクワクする?気持ちが出てくると思った。仕事にしても何かにしても、本当に人が動くというのは、こうやって反応しあうからで、言葉があって動くわけではない気がした。
  • 相手に挨拶や歌を歌う時、まず相手が受け入れてくれるかどうかを確かめてから、自分が伝えたり届けたりするかどうか決めていた。相手が受け入れてくれるとわかったり、そこから伝えようとする。
    傷つきたくない自分がいた。相手に届ける時に、一方的に自分の思いを伝えようとして、押し付けになっていた。
  • 歌うワークでは、途中疲労感でクタクタになり集中力が切れて、相手の歌を「聞かなければ」「歌わ無ければ」になり、いかに普段、人と真剣に向き合えていないと痛感しました。
  • 「こころを届ける」という「ただ心を届ける」ということが如何に難しいか良く分かった。私達は日々、頭で色々考えていて、「心」が置き去りになっていると思った。
  • アイコンタクトで、中々合わないのは、意識が薄いからなのだと思った。それだけ日頃うす~い意識でいるのだと思った。
  • 声を届ける事、想いを素直に届ける事、これは私にはとても難しい。まだまだベールで自分を覆い隠している自分に気付く。早くこのベールを取り除きたい。
  • なんとなくのやり取りならば流せることも、真剣に向き合おうとすると、全然響いていない聞いていない事がよく分かる。今まで使っていない集中の仕方を為かとても頭が痛い。
  • 相手と目が合ったら席を入れ替わる椅子取りゲームは、自分が目が合ったと思っても相手はそう思っていなかった為立ち上がらない。その逆のパターンもあり、自分の一方通行、相手を感じれてないと再認識させられました。
  • 歌を届けるで、「聞いていない」と言われ、素直に相手の事を聞きいれる前に防御してしまい、関係を「作らせない」状況にしてしまった。何の為にきているのか。相手にあたるのを怖がっている自分が見え隠れするようです。
  • 直ぐ目の前にいる人に声が届いていない事がよく分かった。考えれば考える程、比較的手応えのあった感覚や状態をなぞろうとすると、どんどん苦しくなって来る。
  • セクション1でも大変だったのに、そこに「声」を付け加えるだけで、一気に難しくなる。普段から会話は適当にやっていた事を再認識する。
  • 思いっ切り生きたいのに、思いっきりいけない自分がいる。
  • 「歌を届ける」で、相手の人がキョロキョロしていたので、自分も意識が散漫か、届けようとしていなかったか、その両方かだと思った。これではお客さんや後輩に話をしても聴いて貰えないだろうと思った。誰に何を伝えたいかがハッキリしていないと実感した。
  • 日野先生と話したり、届けたりしてもらっていると胸があつくなり生きている感覚が出る。本当は、ずっと人と向き合いたい、届けたい等の自分がどんどん出てきている。

声を届かせる(写真や動画に撮る)

  • 自分はやってる・・・・つもり、で終わってるのではないだろうかと思い始めてる。写真の中の自分は30%、100%乗せたつもりが、30%しかいなかった。
  • 後ろから「おい!」と声をかける。先生の見本は、身体の根幹を通って相手に届いた。声を出さなくても、それが相手に届いた。相手が倒れるほどに。自分の意識が相手に行くという事、そこにはそれ以外の何も無かった。
  • 自称本気では、何か困難とか壁があったりパタッと倒れてしまいそうだと思った。もっとばっと強い?負けん気みたいなのがグワーッと出て来るようにならないと、生きてるも死んでるも似たようなものになってしまうと思った。
  • 前日の自主練の時に一緒に組んだ人が、全く相手の話を聞かない人で、『素直でない』というのは、こういう人かと思った。
  • 朝、先生がおっしゃっていた「難しいとも思っていないから、何時までも同じ事をやっている」に、ハッとしました。やっていれば何時か出来るだろうと思っているから変化を求めず停滞している事に気付かず過ごしているのではないだろうかと思ったのです。そして、自分がやっている姿勢も振り返らずに、ただ時間を過ごす事に少しだけ恐怖しました。
  • 前を行く人に後ろから「オイ」で呼び止める。皆四苦八苦しながらやっていた。他の人達を横から見ているとよく分かる。誰も前の人を呼び止めていない。「オイ」と叫んでいるだけだ。年長のKさんが全身を使ってやっているのを見て、実際に呼んで貰ったら口先だけの「オイ」とは違う感覚があった。全身で向かう、それの大切さを感じた。よくよく考えるとその通りで、自分とは指先だけでも口先だけでもない。身体全体が自分である。
  • 先生の使われている言葉と、自分の認識が違う、例えば先生の「全身全霊」と自分の思う「全身全霊」他、「感情・考える・気持ち」他、自分の思っているそれらとは違う。まだ、全然分かっていないが、そもそも言葉の捉え方自体が違うのだという事はようやく分かってきた。
  • 「オイ!」とカメハメハと遠投でやってみる。驚いたが相手に届いた!周りに受けた。再度試みるがうまくいかない。
    恥ずかしさもあり、照れもあり、考えられなくなる(頭が真っ白)
  • 出来ていないのを「どうして出来ていないのか?何ができていないのか?」を考える。考えてもう一度ワークに取り組んでも、他人から見ると何も変わっていない。
    出来ているグループの真似をしてみても全く別物になる。これはやはり「自分なりに」から抜け出せていないという事。
    当たり前の事ですが、過程あっての目標達成という事を、少し深く感じられました。
  • 朝の体操の時、先生がSさんを例にして「何故うまくいってる人の真似をしないのか?形から入って、そこでどういう感覚を得たか、は考える題材になるが、大抵は自分の考えでやってしまう」と話されていた。その言葉を全く活かしていない。
  • 後ろから「オイ」と呼ぶ際の瞬発力とパワーが先生の手本と比べて、圧倒的に足りない。
  • 相手に本気で届かせようとせず、意志や心が傷つかないように守っている壁を取り払いたいです。
  • 背中に声を届かせる時、私のジャッジの曖昧さを強く感じた。
  • 目の前の事に必死になっていると、相手に届かず雑念を取り払って相手と合った時には相手に届くこともありましたが、大体において届きませんでした。後ろからの「オイ」も、大きい声を出せばいいわけではなく、相手を全体で捉えてから声をかけると少しは届いたようです。今まで生きてきた中で必死になって相手を呼んだことが無いのが分かりました。
  • ここでも「受け取る・伝える・同調する」等、教わった事が全て入っているわけで、そこが出来ない、すぐ忘れてしまっている自分がいた。常に意識していきたいと思う。
  • 今までは、出来ない自分を認めるのが嫌だったが、ここまでシンプルに出来ないと、それを本当に認めやすい。そして、認めて初めて進もうと思える!そしてやっぱり、やるしかない!
  • 「時・場所・自分・相手が常に変化しているのに、以前の自分の成功体験に相手を当てはめようとしている」とダメ出しを受けた。

ナマムギ合戦(早口言葉)で感情を爆発させる

  • 早口言葉をした時、自分の感情が滅茶苦茶出て来た。負けてたまるか!絶対負けへん‼って感情が出てくると、本当に相手に気合と気迫で負ける気がしなくなってくる。そして、感情をだしていくと、気持ちがスッキリとし、もっと出したいと思った。
  • 早口言葉のワークは、なりふりかまわず、それこそ全身全霊でぶつかって行った。絶対負けない!という気迫があった。全身全霊とは、こういう事を言うのかも知れないと思った。
  • ワークを繰り返していくと、相手にどう思われるかや正解等ではなく、そのまま感じたことを伝えられるようになってきている。
  • 「聞こう、聞こう」とすると、相手に違和感を与えてしまう。聞き手の気持ちのブレが相手に伝わってしまう。先生の聞く姿は、やってる感が全くなく、歌が吸い込まれていってるように見えた。愛さえ感じた。
  • 早口言葉のワークで、相手がどんなに食い下がっても、自分は引かない。そんな経験を人生でしたことが無かった。今まで自分はやる事を決めたらやるという人生のつもりだった。何だったんだろう。理解されなくてもいいから、もっとぶつかってみたら良かったかも!?と感じた。
  • 自分が相手に早口言葉をいう時よりも、相手がこちらに怒鳴り、それに応えて怒鳴り返す。相手が応えてくれた時はおもしろかったです。これが相手に関わる事なんだと思いました。
  • 「ナマムギ生米」を相手に思い切りぶつけた。こんなに大声で気持ちをぶつける何で、今まで生きて来て一度も無かったと思う。

ピラミッド「あなたを呼ぶ」「私が応える」

  • 先生が休憩中に話してくれた、「何回もやって失敗してを繰り返し量をやれば、いつか質に転化する」というお話が印象的でした。
    というのも、最近「歌を届ける」が良くなったとおっしゃって頂いていたのですが、それは(私自身の感じるのは)段々と良くなっていったというよりも、何か急に「これかな?」があったからです。
    10年色々な方々に稽古してもらい、アドバイスを貰ったか分かりません。何時変わるのか分からない、量が質に変わるまで稽古をしていきたいと思います。
  • 他者との向き合い方、意見の持ちようで人生は大きく変わる。結局、自分の人生を苦しくしているのは、自分なのかと思う。
  • 出口の無い道を歩いている感じ、歌って少しずつ変えているつもりでも、殆ど変えずに同じようにしている。どんんだけ自分を出すのが苦手でビビッてんねん!歌っている姿を動画で見ると、生まれたての弱弱しい小鹿が一人で何かやっているように見えた。今、レポートを書いていると、やっぱり人と向き合いたい!人に想いを届けたい!人の想いを受け取れる自分になりたい!今のままはあかん!嫌や!
  • 途中から動画を撮ったが、Sさんで無くても全て×だった。工夫もせずに同じ事をやっている。情けなくなった。
  • 普段から人と向き合っていないからだろうか、途中から気分が悪くなった。それだけ、人と向き合い慣れてないのだろうと思う。
  • 昨夜から今日の事を考え緊張していました。それで緊張とは?を考えて見たのですが、私が緊張しているのではなく、「上手にできなかったら?時間が掛かり過ぎて皆に迷惑をかけるのでは?」等という事を心配しビビッているのだと分かり、それを考えないようにしました。
    考えないようにしたところで考えてしまう。そうではなく、「やる事をやれば良いのだ」と思いピラミッドに取り組みました。
    自分の番の時は、「相手に届ける」をやりました。その時は、それ以外には無く、失敗するかな?とか余計な考えはなく、ただただそれをやりました。日常でこの感じを忘れずにいきます。
  • ピラミッドでは、こんなしょうもない自分を聴こうとしてくれている。反応してくれた人がいる。だのに結局自分の事で精一杯になってしまう。その精一杯自体が嘘ちやうか。嘘だ。このまま他人不在で生きて行くか、自分を変えるかを選ぶ。そこからだ。
  • ピラミッドの受け側は、より難しく間違えまくりました。自分に向かっていない意志でも拾ってしまう傾向があるのが分かりました。
  • ピラミッドの前に、2人組みで「オイ」を口パクで声を出さなくても、全身全霊で向き合えば届くのだと思った。普段の生活で、いかに相手と向き合っていなかったかが分かった。「本気で向き合う」凄く大切。そんな事を考えた事も無かった。今、レポートを書いていて「本気で向き合う」と書いた瞬間に涙が出そうになった。何か私の中で凄く響いている。日常に戻ってもこの感覚を持ち続けていたい。
  • ピラミッドは最初は届かなかった。届いても何人かが手を挙げた場合が、失敗ではなく修正の為の一つの経験だという事を初めて思えた。やるまでは「長引いたらどうしよう、どう思われるだろう」等を頭で考えていたが、その場に立つと「一人の人に届ける!」それのみになって、「シンプルにやる!→改善」のプロセスを歩めた。「やって、改善、やって、改善」のお陰だ。これを次は実生活での人間関係や仕事にどう活かしていくか?まずは人を見る!やってみる!改善する!をやってみる。

104回「武禅一の行」(2022年 5月2.3.4日)

104回「武禅一の行」はゴールデンウイークの真っ只中だった。
多くの人は、それこそ民族大移動の如くあちこちに動いた。
そんな中、世界遺産・熊野古道に建つ道場では、「武禅一の行」で心身を研ぎ澄ました。

今回も下は19歳、上は還暦前の方まで、年齢層や職業もまちまちの方が集った。
初参加は1/3で、丁度良い具合に顔なじみや常連達と組み合わさった。
全員、初参加となると、それはそれで締まって展開されるが、カリキュラムとしては質を求める事が出来ない。

今回、二度目の参加になる、男性が「感情をむきだしにすることも久しく、ましてお互いが笑い合える関係は奇跡です。」と素晴らしい言葉を感想として残してくれた。

「武禅一の行」では、この感情が一つのポイントになる。
「感情が動く」という事は、自分が主体として物事や人に向かっている証でもあるからだ。
感情が動くから、真剣になれるし集中力も増すし「関係」そのものも成立するのだ。

また、「聴く」というのもポイントであり、重要な要素だ。
もちろん、一般的な「聴く」ではなく、相手のこころを聴く、人そのものを聴くだ。
プロの声楽家も参加しており、彼女は「本当に聴いていただけるだけで、良いところを引き出して下さる歌の先生のような、『こんなに歌えるの?みたいな』不思議で幸せな時間でした。」と綴ってくれていた。

いずれにしても、これらは本来の「人」の持つ能力だ。
ただ、これらは自発的にしか発動しないし、意識的には発動させられないのだ。
とは言っても、決して難しいものではない。
4.5歳までの子供達は、感情一杯に暴れまわっているし、親には、ちゃんと欲求や何かしらを届けている。
それは、言葉を知ると同時に、そのエネルギーを必要としなくなり、また間違った教育として「感情的になるな」が追い打ちをかけ、それこそ草食系にしてしまうのだ。

また、「武禅一の行」では、相手に本当の事を言う。
「あなたの目は気持ち悪いです」と。
それは悪口でもなければいじめでもない、本当にそう感じる、つまり、自分は他人に違和感を与えているという事を知るのだ。
そして、写真や動画を撮り確かめてみる、つまり、自分を検証するという非常に大事な客観性を養う訓練も入るのだ。
そうすると、何がどう違和感なのかを知るから、そこを修正していけるのだ。
お互いが、笑い合いながら「気持ち悪いです」の応酬になることもある。

裸の時間、裸の二泊三日だ。

  • 感情をむきだしにすることも久しく、ましてお互いが笑い合える関係は奇跡です。
  • 真剣に見つめ合った時、三日前と明らかに変わっている事が凄く分かった。
    相手の前に居られる、正直に、素直に。相手に雑念などはあまりなく、殻がなく目の前にいる事を感じている。
  • 最後、真剣向かい合いを1日目の最初に組んだ人達やったら、全員最初よりもバチっと会う感じがあって、目がキラキラしていた。
    自分の写真を撮ったものを見たが、それも格段に良くなってしょぼくなかった。
    最初にやった自分の姿を思うと、普段どれだけしょぼい姿をしているか痛感した。
    と同時に、美しさ、強く見える感じは、人と向き合う事が出来る自分から生まれるものかなと思った。
  • 「武禅」は本当に素晴らしい場であり、生きる基本だと思います。
    しかし、日常では知らない内に世間に流されている自分がいる。
    それは単純に頭が悪いからだと思います。
    この「武禅」という人として生きる上で大切なもの、それを基本として生きていきたいです。
  • 最初と比べると、自分のからだや意識の変化を感じたのと、写真をみても違ったのと、フィードバックも違った。
    日常に置き換えて、自分の癖が出たら気付いて修正していくことをやっていきたい。
  • 最後の輪で歌い、オペラの歌手と全員が溶け合い、掛け合い一体になった時、これが生命だと感じ涙が止まりませんでした。
    全て、別々の人間であり、その全てが真剣に向き合う事で響き合う事が、美しく奇跡でもあり、しかし、当然のように思いました。
    生きるって、こんなに美しいんだと驚きました。
  • 初日に向い合った方々との再向い合い。
    全く違う事をお互いに感じた。
    この3日間で、同じ場を共にした仲間とガチャガチャとやり合い、語り合い向き合う中で生まれたものだと感じました。
    その仲間と歌い合い、説明の付かない気持ちの高ぶりと楽しさに包まれた。
  • 輪になってそれぞれの歌を聴き合い、歌い合う。しかも決して相手を無視しない。主張もするが聴き合う。うまい具合にそれぞれのエネルギーが溶け合う。なんて気持ちの良い空間なんだろうと思った。
  • 最後に、初日の最初に組んだ人達と木刀での向い合い。
    まるで別人だった。
    自分も。
    「変える」じゃない「変わっている」でないと嘘だ。
    そこに持っていく事を日常でやっていけば、日常が稽古になるのだ。
  • 「目だけ見開いて、見ているつもりになっている」「前に立っていない」「見られている感じはするけど、向かって来る感じが弱い」「上手にやろうとしている」感想を頂いて、「上手にやろうとしている」という言葉が一番突き刺さった。
    上手にやれるわけもないのに、形だけ言葉だけ並べ立てようとしている自分がいる。
    目の前の事、相手の事は殆ど見ていなくて、自分の妄想に囚われてしまっている。
    相手に100%向かえる自分になりたい。
    先生を見ていて100%相手に向かっている時が、100%自分として存在している事なのだと感じた。
  • 木刀を構える4人の人の前で「自分を見ていない」「遠い」「ただ立っているだけ」「昆虫観察のようになっている」と言われた。
  • 全員と向い合いを行い、人それぞれの感じ方を聞いて、自分がちゃんと相手(その人と)と向き合えていないと感じました。
    この状態では、仕事でも部下や後輩に、その瞬間に向き合えてないんだろうなと思った。
    逆に自分が判断する側に立った時、「この人向き合ってないな」と感じたので、自分がちゃんと向き合っていなければ、相手に直ぐに伝わる(そう思われている)と感じました。
  • 最初先生の前に立った時怖かったが、何となくその場の雰囲気とかを含めた怖いだったので、ちゃんと前に立ててなかった。
    2回目先生の前に立った時は、先生がはっきり?と大きく?見えた。
  • 最初、向かい合うのが難しいと感じた人も、2回目になると感覚が違って面白かったです。
    かといって、3回目はより良い結果になるとも限りませんでした。
  • 「オイを届ける」死ぬ気で叫ぶ(声量の問題ではない)喋る言葉に意味をもたせた(「オイ」こっち向けよ)。
    相手が背中を向いている時に、うなじを目指して叫ぶと相手のこころに届いた感じだった。
    発する音、言葉が大事なんじゃなく、その音に込めた思いや意味が大事だと実感した。
  • 言葉を届けるには、相手を感じて届け、同時に聞くこと。相手に届けるエネルギーも、相手をリアルタイムで聞き続ける事。
    どちらも足りない自分に気付く。
    皆さんを見ていても、2人の間の空気が密になっていなかった。
    何で、目の前にいる人に話かけられないのだろう?聞く人も聞けてないように見えてしまったりするのだろう?
  • 最初に3人で組んだ時の一人の人が、凄く違和感で見下されている感じがして、とにかく嫌だった。
    私の事を上から見て、あなたの事分かるよ、みたいな感じで「馬鹿にするな」と顔から火が出そうだったが、私も後輩に接する時、肩書がその人より上だからという理由で、そのように接しては絶対にいけないと思った。
  • ワークが進むにつれ、「声を届ける」という意味が分かって来た。
    相手の根幹に届ける。
    それには相手を感じる事、決して一方的ではないこと、こちらの意志の強さ、様々な要因があった。
  • 最初の木刀を構えての向い合いで相手の目を見ていると、自分を見透かされているような気がした。
    ずっと心身共に委縮。
    のどもカラカラで、気力のつもりが力みになる。
    微妙な違いが分からない事に動揺していた。
    意識を集中することが、こんなに難しいとは。
  • 流れに乗るでは、「気持ち悪い。見るに堪えない」と言われた。
    どうすれば改善出来るのか、皆目分からなかったが、それでもアドバイスを聞いてやっている内に、少しずつ良くなって来た。
  • 普段何気ない使っている「ありがとう」も、相手の正面から気持ちを入れているつもりでも、相手に全然届かなかった。
    自分の事で一杯一杯。
    本気とか必死とか口では言えても、実際は難しい。
    箱に入っている感じで、全てを跳ね返していた。
    相手に申し訳なかった。
  • 「2」のセクション中に、また勝手に緊張し始め硬くなってしまう自分が出て来た。
    そこをもっと徹底的に潰していかなければと思う。
    緊張がでてくるのは、余計なことを考え始めた時、相手に良く見られたい時、集中が途切れた時、ダメな自分を見られたくないという意識が働いた時。
    そういうものを全部捨てたい。
  • 「武禅」先輩の方のアドバイス「胸の辺りに圧力を感じるくらい、ストレスを感じるくらい近付かないと何事も起きない」と言われた。
    これって万事そうだ。
    安全圏にいたら何事も始まらない!しかも、「このくらいか」と自分勝手に思っている圧、距離では全然足りない。
  • ワークショップで、相手の中心に立つをやった時のように、相手を感じてから前に立ってみたら「来ている感じがする」と言われる率が高くなった。
    ただ「遠い・弱い」と言われたので、どうしようかと考えた時、道場の稽古で「相手を斬る」の時、斬るところをハッキリさせたら相手が反応したのを思い出したので、とにかく相手の中心の感じのあるところにパッと先生みたいにやってみた。
    そうすると「来てる感じがします」と言われることが多くなった。
  • 「口パク」口パクの方は、どれだけ気持ちをそのまま出せるかだと感じた。
    相手を見て観察して、こっちを見てくれた時に初めて「ありがとう」とつたえると、不思議とお互いが通じ会っている気がした。
    そして確信した。相手と通じ合ってるだけで嬉しくなった。
    そこには言葉は、いらなくなると思った。
  • 初参加の人へのアドバイスで悩んでいたら、横から日野先生が一言「その姿はカッコ悪いやろ」とその青年に話した。
    すると、青年の気分が変わるのが見えた。
    僕は自分の中での正解を探していたが、先生は相手に届く言葉を選んでいたのだ。
  • フィードバックをする人も、自分の感覚というより判断基準を作ってしまって、それを元にコメントしている人がいたので、そういうコメントは鵜吞みにしないようにした。
    そういうコメントをされる人は、刀を構えた感じも微妙かもなと思った。
    自分も判断や解釈している時、そういう状態になっているのかと思い、そういう風にはならないようにしたい。
  • 相手が後ろ向きで「オイ」と呼びかける時、セクション1の向かい合いの感じで、「相手に!」をとにかくやったところだんだん「一寸来ている」というコメントを貰えるようになった。
  • 歌を聴くで、うまく聞けなかった。
    何かが歌を聴くのを邪魔していた。
    それがみじめで悔しくて泣きたくもなった。
    でもそれが自分の事、自分に意識がいってしまっている。
    そんな暇はない、もっと相手に向けろ、そう思えば思う程に焦りパニクリ駄目になった。
    でも、途中同じグループの方が同じ感じになった時、冷静になれた。
    その時、初めて楽しく聞けた。
    「この人のサビを聞きたい」と思えた。
    今になって思えば、歌を聴けなかったのはエゴやプライドが、聴くのを邪魔していると思った。
  • 自分は届ける聞く以前の問題だと思い、組んでいる2人にワーク以外の時の印象を聞いた。
    「人と接している時、他人事になっている気がする」と言われ、自分でも思い当たる。
    それを変える事は出来ないが、どうすれば良いのかが分からない。
    でも、今のままでは、人と関われるようにはならない事は分かる。
    自分は他人と関わりたいと思っているが、それが弱いのかもしれないと思った。
  • それにしても、自分が思っているよりも相手にエネルギーは届かないものだと、自分の受けの時と、3人で客観的に他者の受けを観察した時とで分かりました。
    真剣に対峙して、相手と自分も揺らがない時は、気持ちの良いものです。
  • 「とうりゃんせ」で改めて聞くという事の大切さを改めて体感した。
    k君と組んでいた時、それを感じた。
    目で聞く、それで一発に良くなった、ぶつからなくなった。以前から習っていたけど、自分はその稽古をしていなかった。
    「目で聞く」自分が出来ていないのはそこだ。
  • 先生に「オイ・ありがとう」を口パクで言って貰った時は、凄く自分に言って貰っていて、胸が熱くなって体がブワッと自然に反応していた。
  • 複数人に歌う。人数が増える程策に溺れる。あるいは半ば諦めてあがくのを止める。
    ストレスに対する反応、そのストレスそのものを避けようとして、ワークの目的と異なる行動に出てしまう。
    それを止める為には、常に目的に立ち返る事だ。
    それが出来ないということは、目的自体が不明瞭ということだ。
    と分析したらそうなるが、分析しても仕方がない、やったら良いだけだ。
  • 「目で聴く」という事で、思考が薄れ感覚が戻る事を先生がおっしゃられ、聞くという事を苦手とし難しいと思って来た私は、そのヒントで「聴くという事」を私も出来るかも、と思いました。
  • 「後を向いている人を呼ぶ」まー届かない。
    それだけ本気で伝わる発信が出来ていないということがよく分かりました。
    その後、ちゃんと相手と向い合いが出来ている事が大前提だと感じた。
    日々の会話でも、仕事の立場上、私は受ける側に立つ事が多いので、まず自分が聞く体制になることを実践して行きます。
  • 「ここはどこの細道じゃ」から「ここはどこ?」に変わった時、すんなりと届いた。
    脳疲労をおこし、諦め再挑戦したことが、今回は良かったのかもしれない。
  • 「ナマムギ」では、前回よりも相手に向かって行っている状態になっていたのかなぁと思うが、まだまだ相手にガツンと声を届けるのが弱くて悔しかった。
    届けるのはイマイチだったが、取り組み方が前より腰が引ける感じというか、負けない!さぁ来い!という感じにはなった気がする。
  • 自分のやっている事の何かを変えようと思っても、外から見たら何も変わっていない、の繰り返し。人の何かが違うのも、うまく言葉に出来ない事が多かったので、もっと端的に表現できるようになりたいです。
  • 「聞く」が出来ていない、聞けていない事に気付けた。
    2人で手を取り合って流れを感じるをしている時は「聞けていない」が分からなかった。
    その後円陣になり、対面の方に「目で聞く」を意識して歌を唄った時、ちゃんと聞いてくれるというのはこういうことかと、感じるものがあった。
    その変化を持って、もう一度流れに乗るをやると「ぶつかり」が無くなった事を理解した。
    「聞く」を感じる事が出来たからこそ、その前の「聞けていない」が分かった。
    ちゃんと聞いて貰えるというのは、こころが嬉しくなるものですね。
    ちゃんと聞くを日々の中で実践していきます。
  • 日野先生は、身体全部で歌っていた。気持ちが歌になっていた。私は手順をやっているだけだった。
    そこに注意してやってみたら、Wさんから良かったとの反応が出てきた。
    プロの声楽家が言うのだから的外れではないと思う。
    つまり、気持ちが大切という事だ。
  • 「声を届ける」の最初は、全く声が出ませんでした。
    出したことも無かったのと、相手に届くことに期待が持てていなかった事他失敗体験を思い出します。
    試しに、まずは自分が大きな声を出せる事を、何度か試させて貰って思い出しました。
    「音は鳴らせる」事が少しずつ分かると、次はターゲットを絞らせるコツが掴めてきました。
    相手と繋がって静かな感じになってから、相手を真剣にとらえると、少しは自分が相手に届いたという手応えが得られました。
    とても苦手な事だったけれど、糸口が少し見えた感じです。
  • 特に「ナマムギ合戦」は、自分の照れや迷いをふっとばしてくれた。
    その時は、相手に届いたような喜びがあった。
    その時の必死さ思い切りの良さ見つめることに抵抗がなく、やりやすくなっていた。
  • 先生がAさんの歌を聞いているのを見た時、何故か胸が熱くなって涙が出そうになった。
    本当に聞きに行くというのは、あんなに素晴らしいもので、ジーンとなるものなのかと思った。
    私の動画を見ていて先生と比べたら姿勢とか見た目も全然違うのはもちろん、何か少し聞きにはいってるように見えるが、先生のように全部?が純粋に聞きに行ってはいない感じだった。
    自分全体が、もっと聞きにいくに純粋になるようにしたい。
  • 円になって自分が相手に一生懸命歌っている時は、ザワザワガチャガチャしていて、心地悪かったが「目で聴く」で歌ったら全くそれは無くなった。相手をガチっと掴みにいく感じで、やっと聞きにいけると思った。
  • 相手を聞く時、全身で聞こうと思ってやってみたら「本当に聞いてなくて上っ面感がある」旨のコメントをもらいショックだった。
  • 人と向かい合う時にビビッている自分、不思議がる自分に気付いて、そこを突破しようと取り組んだ。
  • 腕を繋ぎ、相手の掌を感じ、指を感じ、呼吸を感じ、流れを感じ一つになること。センサーを全開にしても完全には出来ない自分がいた。
    まずは「目で聴く」相手が一人であっても、大勢の中の一人であっても、「その人を聴く」それを心掛けたい。
  • 先生が聴いて折られる時には、相手の方が涙ぐむので、本当に聴いてもらうと相手の深い所に触れて来るものだと感じた。
  • 「聞く力は凄いで~」という先生の言葉を体感するワークになった。ちゃんと聞いてもらえるという嬉しさは、安心感、全てを受け止めてくれるんだという感じ、、、その瞬間、硬く力んでいた首と肩の力が抜けた。自分でも何で泣いているのか、、、、本当に相手のことを聞けたら、それだけで相手との関係がうまくいくと思いました。
  • 4人組みで歌を届けるをした時、全員が死人の目?自分がいない目?で正直やりにくかった。
    でも、先生は誰と向き合ってもバチっとなっていたので、私もやりにくい人こそ挑戦出来るようになりたいと思った。(先生が「人は人次第」と仰っていたのを聞いて)
  • 最初はまだまだ相手の人が遠くて、届けるのにどうしたら良い?状態でしたが、先生が聞いて下さった時、先生が私の前に来た瞬間から空気も気分も変わって、聴いて貰えている事が分かるから、心も声も解放されて、撮って貰ったビデオを見ても、届ける出だしから全く違う声が出ていて驚きました。
    歌っていても楽しいし、本当に聴いていただけるだけで、良いところを引き出して下さる歌の先生のような、「こんなに歌えるの?みたいな」不思議で幸せな時間でした。
  • 2人で組んで、皆の前で聞くをやった。
    Sさんと組んだ時、思いの外長く歌えて驚き嬉しかった。
    その後、日野先生が歌を聞いてくれた。
    「本当に聞いてくれている」のがわかり、嬉しくて歌いながら涙が出そうになった。
  • 4人で組み、その内2人は初参加の方だった。自分がやるのも難しいが、他人にアドバイス(特に初めての方に対して)するのは、とても難しい。
    どんな言葉が相手に具体的イメージを湧かせることが出来るのか。
    私が今まで、日常や仕事でアドバイスする時に、自分の観点からでしかアドバイスしていなかった事に気付いた。
    それは単なる押し付けで、自己満足だ。
    それがやはりワークの中でもそうなってしまっている。
  • 歌って届けるを3人、4人と増やしたが、全員に届けるのは無理。自分をちゃんと届ける難しさも感じたが、他の人を見ていて、聞く側も大事だと気付いた。
    人と人の組み合わせで、全く違うように見える。
    自分と違う、一人一人違うという事から、その人をちゃんと見る事聞く事が必要。というか、そうしないと聴けないと感じた。
  • ピラミッドの自分の番の時、一人の人に声をかけている筈なのに散らばってしまって、左側の人を呼んでいるのに、右端の人が手を上げたり、しかも連続で。自分がいかに人に大体で話しかけているのかと思いました。
  • ピラミッドで座る側の時、4人に声をかけられた。どの人もズバンと来て「あっ、絶対私!」と思って手を上げたので、私もあれくらいズバンと行けるようになりたい。
    ただ、前回と比べたら「これは私が呼ばれた!」という感覚がましになったので、そこは進歩かもしれないと思った。
  • 「武禅」に過去3回参加し、今回4回目で、ピラミッドで届けてくれた声をキャッチ出来て、私が届けるの一発目で届いた。
    信じられないが出来た。
    声量も弱い私は、自分に丁度よい距離をみつけ、相手の首のシール一点に絞り声をかけた。
    嬉しい限りだ。
    キャッチの時は、後の首筋に神経を集中する事を意識した。不安に襲われる時は、更にその事に集中した。
    ビビッと来るその事をキャッチしようとした。
    これに気付いたのは、今回の「武禅」が初めてだった。
    少しずつだが、進歩しているのかなとも思う。
  • 今回の自分の課題として「頭では理解しない」「相手の言葉を追わない」があります。
    目で聞く事で少しそれを体感し、言葉よりももっと多くの「情報」を得られるのが分かりました。
    大切なのは、真剣に相手に向い合う事であり、それは自分の押し付けではなく、同じ量のエネルギー交換なのだと思います。
    この感覚をしっかり身体に染み込ませて、覚えておきたく思いました。
  • 相手からコメントを受けた後、やたらと自分がやった事を相手に「こうしたつもりだったが、こうだった。こういうことなのですよね」と弁解と解釈を言う人が一定数いるが、これは時間の無駄では?
  • 最後の挨拶で、私は「ありがとうございました」と言ったが、それが形式的で型にはまったもので、自分の身体から出たものでは無かったと感じた。
    自分は子供の頃から本当に「ありがとう」と言った事はない。
  • 忘れない。今回の事を実践する。その中で、続けられる存在であり続けるをする人である。既になっている。なった。

102回「武禅一の行」 (2021年5月)

102回目の武禅の受講者の年齢幅は、下は20代前半の大学生から78歳の女性まで、職業もバラバラです。つまり、「武禅」の場は、すでに社会です。
だから、自分自身が色々な相手に、自分自身が確かに話しているのかどうか?相手は確かに自分に話しかけてくれているのか?を問う、そこが目的です。

武禅でいう「関係」は、社会的な役目・関係の事ではありません。
あなた個人が、誰か個人に関わることです。
そして、その関わるというのは、自分の気持ちや精神を働かせ、相手の気持ちや精神に働きかける事です。
「誠心誠意」「全力で」「真剣に」そんな事です。

「気持ちが無ければ言葉は届かない」その実際を体感しながら、「えっそんな筈では・ではどうすれば?」と初めて自分自身に対する問題意識が芽生えて「武禅」は進んで行きます。
では、今までどんな人生だったのか?きっと、他人には自分の気持ちは届いていなかったのかも?
そんな事を自問自答する場ですから、それで正解なのです。
相手への意思、あるいは気持ちが強くなると、お互いの反応、つまり、関係が言葉ではなく通じ合えることを実感し涙します。

それが関係です。
関係出来る人間、本当にこころを開ける人間に立て直し、豊かな人生を歩きませんか?

  • 歌が少しずつ一つになっていくごとに、皆の顔も変わって来て自分もそれが嬉しくなった。一番最後の感情があふれ出した時、皆との体感が気持ち良かった。勝手に涙が溢れるし呼吸は苦しいし、訳が分からない感情だったけど、「私が生きている」事を感じられた。

  • 写真の自分の顔を見てゾッとしました。間違いなく向かい合っている相手には、違和感を与えている。逆に言えば、先生と向かい合っている人は、静かで表情も強張っていない。自分の表情が反映しているかと思うと、、、、相手に申し訳ない気さえする。
  • 日野先生がSさんの歌を聴いている姿と、その目を見ていると歌っているSさんだけではく、横で聞いていた全員が涙を出していた。
    普段私達は、聞けている、聞かれている、コミュニケーションが取れていると感じているだけで、本当には聞けていないんだと思い知らされました。
  • 多くの人の前にたたせて貰った。組んだ人の感想は「遠い」「関わろうとしていない」「自分を見てくれていない」「お人形さんみたい」などだった。
    同じワークを3人でやり、一人が写真を撮る。自分の写真を見ると、腰が引けていたり距離を間違っていたり、相手を見ようとして顔だけ突っ込んでいたりした。
  • 合唱のワークで、2組と1人1人が全く違う歌を歌っているのに、今まで人生で感じた事のない一体感を感じ、涙が抑えられなかった。
    これが素の自分、本当の自分の反応なのかと、自分でも訳が分からず驚きました。
  • 3人組でやっている時、しばらくは「自分独りで言っているだけ」と言われていたが、「相手に」を意識してやったら「良くなった」と言われた。
    こうして3人で意見を出し合い、自分や仲間が出来るように工夫をする稽古が、嬉しくなった。
    人は独りでは成長できないのだと思った。
  • うまくやろうという意識が働く。どこか正解を探して頭で考えて、時間を取り繕うとしている自分がいる。
    相手からの良い評価を引き出したいので、やろうとしている、又は、やっているフリ。写真で見るとよく分かる。
  • セクション1の木刀を構えて立つ、の時、先生が目の前に立つと、皆表情が緩み笑顔になったのも印象的でした。
    どんなシチュエーションだったとしても、本当に向かい合って貰える事が嬉しい気持ちなるのだという事、それは人が必ず持っているものだという事を見せて貰いました。
  • 組んだ人が歌ってくれたが、相手を無視して自分を押し付けると、こんなに嫌な気持ち悪い感じがするのかと思った。
    自分も、他人の話を聞かず相手を無視している時、こんな風になっているのかと思い、本当に気をつけようと思った。
  • 最初のセクションの写真は二度と見たくないと思った。
    今日、同じ仲間と刀を構えて向かい合った。
    全く違った。
    ややこしい頭が邪魔をせず、清々しい姿がそこにあった。
  • 生まれて初めて、「聞いてくれた感動」を味わう事ができました。
    こんなことってあるのですね!これが人と関係するって事!
  • 歌が少しずつ一つになっていくごとに、皆の顔も変わって来て自分もそれが嬉しくなった。
    一番最後の感情があふれ出した時、皆との体感が気持ち良かった。
    勝手に涙が溢れるし呼吸は苦しいし、訳が分からない感情だったけど、「私が生きている」事を感じられた。
  • 言葉には出来ないこの感動を与えて頂いた事に感謝し、ちゃんと生きて行くことから始めます。
  • 先生の合図で皆が声量を上げた時、本当に同じパートの皆が一緒になった感じがして、勝手に涙が出てきた。
    繋がり、関係というものは、確かにあると実感した。
    本気でお互いが関係しようと人と向き合えば、結婚とか親族とか、そういった法律(?)や手続きや、目に見えるもので縛らなくても、また、趣味や属性を共有しなくても、ちゃんと繋がれる、それが本当だと思った。
  • 3人組で2対1のワークの時、中国人の方が歌ってくれた歌が、こころから私に歌ってくれたのが分かった。こころが温かくなった。私は、頭の中で「こうしよう」とか、変な意識が働いてしまっているなと感じた。
  • 面白かった!このセクションの「とおりゃんせ」で、相手と一緒に動く。
    その瞬間相手だけになる。
    その時は自分の心が充実した気分になる。
  • 初日に見た構え方と全く違うことを、写真で確認できました。「本気になる」この一点をやり続ける事に、言い訳を作って逃げている自分を発見しました。
  • 人とちゃんと関われば、こんなに面白いし、つい笑顔になってしまうものなんだと思った。もっと相手を感じられるようになって、先生みたいに色んなことができるようになったら、もっともっと楽しいだろう、もっと深い世界があるだろうと思った。
  • 声が散らばり中々的が絞られず色々と試しましたが、最後は「絶対にこの人に」と気持ちが出た時に手を上げて頂けました。
  • 「声を届ける」を自分のタイミング、自分だけの思いでやってみると、全く相手に届かないばかりか、気持ち悪いと言われる
  • 「武禅」で色んな事が顕になる。普段自分がどれだけ何も出来ていないのか。
    「やっているつもり」で、人を無視しているのか。
    全然生きることが出来ていないのか。
    そんな生き方をしているくせに、死や病を恐れる自分が、本当に馬鹿らしく思えてきた。
  • 相手に声をかけるワークで、始めは誰に声をかけているのかがハッキリせず、身体が固まっていた。
    日常生活で、私は誰にも声をかけていなかった。
  • 人に会ったら挨拶をしなさいと教えられて来たが、偽物の挨拶をしていただけで、自分が本気で挨拶をしていないから、あの人は挨拶をしても返事をしない、目も合わさないと不満が出る。
    相手にそうさせたのは私だった。
  • 真剣に人に向き合っていなかったから、相手も向き合ってくれていなかった。
    向き合って貰った事、向き合って貰った経験が無かったからだと思います。
    真剣に向き合って貰って、初めて自分は人に向き合って無いと感じました。
    人に対して雑に接していた自分を辞めます。
  • 何故か涙が出てきて、歌い終わった時は皆も泣いていた。
    一番皆を感じていた時は、それまでやっていたワークの時のように、「何かをやろう」として固まった感じではなかった。
    自分がいかに普段は、何かをやろうとか、色々考えて、本当の事を真っ直ぐ出来ていないかを実感した。
  • 人に声をかける、人の話を聞く、ちゃんと関わる。
    それらが如何に難しいか、それらができていない事に気付かせてくれる貴重な会に参加させていただき、本当にありがとうございました。
  • 全体を通して、自分の相手に対するエネルギーが弱すぎる。
    先生がおっしゃっていた「自分に一生懸命になるのではなく、相手に一生懸命になる」というのが、日頃の自分に突き刺さる。大声を出すことが、どこかで恥ずかしいと思ってしまう。
    周りを気にしてしまったり、相手に嫌われないように、とか何時も逃げ腰になっていた。
    もっと本気で向き合えるようになりたい。
  • 相手に話すワークでは、パートナーに「遠い」「壁がある」「声が拡散していく感じ」などの指摘を得られました。
    自分の声が相手どころか、自分の口の中に止まっているように感じました。
    自分自身に一生懸命で、相手に真剣に一生懸命に関わる事が、自分の見栄やエゴのせいで出来ていないのだと感じます。
  • 普段から「無視している」ということに気付いておらず、日常の仕事でも、とても酷い対応というか、在り方でいるのだと気付きました。
    日常の仕事でも、目的意識が曖昧で、そんなだから、その対象に対する自分も曖昧であやふやなのだと思います。
    そんなあやふやな存在で、人と関われる筈がない。
    私はワークの正誤の判定がとても苦手に感じていて、良い悪いをはっきりさせられない事が多いのですが、それも「誰の為に」「何の為に」これをやっているのかという、目的意識が曖昧である為かと思いました。
    だから、人に伝えるのが苦手で、無視しているという酷いことをしてしまっているのかと感じました。
  • 日常生活で、真剣に相手に向かう事はなく、無視していて、それに気付かずに、ただ一方的に言葉を発しているだけで、とても、気持ち悪い生活をしていると感じた。
    まずは「誰に」を明確にしていく。
  • 自分の声の届け方の曖昧さを痛感しました。
    届いていない事が良く分かりました。
    そこに気持ちがないと雑音でしか無いし、気持ち悪い。
    本当に相手に届ける気持ちがあれば、ストレートに相手に突き刺さります。
  • 出来ない時は、ただ漫然と出来ないことを繰り返しても一生出来ないんだなと、他の人を見ていて思った(自分もそうなっている)。
  • 初日の自分が、今までの人生の過ごし方であり、今日の自分がこれからの自分の目標です。
    自分の日常にフィルターがかかったり、雑になりそうになる時、今日の感動と正面向い合いを思い出し目標にします。
  • 今まで自分が生きてきた中で、殆どのことを無視して生きてきてしまったんだなと、先生のお話をきいて、自分に関わってくれた人達に、申し訳なく思った。
    何をするにも自分の事ばかり。
    もっと、日常から他の誰でもない「その人」に向かい合って関わっていかなければ駄目。
    対象を絞れていないということは、その人の事をちゃんとみていないということ。
  • 「遠くにいる」「遠くを見ているように見える」との意見を多くもらった。
    また「向かい合い」という言葉化されたものをやろうとしていた事に気付かされた。
    「誰に?」が薄れている日常なのだ。
  • 後から考えると、私はAさんにバツを出しましたが「Aさんは、こんな人だろう」という勝手な先入観だけで、Aさんに対して本気で向かっていませんでした。
    先生の本当の本気に全身が震えました。
    その後、Aさんの中の何かが壊れて、やっとAさんが出てきました。
    本気は人を変える事を「武禅」で何度も見せて貰って、私も本当の本気の人になりたいと改めて思いました。
  • グループでのワークは、写真を撮ってもらったり、やっている方達をみたりして、自分がやっている時よりも分かりやすかった。
    自分では目に力を入れているつもりはなくても、癖でそうしているようだ。
    相手をちゃんと見ることや、向かい合うことが日常ではなく、特別なことになっているんだと感じた。

101回「武禅一の行」

  • 誰かに寄り掛かるでもなく、独りよがりでもなく、一人一人が自立している中で協力しあう事は、この世の中で一番美しく尊いものだと思った。とても充実した、緊張感のある3日間でした。
  • 人数が2人から4人、6人になった時、皆んながお互いに聴き合おうと協力し合っている一体感が、とても嬉しかった。
  • 普段も焦点を絞って相手と会話できていないことを、物凄く知らされた。注意散漫で違うことに意識が常に分散していることで、失っているものが沢山ある。人間関係も誰とも構築できていないのかもしれない。
  • Workでは出来ない事ばかりだけど、出来なかったから分かった事、ダメな事が沢山あった。出来ない事ばかりで良かったし、正直にそれを伝えて下さった皆さんに感謝です。
  • 色んなworkをやって課題を発見しても、それをその場で解決しよう、何とか打破しようとしなければ、それは何の意味も無いのだと気付きました。問題を先延ばしにしていては、きっと一生納得出来る人生なんて歩めません。自分に色んな言い訳をして誤魔化して生きて来てしまいました。自分で自分を殺して来たのだと思います。言い訳や誤魔化しが、どんどん生きる力を弱くさせて来てしまったのだと思います。その事がとても悔しいです。「バカヤローそうじゃ無いだろう!」と。どこかでそれに気付いていたのに、ずっと誤魔化して来てしまいました。自分の誤魔化しにも敏感になって、もっともっと生きることに積極的になっていきたいです。
  • 子供の時から周りと違う事は「間違いである」と、自分の感覚を押し込めて来て、本来の自分は全く納得していないのに、周りに合わせてしまう。その事が自分の中で混乱を起こしています。
  • やはりか。何回やっても同じ反応だった。日常の中で、組織の一員として人と関わっていた時も、これと同じことなんだと思う。伝えても伝えても伝わらない、悔しかった。
  • 1日目を終えましたが、自分はどう生きたいのか?を見つめれば見つめる程、普段の自分の行動が真逆のことをしていることに気づかされます。そこに真剣に向かい合うことを一度(一度というより常に)していく事が第一歩なのだと思いました。
  • やはり、心のどこかで他人と正面から向かい合うことを、実はとても恐れている気がしました。
  • 今回のセクションは、朝からかなりキツかった。自分が情けなく恥ずかしく、これまでこのセクションの意味を分かっていなかった。どういう事かというと、大きな輪の中にいて、相手をお互いに目で確認したのに、その人では無かったという事実に唖然としてしまった。
  • 初めて「武禅」に参加した時、先生からの手紙の中に「あなたはお勉強をしに来たのですね。あなたの話は誰も聞いていなかったでしょう」という内容のメッセージに、私はかなりショックだった。と記憶しているが、今朝からの、人との関わりの中で、そしてこのセクションでその言葉が蘇って来た。あの頃の自分は、全くその意味を理解出来ていなかったのだと気付き、同時にずっとその事は避けて、もっと自分の問題点を強固なものにした恐ろしいものになってしまっていた。とても恥ずかしく、周囲の人との関係を無視した夢の中の人だった。本当にそれに気付けているか分かりませんが、昨日からすぐ同じことをしています。全くそこから私の動きはあるようです。本気になるとか、向き合うとか、何も分かっておらず生きて来ました。ものすごくショックです。現実に生きるようにします。

  • この3日間での私の変化は「本気・真剣さ」だったと思います。日々の仕事の忙しさにかまけて真剣に動くことを避けていました。真剣に動く事はエネルギーを使うからです。いつも余力を残して行動していました。それを良しとする日常でした。しかしその事は、体力は残してくれますが、関わりをなーなーにして、結局は関わっている人達との距離を遠くしていたのかもしれません。
  • 相手に声をかける。やってみると自分の意識が途切れたり、距離がなかったりと、回を重ねる事に自分の集中力の持続の無さを思い知らされます。
  • 「自分の中だけ・頭の中だけ・相手に伝わっていない・相手の話を聴いていない」と、今回の「相手に声を届ける」セクションで、組んだ方達からのコメントです。「本気になってない!」このコメントは刺さりました。本気になることを恐れている私がいます。どうして恐れるのか?今の自分のやり方を変えて失敗する事が怖いのです。今は、順調な仕事ですが、このままではいつか行き詰まりが来る事は分かっているのに。だから今回参加しているのです。
  • 私の今までの人との関わりは本気だったのでしょうか?どこか「場づくり」の技術でごまかして来たのでは無いか?だから少し人との関わりに焦りを感じているのでは無いか?
  • 今回は、予断しない、忖度しない、一回一回ちゃんとお相手と向かい会う、をこころしていました。それでも気付くと忖度したりする自分がいて、一緒にする人の一言で修正したり、の繰り返しでした。
  • ピラミッドでは、受けることを当てる以上に集中しようとしました。その時の事を、帰宅し反芻していました。 そうしたら、今迄「○」や「×」について、また他の事にも、全く考え違いをして来た事に気付きました。武禅には20回近く参加していて、思考を介さずに手を挙げられたのは、たった一回です。 その時の感じが「私の正解」で、基準にするべきでしたのに、判断を基準にしていたのです。最終日に、離れた場所からの呼び掛けは、Oさんとでした。私はピンと来なかったけれど、Oさんだからきっと届いているのだろうと、無意識の内に忖度していたと気付いたのです。 そしてそれは、武禅に限らず日常生活でも、常にルールブックに照らし合わせて「○」や「×」を判断していたのです。特に「武禅」では、私が「○」や「×」のルールブックを見ながら判断するのではなく、「私という人間に届いたと「○」「×」を出す事で、表現しなくてはならなかったのですね。今迄、お相手をして頂いた方には、本当に申し訳なかったです。 先生は、折々におっしゃっていましたが、全く染み込んでいませんでした。自分の能力が低いのを隠す事で精一杯だったのです。だから「○」「×」を出すのは、自分自身を曝け出すことにも繋がるから、出来なかったのだと思います。 これも、帰ってから気付いたのですが、武禅の行中に自分の写真を初めてちゃんと見られました。今迄は全然見えていませんでした。心の不格好が現れている自分を見るのが嫌で、無意識のフィルターが働いていたのだと思います。今回、そんな自分でも、ちゃんと見ることが出来るようになって、初めて他の人も見えたような気がします。 武禅を終え帰り、ふとした時に「待ちに待った武禅だったけれど、あっという間だったな〜、きっと人生もこんなものかも」と思え、一瞬一瞬がとても大切に感じました。また、自分を見る目も変わりました。
  • 最初の歌を届けるは、何も手がかりが掴めなかった。まだ掴んでいないのに、色々アドバイスを言われるのがムカついて、もっと色々やらせてくれと思った。
  • 生麦の言い返しで、こんな感情むき出しに喧嘩をしたことがないなと思った。こんな風に喧嘩したい!感情を出せる相手が欲しい!
  • お相手も自分も完璧ではない、ということを大前提で築き上げなければならないと思いました。
  • 自分の感じたことを伝えると、私は物凄く嫌なヤツになる。それを隠したいのですよね。最近思うのです。もっとさらけ出して、きちんと自分を出さないとと。そう感じ始めてる矢先、「もっと出して」「遠い」という言葉が沢山相手から出て「やっぱりか」とガックリしています。
  • 「向かっていない」「遠くにいる」「形だけ」「全体がちぐはぐ」「ふんわりしている」全て、自分が取り組み行動している事とは、異なった形として出ている。やはりか。何回やっても同じ反応だった。日常の中で、組織の一員として人と関わっていた時も、これと同じ事だと思う。伝えても伝えても伝えられない、悔しかった。
  • 私は絶えず気持ちの悪い妄想の中にいて、その中で自己完結してしまっている。相手と向き合えていない。本当の関係性を持てていない、という自分が見えました。チームになった方から伝えて貰いました。関わるべき人の前にいても、自分勝手な思い込みや、勘違いの中で動き生きてきたんだ。自分の世界の中だけで動き、勝手に混乱し形を壊しながら、自分に変に酔いしれて自己満足した、自分本位なものだったと思います。
  • もっと自分を大切にしないと、自分を大切にすること自体から、大きな誤解をしている。
  • 腹の下から何かがこみ上げてきそうな感覚。その時には、目から液体が出そうになる。とその瞬間に、自分の思考ブレーカーが制御する。何故流れを止めてしまうのか分からない。『テレ』というのが近い言葉のような気がする。中々相手に届かない感覚はとてももどかしく、相手と自分との間にガラスがあるようなものだ。その「テレ」というガラスをぶっこわす。あるいはガラスがあったとしても関係ない。伝われ!と言う時には、相手は少し頷いてくれた。
  • 自分の姿や他人の姿を写真で見た時、誰も相手に向かっていない事が見えた。ゴッコをしているような感じだった。相手に真剣に向かうとは、どんなに難しいことかと改めて分かってくる。
  • 相手との声のやり取りを動画で撮ってもらった時、一方的に強く相手に押し付けている自分がいた。人の話を聴くことが苦手な事は承知しているが、普段、やはり、自分というものを他人に押し付けているのだろう。
  • 人に声を直接届ける事が薄い昨今、ピンポイントで人に声をかけられた幸せがあった。何でも無人化され暖かみの無い世の中になり、不安が増す一方で、本当の人間の幸福に立ち返れたようだ。
  • 最後に組んだ高学歴の人達は、言葉は多いが、普通とは違う言葉遊びをするから、聞いていて面白い。ただ、その言葉の中に、ある種の予定調和へ向かおうとするバイアスがひっそりと有るように思う。言葉で飾るな、気持ちで勝負しろ、というのは、自分の使う言葉の中にある、そういった嘘くさい予定調和に気付け!ということでもある。
  • 「細道」を動画に撮ったら本当にひどい。どこから手をつければよいか途方に暮れる。自分勝手にやっているだけやん。このショックを、また、色んな筋書きをつけて正解にまとめ上げるようなら、本当に付ける薬もない。優等生ぶった具体のない言葉の羅列、もうやめだ。
  • 先生が「聴く」時に、先生はまるで「無」だ。その無は、相手の邪魔をしない無だ。自分勝手な癖は、何であれ相手の邪魔をしているのだ。
  • 先生は根本に「相手を動かしてやろうという気持ち」が必要だと繰り返してくれた。ここでも一番大事なのは「気持ち」なのだ!色々それっぽい事を書いてきたが、結局ここが勝負どころだ。
  • それにしても、歌の初めのコマだからか、今日は自分も含めて気持ちの悪い歌が多い。何か場に、自分にも必死さが足りない。「なんとしてでも」自分を相手を何とかしてやろうになっていない。ニタニタした気持ち悪い感じ。これどうする?
  • 顔も身体も間抜けで不細工で、本当にひどい。が、これを受け入れないと、人とは向かい合ったり聴くことは出来ないと思う。出来る出来ないではなく「そうか、ではどうする?」の癖を付けたい。
  • やはり、気が付かないうちに自分の事に集中していて、相手のことを聴いていない。ただ、以前はセクションが終わってから気付いていたけれど、今回はその場で気が付いて直す作業が出来るようになっている。
  • 気持ちが相手に全く伝わっていないことが分かりました。相手と本当の意味で、気持ちを交えていないということは間違いないと思っています。
  • 今迄の私は、きっと頭の中だけで妄想で人と会話をしていた場面が沢山あったように思います。
  • もし自分が、人としての人生を生きていないとしたら、人へ伝えることを諦めてしまった時だと実感しました。たった一人の相手に向けて届けること、それが生きることにおいてとても大切な事のように、今は感じています。そして、間違いなく現段階においては、歌っている時に、私は一人で歌っています。「誰に?」ということの大切さが実感できないのであれば、家族といても、仕事をしていても、それは意味の無いことなのです。言葉がどれだけ素晴らしいものだとしても、それを発した人の想いや声が届かなければ、人間では無いのかもしれません。
  • 笑顔が嘘くさいと言われて、とてもショックでしたが、自分の中に知らないうちに線を引いていた事に気付きました。自分の思っていることに気付いていなければ、相手の感じている事にも気付いていない。結果的に、私の心はスカスカの状態で、人とコミュニケーションをしているのかもしれない。
  • 一生懸命に歌うことと、一生懸命に人へ歌を伝えることは全然違うということを、心底分かりました。また、歌うことは、辛いことだと思いました。そして、誰にも何も伝わらないという苦しさも初めて味わいました。しかし、それ以上に「聴く」ということは、もっと真剣な気持ちが必要なのだと感じました。聴くことはとても大変という、簡単な言葉では説明できないくらい、レベルの高いものを要求されているのだと思います。
  • 自分の目指す人が手を挙げた時、声が届いた事よりも、それを聴いてもらったことに感謝をしました。もっともっと真剣に伝えたい、もっともっと真剣に聴いていきたいと、今はそう思っています。
  • 写真を見た時、木刀を持っているのに、何も持っていないような姿に唖然としました。刀を持っている人の前に立つ姿ではないだろう!?(大根でも持ってる?)とにかく、人の前に立つ表情でも何でもなく、気持ち悪く感じました。笑えます。
  • 写真の自分の姿に絶望しつつも、もっと人と向き合いたい、もっと、わっと前に出ているようになりたい、もっと、そのまま無茶苦茶なままでも、わっと出してしまえるようになりたいと強く感じた。なんで、こんなわけわからん思考回路に自分をしてしまったんやろう!
  • 木刀を構えた人の前に、それに相応しく立つをやってみて、相手の方に「遠い感じがする」「ただ突っ立っているだけ」等のアドバイスを貰い、その後も何回もチャレンジすれど、同じようなコメントしか貰えなかった。中々出来ないというか、何がどうかとも分からない状況。その後、木刀を構える側になると、相手の方々の一人一人の違いを感じられた。ピタッと正面に会っている感じの人、凄く遠くに感じる人、色々考えている人、少しずつの違いを感じられた。とりあえず、がむしゃらにやり通すしかない。
  • 組んだ人達とスマホで写真を撮り合って画像を見ると、これほどまでに自分が腰が引けていたり、木刀を持っている姿が弱いのに驚きました。立ち姿が気持ち悪い。組んだ人の2人を外から見ると、より腰の引け具合や意識が相手に向いていない等を感じ取れました。自分自身の姿が、どんな風になっているのかを分かっていない事にも驚いた。
  • 自分の動画を見ると「何もしていない顔」「ぶざまな顔」になっている。自分を見て「なんやこれは」となりました。「鏡に歌っている」「私に歌っていない」等言われ「くそ~!」となりましたが出来ない。
  • 日野先生に歌ってもらい、私に届けて貰った時、感情が込み上がり涙が止まらなくなった。言葉では表せないが、嬉しさ温かさのようなものが伝わって来た。歌を唄ってもらって泣いたのは人生初めてです。また、逆に日野先生が「聴く」をされた時、歌っている人の声が別人になり驚いた。日常でも一生懸命「聴こう」と思います。
  • 雑談しているグループの一人に声をかけるをやった時、全く届かずしばらくの間ずっと叫ぶが駄目でした。悔しい気持ちで一杯になり「くそ~」となるがダメダメで、全く反応がない。やるしかない。1人に集中していくと反応して頂いた。嬉しかったでは終わらせられないので、もっと相手に集中しようと思った。
  • 武禅最後のセクションで、自分の顔つき目が変わっていた。毎日一生懸命生きようと思った。
  • 普段の生活に戻って行くので、この感覚、体感したことをしっかりと記憶に残していき、自分にプレッシャーをかけながら、力一杯生きて行こうと思います。2泊3日、長いようで短かったが、とんでもない体験ができたことを、大変嬉しく思います。また、良い仲間に巡り合えたのも良かったです。
  • 向かい合いの時、写真を見ると変な恰好で突っ立っているだけでした。木刀を持っている時も、木刀で対峙している状況ではなく、全然関係出来ていないのが分かった。
  • 日野先生のアドバイスで「私があなたに」とおっしゃっているのを聞いて、私ばかりで、あなたがすっ飛んでいたことに気付いて試してみると、少しマシになったと言ってくれた。
  • 声を届けるで、組んだ人のを聞いていると気持ちが悪い。それを自分がやっていると思うとゾッとした。3人でビデオを撮ったのを見ると、これまた違和感でしかなかった。常日頃から、しっかりと気を付けないと違和感だらけだ。それが嫌なので頑張ります。
  • 2人組で、前を歩く人を後ろから呼び止めるのだが、全く振り向かなかった届かなかった。全然エネルギーが足りていないというか、口から声を発した瞬間、散らばっていくというか、力一杯でない自分を感じた時、何かもったいないと感じました。
  • 相手を本気で聞くようにすると、自分の体が聞こうとするのに合わせて自然に動き、今までとは全然違いました。相手の人の全体が見え、気持ちの動きが見えました。深いところまで聞く事は出来ていないと思いますが、この感覚は僕の財産になったと思います。本気で人の気持ちを聞く、本気で自分の気持ちを届けるは、どんな人であろうとも、努力していきたいと思います。

  • Aさんと組んだ。現実逃避というか、自分だけの世界が強固そうなので、大変だと思ったが、当人にその自覚があるらしく、何とかしたいと思っているとのことだったので、こちらも正直に感じたことを言った。「嘘くさい」「妄想に入っている」「ワザとらしい」「気持ち悪い」等々。彼女も良い子でいたいとか、キズ付きたくないという防衛本能でそうしてしまっていると思うが、自分も、人から良く思われたいとか、嫌われたくないとか、体裁を気にしたり、虚栄心や優等生的なところが強い。これが自分の成長を妨げているというか、物事の本質が見えなくなっている一因かもしれないと気付いた。
  • やはり相手に届けるにはパワーが全然たりていない。口先だけで喋ることに慣れてしまっているせいだろう。事務的な言葉や音だけの会話。そんなコミュニケーションだったら、本当にAIで出来てしまうし、何も生まれない。パワーが無ければ相手の心も動かせない。
  • 雑談している人達の一人に「オイ!」と呼びかける。何度やっても全然誰も反応しないので「この鈍感野郎ども!!と怒りをぶつけると、やっと振り向いてくれた。
  • 今回の「武禅」では理屈ではない人間関係の凄さを体験した。昨日の宴会での、あの一体感は何だったのだろう?日常生活で、あんなことは無いし、感情を揺さぶられた。本気で楽しかった。
  • 目の前の人に思い切り行こうと臨んだが「立っているだけ」「遠い」「眺めているだけ」等のコメントが殆どで、実際に写真で見るとその様子が写っていた。表情もぼんやりして「真剣味が足りない」と言われクソー!と感じた。写真の自分の姿に絶望しつつも、もっと人と向き合いたい、もっとわっと前に出るようになりたい、もっとそのまま無茶苦茶なままでも、わっと出してしまえるようになりたいと強く感じた。何で、こんな訳分からん思考回路に自分をしてしまったんやろう!
  • 「頭の中のことを自分勝手にやってるだけ」「目が死んでいる」という事を何度も指摘され、自分の頭の中で考えた事を、一人で勝手にやっているだけだったと改めて感じました。相手と向かい合って声を掛けたり聞いたりする時、すぐに構えて相手を威圧したり、絶対に聞かない、というような拒絶の姿勢でいる事が動画を見て良く分かりました。なぜ、こんなに人を拒絶し、殻に入っているのか?
  • 先生のデモンストレーションを拝見すると、とても目や表情にも力があり、豊かで柔軟に感じました。どうにかして、私も先生のように人の話を聞けるようになりたい!と思います。まずは、本当にこの自分の表情を人間らしく元に戻せるように頑張ります!
  • 気付いた事は、自分自身を頭で整理して、自分を批判的に見ている自分の「思い」を、そのまま人に向けている事です。常に、人に対して批判的や決めつけのフィルターを通して見るがゆえに、その人に対して自分が感じている筈の事が分からなくなっています。「これをしないといけないのに」「この人はどうだろう」といったジャッジを投げつけていました。「こわい」「怒っているみたい」「何か文句あるの?」と、時々人から聞かれることがあったのですが、こんなものを投げつけていたから、「そらそうだ」と分かりました。
  • 「そうか」と写真を見て気付いたのは、自分は人には本当に関心が無く、全く無視していたことです。「自分が決めたことを、自分がうまくやる」ということにしか意識が向かず、とても人に失礼な態度をとっていたと思います。例えば、歌を聞くという時に、聞く側の態度、どれだけ聞きにいっているか、ということがどれ程大事か、自分はこの関係において責任を負っているということを、分かっていませんでした。それは表裏一体のことで、自分が歌う側の時も、相手に投げつけるように押し付けるのではなく、共同作業だとハッとしたことで気付きました。
  • 周りの人がやっているワークを見て「何やねん、もっと向かってこいや!」と思いました。自分がずっと言われ続けて、今も言われている事と同じですが、こう相手に感じさせることが、どれほどストレスか腹が立つか、身を持って体験し良く分かりました。そして、そう感じた時に、相手にストレートに伝えるということを、これまで出来なかったですが、今日は言う事が出来ました。尊重とは、きちんと責任を持って関わる事だと感じました。
  • ピラミッドで、自分の鈍感さ鈍感ゆえの判断を痛感しました。人からの呼びかけが自分に向けられているかどうか、頭で判断してしまう。判断するから「間違わないように」と慎重になり、結果的に自分に向けられた声を聞き逃してしまう。そういうことが多発しました。「この鈍感野郎が」と、雑談グループの外から声をかけ続けてくれていた人が、後に言ってくれた時に、自分の身体はもしかしたらとっくに感知していたかもしれないのに、自分の判断が無茶苦茶にしているように感じました。そして、相手をシャットアウトしていました。
  • 形だけ作って体裁をととのえ、何かの決まったルール通りに何かをやりたいのではなく、自分が見ている「事実」を色んな角度から疑い、今ある現存のルールや流れとは違った、本当にそこにある関係、何が起きているのかを、まともな人間の目でとらえて、違うやり方を示していきたいです。
  • 最後の木刀を持っての真剣向かい合いは、最初の時に撮った写真とは、まるで様子が変わって、相手に向かっていく姿でした。もっと行ける!と感じましたし、自分が自分をなめるなよ、と思いました。一つ一つのワークの中で、出来ない事が殆どでしたが、その中でも自分の変化を感じ取り、「出来ない」で終わるのではなく、出来たことを探す、それを喜ぶ、そしてもっと丁寧に出来る事を見つけてやっていく、ということを、今日以降も続けていきます!!