音楽の第一歩
初めての背広
京都先斗町へ
京都2
ソフトからドライ
一人で店を

 

高校の入学式の日、俺は大手企業の工場ですでに働いていた。働くのは面白い、お金を稼ぐのは面白いという事を知ったのは中学一年の時に始めた新聞配達がきっかけだ。中学時代でも毎日新聞、朝日新聞、読売新聞と配達所を転々とした。その理由は「給料を沢山欲しい」からだ。どこの新聞配達が給料が良いのか、拡張すればどこが沢山歩合をくれるのか。とりあえず、一年ほど一ケ所で仕事に慣れてから、他の新聞配達の連中と情報交換をし、渡り歩いた。
俺が最初に配達を受け持った区域は、一寸ややこしい所だった。鶴橋の一寸南側で当時城東線と呼ばれていたガードぞいが含まれていた。在日韓国・朝鮮の人達が暮らす地区が混在していたからだ。最終的には、ここの連中と始終縄張り争いを起すことになる。うちの学校に殴り込みに来る、こちらから出向く、待ち伏せをされる、家まで殴り込みに来る、こちらも家まで殴り込みに行く、お互いのアイディンテティをかけて年ガラ年中緊張状態だった。
俺が通っていた学校は文教地区と言われていたところで、回りには高校野球で有名な上之宮をはじめ、幾つもの中学・高校があったので、そういった闘争のネタには事欠かなかったのに、城東線沿い迄足を伸ばしたから、何時誰に待ち伏せされるか戦々恐々の毎日だったが、その緊張感がたまらなく楽しかった。
正月前には餅屋のアルバイト。一週間ほどだったが、ほとんど徹夜で仕事をしたが、そのバイト以来しばらくはお餅の匂いを嗅ぐだけで気分が悪くなった。この一週間のバイトは給料が無茶苦茶良かった。一般サラリーマンが一万円そこそこで、新聞配達が一月で5000円だったが、このバイトは一週間で5000円だ。まあ、ほとんど徹夜状態だからそんなものだったのかもしれないが。
でも、卒業後も時々続けていたバイトでキャバレーのボーイ、これは破格の給料だった。17000円で、客からチップ、ホステスからチップ、ほんまに儲かった。「いらっしゃいませ」「兄ちゃんエエ娘おるか?」「はい、任せといて下さい」このやりとりがお金を生むとは最初は分からなかった。ある時、何時ものように「兄ちゃんエエ娘おるか?」と客から言われた時、その客は俺のポケットに五百円札を入れよった。俺は一瞬「えっ!」と躊躇したが、あっそうか!と思って「ハイ!任せて頂戴!」と遠慮なく貰った。
客をテーブルに案内して、すぐに若いホステスに「客を回して欲しいか?」と聞きに行ったら「ガイドさん、まわしてまわして!」といって、またもやポケットに百円札が押し込まれた。「よっしゃ、これや、これで両方からお金はいただきや」この要領は新聞配達の時に工夫をして儲けたおかげかもしれない。
新聞配達は、決められたところに配るだけだから固定の給料しか入らない。後は拡張した分が上乗せされるがしれたものだ。俺の区域には病院が二つあり、その一つは小さな個人病院だが、入院患者もいた。配達所では入院患者に新聞をとってもらうのは禁じられていた。
というのは、何時退院するか分からないので、集金人がお金をもらいに行った時に退院してしまっていることが多かったからだ。俺は、それを聞いて「じゃあ、退院するのが分かっていたらその分を先に貰ったらええやんけ」と思って、拡張サービス分として配達件数より余分に持って出る新聞で、入院患者に新聞を配った。もちろん、配達所には内緒や。俺が勝手に配って、勝手に集金する、これは配達所にはばれずに儲けた。
キャバレーが11時に終わり後片づけ、最終の市電で上六迄帰り、家の近所のすし屋で一杯引っかけ、一合折りをおばあちゃんの土産に持って買える。おれの中学生活だった。
続く

 

音楽の第一歩

縁というのは不思議なものだ。この頃ボーイをしていたキャバレーに、まさか俺がジャズミュージシャンとしてドラムを叩きに行くとはお釈迦様は知っていたのだろうか?いや、ミュージシャンになるということも知っていたのだろうか?俺は、全く知りませ〜ん。
まさか、「お富さん」の春日八郎さんの歌伴をするとは、森山加代子や伊藤久男さん、ディック・ミネに小畑実、大津美子や風吹ジュン、あっ、これは時代が違うな。えーい書き出したら切りがなくなる。この頃ラジオから流れてきた歌声の主の伴奏をするとは、だ〜れも知らんで〜。

俺の音楽の第一歩は、うどん屋で買った1000円のギターだ。何でうどん屋やねん、そんなもんしるかいな。お婆ちゃんが俺に買って来てくれたんで、それがたまたまうどん屋で売ってただけや。何でやろ?。
段ボールのケースを開けると、プーンと上塗りの匂いが鼻に膜を作った。今迄、俺の回りには全くなかった匂いや。その匂いにワクワク・ソワソワした。ケースの中には、「ギター上達法」と書かれた教則本が一冊入っていたが、何しろ音楽の成績は小学校の時から2以上はもらったことがない。全く、楽譜なんか読めません。
題して「湯の町エレジー」古賀正男の作った名曲だ。♪トン、タタッタン、ティラリラリンラン♪(そう言えば、小学生の時、母や伯母から三味線と小唄の手ほどきを受けたことがあった。その時、こういった擬音の口三味線で教わったのを今思い出した。チレチンチリガン、ツレトッチンシャン、てな具合だ)と、ラジオでよく流れていた。よっしゃ、ほんなら弾いてみよか。ギターの弦を張り、おもむろに弦を弾いてみた。ボロロロ〜ン、ええ音や。早速聞き覚えのある歌謡曲やロッカビリーの旋律を探っていった。
「えっドレミってどれ?」もちろん、チューニングの仕方なんか知らない。とりあえず、適当に弦を張って音を探し出した。この頃は、どこの町内にもギターを小粋に弾きこなす“兄ちゃん”がいた。名作鉄道員や禁じられた遊びなど、その“兄ちゃん”がいつどうして覚えたのかは全く知らないが、突然弾いていた。
うちの裏にもその“兄ちゃん”はいたが、ちょっと取っ付きが悪く、聞きに行く気にはなれなかった。そう言えば、ギターを弾く気の弱そうな連中が家の近所にいた。そいつらは、俺の一学年上で、何時も一人の家の店先に4,5人でたむろして与太話に花を咲かせていた。連中は俺にビビッテいたから話は早かった。「ギターを教えてや」「えっ日野君、ギター弾くんか?」「お婆ちゃんが買ってきたんやけど、チューニングも何もわかれへんねん」「一寸かしてみ……、よっしゃこれで弾けるで、そやけどドレミを知ってるんか?」「いや、そんなもん全然知らんで」「ドレミはな………分かったか」「うーん、何となく分かった。サンキュー、ほんなら家で練習してくるわ」
ここが、俺のギターの始まりや。はっきりした年月は覚えてないけど、確か1963年位やから中学3年生か卒業したところだったと思う。何で1963年かと云えば、1964年にあの強烈なサウンド、テケテケテケテケテケテケテケ、ドデドデドデドデドデドデドデドデ……、御存知ベンチャーズのパイプラインにびっくりし、どうやったらこれが弾けるんか分かれへんから、お母ちゃんに三味線の奏法を教えて貰ったのを覚えているからだ。
クラシックギターにアタッチメントを取り付け、ステレオの裏に突っ込んでテケテケテケテケテケテケテケと、フルボリュームで鳴らしまくった。一番最初にマスターしたベンチャーズは“ダイヤモンドヘッド”や。俺がリードギターをし、中学時代体操を一緒に頑張った佐原がサイドギター、その連れがドラムとベース。毎日俺の家でガンガン練習したもんや。

えっ仕事?そうや、仕事をしてたんやった。大手の工場はすぐに首になってしもた。班長があんまりゴチャゴチャ云うよるから喧嘩になって殴り倒したからや。次は電気工事の見習い。これは、腹の皮がよじれるくらいのお涙ちょうだいものや。何とお母んの旦那の会社や。つまり、旦那の二号の息子が旦那の会社で働いてるんや。それに、その会社は旦那の自宅の横にあったから、本妻とも、その子供で俺と同じ年の女の子やその兄貴、妹ととしょっちゅう顔を合わすんや。向こうは知っていたのか、知らなかったのか?
会社も無茶苦茶やった。

続く 
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初めての背広

その電気工事の会社は最悪やった。仕事は面白かったが、従業員が電線をクズ屋に売り飛ばし小遣い稼ぎをしていたんや。もちろん、俺が社長の二号の息子という事は誰も知らんかったから、俺も仲間に引きずり込まれて一緒に小遣いを稼いだ。ほんならどうなる?誰にでも分かるやろう、会社は傾いていくというこっちゃ。
仕事は、高圧電気の配線で、主に工場の配線や。分電盤を組み、ダクトの中に潜り込み配線をする。
ある時、アルミ工場での仕事で、アルミのやかんを薬品のプールに付ける為のリフトの配線修理をした。下では鼻を突く薬品が何とも言えない色の煙を吐いている。その上にあるリフトの修理や。今やったら、安全対策が全くない状態の作業やから、どっちの会社も訴えられて潰れてるか、労働基準監督署から厳重注意が入っているで。
そこで、修理をしていた時、余裕が出てきて下をよく見たら、女の子ばっかりや。いきなり、思い切り元気になった。可愛い子はいてないかなあ、と仕事そっちのけでキョロキョロしてばかり。昼休みになり、そこの食堂で食事をする事になった。先輩の、一寸どもり気味の面白い兄ちゃんと一緒に食堂へ行った。
「アキ坊、女ばっかりやで、誰かに声掛けようや、折角のチャンスやからな」「やろ、やろ、どの子がええ」先輩は、おかっぱ頭の目の大きい子を見つけ、「アキ坊、あそこに座ろう、あの子ええで」「ほんまや、可愛いな」「ここに座ってもいいですか?」
この仕事で初めて給料を貰った時、お婆ちゃんに5000円小遣いを渡した。それと、会社に売りに来る洋服屋から初めての背広を買った。どれが良いのか、どの柄が似合うのか分からなかったが、とにかく一着買った。ネクタイは?靴は?何が合うのか分からないがとにかく一着買った。「背広」は大人の象徴や。早く背広を着たい、は早く大人の仲間入りをしたい、で、それは一人前にお金を稼いでいるという事にもなるからだ。
「大人になりたくない症候群」という言葉が何年前か十年前かに巷に溢れたが、俺から見たらどういうことか意味夫不明や。子供が巣立ちをして一人前になる、動物全体の摂理から完全に落ちこぼれているような事はさっぱりわからん。早く家を出たい、この衝動は中学の頃からあった。だから、バイトをしたり家出をしたりで、とにかく仕事をして食べていく、という事が最優先の思いやった。
「勉強せえへんかったら良い仕事につかれへんで」この言葉は、昭和32,3年頃から囁かれた言葉のような気がする。この時の「良い仕事」とはサラリーマンや。植木等の歌で「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ」が、この後流行した。
俺は、逆に「サラリーマンは奴隷やんけ」と思っていたし、十年後二十年後の自分が歩いている道が見えているような事をして、何がおもろいねん、人生は先が見えないのが面白い、と本気で思っいた。そやけど、自分自身が何をしたいのか、何に適しているのか、どんな仕事が好きなのかはさっぱり分からない、だから、新聞で求人広告を見ては片っ端から面接に行ったもんや。
それが急転直下、色々な出来事が重なって突然方向が決まってしまった!
家にやくざが度々訪ねて来るようになったからや。何でやて?そんなもん分かり切ったこっちゃ。

続く
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京都先斗町へ


家にやくざが来るようになった。お婆ちゃんは何もびびれへんから家に上げる。仕事から帰ったら見慣れへん先がとんがった靴がある。あっ!やくざや!。やくざは、俺を勧誘に来たんや。中学の頃からつるんでた奴が、このおっさんの組に入った。組に入るのはやんちゃ達の恒例になっていて、大阪にある大きな組のどこかに入ったもんや。中2の時に俺はある組に入ってたけど、そんなもん頭には無かった(考えたら無茶苦茶やな、バッチまだ持っていたからな)。
俺は、別にぐれていた分けでもなく、アホやった分けでもない。「おもしろかった」からやんちゃをしてただけや。そやから、おもしろなくなったら「止めた」や。
おかんが、やくざが出入りするのは知り、こらあかん、という事で、俺を京都に逃がしたんや。おかんの長唄のお弟子さんのつてで、京都先斗町(ぽんとちょう)で喫茶バーテンをする事になった。ここが俺の水商売の入り口や。15才角刈り。
先斗町の歌舞練場(かぶれんじょう)の斜め前にあった喫茶店は、芸者さんや舞妓さんが何時も来る。太秦の撮影所帰りの映画俳優や、祇園ベラミ(名門のナイトクラブ)に出演している歌手も、鳴り物のお師匠さんから役者さん、とにかく本当の意味での芸能関係の人が始終出入りしていた。
春と秋には歌舞練場で鴨川おどりがあり、その時は楽屋へ注文を聞きに行ったり、出前で出たり入ったりの戦争や。
年頃の俺にうれしかったのは、とにかく一日中女性ばかり、しかも、その辺の普通の仕事をしたり学生やなく、日本の伝統という中で育っている躾の行き届いた女性ばかりや。当然、どの人も綺麗し大人や。見る人見る人全部まぶしかった。
楽屋では芸者さんが半裸で白粉を塗っていたり、髪を結ってもろたりで足の踏み場もないというのはこの事やろ。そこに気兼ねなく入れた事や。そやけど、最初はどこに目を向けたらええんか、ほんまに照れた。それを芸者さん達はおもしろがって、「アキ坊、アキ坊」と可愛がってくれた。
舞妓さん達は、ほとんど俺と年齢が一緒くらいやから話が合う。お座敷が終わり、木屋町にある銭湯の帰りはほとんど毎日俺の働く店で、つかのまの時間を楽しんだようや。
「おおきに、おかあはん」「アキ坊は、いてまっか」「おやすみやす」という挨拶がたまらなく可愛かった。俺はギターを引っ張り出し、リクエストに応えながら雑談をするのが日課になった。舞妓さんの中で特に仲が良かった子は、新宿から来たと言っていた。二人だけで話をする時は、標準語が出ていたので「あれっ」と思ったらやっぱり。人目を避けて喫茶店でデート。いくら人目を避けても、舞妓さんは日本髪で着物やから目立つわなあ。
そやから、大阪の歌舞伎場で歌舞伎を見に行く時がほんまにデートや。それも目立ってしやないけど、大阪やったら舞妓さんをどこの誰かは知らんからええんや。
「アキ坊、プリンの焼き方はな……」目を皿にしてマスターの動きを追う。コーヒーの焙煎の加減で違う湯の温度。温度計を使うんと違うで、指をお湯に突っ込むんやで。86℃くらいや、でも火傷はせえへんねん。不思議なもんや。その一つ一つを寝る前に思い出しメモる。これは、別に誰に言われた分けではない。俺の仕事やからや。
カウンターの中が狭く、すれ違いざま前掛けがグラスに触れ床に落ちて割れる。大きな音がしてもマスターは何も言わないが、近づいてきて足を思い切り踏んだ。「何しやがんねん、このボケが!」こころの中では怒鳴りまくっているが、口では「すみません」や。店が終わったら又怒られる。何回、何十回怒られた事か。
お客さんに対する口の利き方、歩き方、何から何まで一々言われ直された、怒られた。「しやない子やなアキ坊は」
住み込みの丁稚は冷や飯と決まっている。朝はご飯と味噌汁に漬け物。俺は、一寸匂いのするご飯(腐りかけの匂い)に醤油の味付けをした煎餅を細かく割ってご飯に乗せる。それで茶漬けや。これが、めっぽううまい。マスターのおかんがいつも「アキ坊はおかきが好きどんな」と言う。「アホか、匂いがするからこうして食べとんじゃ」
よく思い出したら、ご飯と味噌汁、三食ともこれだけやったかもしれん。なんせ、住み込みの丁稚、つまり、何も出来ない人間やからしやない。
寝るのは、二階の一部屋にマスターと並んで布団をひいて寝る。マスターのおかん、そのおかんに「おやすみなさい」と正座をしておやすみの挨拶。それが一日の終わりや。一日中マスターと一緒。休みは月に一回。しかし、鴨川おどりの時は休みなしや。
月に一回の休みは俺の稽古日や。家に帰って八百屋に行きリンゴを買う、食パンを買う、卵、ハム、牛乳…。とにかく憶えたメニューを全部家で作ってお婆ちゃんに食べさせた。リンゴの剥き方からキュウリの切り方…。全部自分でやらなどうにもならん。せやから、安い給料は全部材料代に消えた。
料理を一通り作ったら昼寝や。「日野君帰ってるのん」近所に住むよっちゃんが訪ねてきた。
そういえば、今は夏休みや。よっちゃんは俺等の学区では、一番か二番くらいの頭の良い高校に進学した。そういえば、中3の時こんな事があった。そのよっちゃんの友達で加代ちゃんという可愛い子がいた。よっちゃんも目が大きくて可愛かったけど、よっちゃんとは一寸違うタイプの可愛さやったな。

続く
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京都先斗町 2

中三の時、その加代ちゃんの誕生日に家に招待されたことがあった。もちろん、日本国中貧乏な時代だから大きな家でも、しゃれた家でもない。一階と二階の住居の入り口がくっついている文化住宅と呼ばれる家だ。三畳くらいの台所と四畳半の間、六畳の間という、当時ではごく普通の住宅で、ごく普通に母子家庭だった。
「お邪魔します」俺は、その加代ちゃんの家の下に住む豊と一緒に招かれていた。今は脳外科の医者になっている豊は、加代ちゃんのことを好きだった。それを以前から知っていた俺は、何かとアドバイスをし二人がうまくいくように提灯持ちをしていた。
「日野君どうぞ」奥から加代ちゃんのお母さんの声がし、俺たち二人は部屋に上がらせてもらった。他人の家にいくのは楽しい、自分の家とは全く違う臭いがあるからだ。特に女の人が二人で住んでいる家は何だかドキドキする。そこに、よっちゃんともう一人、都合四人の女の人がいるのだから、俺の頭の中はピンク色に染まっていた。
丸い大きなお膳の上には、加代ちゃんとよっちゃんが作ったサンドイッチや果物がきれいに飾られ並んでいた。そういえば、この頃のデートで奈良や京都へ行ったけど、いつも女の子がお弁当を作って持ってきてくれたもんや。
「日野君、偶然てあるんやねえ、うちのお母さんの話を聞いたときびっくりしたんよ」「なになに、どんなこと?」加代ちゃんのお母さんが割って入って「それはね、私の高校の時初めて好きになった人の名前が日野君っていうんねんで」「え、へ〜ほんまですか?」「ほんま、ほんま、戦前のことやけどな、日野君かっこよかったんやで」
何のことはない、加代ちゃんはお母さんをだしにして俺に告白したようなもんや。バスケットボール部で活躍していた長身の豊は、しょぼんとして、えらく小さくなっていた。ほんまに世の中うまいこといけへんもんやで。
今からこの頃を思い出すと、かなりのどかな感じがする。でも、人の成長にとっては、こんなのんびりとした時間、人の気持ちが揺れ動く時間が必要なのだろうとも思う。パソコンを覚えるのと同じ時間で人の精神は成長しない。しかし、パソコンと同じように一つキーを間違うと何もかもうまくいかなくなるのが人間や。

先斗町の店でこっぴどく客に怒鳴られたことがあった。常連の小柄でやさしいサラリーマン風のおっちゃんやから、よけいにその時はショックやった。「こらっ、おまえの口の利き方はなんじゃ!俺を誰や思てんねん、舐めとったらあかんぞ!」俺は、突然のことにフリーズしてしまった。
マスターが間に入り何とか取りなしてくれたが、そのままやったらほんまにいかれてまうとこやった。そのやさしいおっちゃんは、実は京都では一番か二番目にでかいある組の幹部やったんや。ほんまに知らんのはこわいことやし、人は見かけによらないというこっちゃ。これは今でも教訓として俺の中にある。ジャズをやっていた頃もよう似た話があるけど、それはその時のお楽しみ。
でも、そうしておっちゃんに怒られた時、なんでか知らないけど大人を感じたものや。「あかんおれはガキや」って。
先斗町で一年まじめに働いた。プリンの焼き方も、パンの切り方も、コーヒーのたてかたも一応知った。次はもっとたくさんメニューのある喫茶店で仕事を覚えなあかん。マスターもこの店を開く前は大きな喫茶店で長年修行したそうや。やくざのスカウトも、もうほとぼりも冷めたやろから大阪へ帰ったろ。舞妓さんと付き合っているのもばれてえらい怒られたし、丁度ええゎ。そやけどソフト(喫茶)もええけどドライ(洋酒)のバーテンもおもしろいのと違うのかな?
よっしゃ、大阪に帰ったら洋酒のバーテンにチャレンジしたろ。
日野晃16才の冬

続く
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ソフトからドライへ

喫茶もええけど、やっぱりドライや。バーテンダーといえば洋酒。年が明けてすぐに洋酒の修行に入った。洋酒は18歳以上でないと駄目なんやけど、そこのマスターは受け入れてくれた。日本バーテンダー協会のえらいさんのする小さなBARが修行の場になった。
蝶ネクタイを結ぶ。いわゆる棒タイと呼ばれているもので、横一文字に決まる。これがなかなか左右のバランスがとれない。ノリのきいた白いバーコートと白いエプロン。白いワイシャツ、ドビー編みの88番。これが一番かっちり見える。京都にいたときは、VANのデザイナーやACEのデザイナーと友達になっていたので、服の事、全体のバランスのことを教えてもらっていた。もちろん、かれらはアイビーだった。俺は、アイビーは今一ピンとこなかったので、もっぱらオーソドックスなコンチネンタルに憧れた。
昼一時、便所掃除から一日は始まる。掃除をしていると、先輩のバーテンが仕入れから帰ってくる。先輩はオードブルの仕込み、俺はグラス磨きにビン磨き。準備が全て整ったら夕方の5時。夕ご飯を近所のめしやですませ、カウンターの中へ。店はカウンター15人ほどのこじんまりしたBARだ。
大阪の南、坂町というところで、その頃は通称地獄谷と呼ばれ、暴力バーや夜ともなればポンビキに街娼がウジャウジャいる無茶苦茶環境のよいところに店はあった。確か組の事務所も50メートルおきくらいにあった感じだ。
「いらっしゃいませ」この一声がなかなか出せない。カウンターの中で何をして良いのかさっぱり分からないし、おやっさんも先輩も教えてくれない。ただ、ボーっとしていたら、客から見えないカウンターの中で蹴飛ばされた。おやっさんはお客さんと談笑し、私はそれを横で見ている。店の客は全員おやっさんとの会話やお酒を楽しみに来ているから、ある意味で俺の出る幕などない。ビールの栓を抜き、お客のタバコに火をつけ、灰皿を取り替え、おしぼりを出す。
「あき坊、ジンフイズは作れるか」「はい、できます」俺は、カクテルの本をおやっさんから借りて、単語カードに書き写し覚えていた。ジン30ccレモン適量、砂糖小さじ二杯、シェイクして炭酸で割る。味見の時のバースプーンの使い方、手の使い方、お客さんへの出し方、氷の割り方、シェーカーの振り方、全部見て覚える事で、誰も教えてくれない。見よう見まねのジンフイズは、「あき坊、自分で飲んでみ」「はい……、なんじゃこれは」余りにも水くさかった。「これはお客さんにだせへんで」「はい」「氷は手の温度で溶けるから、それを見越してお酒の量を決めるんやで」「はい」
俺は住み込みやから、店が終わって掃除を済ませるといつもシェーカーの振り方を稽古した。水をお酒代わりにして氷がどれくらい溶けるか身体で覚えなしやないからや。本に書いてあることは、そのままでは使えない。
見習いに入って3ヶ月位したある日、「あき坊、八幡筋のBARに助っ人でいっといで」「はい」おやっさんは、ミナミのバーやクラブのバーテンの手配もしていた。その八幡筋の店のバーテンが急に辞めたから、誰かを、ということだったらしい。俺は、おやっさんに言われてその店へ。どんなチーフがいてるんやろ?
これがとんでもない出来事になるとは夢にも思わなかった。日野晃16才の春。

続く
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一人で店を

「おはようございます、おやっさんのところから来ました」
午後2時頃、おれは「Barるみ」という看板の店に入った。ボックス席が4つ、カウンターが8人ほどのこじんまりした店だった。若いホステスが店の掃除をしていた。
「あっ今度のチーフはえらい若いね」「えーっ!!チーフは来るのでしょう」「えっ、あなたがチーフでしょう、ママから新しいバーテンさんが来るからって、言われているけど」「はあー、一寸待って下さいね、おやっさんに電話しますから」「モシモシ、おやっさん、おれが一人でするんですか?そんなもん出来るわけありませんよ」「大丈夫や、あき坊やったらできる、がんばりや」ガチャン…。
「おやっさんどう言っていた?」「僕が一人でやるらしいです」「そう、それなら、よろしくお願いします、私はAです」「……、よろしくお願いします、皆からは『あきら』と呼ばれています、日野です……」「それならチーフ、私が掃除をしておきますから、オードブルの仕入れをしてきて下さい」「…あっそうか、よっしゃわかりました」
バーテンの仕事には、カクテルを作るだけではなくオードブルや一品料理の仕込みや調理もある。もちろん、そんなことは知っているだけで、やったこともなければ考えたこともない。
秒針が進む音が身体の中で音を立てて回っているようだった。「どうしたらええんやー!」おれは、心斎橋まで走っていき本屋を探した。料理のコーナーにあった「オードブルの作り方」が目に入ったので、とりあえずその本を買い一つ目の料理を見た。「エビのクリームコロッケ」とあり、材料が書かれてあった。その本を片手に黒門市場まで走った。
どこの店に飛び込んだのかは忘れたが、どこかの店で、「これを作りたいんやけど、材料はどこでそろうでしょう」と聞いた記憶がある。
「バーテンさん何人前やの?」「あっそうか……、1ボックス席に6人として24人、カウンターに5人、一回転半か二回転として、45人前位か、すみません、45人前です」仕入れの難しいのは、これや。足らなかってもあかんし、多すぎても駄目、そんなもん何もやったことがないんやから分かるわけないやんけ、とりあえず今日はこれでやったろ。
店に急いで戻ると、掃除は終わりホステスはいなかった。俺は、本を片手に料理にかかった。牛乳、バター、小エビ等々、本に書かれてある通り料理は進んだ。気持ちは焦る。開店までの時間は決まっているからや。
「おやっさん、オードをとりあえず作ったから味見して下さい」おれは、作りたてのエビのクリームコロッケを一つもって、坂町まで走った。「うん、あき坊上出来や」「ありがとうございます」16歳はテレポーテーションが出来る。
カウンターの中でグラス磨き、ビン磨き、便所の掃除を確認したら付きだし屋が来た。「おはようございます、あっチーフが替わったんや、よろしくお願いします。今日はどうしましょう」「いつもの通りでええわ、何にも分かれへんからよろしくお願いします」付きだしは、乾きもののおかきやピーナッツ、チョコレート、剣先イカ等々数種類や。果物屋、洋酒屋、氷屋など、次々に出入りの業者が来る。
おしぼりをきちんと丸め、蒸し器の中に入れる。カウンターの中は、流しに冷蔵庫、冷蔵庫の上はまな板、ビールケース、コンロなどで、一人で精一杯の狭さや。伝票の確認。業者が注文された品物をカウンターの上に、所狭しと並べる。
この時おれはどんな顔をして対応していたんやろ。
16歳のガキで、バーテンの経験もたった3ヶ月、しかもビールの栓抜きと掃除くらいしか知らない。ホステスがいる店など知らないし、大人の女性と対等に話などしたこともない。客の相手もしたことがない。それを全部一人で仕切らなあかん。「おはようございます」ホステスが出勤してきた。

続く
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