アフタートーク

2007「秋塾」

今回は、前半と後半に分けてワークショップを開いてみた。前半はどちらかと言えば、身体の使い方、後半はその応用という区分けである。
参加者の反応は、「春塾」よりも熱心な感じがした。
分けたことが、分かり易かったのかも知れない。
初日から頭にあったのは、ショーイングのことだ。オーディションはやるが、誰が受けて、誰が受けないかを初日から知っておかないと、ショウケースを組み立てることが出来ないからだ。

振付けられた動きを「自分の中から生まれてきた動きにする」というのは難しい。しかし、それが出来なければ、振り付けが見えるだけ、動いているのが見えるだけにしかならない。
自分の中から生まれてきた動きにするには、どうすればよいか。
もちろん、数こなすという基本的なことはある。
同時に、その動きは自分の身体のどこから動かすのか、と、動き全体の流れをどう把握するのか、の 2 点の重要な要素がある。
この身体のどこから、というところが「胸骨」であったり、「足の裏」であったりで、身体の連動を使うということだ。
また、相手との兼ね合い、つまり、デュオなので、どちらかがリーダーになっているので、そのリーダーの動きから、本当に自分が動かされれば良いのである。
出来ることなら、舞台に上がっている全員を、感じることが出来れば申し分が無い。
そういった能力を身に付けてもらいたい、というのが、 WS の目的だ。

「まず、動きを覚える。そして、出来るだけ早く沢山動いてみる。そのことで、動きの流れを把握できる。それから、ゆっくり行い動きの本質を叩き込んでいく。それの繰り返しが学び方です」動きの学び方を分かっていない人が沢山いるので、この言葉を何度と無く繰り返した。もちろん、その学び方を知り自分の世界で使っていくことが目的だから、 WS で提示する動きが出来るようになるのが目的ではない。そういった意味では、提示された動きは出来なくても良いのだ。

今回 WS やショウイングが終わっても、小さなグループが出来ており、そのグループで集まり稽古をしているという。
これも新しい出来事だ。
何かしらの自覚や意識が目覚めたのかもしれない。
そういった人達に、来年の「春塾」を期待したい。

 

ゲネプロ1


ゲネプロ2

■ 2007/09/20 ( 木 ) 初日終了

無事初日を終えた。
今回は、身体塾、コンタクト、表現塾と、全部をバラしたワークにしているせいか、一つの事の理解度が高い感じがする。
身体塾は、足裏合わせから始めた。
相手に付いていく、という感覚がやはり難しそうだった。
もちろん、そういったことは事前に注意事項として話してはいるが、頭に理解する経路と、身体が理解する経路は全く違うようだ。
どちらかと言えば、頭で理解してそれで「出来る」と思い込んでいる人が圧倒的多数だ。
春塾にも参加した人たちは、少なからずそういったことはクリアしているので、そうはならない。
そこにまたギャップが見えて面白い。

大学生グループが 4 人参加していた。
どこのキャバクラ?と聞きたくなるファッションだ。
ゼミの関係で今日だけしか受講出来ないという。
取り組み方を見ていると、現代が見える。
4 人でしか稽古をしない、他の人を見て学ぼうとしない、与えられたものを理解できていないのに、他のことに意識が向く、 4 人だけで納得しあう。
「君らのおでこには『あほ』て書いてあるで」
冗談だと思って笑い転げる。
「いや、ほんまの事やで」

一番難関の表現塾。
二人でやっているか?そこをテーマにした。
もちろん、舞台でする人の勉強だが、観る人を育てる場でもある。
観る人の目が養われれば、やる側も成長せざるをえないからだ。
まず、最高の観客に育って欲しい。
それは、人生を生きる上でも最も大切なことだからだ。
しかし、見ていると目に見えているそこでの方法や、その場だけの判断をし、グループをかき回す人がいる。
では「見本を」と、私が見本を見せるのだが、それを説明したり、解釈しバラバラにしてしまう。
そうすることが、一番成功から遠い道だとは知らないからだ。
逆に、「自分はよく分かっているだろう」と、思ってもらいたいのだ。
このワークがきっと世界で一番難しいワークだと話しても「ああそうなのか」という程度にしか理解できない。
そういった人が、周りを混乱のどん底に落とし込む。
しかし、それに気付かない人も悪い。
稽古の場なのに、稽古をしていないからだ。
つまり、自分の意見をきちんと話す、というのも稽古の一つなのだ。
「見本を見せたのだから、それを真似ればよいのに、見本とは全く関係のないことをしている。では何の為の見本なのか」

学び方。
やはり、定規のない世界にしか住まない人にはその概念すらない。
いや育ちようがない。

■ 2007/09/21 ( 金 ) 二日目終了

明日は基礎クラスの最終日だ。
胸骨の操作から背骨、そして骨盤へ。
身体の繊細さ、身体の認識の高さ。
これらを踏まえての身体操作。
明日は、この章の仕上げとして、身体前面の認知をする。
コンタクトは、背中から腕、全体移動、手の平を合わせた身体操作とそこからの移動。
明日は、手の平合わせの移動から、別グループへのコンタクト。
表現塾では、それらを「観せる」へ。
今日の表現塾は、板付きで「立つ」。
全員の駄目だしで、へこむ人が続出。
「どうして?」ひょっとしたら、出来るとでも思っていたのだろうか。
もしくは、過去においてそれらを徹底的に稽古してきたことがあるのだろうか。
それはないはずだ。
つまり、幻の「出来る」を持っているからだ。
根拠のない「出来る」これの存在は一体なんだ?どうして、そんな大それたことを思えるのだろうか。
駄目出しをされる、だから、「何が駄目なのかを考える」そして、「であればこうしてみよう」と、行動が生まれる筈だ。
しかし、大方はへこんだまま暗くなる。
へこむヒマがあれば、次の手を考えてどうして行動しないのか。
そこが分からない。
もちろん、分かっている。
それがアマチュアとプロの差、意識の差自覚の差であり、こればかりは絶対に埋めようが無い溝なのだ。

■ 2007/09/22 ( 土 ) 基礎コース終了

金曜日でワークショップの前半は終わった。
みんなと食事を終え、喫茶店で深夜まで dB のスタッフと話しこんだ。
オーディションで誰が選ばれるのか、今後このワークショップはどう発展するのか、来年はどうするのか等々。
夢を語り合ったといった方が良いか。
日本をコンテンポラリーダンスの聖地にしよう、それを合言葉にしよう。
深夜 2 時、熱いまま分かれた。
コーヒー一杯で 3 時間。
昔はコーヒー一杯で 6 時間ほど話し込んだことがあったから、まだましな方だ。

身体塾に今日からの参加者が数人いた。
その中の女性一人と大学生の男性一人は、視線が強い。
思ったとおりその二人は感覚も鋭い。
日曜日からの後半が楽しみだ。
しかし、ルールには付いてこれない。
それは仕方がない、知らないのだからだ。
そして、この「リアルコンタクト」ワークショップでの価値(テーマ)は何か、自分で探すしかない。
前回ショウイングで選ばれた女性が寄ってきて、「本当にものを見たり、考えたりがころっと変わりました。人生が変わったという感じです」と。
嬉しいことだ。
その女性は自分自身で「役に立てた」のだから。

そういえば、 2 日目に「コンタクト・インプロをやっている人」と手を上げてもらった。
東京と比べて相当少ないがいたので、それを見せてもらった。
「何ですか、それは?」
思わず突っ込まずにはいられなかった。
「即興は自分の衝撃で」
というので、またまた突っ込んだ。
仕方がないので、ジャズにおける即興ということを話した。
何の根拠もないことを、どうして人の前で披露できるのか。
思い付きを見せられてもどうしようもない。

表現塾は、相変わらず全員ストップ。
ここでも初参加の人と、今まで参加している人との差が明確に付いていた。
しかし、前回の「春塾」や、東京のようにお遊戯をする人がいないのが救いだ。
グループの人に自分の存在を届ける。
ここが初参加の人には分からない。
ルールを認識できないのだ。
となると、前に立つ人を見て、自分の感想や思い付きを言うしかない。
そうすると、その場は混乱していく。
それも仕方が無い。
グループの前に立ち、全員から駄目だしを受ける。
引き上げる。
次の人が出る。
これの繰り返しだ。
「あのね、自分では何か出来ると思ってみんなの前に立ったんだろう。それを否定された。そしたら、またそれを繰り返す。ということは、駄目だしをされた、否定された、ということを分かっていないということになる。つまり、否定された自分を恥ずかしいと思っていないということだね。否定されたのを分からないで、『やることを間違った』と認識しているのでは?」
と問うた。
無言。
しかし、よく考えてみると、「恥ずかしい」という概念を持てるのは、プライドがあるからだ。
自分で背負うものがあるからプライドが生まれる。
「私が 楽しかったらよい」
という発想しか持たない人には、残念ながらこれは分からないだろう。
プライドがなければ、否定されてもそれは間違いにしかならない。
「その自分をなんとかしろ!それがこのワークショップの目的でもあるんだよ!深刻にならず、自分に真剣になれ!」

■ 2007/09/24 ( 月 ) 応用の初日

「正面向かい合い」がここに来てかなりよくなった。
静かになったのだ。
周りの空気が固まり、静寂という密度が生まれるようになった。
これなら、作品 B の最初は、かなり質の高い場面になるはずだ。
昨年のスパイラルホールでのものより、良くなるだろう、という期待を持たされた。

後ろからのサポートは、やはり難しすぎた。
しかし、みんな創意工夫をこらし、そのテーマにチャレンジしていた。
かなり幼稚な手段も登場していたが、全部それらがその人たちの実力レベルだから仕方が無い。
その工夫が大切なのだ。

「質問は?」と初めに問うた時、「緊張感がない」というのは、出番前の緊張感のことですか?と聞いてきた。
出番前の緊張感、つまり、ここでのものは「うまくやれるかな・間違わないかな」という小学生のレベルのものなので、「そんなレベルの話ではない」と言った。
うまくやれるか、とか間違わないか、ということを聞くようでは話にならない。
しかし、問題はそういうレベルの人でも舞台に立つということだ。
緊張感がない身体、という意味での「緊張感がない」を話したのだが、それは通じなかったようだ。
それは、舞台で最高のかっこよさを見せてやろう、という意識がないからだ。
その意識は、身体に漲る。
たとえ、あったとしてもきっと「そう思っている」というレベル止まりだからどうにもならない。
もっと言えば、自分がコンテンポラリーの世界を背負っているダンサーだ、という自負がないということにもなる。
では、何を背負って舞台に臨んでいるのか、だ。
舞台は、自分自身の最高のパフォーマンスを披露する場だという認識がないのだ。

■ 2007/09/25 ( 火 ) 明日はオーディション 1

「君は、どこを目指しているのか、あるいは、誰を目指しているのか」と聞くと「観客と一体感を持つ〜」と来た。
どうして、そんな漠然としたことが言えるのか。
また、そうなるために何を媒介とするのか。
答えた彼は芝居だという。
つまり、最初に芝居が来ずに、その結果としての「観客との」となっており、それは、自分自身の芝居と媒介道具を希薄にする言葉なのだ。
彼は、さも新しいことのように、現代のことのように「観客との〜」と話したが、そんなことは芝居の歴史が始まった最初の時点から、当たり前のことだ。
ここが現代のおかしいところだ。
当たり前のことを、切り取った言葉を使うことで、まるで独立した何かのように錯覚させているだけだが、「自分でものを考えない」という教育がそれを気付かせないのだ。
自分で考える、つまり、自分は自分の思いや情熱、あるいはメッセージを芝居という媒介物を通して、観客に届けるということを選択した。
であれば、その芝居とはいかなる過程を踏んで誕生し、どういった経緯で今日にあるのか、あるいは、どんな素晴らしい役者が過去に存在し、どんなことを展開してきたのか、等々を探し出す。
そこで新たな好奇心として、それはどんな女性だったのだろう、男性だったのだろう、どんな日常を過ごしていたのだろう、どんな服を好んで着ていたのだろう。
そんなことを真似てみる、という背伸びをする好奇心も溢れる。
そういったことを行動することを、自分で考えるというのだ。
しかし、ここがまるで抜け落ちているので、その彼の言葉は何の力も持たないし、表現者としての役者というのも、学芸会以上になることはない。
もちろん年齢的なこともあるが、その年齢を超えさせる情熱。
そこから生まれる思考、好奇心。
その背伸び感覚が育っていないし育たない環境でもある。
そういった話をワークショップが始まる前にした。
しかし、その私の言葉は空間に霧散しただけだろう。
しかし、それを話し続けなければ、そういったことを自覚する若い人たちが生まれてこない。
だから話をする。それがワークショップの目的の一つでもあるんだよ、と。

ワークショップも残すところ 1 日。
ショウケースのパーツを作りこむ作業に入っている。
「春塾」よりは、作品らしいものに仕上がりそうな予感がする。
「コンタクト」というテーマを二つに分けて作品化する。

■ 2007/09/25 ( 火 ) 明日はオーディション 2

明日はオーディションだということを忘れていた。
今秋ワークショップを頼まれている、劇団ひまわりの人に聞いて知った。
私の頭は一日ずれていた。
二人で大笑いした。

では、オーディションだ。
今回は、前回の春塾の教訓が活かされているのか、はたまた偶然なのか、志願者は少ない。
おかげで、こちらの腹積もりは殆ど決まっている。
オーディションで誰を落とすかだが、やはり時間が全てとは言わないが、よほどのことがない限り、時間を沢山ワークショップに割いている人がリードしている。
表現塾での難しいテーマに取り組んでいるからだ。
つまり、頭を悩ましている時間が多い、ということで、それがリードしている原因だ。
オーディションの受講資格が応用コース 3 回以上受けた人となっている。
だから、その 3 回だけの人もいる。
舐められたものだ。
「コンタクトする」ということが、どれほど難しいか頭でしか分かっていないのだ。

ワークショップ自体は、昨日から熱が急に高くなっている。
オーディションを受ける人も受けない人も、一緒になってずっと稽古をしている。
春にはなかった姿だし、東京でもみかけることはなかった光景だ。
特に大学生を初め若い人たちが頑張っていた。
1 時間の休憩も、 2 時間の休憩もない。
その熱気は見ていて嬉しい。
どんどん高度なことを欲求したくなるからする。
ワークが終わり、退館時間 5 分前になっても帰らない。

「あほか!3分で完全撤収じゃ!」

嬉しい叫びが続いた。
この数日間で、意識が変わった。
意識のグレードが上がったということだ。

ワークは難しい。
出来ないことに悔し涙を流すのではなく、私のいう「コンタクト」というものを考えたことがなかったことに、若い人もベテランも涙目になる。
若い人は若い人なりに、ベテランはそれだけの時間の蓄積があるので、もっと深く自分を捕らえ涙目になる。
大阪の人たちの感性はすてたものではない。
東京のワークショップでは見かけなかったものだ。
そういえば、私が誰かにアドバイスをしている時、周りに人垣が出来てしまう。
これも東京ではなかった。

みんな「一人」だった。

■ 2007/09/26 ( 水 ) 終了!

終わった!オーディション終了。
後はショウケースのクリエーションだ。
dB の大谷さんが「舞台は観客が認めて初めて成立する表現なので、ワークショップでの主旨通り難しいですが、頑張ってください」とメッセージを合格者に贈ってくれた。
しかし、ここに来ても自分の実力以上のこと、つまり、自分が出来ないことを質問してくる人がいた。
「どうして?」なぜ、出来もしないことを聞くのか。
今、必要なことを聞くのなら、いくらでも答えようがあるが、実力以上で出来もしないことを真顔で聞くのにはまいる。
それは、言葉を知っているだけ、ということだ。
しかし、周りの人は人に嫌われるのが恐いから、適当にその人と口を合わせるから、調子に乗って話すのだ。
「それが出来るんか?出来ないことを聞いてどうするんだ」オーディション前で受講者は、緊張しているというのに怒鳴ってしまった。

オーディションは練習してきた短い型を、攻めと受けで行い、型に見えなければ良い、というものだ。
もちろん、短時間の練習だから出来るはずはない。
だから、どう取り組んでいるのかが決めてになる。
その能力が育つと、即興で、といった時の、意識操作が可能になる。
大切なのは、自分の意識をどう使うかが、即興性の鍵だ。
「気持ちの悪いグニャグニャ動き、コタツにあたっているような、意思の無い意味の無い手になるのはやめろ」ワークショップ中言い続けてきた。

明日一日、そして、本番前までの半日。
2 作品を作り上げる。良い目をした 2 人が、中心になり展開されていくだろう。

■ 2007/09/27 ( 木 ) リハ終了

1 日のリハーサルが終わり、作品のめどが完全に立った。
一つ目は、 3 種類のコンタクト方式を 5 組が行う。
ずっと動き回るので 20 分の作品だが、かなりハードだ。照明のリハも行えたので、明日はゲネまで細かい指示を出す。
二つ目の作品は、ほとんど前回と同じなので、段取りを伝えるだけですんだ。
前回の出演者も混じっていたのもあって、かなりスムーズにすすんだ。
期待して選んだ二人は、荒削りだが躍動感に溢れ見ているだけで楽しくなる。物覚えが早いのもいい。

今日は本当に疲れたので、明日にしよう。

朝 11 時入り。
ゲネ前まで練習だ。

■ 2007/09/28 ( 金 ) ショウケース大成功

「秋塾」のワークショップとショウケースが終わった。
打ち上げは始発電車まで。
東京と同じく追い出され、二次会の店を求めて道頓を徘徊した。
ショウケース終演後、見に来ていた WS 参加者の一人が「一日半の間でどんなことがあったのですか ? 本当にかっこ良かったから」と問うてきた。
また、やはり参加者の一人で、ダンスとは関係のない人が「コンテンポラリーダンスと呼ばれるものを観にいくのですが、面白いとか良かったと思わなければ駄目なのかな、と何時も頭をひねっていたのですが、文句無く『良かった・楽しかった』という作品があるのですね。本当に今日は観に来て良かった『良いものは良い』と思えました」と。
また、他の観客一人が「皆の顔や姿をこれだけ鮮明に覚えている舞台を観たことがありません。本当に皆かっこ良かったです」と。
「観客に観せている、観せようとしているということが、舞台から伝わってきました」
これは、内容はどうであれ、ショウケースの成功を意味している。

「やった!」

リハーサルが終えたとき、これは作品として出来上がる、 つまり、人に観せることの出来るものになる、という手応えを掴んでいた。
それはゲネプロで確信となった。
本番前「ナマムギ」の応戦をやり、コンタクトの確認をした。
最初の作品は、躍動感溢れるものになった。
こじんまりとまとまった形になるのではなく、皆が全力を出した。
おかげでピースが一つ飛んでしまったが、そんなことは何の関係もなく、緊張感を維持したまま疾走した。

二番目の作品は、正面向かい合いだけのものだ。
立っているだけという過酷な作品だが、向かい合いの緊張感は最後まで途切れなかった。
最後の男性二人のデュオは、圧巻だった。
「これは安すぎます」と、言ってくれた人もいた。

何にしても、大阪のダンサー達は「行ける!」ということだ。
最初の作品の主役を、大学生とダンサーではない人を選んだのも、作品の躍動感に繋がった原因だ。

■ 2007/09/29 ( 土 ) イメージが膨らむ

今回のショウケースほど、差が際立ったことはない。
逆に言えば、差が際立ったからこそ、作品が締まったという事もいえる。
その差を簡単に言えば、一生懸命やっている人と、一生懸命やろうと「思っている人」との差だ。
プロとアマチュアの差というよりも、プロとお稽古事の差だろう。
「思っている人」は舞台には向かない。
だから趣味で続けることが一番だし、その意識の差がある限り、一生懸命の人と死んでも同じ感覚を得ることは出来ない。
ワークショップの時、クラシックバレエの先生も参加していた。
他の受講生と比べると、好き嫌いは別にして、存在感が光っていた。
もちろん、コンタクトで作り出す動きにしても、動いているそのものが既にバレエになっていた。
思っている人を見ていると、その事を楽しんでいるだけで、それと舞台とが全くくっついていない。
その事を一生懸命夢中でやり汗をかき、その達成感に酔っているだけだ。
そういった意味で、多種多様な人がくるワークショップの運営は難しい。
だから、見込みのある人には、「稽古相手を選べ、それも勉強だ」と促す。

実際に出来上がったショウケースを見ていて、もう少しリハーサルの時間があればどうなったのか。
あるいは、出演者を変えてみたらどうなっていたのか。
いくらでもイメージが膨らむ。
ふと、東京の教室に来ているダンサー達と、今回の大阪のピックアップメンバーで舞台を作ったらどうだろうか、と思った。
二番目の作品で、山の手事情社の山本君がメインで動いたら?これは面白い作品になるかもしれない。

忙しいついでに、それも考えてみようか。

来年の春頃では。

ゲネプロ4


ゲネプロ5

舞台衣装合わせ


本番solo


本番1

本番3


クライマックス

WS


相手を感じる

床とからだを感じる



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