「動いてしまっている=表現塾」

それは、日常の全て、人の通常の行動全てである。
ということは、その動きをリードするのは、目的や欲求、生理的欲求、日常習慣だ。

「武道の動き」と言う特別なものがあるのか。
と考えた時、そこには有るとも言えるし、無いとも言える事が見える。
有る、という場合、刀や徒手空拳で相手を攻撃したり、身を守ったりする。
その現象だけをみれば、それらの動きには日常性は無い。
だから、特別だとも言える。
しかし、それら動きは、自分自身の欲求が動きの動機になっている事を考えると、それは動機ということでは同じなので、特別ではないとも言える。

しかし、武道の動きの全ては、相手に直接作用しなければならない。
つまり、相手を倒すなり、突くなり斬るなりという動きだ。
そこを考えれば、特別だ。
しかし、日常の全ての動作には目的がある。
それがたとえ水を飲む為にコップを持つ事であっても、洗濯機のスイッチを入れる事でも、対象のモノに作用させる。
であれば、特別ではない。

という構造の中で、武道の動きは存在する。
そしてそれは形だ。
形そのものは、決して日常的ではないし、日常に必要ではない。
その形は昔日のものであったり、現代に創られたもの等多種多様だ。

そこで、非日常的な特別な武道の形を練習することになる。
ここで問題として上げなければならないのは、「特別な武道の形」という言葉であり、考え方だ。
確かに現代において、武道やその武道を表現する形は特別である。
しかし、問題はそんな低次元のことではない。
この言葉やそんな意識が、永久に武道の形と自分自身を切り離してしまう原因だからだ。

そうなるとどうなるか。
そこは火を見るよりも明らかな事がある。
それは、その形を通して相手に作用しなければならない本質、そのこちらの力や制圧力に、蓋をしてしまうのだ。
結論を言えば、自分の中で武道が特別だという意識がある限り、それを行動する時、身体の筋肉は特別だと緊張するのだ。
そして、その特別という意識は形そのものに集中され、「形が武道だ」という混乱が起こり、それが無意識の中に根付いてしまうのだ。
もちろん、武道は特別だと言う意識は、無意識領域に根付いている為、自分の意識では捉えることは出来ない。

さて、ここで日常に戻ってみよう。
幼児の頃から、親や兄弟を含む周りの人達の、動作を見ながら育つ。
その事で、自覚しないまま日常で必要な様々な動作を身に付ける。
もちろん、歩くと言う動作もその内の一つだし、言葉もそうだ。
そして、自分自身の必要や欲求に応じて、あるいは、教えられて動作も行動も身に付け世界を広げて行く。
それらは、自分自身が生きる、また生活する、という点で必要だから身に付いていく。

必要だから身に付く、というのはその通りなのだが、その言葉を支えているのは何なのか、だ。
それは数であり量だ。
量が身に付くという言葉を、実際の事として実現させているのだ。
しかし、もう一度「必要だから」という言葉を考えてみよう。
その必要は、どこからくるのか。
一つは、自分自身の欲求や必然だ。
そして、その一つは、教えられたから、という必要だ。
ということは、「教えられた」という時点では、教えられる者にとって「特別」だった筈だ。
つまり、その時点では「特別」だったことが、量の中で身に付いてしまい、特別ではなくなったのだ。

もう一度日常に戻ってみよう。
幼児の頃から動作や行動を見て育つと書いた。
果たしてそうだろうか。
そうではなく、動作や行動として表現された欲求や必然を見ているのだ。
欲求や必然をどうすれば実現できるか、どんな動作や行動を取れば実現できるのか。
その好奇心が新しく複雑な動作や行動を身に付けさせていくのだ。

では、それを武道の形に当てはめてみよう。
それは形というモノではなく、形は欲求や必然の結果だということだ。
武道としての欲求や必然。
それは、身を守ることである。
その身を守るという言葉には二重の実際がある。
つまり、相手を制圧することで、あるいは相手から逃げる、という実際が、身を守るを実現させているのだ。

ということは、身を守りたい、という欲求や必然がなければならないことになる。
日常での食べたいとか、仕事の中での様々な必然や欲求と同じように。
そして、形は形として捉えるのではなく、常に「身を守る為に」という目的を、頭に置いておかなければならないことが見えてくる。
その目的が形として現しているからだ。
更にそのことが、欲求や必然という内的な自然発生的な要素として溶け込ませるのだ。
そしてまた、その「身を守る為」にが、形の必然や形の要素の必然を、自身が必然として受け止め、形が形ではなく、自分自身の身に付いていくのだ。

では、その武道をダンス置き換えればどうなるだろう。

ダンスの場合は、構造が少し複雑になる。
つまり、単純明快な目的が存在しないからだ。
それらは、個々の主観に委ねられてしまっているのだ。

そもそもは、武道と同じで、太古の昔にはこれだという形式は存在しなかった。
人と大自然との対峙から全ては始まっている。
大自然の持つ変化に原初の人類は恐れ、あるいは喜びという、未だ感情という名も無いものの高ぶりがあった。
それが身体を突き動かすことで、動きが生まれたのだ。
そこに同時発生的に、叫びがあった。
それは現代の乳児の叫びと共通する。
それが声の誕生であり、歌の起源でもある。
それこそ魂の叫びである。
そこにあった動きや叫びは、動物と同種のものだ。
客観的には、そこには種の保存の欲求が内在されてもいたのだ。
つまり、原初のその動きや叫びは、動物達の求愛の儀式と同種のエネルギーがあり、自然的に対象が、大自然から同種の人に対して向けられていたのだ。
当然、声もそうだ。
それらが文明と共に発展し、文化を形成するのに際して、潜在的な根幹に横たわっている。
歌、踊りと名前を付け、発展進化していったのだ。

しかし、問題はそこではない。
問題は現代における、踊りと言うときの振り付けの問題だ。
振り付けをどう消化すれば、振り付けではなくなるのか。
つまり、武道と同じで型ではなくなるのか、特別ではなくなるのか、である。
武道の如く「身を護る」という目的を持てるのか否かだ。
そこでの要素を掘り下げれば、武道の「身を護る」には、明確に他人が存在する。
その他人から身を護る、自分に対して危害を加える他人から身を護るということだ。
と、考えれば、ダンスは「人に観せる」なのだが、そこには明確な動機が無い。

何故見せなければならないのか。
話を飛ばすが、それは、動物の求愛行動を見た時に生じる感情を思い出せばよい。
あるいは、乳児や幼児が母に向かう姿を見た時に生まれている感情を思い出せばよい。
あるいは、動物のそれだ。
もう一段落輪を広げれば、乳児や幼児の動き、動物の動きだ。
また、深い感情が触れ合っている関係もそれだ。

それらは、怒りや悲しみ、喜びとは異質の感覚だと気付くだろう。
その感覚は筆舌尽くし難いものだ。
あえて言えば、幸福感、安心感のようなものだ。
それこそ、人類にもたらされた、最高の感覚だ。
至福の感覚だ。
それを人に伝播させる、というのが現代におけるダンスの意味である。

もちろん、それぞれの民族によって、踊りの意味は異なる。
しかし、それらはクラシックバレエの出現により、ある一方向に価値観を決定されてしまった。
それは、西洋的構造的美だ。
それを美とし、ある意味で我々は洗脳されている。
しかし、それはあくまでも人が人工的に、西洋人の判断として数学として作り出した美である。
それは、美は全て黄金分割で出来ている、という言葉からも理解出来る筈だ。
むろん、バッハの編み出した平均律も同様で、人工的作為的美である。
もちろん、このことと、それらに芸術的価値の有無の話は別だ。
この人工的美には意味がある。
もちろん、キリスト教という宗教的思考が絡んでいるのだ。

話を戻し、振り付け、つまり、ダンスとしての所作や動きと、自分との関係だ。
先ほど、乳児や幼児と母、動物などの例を出した関係だ。
人の深い深いところにある感情が交錯する、関わりあう、触れ合う、そのことが周囲にもたらす影響。
至福の感覚。
それらをよく検証すれば、関係性の持ち方にあることに気付く。
そうだ、関係性こそがダンスの目的であり、要素なのだ。
関係するために言葉がある。
同様に動きがある。
動きとは、非言語コミュニケーションというべきものなのだ。
そこを目指して行くことこそ、現代のダンサー達が目指さなければいけないところなのだ。
小澤征二の言葉「こころが技術を凌駕した時に感動が生まれる」がある。
そのこころこそが表現されるべきものであって、技術を表現するのではないのだ。

という内的なこころが基本としてあり、そして具体的身体ということになる。
振り付けと自分との関係のことだ。
それは「動いてしまっている」でなければならない。
動いてしてしまえば、そこに動かす人間の意識が見えてしまうからだ。
「動かそう」という意識、「こうしなければならない」という意識、「うまくやらなければ」という意識、「間違ったらどうしよう」という意識、「次は何だっけ」という意識、「私は雲よ」という馬鹿げた意識。
つまり、ダンスとは一切関係の無い雑念が、身体に動きに見えてしまうのだ。
そうなると、それしか見えない場合、そしてこころが無い場合は「発表会」ということになる。
もちろん、これらの意識に支配されているということは、そこにはこころが無いということでもある。

そこで、こころはさておき、「動いてしまう」身体とはいかなるものか。
一つは、「武道の身を守る」ということと同じで、動いてしまう具体的目的があること。
相手を掴む、相手を押す、相手に押される等々だ。
もちろん、その事によって何がどうなるのか、が最初に無ければならない。
それは、相手の身体の感触を確かめる、身体の体温を確かめる、身体の微妙な動きを確かめる等々だ。
一つは、身体のバランスを崩すことで「動いてしまう」になる。
もちろん、この二つはリンクしている。
バランスを崩すことで「動いてしまい」それは「相手の身体の感触を確かめる為」であり、それの連続の美しさを見せる為のものだ。
連続されたら美しいのであって、「美しいだろう」と意識するものではない。
このバランスを崩すというのには、 2 つの要素がある。
一つは全体のバランスを崩す。
これは移動するときの手段だ。
そして、一つは、身体内部のバランスを崩す。
これは胸骨を動かしたり、膝を抜いたりということだ。
されにもう一つ、それは身体の部位に緊張を作り、そこを感じ取ること。
そして、それを連続させて行くことだ。
例えば、胸骨操作を前方にすることによって、大胸筋が緊張する。
それの自分の決めた部分を感じ取る。
そして、その緊張している部位を順次緩め、胸骨操作を逆の後ろへと「動いてしまう」という結果にするのだ。
そして、「動いてしまった」結果が振り付けられた動きになれば良いのだ。

これらが、ダンスという実際に対しての、新しい考え方である。

 

舞台での在り方1

身体の内部、例えば胸骨を前に動かすことで、肩が後ろに残り、腕が下に垂れる、という動きをする。
そこを「見せる」とすると、胸骨を動かしているのだから、当然それは自分として意識されている。
そして、そのことで肩が残り、腕が垂れている、ということを自分が動かしているのだから知っている。
その一連の動きを鏡で確認する。
そして、それを頭の中に映像として記憶する。
その記憶したものと、実際の動きをダブらせる。
単純に言えば、見本をみながら動いているということをする、ということだ。
その時は、身体での胸骨操作や、様々な身体運動は全部忘れる、 ということ。
ひたすら見本を追いかけるということになる。
という一つ。
そして、観客の視線が、胸骨から肩や腕に注がれているのを、体感する。
もしも、観客の視線が、自分の顔にきていると感じたら、絶対に顔を動かさない。
それはそれで良い。
顔を動かさずに、先ほどの一連の動きをする。
そして、より強く一連の動きをすることで、視線を動きに集める。
つまり、ポイントは二つあり、観客の視線が、自分の身体や、動くポイントに注がれているのを、どれだけ強く身体で感じることが出来るかどうかが、身体が観客から見えるかどうか、であり、自意識を見せないか、なのだ。

観客の視線が自分の身体に釘付けになる、ということがあり、それを体感するから、内面が観客と繋がり、そこに感動が生まれるのだ。
もちろん、そこにある条件は、こちらの内面が豊かでなければならないということ。
それがこころの歌であり、感性を持っているである。

 

舞台での在り方2

例えば、 10 人が集まって歌を合唱する。
歌をうまく歌うという目的ではないから、その時には、自分以外の人の声を明確に聞き分けられるようにする。
同時に、自分の声を人が聞く、ということを忘れてはいけない。
だから、自分の声をハッキリと出しつつ、みんなの声を聞き取る、ということだ。
それは、舞台上での全体の動きや、気配を感じ取る。
そして、全体とコネクトしている、ということの入り口になる。
常に、ポイントになるのは、自分の幼い自意識、つまり、「自分がやっている」という意識や自分勝手な「思い込み」を他人に見られている、ということを如何にクリアしていくかだ。
これを一人で練習する場合、 youtube でも何でもいいから、自分の知っている歌を流し、自分も大きな声を出す。
出ている声をしっかり聞き、自分の声も確認する。
そして、相手の歌に合わせていく、ということで練習は出来る。
それは、私の動きを見ながら、それにしっかり合わせる、という練習と同じだ。
それが、ある意味での「相手の流れに乗る」と同じである。

 

Dance2