第101回「武禅一の行行会」レポートより(2020年11月21日~23日)


「武禅」の再開は、過去受講してくれた人たちからの要望もあったからだ。
しかし、具体的に道場の雨漏りがあり、再開は無理だった。
そして、カリキュラムの見直しというか、もっと気付くやり方が無いのか?と思案中だった。
もう一つは、2泊3日20人の食事を賄う体力がもたない妻。
それらをクリアしなければ再開は無かった。

 

で、昨年はちょうどコロナもあって、海外や国内のワークショップが全滅したので、道場修理の雨漏り部分はクリアした。
食事も、途中で簡単なメニューを入れる事で切り抜ける工夫ができた。
残るはカリキュラムということで、見直してみた。

で、ついに昨年11月4年ぶりに再開した。

 

初めて、このページを見る方達、ここに掲載されている短いコメントは、受講者のレポートからの抜粋です。
どれもこれも、当人のナマの声です。


今回の受講者の年齢幅は、下は20代前半の大学生から78歳の女性まで、職業もバラバラです。
つまり、「武禅」の場は、すでに社会だということです。
ここで、自分自身が相手に確かに話しているのか?を問うのです。


「関係」というのは、社会的役目のことではありません。
あなた個人、あなた個人が、関わるということです。
そして、その関わるのは、外的な仕事や言葉ではなく、気持ちや精神に働きかける、反応しているという、極めて内的なものです。


気持ちがなければ言葉は届かない、そんなことを体感しながら、「武禅」は進みます。
では、今までどんな人生だったのか?
そんなことを自問自答する場です。
相手への意志が、あるいは気持ちが強くなると、お互いの反応、つまり、関係が言葉ではなく通じ会えることを実感し涙します。


そんな人生を歩きたくありませんか?

向かい合う

写真で確認


今回の「武禅」では理屈ではない人間関係の凄さを体験した。
昨日の宴会での、あの一体感は何だったのだろう?
日常生活で、あんなことは無いし、感情を揺さぶられた。
本気で楽しかった。

 

武禅最後のセクションで、自分の顔つき目が変わっていた。
毎日一生懸命生きようと思った。

 

最後の木刀を持っての真剣向かい合いは、最初の時に撮った写真とは、まるで様子が変わって、相手に向かっていく姿でした。
もっと行ける!と感じましたし、自分が自分をなめるなよ、と思いました。
一つ一つのワークの中で、出来ない事が殆どでしたが、その中でも自分の変化を感じ取り、「出来ない」で終わるのではなく、出来たことを探す、それを喜ぶ、そしてもっと丁寧に出来る事を見つけてやっていく、ということを、今日以降も続けていきます!!

 

子供の時から周りと違う事は「間違いである」と、自分の感覚を押し込めて来て、本来の自分は全く納得していないのに、周りに合わせてしまう。
その事が自分の中で混乱を起こしています。

 

声を届けるで、組んだ人のを聞いていると気持ちが悪い。
それを自分がやっていると思うとゾッとした。
3人でビデオを撮ったのを見ると、これまた違和感でしかなかった。
常日頃から、しっかりと気を付けないと違和感だらけだ。それが嫌なので頑張ります。

 

「細道」を動画に撮ったら本当にひどい。
どこから手をつければよいか途方に暮れる。
自分勝手にやっているだけやん。
このショックを、また、色んな筋書きをつけて正解にまとめ上げるようなら、本当に付ける薬もない。
優等生ぶった具体のない言葉の羅列、もうやめだ。

 

「自分の中だけ・頭の中だけ・相手に伝わっていない・相手の話を聴いていない」と、今回の「相手に声を届ける」セクションで、組んだ方達からのコメントです。
「本気になってない!」このコメントは刺さりました。
本気になることを恐れている私がいます。
どうして恐れるのか?今の自分のやり方を変えて失敗する事が怖いのです。
今は、順調な仕事ですが、このままではいつか行き詰まりが来る事は分かっているのに。
だから今回参加しているのです。

 

誰かに寄り掛かるでもなく、独りよがりでもなく、一人一人が自立している中で協力しあう事は、この世の中で一番美しく尊いものだと思った。
とても充実した、緊張感のある3日間でした。

 

Workでは出来ない事ばかりだけど、出来なかったから分かった事、ダメな事が沢山あった。
出来ない事ばかりで良かったし、正直にそれを伝えて下さった皆さんに感謝です。

 

「頭の中のことを自分勝手にやってるだけ」「目が死んでいる」という事を何度も指摘され、自分の頭の中で考えた事を、一人で勝手にやっているだけだったと改めて感じました。
相手と向かい合って声を掛けたり聞いたりする時、すぐに構えて相手を威圧したり、絶対に聞かない、というような拒絶の姿勢でいる事が動画を見て良く分かりました。
なぜ、こんなに人を拒絶し、殻に入っているのか?

 

自分を確かめる

相手を


色んなworkをやって課題を発見しても、それをその場で解決しよう、何とか打破しようとしなければ、それは何の意味も無いのだと気付きました。
問題を先延ばしにしていては、きっと一生納得出来る人生なんて歩めません。
自分に色んな言い訳をして誤魔化して生きて来てしまいました。
自分で自分を殺して来たのだと思います。
言い訳や誤魔化しが、どんどん生きる力を弱くさせて来てしまったのだと思います。
その事がとても悔しいです。
「バカヤローそうじゃ無いだろう!」と。
どこかでそれに気付いていたのに、ずっと誤魔化して来てしまいました。
自分の誤魔化しにも敏感になって、もっともっと生きることに積極的になっていきたいです。

 

初めて「武禅」に参加した時、先生からの手紙の中に「あなたはお勉強をしに来たのですね。あなたの話は誰も聞いていなかったでしょう」という内容のメッセージに、私はかなりショックだった。
と記憶しているが、今朝からの、人との関わりの中で、そしてこのセクションでその言葉が蘇って来た。
あの頃の自分は、全くその意味を理解出来ていなかったのだと気付き、同時にずっとその事は避けて、もっと自分の問題点を強固なものにした恐ろしいものになってしまっていた。
とても恥ずかしく、周囲の人との関係を無視した夢の中の人だった。
本当にそれに気付けているか分かりませんが、昨日からすぐ同じことをしています。
全くそこから私の動きはあるようです。
本気になるとか、向き合うとか、何も分かっておらず生きて来ました。
ものすごくショックです。
現実に生きるようにします。

 

最初の歌を届けるは、何も手がかりが掴めなかった。
まだ掴んでいないのに、色々アドバイスを言われるのがムカついて、もっと色々やらせてくれと思った。

 

自分の動画を見ると「何もしていない顔」「ぶざまな顔」になっている。
自分を見て「なんやこれは」となりました。
「鏡に歌っている」「私に歌っていない」等言われ「くそ~!」となりましたが出来ない。

 

やはり、心のどこかで他人と正面から向かい合うことを、実はとても恐れている気がしました。

 

「向かっていない」「遠くにいる」「形だけ」「全体がちぐはぐ」「ふんわりしている」全て、自分が取り組み行動している事とは、異なった形として出ている。
やはりか。何回やっても同じ反応だった。
日常の中で、組織の一員として人と関わっていた時も、これと同じ事だと思う。
伝えても伝えても伝えられない、悔しかった。

 

最後に組んだ人達は、言葉は多いが、普通とは違う言葉遊びをするから、聞いていて面白い。
ただ、その言葉の中に、ある種の予定調和へ向かおうとするバイアスがひっそりと有るように思う。
言葉で飾るな、気持ちで勝負しろ、というのは、自分の使う言葉の中にある、そういった嘘くさい予定調和に気付け!ということでもある。

 

気が付かないうちに自分の事に集中していて、相手のことを聴いていない。
ただ、以前はセクションが終わってから気付いていたけれど、今回はその場で気が付いて直す作業が出来るようになっている。

 

2人組で、前を歩く人を後ろから呼び止めるのだが、全く振り向かなかった届かなかった。
全然エネルギーが足りていないというか、口から声を発した瞬間、散らばっていくというか、力一杯でない自分を感じた時、何かもったいないと感じました。

 

笑顔が嘘くさいと言われて、とてもショックでしたが、自分の中に知らないうちに線を引いていた事に気付きました。自分の思っていることに気付いていなければ、相手の感じている事にも気付いていない。
結果的に、私の心はスカスカの状態で、人とコミュニケーションをしているのかもしれない。

 

相手に声をかける。
やってみると自分の意識が途切れたり、距離がなかったりと、回を重ねる事に自分の集中力の持続の無さを思い知らされます。

 

雑談している人達の一人に「オイ!」と呼びかける。
何度やっても全然誰も反応しないので「この鈍感野郎ども!!と怒りをぶつけると、やっと振り向いてくれた。

食事も美味しい

みんなでいただきます

最初の食事


木刀を構えた人の前に、それに相応しく立つをやってみて、相手の方に「遠い感じがする」「ただ突っ立っているだけ」等のアドバイスを貰い、その後も何回もチャレンジすれど、同じようなコメントしか貰えなかった。
中々出来ないというか、何がどうかとも分からない状況。
その後、木刀を構える側になると、相手の方々の一人一人の違いを感じられた。
ピタッと正面に会っている感じの人、凄く遠くに感じる人、色々考えている人、少しずつの違いを感じられた。
とりあえず、がむしゃらにやり通すしかない。

 

もっと自分を大切にしないと、自分を大切にすること自体から、大きな誤解をしている。

 

人に声を直接届ける事が薄い昨今、ピンポイントで人に声をかけられた幸せがあった。
何でも無人化され暖かみの無い世の中になり、不安が増す一方で、本当の人間の幸福に立ち返れたようだ。

 

自分の姿や他人の姿を写真で見た時、誰も相手に向かっていない事が見えた。
ゴッコをしているような感じだった。
相手に真剣に向かうとは、どんなに難しいことかと改めて分かってくる。

 

Aさんと組んだ。
現実逃避というか、自分だけの世界が強固そうなので、大変だと思ったが、当人にその自覚があるらしく、何とかしたいと思っているとのことだったので、こちらも正直に感じたことを言った。
「嘘くさい」「妄想に入っている」「ワザとらしい」「気持ち悪い」等々。
彼女も良い子でいたいとか、キズ付きたくないという防衛本能でそうしてしまっていると思うが、自分も、人から良く思われたいとか、嫌われたくないとか、体裁を気にしたり、虚栄心や優等生的なところが強い。
これが自分の成長を妨げているというか、物事の本質が見えなくなっている一因かもしれないと気付いた。

 

先生のデモンストレーションを拝見すると、とても目や表情にも力があり、豊かで柔軟に感じました。
どうにかして、私も先生のように人の話を聞けるようになりたい!と思います。
まずは、本当にこの自分の表情を人間らしく元に戻せるように頑張ります!

 

ピラミッドで、自分の鈍感さ鈍感ゆえの判断を痛感しました。
人からの呼びかけが自分に向けられているかどうか、頭で判断してしまう。
判断するから「間違わないように」と慎重になり、結果的に自分に向けられた声を聞き逃してしまう。
そういうことが多発しました。
「この鈍感野郎が」と、雑談グループの外から声をかけ続けてくれていた人が、後に言ってくれた時に、自分の身体はもしかしたらとっくに感知していたかもしれないのに、自分の判断が無茶苦茶にしているように感じました。
そして、相手をシャットアウトしていました。


周りの人がやっているワークを見て「何やねん、もっと向かってこいや!」と思いました。
自分がずっと言われ続けて、今も言われている事と同じですが、こう相手に感じさせることが、どれほどストレスか腹が立つか、身を持って体験し良く分かりました。
そして、そう感じた時に、相手にストレートに伝えるということを、これまで出来なかったですが、今日は言う事が出来ました。
尊重とは、きちんと責任を持って関わる事だと感じました。

 

目の前の人に思い切り行こうと臨んだが「立っているだけ」「遠い」「眺めているだけ」等のコメントが殆どで、実際に写真で見るとその様子が写っていた。
表情もぼんやりして「真剣味が足りない」と言われクソー!と感じた。
写真の自分の姿に絶望しつつも、もっと人と向き合いたい、もっとわっと前に出るようになりたい、もっとそのまま無茶苦茶なままでも、わっと出してしまえるようになりたいと強く感じた。
何で、こんな訳分からん思考回路に自分をしてしまったんやろう!

 

相手との声のやり取りを動画で撮ってもらった時、一方的に強く相手に押し付けている自分がいた。
人の話を聴くことが苦手な事は承知しているが、普段、やはり、自分というものを他人に押し付けているのだろう。

 

1日目を終えましたが、自分はどう生きたいのか?を見つめれば見つめる程、普段の自分の行動が真逆のことをしていることに気づかされます。
そこに真剣に向かい合うことを一度(一度というより常に)していく事が第一歩なのだと思いました。

 

写真を見た時、木刀を持っているのに、何も持っていないような姿に唖然としました。
刀を持っている人の前に立つ姿ではないだろう!?(大根でも持ってる?)
とにかく、人の前に立つ表情でも何でもなく、気持ち悪く感じました。笑えます。

 

今回のセクションは、朝からかなりキツかった。
自分が情けなく恥ずかしく、これまでこのセクションの意味を分かっていなかった。
どういう事かというと、大きな輪の中にいて、相手をお互いに目で確認したのに、その人では無かったという事実に唖然としてしまった。

 

私の今までの人との関わりは本気だったのでしょうか?
どこか「場づくり」の技術でごまかして来たのでは無いか?
だから少し人との関わりに焦りを感じているのでは無いか?

 

自分の感じたことを伝えると、私は物凄く嫌なヤツになる。
それを隠したいのですよね。
最近思うのです。
もっとさらけ出して、きちんと自分を出さないとと。
そう感じ始めてる矢先、「もっと出して」「遠い」という言葉が沢山相手から出て「やっぱりか」とガックリしています。

 

それにしても、歌の初めのコマだからか、今日は自分も含めて気持ちの悪い歌が多い。
何か場に、自分にも必死さが足りない。
「なんとしてでも」自分を相手を何とかしてやろうになっていない。
ニタニタした気持ち悪い感じ。
これどうする?

 


私は絶えず気持ちの悪い妄想の中にいて、その中で自己完結してしまっている。
相手と向き合えていない。
本当の関係性を持てていない、という自分が見えました。
チームになった方から伝えて貰いました。
関わるべき人の前にいても、自分勝手な思い込みや、勘違いの中で動き生きてきたんだ。
自分の世界の中だけで動き、勝手に混乱し形を壊しながら、自分に変に酔いしれて自己満足した、自分本位なものだったと思います。

 

気持ちが相手に全く伝わっていないことが分かりました。
相手と本当の意味で、気持ちを交えていないということは間違いないと思っています。

 

雑談しているグループの一人に声をかけるをやった時、全く届かずしばらくの間ずっと叫ぶが駄目でした。
悔しい気持ちで一杯になり「くそ~」となるがダメダメで、全く反応がない。
やるしかない。1人に集中していくと反応して頂いた。
嬉しかったでは終わらせられないので、もっと相手に集中しようと思った。

 

一生懸命に歌うことと、一生懸命に人へ歌を伝えることは全然違うということを、心底分かりました。
また、歌うことは、辛いことだと思いました。
そして、誰にも何も伝わらないという苦しさも初めて味わいました。
しかし、それ以上に「聴く」ということは、もっと真剣な気持ちが必要なのだと感じました。
聴くことはとても大変という、簡単な言葉では説明できないくらい、レベルの高いものを要求されているのだと思います。

 

もし自分が、人としての人生を生きていないとしたら、人へ伝えることを諦めてしまった時だと実感しました。
たった一人の相手に向けて届けること、それが生きることにおいてとても大切な事のように、今は感じています。
そして、間違いなく現段階においては、歌っている時に、私は一人で歌っています。
「誰に?」ということの大切さが実感できないのであれば、家族といても、仕事をしていても、それは意味の無いことなのです。
言葉がどれだけ素晴らしいものだとしても、それを発した人の想いや声が届かなければ、人間では無いのかもしれません。

懇親会


日野先生に歌ってもらい、私に届けて貰った時、感情が込み上がり涙が止まらなくなった。
言葉では表せないが、嬉しさ温かさのようなものが伝わって来た。
歌を唄ってもらって泣いたのは人生初めてです。
また、逆に日野先生が「聴く」をされた時、歌っている人の声が別人になり驚いた。
日常でも一生懸命「聴こう」と思います。

 

相手を本気で聞くようにすると、自分の体が聞こうとするのに合わせて自然に動き、今までとは全然違いました。
相手の人の全体が見え、気持ちの動きが見えました。
深いところまで聞く事は出来ていないと思いますが、この感覚は僕の財産になったと思います。
本気で人の気持ちを聞く、本気で自分の気持ちを届けるは、どんな人であろうとも、努力していきたいと思います。

 

気付いた事は、自分自身を頭で整理して、自分を批判的に見ている自分の「思い」を、そのまま人に向けている事です。
常に、人に対して批判的や決めつけのフィルターを通して見るがゆえに、その人に対して自分が感じている筈の事が分からなくなっています。
「これをしないといけないのに」「この人はどうだろう」といったジャッジを投げつけていました。
「こわい」「怒っているみたい」「何か文句あるの?」と、時々人から聞かれることがあったのですが、こんなものを投げつけていたから、「そらそうだ」と分かりました。

 

普段の生活に戻って行くので、この感覚、体感したことをしっかりと記憶に残していき、自分にプレッシャーをかけながら、力一杯生きて行こうと思います。
2泊3日、長いようで短かったが、とんでもない体験ができたことを、大変嬉しく思います。
また、良い仲間に巡り合えたのも良かったです。

 

自分の目指す人が手を挙げた時、声が届いた事よりも、それを聴いてもらったことに感謝をしました。
もっともっと真剣に伝えたい、もっともっと真剣に聴いていきたいと、今はそう思っています。

 

先生は根本に「相手を動かしてやろうという気持ち」が必要だと繰り返してくれた。
ここでも一番大事なのは「気持ち」なのだ!
色々それっぽい事を書いてきたが、結局ここが勝負どころだ。

 

人数が2人から4人、6人になった時、皆んながお互いに聴き合おうと協力し合っている一体感が、とても嬉しかった。

 

普段も焦点を絞って相手と会話できていないことを、物凄く知らされた。
注意散漫で違うことに意識が常に分散していることで、失っているものが沢山ある。
人間関係も誰とも構築できていないのかもしれない。

 

この3日間での私の変化は「本気・真剣さ」だったと思います。
日々の仕事の忙しさにかまけて真剣に動くことを避けていました。
真剣に動く事はエネルギーを使うからです。
いつも余力を残して行動していました。
それを良しとする日常でした。
しかしその事は、体力は残してくれますが、関わりをなーなーにして、結局は関わっている人達との距離を遠くしていたのかもしれません。

 

今回は、予断しない、忖度しない、一回一回ちゃんとお相手と向かい会う、をこころしていました。
それでも気付くと忖度したりする自分がいて、一緒にする人の一言で修正したり、の繰り返しでした。

 

生麦の言い返しで、こんな感情むき出しに喧嘩をしたことがないなと思った。
こんな風に喧嘩したい!
感情を出せる相手が欲しい!

 

腹の下から何かがこみ上げてきそうな感覚。その時には、目から液体が出そうになる。
とその瞬間に、自分の思考ブレーカーが制御する。
何故流れを止めてしまうのか分からない。
『テレ』というのが近い言葉のような気がする。
中々相手に届かない感覚はとてももどかしく、相手と自分との間にガラスがあるようなものだ。
その「テレ」というガラスをぶっこわす。
あるいはガラスがあったとしても関係ない。
伝われ!と言う時には、相手は少し頷いてくれた。

 

組んだ人達とスマホで写真を撮り合って画像を見ると、これほどまでに自分が腰が引けていたり、木刀を持っている姿が弱いのに驚きました。
立ち姿が気持ち悪い。
組んだ人の2人を外から見ると、より腰の引け具合や意識が相手に向いていない等を感じ取れました。
自分自身の姿が、どんな風になっているのかを分かっていない事にも驚いた。

 

形だけ作って体裁をととのえ、何かの決まったルール通りに何かをやりたいのではなく、自分が見ている「事実」を色んな角度から疑い、今ある現存のルールや流れとは違った、本当にそこにある関係、何が起きているのかを、まともな人間の目でとらえて、違うやり方を示していきたいです。

 

やはり相手に届けるにはパワーが全然たりていない。口先だけで喋ることに慣れてしまっているせいだろう。
事務的な言葉や音だけの会話。そんなコミュニケーションだったら、本当にAIで出来てしまうし、何も生まれない。
パワーが無ければ相手の心も動かせない。

 

「そうか」と写真を見て気付いたのは、自分は人には本当に関心が無く、全く無視していたことです。
「自分が決めたことを、自分がうまくやる」ということにしか意識が向かず、とても人に失礼な態度をとっていたと思います。
例えば、歌を聞くという時に、聞く側の態度、どれだけ聞きにいっているか、ということがどれ程大事か、自分はこの関係において責任を負っているということを、分かっていませんでした。
それは表裏一体のことで、自分が歌う側の時も、相手に投げつけるように押し付けるのではなく、共同作業だとハッとしたことで気付きました。

 

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