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 「達人入門2」で「武禅」は取り上げられています  ●禅について  

第98回「武禅一の行行会」レポートより(平成28年10月8日~10日)

よほど自分自身がしっかりしていないと、人は人の言葉に惑わされる。
「しっかり」というのは、ある意味で「目的」であったり、「やるべきこと」そして「どこへ行くか」だ。
単に「それ」をやっていると、よく巷で言うように「声の大きな人」「理路整然と話す人」に惑わされるのだ。
それは「武禅」でも例外ではない。
「武禅」は、もう少し質が悪くて、相互にアドバイスをするというルールがある。
だから、言葉に惑わされるという状況が常に起こっている。
アドバイスそのものから、何を引き出すのかを分かっていなければ、アドバイスを聞いてしまい混乱する。

「武禅」は小さな社会であり、社会を生き抜く為の実践的稽古だ。
アドバイス、つまり、他人から見た自分自身の印象や、出来ない事に対する手助けは、それを話す人の考え方の傾向を知る為にある。
それは社会でも同じだ。
自分に対する印象は、社会では殆ど聞くことは無い。
だから、それは「自分はこの人から見れば、そう見えているのだ」と知ることが大事だ。
しかし、アドバイスということとなると、それはアドバイスをする人自身の持つ目的や背景によって出されているものだ。
だから、そこで聴くべきは「この人は、どういう考えを持っているから、このアドバイスになる」という処だ。
社会でそれが出来なければ、人に振り回されることになる。
特に「武禅」では、先輩や常連という先入観、つまり、先輩だから、常連だから「良く分かっている」と先入観が働いた目で見る。
その先入観を排除するのも稽古だ。
白い目で見る、自分の目的に沿って自分で考える、その力を付ける為の稽古でもあるのだから。

今回で98回を数える「武禅」だが、飲み会で「私は二度と武禅には来ません」と宣言した男性がいた。
後にも先にも、この宣言は初めてだ。
もちろん、勝手に来ない人は沢山いる。
そんな人が何回も「武禅」に足を運んでも意味はない。
「武禅」を、武禅での「自分」を真正面から受け取った稀な人だ。
それが背水の陣だと、それを聞いていた受講者が捉えたかどうかだ。

そういった、ドラマらしくないドラマも、知らない間に起こっている。
それが「武禅」、つまり、社会だ。

夕食

 

真剣にみようとしても「考えているね」「ここにいない」「引いている」「怯えている」と言われ、普段の自分、職場、家庭、友人関係すべてにおいて、こころを込めて接しているつもりでいた自分が、すべてどんないに薄っぺらだったかに気付かされました。
「半死半生の人とは向き合いたくない」とも言われ、人には自分の存在が中途半端に写っていることが、日常なんだなとも思わされます。

 

先生のお手本の写真や動画は、自分たち受講生と比べて何がどう違うのかの説明は難しいけれど、身体から何から何までみんな違った。
先生の後ろに立っていても、身体の中にジワーッとハッキリ届いた感覚が残って気持ちが動いた。
何の評価もしない、あんな風に人を見ることが出来る事を目標としよう。

 

先生に聞いて貰ったら、もう何か分からんけど声が出て、スーーッと歌が腹の深いところ、奥の方から出て来て、歌いやすすぎて。
あと、包容力が凄くて「この人の為に歌おう」という気持ちが凄かった。
もともと、思い入れのある曲だけど、それにしたって泣けた。
声が出るのと同時に、涙も出て来て、あれやられたら、なんか、もうひとたまりもない。
「聴く」って、滅茶苦茶凄いんだな、と思った。

 

私は全く見ていないし、存在していない。
まず、自分が生きていない。
置物、人形、死んだ魚の目、人間じゃない。
多数の人に言われ、写真を撮ると実際そうでした。
今まで、なーなーでしか生きていないし中途半端。
そんな自分を目の当たりにして、悔しいのと悲しい。

 

動画を見ると「オイ」と言った瞬間に嘘っぽい表情になる。
相手を呼ぼうとしていないし、恥ずかしそうにふざけているように見えた。
日常でも「その人」そのものを呼んだことがないのだろう。
名前で呼んで、相手も「名前」という記号で理解しているだけだとしたらロボットみたいで気持ちが悪い。
そもそも呼んでいる私の方も、本当の私ではなくよそ行きのカッコつけた自分なんだろう。

 

自分が普段、相手に好印象を持ってもらおうとやっていた態度が、実際はボーっと突っ立っているだけだった。

 

最後の「こんにちは」で、他の人を見ている時に、今までと自分が違っていると思いました。
今まで「そこにいない」とか「薄い」と言われたのが、このことだと体感しました。

 

「正面向かい合い」という動きや行動を、ここで特別に作業として「特別化」して出来ようとしている事を指摘して頂き、日常として認識していない事に気付いた。

 

先生がお話くださった、この動作が出来ても仕方が無い、ただこのワークに集中して取り組むことで、何か想定外のことが分かったり、降ってきたリするというお話は大変参考になりました。
これまで、色々なことに取り組む中で「これをする意味は何か?」「これをすると、何が出来るようになるのか」というような思考で、自分の視野をどんどん狭くし、フィルターをどんどん厚くし、その中でも安心しようとするために、今ここに在る自分とは全く違うレッテルを貼った妄想を信じ込んでいました。
しかし、そもそもそれをする意味も得られる学びも、何がどうなって自分が広がっていくかなど分かる筈も無く、そこに制限をかけて失敗や未知のモノから逃げようとしていた思考や行動が、自分自身の人生を粗末に扱っていたと気付きました。
自分の行動の結果、今、こんな視野がせまくなっているのだったら、自分の行動パターンを疑い、こうしてみようと行動を変えてみる事で、また視野を広げる筈だと思いました。

 

大切なことは、声の大きさでもなく、トーンでもなく感情でもなく、相手に伝えたいというシンプルな気持ちだと分かった。

 

先生に触れていただいた時の身体は、とても安心して触れてくださっていると心から感じました。
私は仕事でプライベートで、先生のように人に触れられるようになりたいと思い、今はまだ出来ないですが、ただ触れる!絶対触れる!を明日以降挑戦します。

 

私は出来ないのではなく、出来る。
それも何かを付け加えたら出来るようになるのではなく、その付け加えたものを捨てて、ただ自分で向かって行くのだと感じた。

声を聴く

携帯で検証

からだに触れる

口でジャンケン

 

一番驚いたのは、自分の人に対している時の表情が、恐ろしく無表情で不機嫌でつまらなそうな顔をしているビデオを撮って貰い、それに気づいたことだ。
呼吸をして「座れ」をやった時に、自分が呼吸をしている時の在り方が、全く呼吸をどこでしているのかも分からないような様子で、ななめから見て、関心がなさそうなものだった。
私自身は人の前に立って「呼吸をちゃんとやろう」とか「うまくやろう」と考えてしまっており、不安から思考の保身モードに入ったが、それが他人から見ると、本当に感じ悪くて、攻撃的かつ無関心に見えるのかと驚愕した。
人と向き合うのを避けるのは、単に何の関係も発生しないのではなく、人を不快させるものだと気付いた。

 

初日に撮った写真を見たが、ひどい、きもい、『お前は誰だ』というような顔をしている。
まるで洗脳障害のようだ。
よくこんな顔で生きて来たなぁと思う。
3日後の今の顔は、洗脳がはがれた自分の顔になっている。
とても気持ちが良い。

 

先生に聞き役になってもらった。
「最初に掴んでやらなあかんのや」歌い出しを掴れる感じは、前に「聞くつもりがない相手に声を届ける」の時の感じと同じく、もう抗えない。

 

Aさんの声が、歌が、先生に聞いてもらうと全然違う。
変わって、言葉の意味やそれを歌うAさんの思い、そんなものが全部出て来るから、それを見ているこちらまで涙ぐむくらいで、しかもその後のAさんの表情が、それまでと全く変わった。
それまでかぶっていた仮面を外したかのよう。初めてAさんという人が見えた気がした。

 

初日の組で「こんにちは」をやったが、「なまむぎ」をやった後にUさんの壁が一つ無くなった。
今まで見せなかった押し殺していた感情があふれ出し、それが見えた瞬間、お互いの目から涙が流れた。
生の自分で、真っすぐに人と向かい合えば何も怖くない。

 

「どうぞ」は、最初から出来る気がしないと、諦めているから嘘っぽい。
ただやらされている感じから抜け出さない自分がいる。
それでは出来るわけもないのに。
「これは出来そうにない」「これは出来そうだ」という勝手な判断で、行動するかしないかを決めてしまう。
「これがやりたい」という欲求も少ない。
他の人が「どうぞ」も、色々な思い込みが見えるので気持ちが悪い。
(今、ここまでの文章を読み返してびっくりした。私、気持ちが悪い)

 

ビックリするくらい情けない弱い目をした自分が写っていて、相当ひどいなと思った。

 

ちゃんと、己で己を保たねばと思う。
自分を自分の真ん中で、自分を感じて考える事を「武禅」が終わってからも保たねばならんと。
自分が前にドンとそのままで行く感覚を、たとえ、その感覚で傷ついたり嫌われたりすることがあっても「だからなんやねん」と、己の真ん中をしゃんと保って、勝手に内にこもったりするのは嫌や。
どうせ、どっちの生き方をしたとしても、私の事を嫌いな人は嫌いだろうし、そんなことは関係ない。
大事なのは私が生きているのか、ということだけしかない。
まだまだ、ここからが始まりだけど、何度も何度も思い出して検証して生きて行こうと思う。

 

「あっダメだ!と思っても、そのままやり続けて、その一線を超える!ことが大事なことだ」が私にとって物凄い大きかった。
今まで、それで何回も、何回も止めていた。
それからは止めないぞ!

いい顔

払い


Sさんと組んで、前に座るSさんは体を固め動かないようにする。
後ろの僕が動かすというワークをやった時、自分が動かすのではなくSさんが動きたいように、そして丁寧に、この二つだけに注意を集中してやったら出来た。
日常生活で、こんなにも相手に注意を向けて丁寧に接したことは無い事に気付いた。

 

相手を後ろから動かす。
相手に触れている時、少しでも余計なことを考えると、すぐバレました。

 

「座れ」でも、相手の正面に立つと、呼吸のタイミング、声を届ける事を意識した。
自分は声量もなく、こういうことは本当に苦手なことだが、何回かやっているうちに、相手がびくっとしたリ、「少し伝わって来た」と言ってくれたり、頷いてくれたりした時は以外だった。
人をコントロールするのではなく、ただ想いを強く届ける。
ここまで行くにはまだまだ遠いが、いつか出来るようになりたい。

 

「出来ない自分が悔しい」と言いかけた。
自分で言いかけてドキッとした。
そこから自分の本音がスルスルと出て来た。
「自分にそんなに向かってこないで」「一生懸命にならないで」「逃げたい」等々。
自分の為に真剣にやっている相手に対して、僕はこうやって舐め腐った態度で生きて来た。
今日も、そのままふてくされ引っ込みたくなった。
しかし、前回の時に同じような場面で、相手に失礼な事をしている自覚もなく、先生にお叱りを受けた。
それがずっと残っていて、今回、相手が真剣に向かってくれているのに気づき、自分よりもその事を大切にすることにトライした。
組んでいた2人も後押ししてくれた。
気持ちを切り替えてトライ出来た事、相手に向かおうとしたこと、2人にすごく感謝が湧いて嬉しい。
結果「こんにちは」はスッキリしたとのこと。
やはり、前に進まないのを選んでいたのは自分だった。

 

ピラミッドで座っている時、本当に人対人が関係していて、そこに変な意識も考えもない。
相手と相手。
スッとその関係を感じたというか、気付いた時があって、なんて素晴らしいもの、関係するって美しいものと、ウルッと来た時がありました。

 

明らかに、最初の写真と最後の写真が違うし、死んだ魚、人形みたいな目で、人を馬鹿にしているような立ち方が、人間の目になり、本当にクリアで相手をただ感じていました。
本当に、今までの自分が相手に対してどれだけ失礼で、無視して勝手な先入観だけで見ているか。
先を見越した、目先だけの生活をして、自分で自分の脳みそが面白く無くしている。
この高揚感とクリアな状態を日常にもって帰りたい。

「変わりたい」というのは、今の自分に何か新しいものをプラスすると思っていたが、そうではなくて、本来の「生身の自分」に被せているものを、一枚一枚はがしていく、ということなのかもしれないと思いました。

歌を届ける

固めた体


声量の無い私の声で、ピラミッドは果たして届くのか心配しましたが、届かなくても現実を受け入れようという思いで臨みました。
一人の人に的を絞らず、その都度変えてやってみました。
その的の人ではなくその隣の人、その前の人等、近くの人が手を上げて下さり、「わっ、結構届いているんだ」と、途中で自信が少し持てました。
的の方が手を上げて下さった時には、本当に嬉しかったです。
こんな声量の無い、弱々しい自分でも届けられた、距離があっても届けられたと思い、信じられないような気持ちでした。

 

先生が誰かの歌を聴いているのを見ていると、また、歌を聴いてもらうと、全く真剣度が違う。
真剣に聴くには物凄いエネルギーが必要だし、そうしないと相手に失礼です。

 

そんなことよりも、心が震えて止まらなかった。
本当に向かって来てくれた。
その時の感動は、意識して見れば何が起こったのは分からない。
でも、凄いものが凄い大きな力。
自分自身が感動しているということは、こんなことか!これが出来るようになりたいのだ。
ならないと人間じゃない。

 

自分がただそこに行けばいいと言われ、相手のところに行く事、素直に行く事が出来ない自分がいた。
普段、考えに考えて、ガードしながら人と接している自分がいた。
子犬が素直に人のところへ、しっぽを振っていけば、大方の人は何の躊躇もなく受け入れる。
そんな感じだろうと思った。
そんなシンプルな事、当たり前なことに気付けた時に涙が出た。

 

最初の写真と比べると、自分の顔がハッキリしていて、意識が相手に向かっているように見えた。
無駄な思考が働いていないような感じだった。
初日は、「相手を見る「考えないようにする」などが頭の中にあって、それが邪魔していたと思う。
無駄な思考が働いたら、すぐに捨てるクセをつける!

 

3人組の向かい合いで、写真を撮るという時、先生が向かい合っておられる写真を見て、全身にエネルギーがいきわたって満ちている(表現の仕方がおかしいかもしれないが)と感じました。
凄い!という言葉しか出てこなかった。
そこで「自分は?」となると、目だけで、そのつもりになっている。

 

Hさんが「オイ!」が初めてだったので、もっと全身を使って言ったら「大きな声を出すのは、私には違う気がするので」とおっしゃり、そういう事もあるのかもしれないな、と思った。
私には弱そうな「オイ!」でもちゃんと伝わるかもしれません。
「オイ」の伝わり方も、初めの時と今では違うのが分かります。
「初めての人だから」とかと、レッテルを貼り付けて色眼鏡で見ていました。

 

先生に体重88㎏の私を起こされた時、起き上がることに意識が向かないまま、気付いたら起きていた。
ペアの人にもうまくいった時は、びっくりするほど軽い。
これが出来るとか、そうなるとかの考えがないまま生きて来たので、逆にこうなることを知って身体と付き合って来ている人たちの世界は、全然違うのだろうと思う。
だから、色々な学びでの場所で、「感じろ、感じろ」と言われたりするが、何かが分からないままやっていても、「感じよう」としているだけで、もしかしたら全く見当違いのことをやっているのではと思った。
なぜなら、「感じる」は今日のように、具体的ポイントを身体を通して感じるのだから、感じようとするイメージでやっても、それは自分勝手な妄想を膨らませて、自分でそれに合わせて「感じた気になった」だけのこと。

 

「私」が「そこ」へ行く。その「私」がバラバラ。
みんなと工夫をする「自分の周りのクッションを一緒に移動するように……」などのイメージや例えは、ただの妄想だと気付きました。
自分が工夫だと思っていたことは、工夫ではない!!
では、本当の工夫って何なんだ?

夕食

焼き豚

アイコンタクト

愛を確かめて

今回の「武禅」で一番大きかったこと、それは自分が主体的に生きる、自分の人生を歩むという事、又、主体的に生きようとはしているが、「武禅」に来ると、まだまだ奴隷として生きている自分に出会ってしまう。
今からの人生で、誰かの言いなりになっている自分、従順な自分、依存したいと思っている自分、そんな自分を見逃さないように生きる。
今回の「武禅」では、同じような気づきを得た人が何人かいたことに驚いた。

 

Tさんが初日よりも、顔が大人になっているのが印象的だった。
初日は、年齢よりも幼く見ていた。

 

後ろから「オイ」の時、撮った動画をみると、自分と前の人が全然関係が無く、ただ後ろの位置で呼んでいると分かりました。
意思がないのに、形だけそれをしているのが、とても気味悪いと感じました。
普段の生活のなかでは、そういう形だけの行動が大部分であって、その形を整えることに全精力を注いでしまうから、自分の意思なく動いているかどうかが、極めて曖昧になっていることにも、気付いていませんでした。

 

最初の「こんにちは」で写真を見て、相手が気持ち悪いという感覚が分かった。
普段の生活の中では、本当にこれをやっていても、相手は真顔でフンフンと聞いてくれるので、調子に乗って熱く続けることもある。
やはり、あれは一人芝居だった。
何もない、ただの押し付けだった。

 

先生の「何がなんでも」という言葉がとても印象的だった。
何がなんでも「ピタッ」となって届けたい。
「ピタッ」となっている瞬間は、とてつもなく静かで時が止まった様だ。
この世界に2人だけしかいないみたいで、私には、目の前にいる人しか見えない。
「この人に」しかない。
人に何かを伝えるというのは、これぐらい、相手の事を大事にしていないと伝わらない。

 

ピラミッドで呼び掛け側の時、その人の赤い点から自分に糸が通って、その通った糸にままに「オイ!」と呼ぶと、手を上げて貰えて、凄く嬉しかった。

 

携帯で写真を数枚撮ったが、徐々に変化してきている自分が写っていた。
昨日から比べると表情も姿も柔らかくなっており、手先にも表情があった。
写真でこんなに変化が分かるとは思いもよらなかった。
少し自信が持てている今です。

 

声にどれだけ惑わされているのかと思いました。
口パクの「なまむぎ」は声の無い分、相手の事がもっとシンプルで分かりやすくなります。
その分、誤魔化しが効かない気がして、思い切りぶつかりました。
やっぱり、気持ちが乗っていて、そこに言葉というものが付いて来るというのを実感しました。

 

「5人1組の歌を届ける」では、届ける事も聴くことも出来ず、また考えてしまった。
歌でもこんにちはでも、相手に全然届いていない、私自身から出ていない事を複数回指摘された。
他方で、最後に先生に聞いていただいた時には、絶対的な安心感に包まれて、自分の中から自然と湧いて来る感情が有りました。
伝えようとするのではなく、ただ伝える、届けること、もっと先生に届けたいと感じました。
私は「出来ない」のではない、必ずできると感じました。

 

SさんがAさんにするアドバイスを聞いた。
つまり、今までは他人がするアドバイスを、情報として頭の中を通過させたり、自分はこう感じると片づけていた。
しかし、SさんはAさんに、「こうなって欲しい」「気付いて欲しい」という気持ちが見えた時、今まで自分が色々な人に対するアドバイスは何だったのかと恐ろしくなった。

 

席替え

向かい合い

7日間寝かせたカレー

検証

みんなで

なまむぎ

 

第97回「武禅一の行行会」レポートより(平成28年6月24日~26日)

 

不思議と言えば不思議だが、今回の「ナマムギ合戦」は盛り上がらなかった。
横で見ていて、スカスカの感じがして、長時間続けても無意味だと思い、早々に切り上げた。
どうして?その原因は分からない。
エネルギーの大きな人と、大きな声をだせば良いと思っていた人との差が、丁度中和されたからかもしれない。
あるいは、転換の速さに、それぞれの人の気分が付いて来なかったのかもしれない。
しかし、場は自分の意志や気分とは関わりなく変化する。
そこに乗れるか乗り遅れるか、完全な勘違いをするか、それぞれの実力である。
もちろん、「武禅」では、変化に対応できる事を目指しているが、それこそ道半ばである。

しかし、とは言っても今回の「武禅」は、実りあるものだった。
「私」に気付いた人がいたからだ。
「私」と、私と思っている私は違う、という事に気付いたのだ。

それは、つまり、自分の思っている自分を他人は見ているのではなく、「私」を見ているのだという気づきだ。
単純化して言えば、自分では「他人に思いやりがあり、よく気が付く自分」と思っているとする。
他人は「傲慢で、押しつけがましい。全く他人の事を気遣っていなくて粗雑」だと見えている、というような事だ。
この気付きは、この先自分自身を無限に成長させる宝物だ。
これを気づいた男性は、思えば7年位は通っている常連だ。
どうなることかと思いながら、手を変え品を変えこの男性にアプローチしていたが、一向に気付くという方向ではなく、「方法」という方向に向かうばかりだった。
だから、人は分からないというのだ。
どの時点で、地軸がひっくり返るのか、それこそ神のみぞ知るなのだ。
だから、言えるのは「諦めるな」である。
その男性のアドバイスで、一人の女性は見事にその難関をクリアしていた。
気付くとは、そういう力を持つのだ。

そのセクションでは、女性達も抱き合って泣いていた。
それは、お互いに体感しクリアしたからだ。

初参加の男性は「聴く」ということが分からないと悶々としていた。
分かっても出来ないし、分かるような事ではない、と説明。
そう話すと、余計にパニックになっていた。
もちろん、そうなるだろう。
話す、聴くは、日常そのものだからであり、その初参加の男性は社会的には活躍している人だからだ。

ワークの中で、私が受講者の話や歌を聴く、という手本を見せる。
そうすると、一様に表情が良くなる。
ある人は涙する。
そんな事を日常で経験したことがないからだ。
だから、仕方が無いのだが、自分が経験したことがないからといって、その事を理解できないと括る。
その癖が、その男性の可能性を奪っているのだ。
しかし、行が終わる頃には、自分自身の世界観の狭さに愕然とするようになった。
そうなると、この男性の可能性は開けて行くのだ。

人は自分の力でしか成長できない。
どんな話を聞いても、それだけで成長することは無い。
どんなことを習っても、習っているだけで成長することは絶対に無い。
自分の力で、自分をこじ開けなければ成長しないのだ。
そして、そこには方法は存在しないのだ。


 

人工的、作為的ではないことが、いかに心地よい事かを再確認できました。

 

ただただ自分の声が相手に届かない事が悔しかった。
いくら集中しても意識を相手に向け、声を届けようとしても届かない。
多分15分程は呼びかけていたと思う。
最後は本当にしんどかった。
普段、自分がどれだけ自分の意志、エネルギーを使うことなく生きているからだと感じた。
思い返してみても、嫌な仕事には気を入れずダラダラ行っているし、やりたいと思った事も辛くなると力を抜いてやっている事が殆どだ。
いったい自分は今まで、何を考えてそんなバカなことをやってきたのだろうと思う。
椅子に座った後、情けなくて泣きそうになった。

 

私はこの行に参加するまでは「本気で生きている」と自負していましたが、それはそう思いたいだけのことであって、実際はそうではなかったことに気付いた。

 

後ろ向きの相手を呼ぶのは、一度も伝わりませんでした。
自分の意志と現実の差がとてつもなく有り過ぎて、意志ではなく、意図というか、思っているだけで、現実が全くなくてどうにかしていかないと、私は建前だけになってしまうという危機を感じました。

 

最初Yちゃんと組んで稽古をしている時は、私という存在がハッキリしていなかった。
稽古を続ける中でお互いに関わり合ってくるのが分かる。
私という存在があなたへ向かった時、本当に身体が震え出す喜びが湧いてくる。
「わたし、ここ」という言葉も声に出さずにやってみると、「わたし」という言葉も、「ここ」という言葉もいらない事が分かる。
Yちゃんと響き合う現象が起こった時、お互いにこれだ!と涙した。
そして、今までやってきた「ナマムギ」も「声を届ける」も、先生が教えて下さっている事は、今、私が感じている事よりも、遥か遠い事だと実感した。

 

手探りで、ここか、ここではないか、ここや、といった経験を通して、やっと少し「そうか、反応というのはこういう事か」という体感が出来たことが大きな収穫でした。
もちろん、今までの武禅の中では、今回が一番雑音が少ない頭があり、その事は、そうでなければ「こうはならない」という蓄積の為の経験だと思います。
本当に、面白い事というのは、面白いですね。

 

先生が私に歌って下さった時、本当に「私」に歌ってくれているという実感があり、幸せな気持ちになりました。
風景やその歌詞が実感と共に伝わってきました。
また先生がSさんの歌を聞いた時は、Sさんがどんどん変化していきました。
ちゅうちょなく自分の中のものを吐き出しているSさんの姿と、ちゃんとSさんを聞いている先生の姿に、涙が出ました。
あんな風に、相手を聞けるようになりたいと思いました。

 

今「自分」というものを創り上げてから壊す。
余計なものを付けて行ってから。はぎ取っていく。その為に余計なものを沢山つける。
という先生のお話しが心に響きました。
心から納得して、恐れずに色々な事に取り組んでいけそうです。
今までは「自分のやっている事が間違いだとしたら、それは無駄な事」という固定観念があり、取り組んでいる時に迷いながらやっていたと思います。
間違いも失敗も、もっと素直に受け止めていきたいです。

 

声を出さずに、声を届ける。
先生の声を受けたら、胸の中がジーンと熱くなる。
自分が今までやってきた、力任せの自分勝手のやり方をいくら続けても、そこには辿り着けない。
着く筈が無い。どうすればそこに近づいていけるか。
というアプローチでやってみよう。

 

好きも嫌いも、やるもやらないも、何時も人の動きを窺って決めて来た。
だから、意識を集中させる体感が分からない。
そして何より「今まで人と何かをしたことがない」と気づいて涙が出た。


 

 

日野先生が私の歌を聞いてくれた時、自分の声が何時もと違うように聞こえた。
先生が、私の声をリボンを口からスルスルと引っ張り出すように、引き出してくれた。
こんなに気持ちよく、高揚しながら歌えたのは初めてで、ドキドキが凄かった。
また、他の人の歌を聞いているのを見ていても、体がブルブルするほど感動的で、こんな幸せなパフォーマンスは無いと思った。
私が聴く側の時は、すごく力が入り過ぎていて、全然相手を感じていないし、聴いていない事を実感した。
聴くということの本当の大切さを、しっかり自覚して、本当に人の事を聴けるようになりたいと思った。

 

「声を届ける」ワークで「探っている目をしている」と指摘されました。
またそれは日頃からそんな目で人と接している事でもあると言われた時、思わず泣いてしまいました。
自分ではそんな意識は無かったのですが、そんな目で人を見ている自分に情けなくなったからです。
泣いた後、ワークをすると、少しは届ける事が出来ました。
帰ってからも、相手の人をただただ純粋に見て、感じて接していく事を心掛けていきたい。

 

驚いたのは、自分が「お手」をしたことだった。
頭で考えれば、しないであろうと思う事をパッとやったのは、先生の意識が非常に明確だったからで、気付いたら「お手」をやっていた。
他の人や私の出す指示「どうぞ」はとても曖昧だった。
やってみたが形を工夫しただけで、本当に「どうぞ」と思っていない事に気付いた。
手の動きにも無頓着だが、何をしているのか、そもそもそこが本当に他人任せで、自分で決めることをしていない。
大部分がフワッとした行動だ。
全て日常がありのままに出て来る。

 

身体操作でTさんを前にして「わたし、ここ」を届けてもらっていると、本当に嬉しくなり泣きそうになった。
わたしを届けてもらってくれることが、嬉しい事、有り難い事なのだと、初めて思えたかもしれない。
他の人が「わたし、ここ」をやっているのを見て、自意識がどう邪魔しているのかが見えた。
これもはじめてのことで、僕の何時もの姿だ。

自分が自分を分からなさすぎるし、自分のエネルギーの弱さにとても虚しくなりました。
どうもがいても今の自分でしかない事が悔し過ぎて、涙が出ました。

今回、改めて感じたことですが、自分の名前を発する事の違和感は不思議です。
その違和感を感じながら話すのは、気持ちの悪い感じがしました。
全体的にグループでの自己紹介は、他人事を話している様でした。

とにかく曖昧な事が良く分かった。
私も含め大方の人は自分を分かっていない。
自分が「私という人間はこうだろう」と思っているだけで、実際の「私」ではない。
それでは「私」が誰かに届くなんてことは有り得ない。

 

何度も繰り返しているうちに成功したので、「私が行く」を言わずにやり、さらに手ぶりもつけずにやってみたら、相手に届いたようだった。
最終的にOさんの意識を押し返すように、自分の意識をOさんに向けて見た。
本当の「ナマムギ合戦」はこれか!!言葉はいらない。
先生の伝えようとしていることの、ほんの一部を体感した気がする。
涙が溢れた。
生きている人に触れるというのは、こんなに感動するのか!!
凄い!!

 

 


この3日間、自分の思い通りにならない事、情けないと感じる事、出来ない事を他人のせいにする事ばかりだった。
でもこれは、自分の生き方が間違っていたからだ。
その結果が今の自分になっている。
そして、今の環境を作り出している。
もうこんな生き方はやめる。自分の意志をはっきりさせ、エネルギーを大きくして相手に伝える。
もちろん、相手の事をちゃんと見て聴く事はおろそかにしない。
自分にも、関係する人にも、本気になって生きます。
そしてまた「武禅」に参加して、自分のこと、相手の人の事を見つめなおしたいです。

Aさんを見ていて、自分を見ている様で涙がでた。
自分をどれだけ正当化してきたか、何様のつもりでお前は悪い、自分は正しいと出来たか、本当に俺は何様か。

何か掴めそうな感覚が相手との間で起こっているのに、直ぐに止めてしまう自分がいる。
組んだ人からのアドバイスでも「そのままの流れで、その感覚を持続してみればよいのに、頭でそれをやらせないようにしている」と言われた。
確かに思い当たることはある。
自分の中に無かった事に出会っているのに、喜んでいない。
それでは、いつまでたっても枠の外に出られない。
頭で違うと否定する前に、もっと自分の感覚を信じてみる。

 

歌を聴いている先生をみていて、小さい子供が何かに強く興味を持っている時の目と同じだと思いました。
相手にどれだけちゃんと興味を持つかで、向かい合うエネルギー量も変わってくるのかなと思いました。

 

視点を変えたら、スムーズで軽い感じというのは、実体の無いマリオネットの様だと思えました。
生きている実体の重みが感じません。
でもそれが、私が本当にそう感じているのか、彼女の言葉に誘導されたのか、どのように検証したら良いのかと思いました。
でも、今までやっている事も、そのように暗示を受けた事を自分で感じたり、自分の中から出た事と勘違いしている事が沢山あるのだと思います。
(ひょっとしたら)私を作っている考え方、私が何だか分からないけど自分の核だと信じているモノ。
その総てがそのような外からの情報によって作られている。
そうすると、私だと思っている身体以外のものは総てが、外からの寄せ集めで独自のモノは無いのかもしれません。
私がしがみついていて、壊したいけど中々手放せなかった体裁も、その寄せ集めのアホ見たいなものだと気づきました。

 

今まで自分が外の要因のせいにして、うまくいかなかったあれこれは、全て自分がそれを選んで来たことと実感して、悔しくて吐きそうになった。
真面目な自分でいつづけること、これまでの予定調和でいつづけるより、心が震えるような人との関係を築きたいと本気で願う。
それを阻害するのは「こんなもんやろ」という自分の設定だ。
腹の中から「お前、何しとんねん」と沸いて来る。
しかし、人を前にすると思考の穴に戻る。
このままでは、同じ事を繰り返すどころか、武禅を出来ない正当化に使ってしまう危機感を感じた。

木刀を3人組でし、写真を見ると、まるでサルの人形のようでした。
日常でも、こんなやる気のなさそうな顔をして、人を見ているのかとゾッとしました。

 

自分が内にこもったままでいることを理解していなかった。
ワークは何か音量や音程を変えれば、もしかしたらうまくいくかもしれない、という底には「私は内にこもっていて、相手に入っていく事ができない」と、腹の底から思っていなかった、があった。

3人の歌のワークの時に、Kさんが涙を見せた。
組んでいた若い女性に「のぞかれているような感じ」と言われたからだ。
今までの人生の中でも、人をのぞくような目で見ていたのでは?
その言葉を聞いてKさんは「武禅」の中でどう変わっていくのか。
というより、自分もそうなのでは?と今まで歩いて来た人生をビビった。

形の稽古をしていた時、お互いに自分の事だけに注意が向いていて、自分のことだけに一生懸命になっている事に気付きました。
最初から、相手がいる事を自覚もせず、無視した状態で勝手に稽古が続いていた。
「相手」ということも「相手と一緒に」ということも完全に抜け落ちていた。
という事は、日常でも仕事でも、人と何か一緒に取り組んでやっている様に思っているだけで、単に作業が続いているだけではないかと寒くなった。

 

レポート書く時間の時、雑談をしていたら女性陣から「舐めてるわ、あんたどんだけ上から目線やねん!!」と言われた。
自分ではそんなつもりが無かったのだが、他人から見たらそう見えたのだ。
その言葉の後、自分は「まず、舐めているということを受け入れるところからですね」と言った。
すぐさま「あんたの話やで。他人事やな。やっぱ、舐め取るわ」と止めを刺された。
何時もそうやって逃げているのだと、自分に向き合わされた。

 

日野先生に聴いてもらうと、人の声に情が乗って、周りの聞いている人が感動する程だ。
自分で歌っていても「ああこの曲はこんな歌詞なんだ」と初めて気付く。
言葉が初めて自分の何かとリンクするようなのだ。
これは、自分が勝手にそうなっているだけなのか、生き物だからそうなっているのか。
どうだっていい。
そんな風に聴けるように近付いていくんだ!

 

相手を見る目と思っていたその目は、相手にとっては「喧嘩を売られている目」「不機嫌な目」と指摘された。
自分が良いと思っている事が、実際はそうではない事を指摘されて良かった。
自分の事は見えないから、鏡で見たり、写真を撮ったりして確認するようにしたい。

向かい合うと胸元の力がスッと抜け、気持ちが楽になり、安心する感じになった。
久しぶりにこの感じを感じた。
ということは、日常生活や面接業務では、真に向かい合っておらず、向かい合ったつもりになっているという厳しい現実を突き付けられたことに気付きガッカリする。

お互いが歌を聴くと歌うを行うと、相手がきちんと私に対して開いてくれるから、安心して声が出せる。
受け入れてもらっていると実感する。自分を閉ざさず、このままの自分で相手に向き合うことで、相手も違和感を持たずに関わってくれるのだということがようやく分かった(自覚出来た)。
どうでもよいフィルターが何枚も重なって自分に貼り付いている。
勝手に自分を守っている気もする。
人と関わるのに何を守る必要があるのか?
何を守っているのか?
これは、自分への駄目だしする為に、考えなくてはならない問題だ。

 

Sさんが「必死でやった」というが、よく聞いていると僕が使う「必死」とは違っている。
Sさんの「必死」は、「それに集中できた」という意味のようだ。
同じ日本語でも、人によって意味が違う。
同じアドバイスでも伝わる事が違う。
自分の感じた事を勝手にアドバイスだと思っていたが、それは全く間違っていた。

目の前の相手を見た時、声を届けようという思いが無くなる。
それは、聴いてもらっていない姿勢に反応してしまったから。
その姿勢を見た時、私は完全に引いてしまった。
ということは、相手に声を届けるなのに、人を選んでいると気づいた。(先入観を持って見ている)
自分のやり易いと思う人には、扉を開いているような感覚があるのに、何か違うと感じた人には、自分を開いて接していない。
関わろうとしていない。
また、先生が「真剣に」とアドバイスされた人は、表情が変化した。
ほんの数分で全く違う人のようになっていた。
声が届けば人はこうなるのか、人は直ぐに変われるということを教えて貰った。

 

今まで、自分を相手に押し付けるばかりだった私が、相手を聴くことを楽しいと思える様になって来たことが嬉しいです。
もっと、相手をちゃんと聞きたい、聴きたいと欲求が湧いて来ています。

 

組んだ相手の人から「興味の無い目で見ている」「真剣そうな顔をしているだけ」「完全に拒否している」等、沢山のダメ出しをされた。
でも言われたことは当たっていると思った。
普段の生活でも、私は人から少し避けられていると感じているのですが、指摘された目や雰囲気で接せられると避けたくなるなと思った。
原因は自分に合ったと腑に落ちました。

 

「オイ」のワークは全く届かなかった。
血管が切れそうなぐらい呼んだが、まだ切れるレベルにはいっていないのだろう。
Tさんの「オイ」は響いた。
響くには日常でどうしたらよいのか。歌を届けるワークで、T君が気になった。
自分の何かが自分で壁を作っているのが見える。
声に違和感がある。
物凄く勉強になった。
自分のクセ、他人のクセが凄く分かって来た。
分かってどうするか。
自分は自分のものにしていく。

 

今、現在の自分で素直に全力でぶつかっていかないと、自分の本当の問題に気づけないし、その対策が生まれないという事が分かってきました。
「言葉の検証」についても、一つ一つの言葉の意味を考える事と共に、今の「私に合った言葉」、私の生の言葉を選り分けていきます。

出来ていない事を指摘されて、合わせてくれない相手が悪いというような思いも出てきました。
この思考も、日頃の生活に出てくる事があります。
今思うのは、なんて自分勝手な考え方なのかと思います。
こんな所からも、これまでの自分は、相手の事を考えた行動、会話をしていない事が判ってしまいショックでした。

指示を出す時は、全力・本気が必須と分かっているが、分かっている事と出来る事は、全く違うという事にも、改めて気づかされた。

 

ピラミッドはTさん一人に絞ってやった。
自分の声が拡散してしまう。
絞れていない事の実際だ。
本当に意識が散っていたのだ。
最後「おっこれは?」と思えた時、Tさんは手を挙げてくれた。
今まで、何となく誤魔化しで今日もまぐれに違いないが、嬉しかった。
方向はこっちだろうと思えた!!


 

96回「武禅一の行」平成28年3月19日~21日

お彼岸とはいえ、きっと寒いだろうと思っていたが、案外温かい「武禅」だった。
とはいうものの、それは道場に住み慣れた人間の感覚で、東京や大阪といった都会育ちの人には冷えたかもしれない。

今回は、若い初めての受講者が多く、何時になく私の言葉数を増やした。
でないと迷子になる人が続出すると思ったからだ。
若い人に共通しているのは、「表情がない」ことだ。
構えているのもある。しかし、それ以上に感情を育てていないのと、感情を出しきれる友達や周りの環境が無いからだ。
何よりも、「自分の意見を言う」ということだけに優先順位があり、まず人の話を聞く、そこから自分の意見を言う、という順序が無いのだ。
自分が相手に話す段になった時、構えた相手に話が出来ないということに気付く。
それが自分だと気付くには、それほど時間はかからない。
しかし、ここを短時間ですり抜ける為に、今回は写真を多用した。
お互いが写真を撮り合い、自分の表情を見て驚く。
他人から見た自分の顔だ。
そこに、自分の思っている自分の表情と、実際の表情の違いを知り愕然とする姿が多かった。

このレポートは、受講者も読む「筈」だ。
自分以外の人のレポートを読む事が大事だ。
同じワークをしているが、それぞれ違った捉え方、違った感想を持つということを、文字を通して知ることになるからだ。
違ったというのは、比較するということだ。
比較しなければ自分のレベルは見えて来ない。
100mを10秒で走るのと、20秒で走るのとでは、全く走る早さが違う。
それを知るから、早く走りたいのであれば訓練をするし、自分には走りは向いていないと捉え別のことをするか、そういうことを知るためにも比較するのが大事なのだ。
どれだけ深く体感したことを掘り下げているか、それとも表面的なところに留まっているか。
あるいは、幼稚な自意識しかないのか。

物事は全て立体的である。
そんな事は毎回口を酸っぱくして話す。
「こうしたい」ということを、「こうする」だけでは出来る筈もない。
「こうしたい」のであれば、その為に何を工夫しなければならないのかを考えださなければならない。
その「その為に」は、相当複雑な立体だ。
だから、考えなければならないのだ。

しかし、「武禅」では、考えるなとよくいう。
それは、現場では「今やること」があり、その事は知っているのだから、それに集中する為だ。
だから、それ以外の時は、徹底的に考えなければ駄目だということだ。
自分を追い込む為に考えるのだ。

自分を育てるのは、自分を成長させられるのは「自分でしか無い」からである。

しかし、今回の宴会は何時になく盛り上がったように思う。
確かにお腹の皮がよじれた。
腹筋が痛くて仕方がなかった。
先輩に触発され、殻を破った人が何人もいた。
そこに大爆笑が起こる。
表情が無いのではなく、出す機会が無いだけなのだ。
笑った顔があるだけで、場が変わる。
そんな事も体感したに違いない。
であれば、自分はどうするか。
そこからは、それぞれの自分自身が決める事だ。

3日間を通して思ったことだが、こんなに人と深く関わったのは、人生で初めてかもしれない。
それがこんなに楽しいことだと知った。
私も他の人に対してそういう風に在りたいと強く思う。

 

一番打ちのめされたのは、複数のメンバーに歌を届けるワークだった。
入り口に立てない。作業になってしまってメンバーと意識が全く繋がらない。
すぐに駄目だしのフィードバックが来て、ショックは隠せなかった。
「自分は気にかけているつもり」「気にかけていたつもり」だったが、完全に意識が繋がっていなかったということは、歌に限らず、例えば職場でも同僚に対して、上司に対して、また患者さんに対してさえも、そして家族に対しても、意識の繋がりを気付かずに断ってしまっていたに違いないと思った。

 

ともかく、やった先にしか次は見えてこないと感じました。

 

組んだ人もどんどん良くなる。
この時間は自分の一生の宝となるだろう。
今の自分には最も価値あることを体験させて頂いた。
皆さんに感謝し、生きていこうと思う。

 

自分が思っている自分と、実際の自分が余りにもかけ離れている事と、こうなりたいと思っている自分に、思っていてもなれない、という事が良く分かりました。

 

自分が言っていることは、伝わってるものだと当然のように思っていたのが、大間違いであると知り、愕然としたワークだった。
とりわけ写真や映像に写る自分の姿をみて、こんな伝え方だったのかと恐怖も覚えた。
まるで自分がロボットのようであった。
「声を届ける」というのは、相手がいて初めて成り立つものであるが、自分はその前提である、相手に対して、ゾンザイであったのだと気づいた。
声をいくら出そうが、話し方を変えようが、それらは全て表面的なものであって、根っこの部分に注目しない限り、何も変わらないのだと体感した。

 

先生が私に歌って下さった時、本当に「私」に歌ってくれているという実感があり、幸せな気持ちになりました。
風景やその歌詞が実感と共に伝わってきました。
また先生がSさんの歌を聞いた時は、Sさんがどんどん変化していきました。
ちゅうちょなく自分の中のものを吐き出しているSさんの姿と、ちゃんとSさんを聞いている先生の姿に、涙が出ました。
あんな風に、相手を聞けるようになりたいと思いました。

 

今回は「分かったと思う」ことを、どれだけ減らせるのかに挑戦したい。
思考まみれと分かったところで、何にもならないので体験ベースで今までと違う、目の前の人に集中するという状況を一回でも感じることが目標だ。

 

今回2回目の「武禅」、本当に泣いて、とてもよく笑った。
時間が非常に短く感じると共に、濃い時間が過ごせた。
先生の本当に面白い話も沢山聞けたし、自分の財産となる気づきが多かった。
自分の根っ子に近い処の重要な気付きが、次から次に出て来たのが本当に嬉しい。
お金では買えないが、もし売ってあったのなら、これからの人生を考えると数百万でも高くないくらいの価値だと思う。
今の自分はとても好きになれた。

 

ピラミッドでは、他の人の「オイ」を聞いていると「声が拡散している」というのが良く分かった。
「あの人に」というのがまだまだ弱いのだと思う。
自分がやる時は、何度繰り返しても相手は微動だにしなかった。
そこで反射的に「寝とんか、コラ!」と「オイ」と言うと、手がスッと挙がった。
凄くうれしくて、これまた反射的に「ありがとうございます」と出た。

 

全員で歌を重ねて行く時も、それぞれが違う歌、違う個性、違う声がテクニックを超えて一つになっていき、心が揺さぶられ、感動と歓喜になってゆくのが気持ち良かった。
大事にしたい!関係を!人を!自分を!
青春と呼ばれる時代の記憶が、余り良いものでない私にとって、青春の単純で強いエネルギーを思い出させる一面でした。


その後の相手の言葉が分かりやすくなっていて、こういう事を言っていたのかと、理解できると共に、お互いの関係が良くなっていた。
関係するには、押し、引きのタイミングもあるのだと実感する。

 

「ジャンケン」でモヤモヤを吐き出すことでクリアーになりました。
この事は、頭で分かっていても気が付けば、怠惰なエネルギーの中に入り込んでしまう。
日常で自分が出しているエネルギーというものが、よく分かりました。
それこそ、毎日誰かを見つけて「ジャンケン」せなあかんのか俺は!と、情けなくなりました。

 

ワークの最後に先生が見せてくれた5人縦列を「触れて」動かす、「手の誘導で」動かす、「声で」動かす。
それを見て自然に涙が溢れました。
それぞれのワークで取り組んで出来たことがあってもそれは入口。その時にやったことが、たの時にも有効なのかどうか。目指しているのはそれらが統合されるところ。
~~私たちが今目の前で見たように、それは偶然としてではなく「そうさせる」と意図して実際に発生させられるものなのだ!!
こんな凄いことはない、と興奮する気持ちが抑えられません。
しかもその力が、私を含めた私たちの能力として秘められているということに、また気持ちが上がります。
その深さで人と関わること、その深さで感じあえること、その世界で生きることができるのだと思うと喜びが湧き上がってきます。

 

4人で雑談をしている後ろから「オイ」と呼ぶ。このセクションでは全く届かなかった。
指では呼びたい人を指しているが、狙ってはいなかった。
きちんとその人のどこの一点を狙うかを明確にせずに行っている為、届かなかった。
それは日々の日常でも、これくらいなら伝わっているだろう、という雑な他力本願、適当な過ごし方。
何となくでやっているつもりが現れたものだと感じた。
余りに伝わらないので「お前、聞けや!」と心の中で叫びながら、一点に向けて言うと届いた。
一回一回「まあいいや」「ま、こんなもんでいいだろう」をどこまで「それじゃ届かへんで」と気づいて、行動するかだと感じた。

 

しかし、皆さんとの向かい合いでは、眺めているだけと言われ続け、ニュートラルにリセットしようとするとまた思考が働く。
思考するだけの余裕があるのだと、後のジャンケンの時に気付いた。
エネルギー、なんでも良いからエネルギーを出せよ。
もう思考はどうでも良い。
3人組で、向かい合い携帯で撮って貰った写真が、蝋人形に見えて驚いた。
ある写真は蝋人形ですらない。
これが自分の現状か。
それを変えるには出したことが無いくらい出すしかない。

 

私はこれまでに覚えて来た言葉の意味をかなり捻じ曲げて、自分なりに納得していた事が分かりました。
人の話を聞きながら、頭の中で勝手に自分なりの解釈を加えていたんだと思います。
「ちゃんと聞く」を実践していき、自分なりの解釈でインプットされている言葉を見直して行きたいと思います。

 

声を出す側では、とにかくエネルギーを出してぶつけてやろうと思っていたので、声を何回か出し続けると、自分が決めた人の周りで手を上げてくれる人が出てきたので、「よしこのまま」とピンポイントで集中させようと出した声に反応していただけました。
先生が言われた通り、相手の方に感謝です。
常に相手があっての自分であり、相手のことを気付かえる自分を目指したい。
そのことに気づけるヒントが沢山ここにはあると思います。

 

声を届けるセッションで、今回はラッキーな事に、AさんBさんの具体的というか、明らかな変化を見ることが、物凄く嬉しかった。
人の心が開いていく事で、その間に何かが生まれるのを見ることが出来て、本当に良かったセッションの一幕でした。


最後の全員での歌い合い、一つ一つは違う歌でもそれぞれがきちんと主張しあうと、最後は全体として一つになるということが感じられました。
先生が「これがハーモニーやで」と言ったことでハッと全てが腑に落ちました。

 

先生がSさんの歌を聴いている時、Sさんが本当に幸せそうに歌っているのを見て、せめて自分の大切な人の話は、こんな風に聞けるようになりたいと思った。

 

人の話を聞いているつもりで、自分のことを考えているから、すぐに相手の言っている事が分からなくなる。
私は頭が悪すぎるなと勝手に思っていたが、聞けばよかったのか、聞いて流れに乗れば良かったのか。
聞いて流れに乗って、自分の意見を言うのかと気づいた。
今までは、自分の思いはストレートに言うべきだと思っていたが、相手に伝わるような言い方を考えて、流れに乗って伝えるを日常の中でやらないと、思いなど伝わる筈も無かったです。

 

入り身の感覚で相手の背後に入り、肩に触れていく段階で、以前のセミナーでの「相手に触れる」のポイントを頭で比較参照している自分がいた。
そこがどうしても、自分はノウハウに頼ろうとしてしまう癖、パターンが出てしまうのだと感じた。
素直に今やることを集中してやればいいのに、余計なものを介在させ、自分で違和感を感じている段階で、自分はその瞬間にもうそこにはいないことになってしまう。
余計なことを考え過ぎだとよく分かってきた。
ワークに囚われ、気づくと目的が薄れている。

 

改めて相手の反応に自分も反応していることを体感したし、自分の在りようが相手の反応や在りようにも影響を与えることに気付いてきた。

 

先生に聞いてもらった時は、自分が歌う歌詞さえまるで違って聞こえた。
こんな風に聞いてもらえる事が通常の人生の中で一度だって起こるだろうか。
そんな嬉しさがこみ上げてきた。
そこまで行けないにせよ、そういう嬉しさを与えられる人になれたとしたらどうだろう。
一人の考え方に閉じこもっている限りは、そんな風に他人を聞くことはできないのだ。

 

声を受ける側でも、やはり同じ、最初タイミングよく聞き始められても、すぐに「うまくやる」とか「これ聞いてもらっている。
続けなければ」という意識が働いて駄目にしている感じでした。
どちら側でも、邪魔をする自分、ダメにする自分の存在が気になっていました。

 

先生とSさんとの声を届ける(聞く)は、Sさんの声がとてもスッキリし、歌いやすそうな表情で、感想を聞いた時「嬉しい」という声が場の雰囲気を変えてしまう位の気持ちの届く「嬉しい」という言葉でした。気持ちが響くのだと感じました。

 

自分が何かを伝える時に、相手がちゃんと聴くだけですごくこころが動く、ということを実感しました。
Sさんが歌い、先生が聴いている時、明らかにSさんの心が動いているのが見えたし、見ている私自身のこころも動きました。
Sさんが先生から感想を求められ、Sさんは「こころから嬉しい!」と叫んだので、全員大拍手でした。
これが聴くということ、聴くー関係するーことによって、起こるもの生み出されるものだと思いました。
私はセラピーとはこのことだと考えているので、勿論職業上でも、このような在り方でいたい、と強く思うし人として「聴ける」ようになりたいです。

 

本当に人の近くに立って、相手を感じた後、人の気配、違和感がこれまでになくクリアに感じられた。
「そういうのが、どうやらあるらしい」から「あるぞ!」に変わった。

 

自分が人と話す時、無意識の内に作り笑いで、取り繕うとして、それが逆に壁を作ってしまっていることに気付いた。
話している自分を写真に撮ってみると、一人で話しているような顔をしていて、気持ち悪かった。

 

目の前の相手の表情や声、内面にあるものが現れるようになってきた。
相手の方はこんなやさしい顔をしていたのか、こんな透き通った瞳をしていたのか。これまで自分は何を見てきて、何を聞いてきたのかと思うぐらい何かが変わった。
そこに気付いてからは、ワークを通してますます相手の目に注意が、目の奥に注意と関心が向くようになり、ますます相手の目の光や輝きが視界に入ってくるのを感じた。

 

自分を含め人が発している声がいかにぼやけているのかがよく分かりました。
そして、相手に届けるには、いかにエネルギーがいるか。
日常では、確かにそこまでのエネルギーを出さなくても、すんでいくかもしれません。
ということは、日常生活では何も伝わっていないんだなと。
その事に気づけたので、これからの生活では、いかに伝えられるかに挑戦していきたいと思います。

 

エネルギーは使うのだけれど、省エネモードで表層だけ上手くやろうとしている時より、ずっと気持ちがいいものだと感じました。
それは雑談の時でも同じで、むしろ、たわいもなく流れる雑談の時こそ、今学んでいる事を稽古する絶好の機会なのだと思いました。

 

他人をジャッジしてしまう自分。
自分自身を余計な時にジャッジしてしまう自分。
成長の為にジャッジし続けるクセばかりついていて、相手を認める事が出来ない「冷たい」人間としての自分の一面を突き付けられました。

 

対象が明確じゃないという話を頂いたが、日常から人に色々なことを委ね、人の言った事を鵜呑みにしたり、自分をださずに適当に生きている。
何でもええんかい、自分の意志は無いんかい、全ては日常の在り方や。
「武禅」の時だけワークをしても無為や。
改めて痛感した。

 

今日に向けて考えてきたことをやろうとしてしまった。
頭で考えて「やる」「相手の前に立つ」のは、違うと分かっているのに、やっぱりやってしまう。
頭で分かっていると思っていることが、実際には出来ないという事を感じました。
結局、私は上手くやりたいと心の中で、何時も思っているんだと身に染みて感じました。

四人で歌を届け合うセクションでは、相手の歌につられないように必死で、自分の歌に意識を集中したが、そうしていると他の3人から孤立してしまうような感覚に襲われた。
そして「目で聞く」ということに頭の中でずっとクエスチョンが止まらなかった。
終盤全員で歌を届け合う際には、訳が分からないことをしているのだが、「何か凄い事」が起きているのが分かった。
全員が全く違う歌を歌っているのに、不思議とうるさいという不快感はなく、むしろ心地良かったのが不思議だった。
ワーク全体を通して、自分が生きて来た世界観は何だったのだろうという衝撃が大きかった。
そしてその世界観は、言葉だけでは今の自分には決して分からないものだと思う。

 

今回は、初日のA君が自分の中の何かが見え、それに涙していた時の美しさ。
「剥がれた現象」に遭遇出来て良かったと感じました。

 

セクションの冒頭の身体操作で、先生がおっしゃられていたように、今、自分は何をしようとしていて、それは何の為か、意識がどこにあるのか、というような原点がごっそり抜け落ちていたのだ。
「武禅」での稽古だけの話ではなく、日常生活でも自分がやっていることは同じなので、そう思うと恐ろしくなるし、ちゃんと生きていないということにもなると思う。

 

触る側も触られる側も、一体感がなく、温もりで有る筈の人の手が嫌になるくらいだった。
自分の触る手にも自分自身で違和感があり、声を届けると同様、自分の手が気持ち悪くなり、今までどれだけの人に触れ、接してきたのかと考えると愕然となる。
先生の手の動きを模倣すると、集中が一点に絞られるのも手伝って、体と頭からいらない力が抜けやりやすいし違和感もなくなった。

 

口で聞くをやってみた時、顎の力が抜けると、頭の中もファ~と抜けてやりやすくなる。

 

自分が思っているようには、他人からは自分が見えていない。
そのことをこんなにキッパリと教えている場に参加できたことに感謝です。
無表情、仏頂面、遠慮、引っ込み思案、全て「人から見た自分」が抜け落ちた自意識によるものだと気づきました。
それがいかに気持ち悪く滑稽であるか。
今回学んだことを活かしていきます。

 

今回の「武禅」では、仲間の本気の言葉に、有難いという感謝の気持ちが大きく、人との関係の中でこそ学べること、一人だと目を向けることさえ出来ない、自分のごまかしを指摘してもらえた。
もっとさらけ出して、もっと深く関わりたい。

 

私は長年どのような場においてもあまり話しかけられることがない。
それはずっと疑問であり、どうにかしたいと思っていた。
その答えの一つがここにあったと思う。
歓喜に震え涙が溢れた。
その後、幸運にも先生に相手をしてもらう機会に恵まれた。

 

 

 

95回「武禅」一の行 平成27年11月21.22.23日

 

例年よりも暖かい道場だったのが何よりだ。

頭が納得したら、そこで止まる、そんな話を何時もする。
「では、どうすれば?」と次に進まないからだ。
しかし、大方の人は「そうか、そうなんだ」で終わる癖がついている。
そのことに気づけることが大事で、気づいたら即「では、どうするか?」に切り替える癖をつければよい。
今回も、初めての人が数人いたので、その話から始めた。
木刀を構えた人の前に立つ、「正面向かい合い」の最初のワークだ。
これは、立場を変えれば自分が他人からどう見られているのか、どう見えるのかを知る為の入口でもある。
「他人のふり見て我がふり直せ」の実践版だ。

「なまむぎ合戦」は、何時ものことだが今回も白熱した。
他人と面と向かって、自分をぶつけることなど日常生活の中ではほとんどない。
だから、面と向かえる自分に驚き、改めて日常のおかしさに気づく人も少なくない。
声を枯らして大声で叫び合う。

「ナマムギ」で勘違いをしている。
ただ声を大きく出すことに一生懸命で、向かい合わない人は疲れるが、向かい合いとしての「ナマムギ」は逆にエネルギーが湧いてくる。
ここでの違いはとても大きいと思います。

と気づく人は気づく。
つまり、人は「関係」の中で無意識的に反応し合うのだ。
もちろん、そんなことはいつも説明する。
そうすると、頭は納得するから、工夫も行動も起こらない。
だから、説明は極力控えるのだが。

もちろん、納得するということそのものは悪くない。
ただ、その次に行動に移さないことが、間違っているだけである。

しかし、不思議なことがある。
それは「武禅」は関係性を最大のテーマとした行である。
であれば、どうしてそれを休憩中に実践しないのか。
あるいは、終わったセクションの話から、他人はどんなアプローチをしたのか等の話をしないのか。
それが、いつも不思議に思うと同時に、「やっぱり、何かしらのテクニックを習おう」としているのだと思う。
ただ、年配の方が入っている時は、その方が色々と話をし、場をリードするから、それに連られて少しは話が弾む。
「分かりました」と納得した人に限って、あるいは何かに気づいた人に限って、引きこもりになってしまっている。
馬鹿か、と思う瞬間だ。
行動しろ、いくら話しても、その場でできないこと、実行に移せないこと、やらないことは、日常で出来るはずもないのだ。
いくら、もっともな話ができても意味は全くないのだ。

昔、ドラムをやりだした時、バンドマスターが「楽屋で出来ても舞台で出来ない、しかし、楽屋で出来ないことは、舞台でもできない」と、先輩のミュージシャンに話していたのを思い出す。
「今、やれ!」
それが無いのはどういうことだ?

 

 



最後みんなにお礼のありがとうと伝える時、涙が溢れました。
こころからありがとうございますと言えました。
ありがとうは言うのではなく、溢れてくるものだと思います。

 

3人組のチームで、上手く出来ない僕を諦めることなく、全力でぶつかってくれる2人が嬉しかったです。
同時に出来ない自分が悔しくて、それすらも「悔しければやれ」と僕をリードしてくれました。
親と同世代の方が僕の両肩を掴み、全力の力と声でぶつかってくれているのに、「出来る・出来ない」よりもやるしかありません。
結局課題は出来ずじまいでしたが、それよりも大事なワークではなく「向き合う」ということの大切さを教えられました。

 

受講者のみなさんの駄目だしのおかげで、やれない、やっていない自分にまた気付けた。
次回、また進歩していたい。

 

相手の前に立ってみると、相手の方の様子が見えるようになってきました。
その場にいない人、考えているだけの人、ボーッとしている人など、まるで以前の自分を見ているようだと思いました。
それだけ日常の人との関わり方が何もなく、単なる言葉が飛び交っているだけの、バカバカしいものだと言うことを再認識しました。

 

「のど」の一言は「ガシーン!」もんでした。ありがとうございました。

 

相手を言葉で動かす。
全身の力を振り絞り相手にぶつけた。
私が2回位で諦めると、先生に「何で途中で止めるんや」といわれ、「絶対に座らせてやる」という強い気持ちで相手にぶつけ続けた。
すると相手が気押されたように動いた。
物凄くエネルギーを使いヘトヘトになった。
相手に声を届けるには、これ程のエネルギーが必要なのかと実感した。
このエネルギーで、普通の会話もしなければ、本当に相手には届かないだろう。

 

まだ本気になれてない。
何かが自分を閉じこもらせている。
それは外したって大したことは無いはずなのに。
何でだか分からない。
でも、こんなに出来ないのに、付き合って練習してくれる人がいてくれて、本当に有難かった。

 

ピラミッドで始めはAさんをめがけていましたが、周りの人の手は上がってもAさんには届いていないようでした。
そこで赤丸シールがよく見えたBさんに、なりふり構わず「オイ」と叫んだら、何回目かで手を上げて頂きました。
偶然かもしれませんが、これだけエネルギーを出してやっと人に気付いてもらえる、本当に日常でも相手に一生懸命向かわないといけないと思いました。

 

「声を届ける」では全体的にお芝居をしている自分を感じることが多く、普段の生活がいかに嘘くさくしているのかに気付きました。

 

2人組になり、椅子に座ったワーク。
相手に届いているか、声を使わない口パクでやった時に、いかに自分は何もない状態で話をいていたのか、ハッとしてビックリした。
同時に心というか、気持ちを口パクでも伝えようとすることにすらエネルギーが回らず、結果形でやってしまう。
普段から、本当に人の前に立って、自分の気持ちと繋がり、コミュニケーションなど、一度もしたことが無かったのでは、と思うくらい自分のすべてが嘘くさい!!!

 

正面向い合いではエネルギー不足を改めて体感した。
自分の中からエネルギーが相手に向かっていない、という状況に面し、また頭のなかでの思考や言葉でそれを埋めようとしていることに気付く。
日常の中でも、出来ないことに直面した時、ではどうするか、と向かっていく試行錯誤をするのではなく、出来ないその事柄にフォーカスし、自分の視野が善し悪しとかそのプロセスとしての事が出来るかどうかに狭められ、最初に先生がお話されていたような、「何の為に」が無くなっていたことも改めて感じた。
色々な方に、頭で考えていると言われ、考えないようにしようと思うも、恐らくどうすれば良いのか分からない事と付き合う事の恐怖や、自分が出来ないという状況を消したくて思考してしまう癖が付いてしまっているのだと気付く。

 

考えれば分かると思っているのだろうか?
周りを観察しながら、最適(だと自分が思っている)な行動をとろうとしている自分に気付く。
これまでそれでやってこれるような環境の中にいて満足していた、ということでは無いのか?
あるいは、そうした環境だけを選んでいたのだろう。
本当に関わるということを、考えて分かる筈がない、ということも、本当に考えていれば明らかなことだ。
その意味で、考えてもいなかったということだ。

 

他の人達を見ていて気付いた事は、その向かい合っている「その人」ではなくて「誰か」なのだと感じました。
ゆえに、誰が目の前に立っていても違いは無いし、そのことにまず気付いていないと思いました。

 

正面向い合いでは「私があなたの前に」という目的をはっきりさせ、相手の前に立ってみると、相手の方の様子が見えるようになってきました。
その場にいない人、考えている人、ボーッとしている人など、まるで以前の自分を見ているようだと思いました。
自分も含めて、それだけ日常の人との関わりが何もなく、単なる言葉が飛び交っているだけのバカバカしいものだということを再認識しました。

 

自分の存在の違和感を、これほど明確に指摘されたことは無かったので、そうだったのかと改めて衝撃的でした。
肩に触れた時は、触れ始めた瞬間に「気持ち悪くて鳥肌が立つ」と複数の人からコメントを頂いた。
思えば、平素から仕事でもプライベートでも、自分が人と関わる場、打ち合わせ、プレゼン、司会、あらゆる場面において、その場にいる自分に得も言われぬ気持ち悪さを感じていたと気付く。
その気持ち悪さは、自分の人前で話す能力の欠如や、伝えたい意志の弱さが原因かと思っていたが、そもそも自分が人と関わろうとしていない、その気持ち悪さによって、場にストレスをかけていたのだと、先ほど思った。

 

先生が向かい合って姿を何度も見せて貰っていたら、一人一人に向かい合い方が違うことに気付きました。
一人一人にしっかり合わせ正面をとっている。
と当たり前といえば当たり前なのでしょうが、そんな事にも気づかず今まで過ごしていました。

 

向い合いをしても、エネルギーが届かないと言われる事に加えて、目が泳いだり、ただ見つめてしまうのも、自分の癖なのだと思います。

 

最終的に手を挙げて頂いた時、自分がしていたのは身体全部のエネルギーを相手に向けることでした。
もちろん、まだまだ省エネですが、手段をいくらやったところで何も起こらないということが、自分の中でハッキリしました。
また、ピラミッドが一番最後だったこともあり、時間が無い状況という中で、やるべきことは一つ「相手に」と思った時に手を挙げて頂いたことに気付き、出来た時や分かった時に、目的の為に手段が必要であるということが分かりました。

 

 
   

「ナマムギ」で勘違いをしている。
ただ声を大きく出すことに一生懸命で、向かい合わない人は疲れるが、向かい合いとしての「ナマムギ」は逆にエネルギーが湧いてくる。
ここでの違いはとても大きいと思います。

 

仕事中にペラペラとうまく説明しているように見える同僚を、凄いなぁと思う一方で、なぜかとても気持ち悪い感じをよく受けている気がします。
それは恐らく自分もそういうコミュニケーション方法をとっていて、同じ事をしている様にも思います。

 

けど、一人芝居をしているような気になりました。
私の「生」の声は単に演じているだけなのか。自分で自分の習い性になっている仮面なのか。
今まで、やっていた総てが嘘くさく思えます。
「もっと出して」「何を怖がっているんだ!」「もっと身体の芯から」など、全部私自身のことで、自分が出した言葉すべて矢になって跳ね返ってきます。
壊さなくてならないのは、私自身でした。

 

去年参加させてもらった時と、今年とではみなさんと話易くなっていることに嬉しくなりました。
それは「武禅」の場だけではなく、普段の生活の中で何が変わったのかは、ハッキリありませんが、これは確実に「武禅」のおかげです。
原因は自分にある、どこでも言われ、誰でも知っている言葉ですが、実感できる場は少ないと思います。
自分が知っている中では「武禅」の場、たった一つだけです。
今回参加された皆様、今まで「武禅」に参加してきた方々、それを進化させ続けている日野先生、ありがとうございます。

 

A君としましたが、全く人と関わろうとせず、その事にも最初は気付いていない様子でした。
稽古が進むに連れ、彼と真剣に関わることで、彼の目が変化しとても良い表情になった時は、涙が出るほど嬉しくなりました。
必要のない自意識を壊すのは自分自身ですが、大事なことを伝えようとする人、その事に気付かせようと必死で取り組む姿勢が、「本当に」ということを気付かせてくれました。
またBさんが、必死に伝えようとする姿はいつも凄いと思う。

 

「とうりゃんせ」のメンバーは最悪でした。
まるで感情が無く、意思のない気持ちの悪い目と声。その事を伝えるのですが、全く変化は見られませんでした。
まるで死人に話をしているようで、不快きわまりない状態でした。

 

先生のお話で、赤ちゃんがお母さんに意志を届かせるエネルギーがありましたが、日常生活では本当に言葉で終わらせていると反省して、人と人として向かい合う時、声を届かせる伝えるということを一生懸命にしないといけないと改めて強く思いました。

 

今までの日常で、人間関係が表面的なものばかりだったのは、自分の方が壁を作ってしまっていたから。
何も気にせずはしゃいだり大声をだしたり、走り回ったりすることを、随分長い間やって来なかった気がする。
原因はおそらく、ずっと「いい子」や「ほめられる子」になろうとしてきたからだ。
その蓄積は大きいから、すぐに無くなる訳はない。
今日をきっかけに、本当に「自分の人生」を生きたいと思う。

 

相手との向かい合いで「何をしているのか分からない」と相手の方から言われて、向かおう向かおうとして向かい合うと「自分だけで相手に関係なしにやっているだけ」と言われ、そして次は考えずに、が頑張ろうとせずに向かい合うと「見ているだけで関係が無い」と言われ、どうすれば良いのか、どうにかしようとしても駄目だと思いつつ煮詰まってしまいました。
木刀を持つ側に回ると、相手が見ているだけ、立っているだけといわれた事がよく分かりました。
エネルギー(感情)が出ていないので、正面向い合いが出来ないと言われ、日常でいかに感情が動いていないかを痛感しました。

 

今回は先生の一言というか、そのタイミングの時にしかそうならないであろう、何かの一つを頂き、自分自身では気が付かなかった「穴」というのでしょうか。
「穴」なのだから見えなかったのですが、「穴」の見つけ方のヒントになりました。
自分の事を見る為の穴探しです。

 

相手に歌うも聴くも同じということがハッキリした。
歌っていることも聴くことも忘れている様な感覚で、相手だけに意識が向いていた。
すると相手の表情がどんどん変化し、良い顔になっているのが分かり、私自身も心地よく、お互いに関係しているのは「これ(この感覚)」だと思いました。
互いに良い影響している状態でした。

 

ふと「マイペースで生きる」ということを履き違えていたと気付く。
そもそもマイペースとは何で良いものだと思っていたのか、自分でもよくわからないが、あたかも個性が有るかのように、自分で決断して行動しているかのように思えるようで、実際のところは、他人との関係性に向き合わずに済む、免罪符のように使っていたと気付いた。
そして、その「マイペース」を累積した結果「流れに乗ってない」という重大な状況に無感覚になってしまっている。
流れに乗ることを、全く意識せず生きてきたので、どれだけかかるか分からないが、目の前の人に自分のペースを押し付けることを減らしていくため、また「武禅」に通いたい。

 

一度「ナマムギ」で叫びあった後、今までどれだけ自分が殻に閉じこもって生きてきたかが次々に思い出されて泣けてきた。
でも、この間10分もしたら、また何時もの自分に戻ってしまっていた。
悔しい。
一瞬本物の自分が現れたのに、直ぐに戻ってしまった。
素の自分でいるのが、こんなに難しいことだと思わなかった。
というよりも、こんなに壁をつくっているとは思っていなかった。

 

自分が何をしているのかも分からないなんて、本当に恥ずかしいことです。
自分の話をしている言葉がまるで台詞を話している様に聞こえるなんて、本当に馬鹿げている。

 

相手が目の前にいるのに、その事を分かっていない自分がいました。
意思が明確ではない。
相手に伝えたい意思が無いという事です。
他人に対して苦手意識を持って接している様な感じがして、その事が意思の弱さや不安定な自分を作り上げているのだと思う。
いつまでも不必要なものを持っている気がしました。

 

今回は「場が出来上がる」という不思議な体験をしました。
その場で稽古をしている人の作り出す空間では、皆同じ現象が起こりました。
自分の知らない不思議のことの様に思うけれど、実際に「場」が出来るということを知った。
見たのは貴重でした。

 

声を届ける手段として、正面や、目的をハッキリさせることや、意識を向けるなどをやってみましたが、どれも上手くいかず、最終的に手を上げて頂いた時、自分がしていたのは、身体全部のエネルギーを相手に向けることでした。
もちろん、まだまだ省エネですが、手段をいくらやったところで、何も起こらないと言うことが自分の中でハッキリしました。

 

Aさんに向かってやった時、2回で手を上げてくれた。
背中が一番きれいだったから選んだ。
指を指して「オイ」という時、自然と指先がAさんの首の赤丸に向かって真っ直ぐ伸びていた。
格好でやったのではなかった。

 

普段、私はどれだけ他人の為に話しているだろうか。
自分をよく見せたいが為に喋ってはいないだろうか。
「人に伝える」とは無関係な、自分勝手なことばかり喋ってはいないだろうか。

 

受け取る側に回った時、その場の空気によって声の通りが全然違う事を感じた。
全員でジャンケンをして盛り上がった時の空気は最高だった。
今まで自分はそういう場で、一歩引いたところが多かったので、その盛り上がりの一員として入ることが出来て楽しかった。
こんなに濃い強い人間関係は味わったことがない。
生物として、大事なところを忘れていたなと思う。

 

自分では静かに優しく歌っている「つもり」で、貰ったアドバイスは「死人やで」でした。
去年も同じことを言われました。
去年そんなダメを貰った時は、ただ落ち込むばかりだったのですが、今年は行ってもらえて「有り難い」と感じました。

 

 

日常、いかに怠惰で言葉を発していたか、また、相手が分かるだろうという前提で話していたかを体感しました。
仮に言葉の単語が聞こえたとしても、相手が自分と同じ理解をするとは限らないのに、その前提を飛ばしてただの記号のような単語を吐いていたのだと気付きました。
そのような癖が、エネルギーの温存にも繋がり、一生懸命伝えようとすることから、どんどん離れてきているような気もしました。

 

   
   
   

 

94回「武禅」一の行 平成27年7月18.19.20日

 

過去 93 回「武禅」をやっているし、この台風シーズンにも毎年開催してきた。
しかし、これほど直接的にややこしい事になったのは初めてである。
和歌山から田辺までの紀勢線が、土砂崩れの為に中断してしまったのだ。
前日の JR の説明では、途中代行バスを走らせる事で切り抜けると聞いた。
しかし、心配になり翌朝から電話を入れると、国道も寸断されているから無理だという。
どうして道路事情も確かめずに、客に情報を流すのか。これにはブチ切れた。
前日であれば、もう少し手の打ちようがあった。
早朝でバス会社も開いていない。
急遽寸断された地元のタクシーに問い合わせ、リムジンタクシーをチャーターし田辺までの足を確保した。
当然、帰る時も寸断されたままだ。
こちらも、地元の観光バスを手配し事なきを得た。
と、しょうもない愚痴を並べる今日此の頃です。

というバタバタの中で 2 時間遅れで「武禅」が始まった。
出だしの真剣向かい合いも、バタバタを引きずり何時もよりは、意識が散漫な人が多かった。
こればかりは仕方がない。
今回は、 20 代の若い人達も参加していたが、この頃の若い人の特徴である、説明的、つまり、自分に対して客観ではなく、自分のこととして受け取り、涙を流し 鼻水を流し必死で取り組んでいた。
こういう若い人は清々しい。
どんどんツッコミを入れるが、まずめげない。
これはかなり珍しいことだと思う。
自分の言葉を駆使するというのも珍しい。
その若い人が、自分よりも年上の人にプレッシャーをかけるのが頼もしかった。
事実、自分の問題として直球で取り組む若い人と、方法でワークを摺り抜けようとする姿勢の人とでは、完全にエネルギーの差や、自分への認識度、つまりは、他人との関係性の能力にも開きが出ている。

何時も思うのが、どうしてこうも毎回違う雰囲気になるのかだ。
今回は、初めての人が多く、少しざわついた感じになってはいたが、意識の高い人が多く、その中でも明確に自分の問題を見つけ、あるいは気付き、そこに向かい葛藤する姿が良かった。
物事をきちんと考える力がある、というのは、それこそ武器だと確信した。

また今回は、2名がひと声で自分の狙う人の手を上げさせている。
後半のセクションで10名ほどが、ピラミッド状で後ろ向きに座る。
そこに任意の人に狙いを定めて「オイ」と呼びかけ、任意の人が一人だけ手を挙げるまで、延々と続くものだ。
最近では余りないが、以前は一人で40分孤独と戦った人もいた。
10分15分はざらだ。
そのセクションで、たまにひと声で手が挙がる事がある。
今回はそれが二人もいた。
そこに共通しているのは、「この人」と直感が働き、「この人」しか目に入らない状態になり「オイ」と呼んだことだ。
だから当人が驚いている。
呼ばれた人も「私だ」と気付いたのであって、「私かな」と判断したのではないことだ。

重要なのは「意識を働かせない事が」という成功体験を持ったことである。
もう一つ共通点がある。
それは「武禅」の常連ではなく、まだ数回しか受講していない人達だ。
もちろん、常連の人達は、自分自身を色々と試しているので、単純に「一発で手が上がった」から凄いとか、実力がある、ということではない。
この直感で、ということを意識的に行えた、そしてそれは復元性が出来た、に限りなく近づくことが実力の目安である。
そんなドラマも起こり、全員に刺激を与えるのが「武禅」である。

 

 

人を呼ぶことが出来ない自分に気付きました。
何とかしようとして、声を大きくしたり、集中しようとしたが、自分が『おい』といっているだけで、自分の殻に入ってしまった~
ピラミッドの時、後ろから聞こえる声が 2 人のうちどちらが言っているのかさえ分からない事も多く、『自分では呼んでいるつもり』なのに、ただ自分の出来る範囲内で、必死っぽいことをやっているだけなのだ、ということを、自分の体験と人の声を聞く体験の両者を通して痛感した。
傷つきたくないとか、嫌われたくないとか、そういう枠から出られないまま、同じ枠の内でとどまろうとしていた~
日常で枠の中にいる自分に気付き、その枠からはみ出てみる。
次の『武禅』までに、その日常にチャレンジを続ける

 

ピラミッドで、全く声が届かず、 1 人取り残されて最後の一人になった時「もういいや」と、自分の持っているものを全部放り投げた時に、一発で成功しました。
その時に頭に浮かんだのは「君が探すべきものは愛ではない。愛を妨げているものを見つけるだけだ」という、昔の詩人ルーミーの言葉でした。
その瞬間涙が止まらなくなりました。
ただ持っているものを放せばいいんだ、と心から感じました。
しかし、喜んだのも束の間、次のワークで、前を歩く人に後ろから声をかけ、呼び止めるの稽古では、また自動的に「自分」に戻ってしまいました。
~~
「自分の中での」しょうもないもがきが続き煮詰まった時に、日野先生から「呼べや、呼ぶだけや!」という言葉を頂き、再びルーミーの言葉を思い出しました。
「そうだ、呼べばいいんだ!」と、ただ呼びました。
すると、相手の全身の輪郭がハッキリと見えてきて、相手の存在感が感じられ、ただ相手を呼びたくなり、気付いたら全身がビリビリしびれてきました。
涙と鼻水も出ていました。
相手も「今、来ている」と言ってくれました。
「相手を呼びたい」という感覚を「自分」が邪魔をしないよう呼び続けました。
とても得難い体験でした。
もっともっと生きようと感じました。


方法ややり方をいくら替えても、自分自身が届けたい意思がなければ、届くはずもなく、今の自分がそんな自分であるということ。
そしてその自分自身でいいのか?嫌なのか?という問題をきちんと自問自答していなかった。
自問自答していない自分は何なのか?と思いました。


最大の気付きは、日野先生から「言葉が漠然としている」との指摘であった。
ハッとさせられると同時に、「ああ、そうだ」と気付かされた。
漠然の目的は何か、その根本に有るのが私の本質的な問題と分かった。
人との関係では、一番大事な向い合いを避けているのか、逃げてきたという自己防衛本能の壁の厚さに気付かされた。
と同時に、自分の感じた事をストレートに出さず、抑えて「良い子」という役割をとってきた自分。
本音を即出さず、摩擦を避けてきた自分にも気付かされた。
さて、これをやめる為に壊す為に「武禅」に参加している私である。
挑戦し変えて行きたい!

 

自分なりに工夫するが、全く良くなる気配なし。
ペアの一人が良い感じになってくる。
自分と違うやり方だが、その方法が良いとは頭では思えず、我を通す。
改善の気配が無い為、ペアのやり方を真似てみる。
結果好評価。これまた自分一人では考えつかない方法だった為、それを見つける事が出来たことと、改めて自分否定の大切さを実感した。

 

根本的に感情が鈍感だということが、ハッキリと分かりました。
これまで自分がどれだけこころを閉ざして使ってこなかったのか、そのような状態で希薄な人間関係を作っていたと思うと、恐ろしさと寂しさを感じました。


昔から人前に出て話す時、人と挨拶をする時、人と話す時等で、自分が発する言葉がすごく記号のようで、全く前に飛んでいなくて、自分の回りだけで留まっているような違和感があったが、このワークをやって、改めて自分は人に届けることが全く出来ていなかったと気付いた。
届けたいという意思よりも、届かなかったらどうしよう、拒否されたら嫌だ、という不安が先立ち、記号のような言葉を話して来たのだと思った。


ようやく、今まで回を重ねた「武禅」で、自分が自分の事に一生懸命になっていたのだということが見えて来ました。
それは人を通し気付くのだと。いつもここでチラッと見えたり、聞けたりする。
何かが突然「バーン」とはっきりすることに驚かされます。
本当に私は「武禅」という場でしか気付けなかった事が山のように有り「人間って」という見方が全く変わってしまいました。



上肢と下肢のストレッチを、他者によって触れられて伸ばすという中で、先生を含めた 3 人の人にやって頂いて、こちら側の感じたことは、先生の手に「我」はなく、自分の身体が自然に延びた感じと、その後の爽快感。
他の二人の場合は、手に「我」が有り、こちらの身体が素直に伸びなくて、後の爽快感は無い。

 


物を見るような目で人を見る。
人にとって相手とは何なのだろうか?と考えさせられます。

 


相手のことを聞くにしても、ほぼ同じことを試してみた。
私の傾向は相手の話を聞く前に内面でブロックをかけることなので、なるべくそのことから注意をそらして、話す相手に集中するように練習したけど、聞くことと、目をこらして見ることを混同している。
「なまむぎ」は比較的何も考えずに、そのままやれるのだけど、歌となると、歌のイメージに自分の声をハメようとして、それが相手に全然届かない原因の一つだった。
歌の中に相手がいなくなると、カラオケの得点板の前で声を出している感じになった。
あと、先生のおっしゃった「目で聴く」ことは、煮詰まった状態から、具体的にどうして行こうかを試していく上で助かりました。
相手も歌っていると、目で聴くことがやりやすくなった。
相手の声と自分の声とを聞き分けるのに、意識がいくから、余計なことを考えずにいられたからかしらん、と思った。
目的はシンプルが良し。

 


今回、恐らく生まれて初めて、「目で聞く」という感覚が有るのだという体験させて頂きました。
実感の無いことなので、一寸どう言えば良いか分かりませんが、集中度、相手とくっついている様な楽しさ、そして、その中の静けさが有るような感じでした。
この精度が上がった時には、どんな事がもっと聞こえるのだろうか?といった楽しみが出来ました。

 

このセクションを通して、自分自身に疑問を持って生きているのではなく、自分以外の関係の無いことに疑問を持って生きているように感じました。
稽古ではお互いにアドバイスをしますが、相手のことではなく、全て自分に当てはまることだと気付かせてもらいました。

 


相手との距離が近づくと、相手が目の前にいるリアリティが増し、その距離感に合う、自分を届けようとする声や、相手に対するエネルギーが自然と出てくる様でした。
目の前の人を感じていました。

 


自分が思ってやっていることと、相手が感じていることは全然違うということが身に染みました。
しかし、ジャンケンで思い切り気持ちを出して、声を出して動いた後は、頭が働かず自然とスムーズに向かい合え、
質が上がったように思いました。
このことから、自意識が余計な邪魔をしているのだと分かってきました。

 


ワークをしながら Y さんに対して、ひどく駄目だしをした。
それはYさんと一年前の自分がダブったからだ。
だからこそ、駄目だしを精一杯した。
それがどう影響したかは分からないが、結果最後の最後に意思のある歌をうたわれた。
それがすごく印象に残った。
それはYさんが自分の意思で自分の枠から出たように見えたからだ。
自分の事に関しても、一年前のボロクソに言われた自分が、まさか今、こんな風になるとは思わなかった。
全く違う。
それは自分が自分に精一杯取り組むと決め、「変わる!」と決めたからだ。
ただ、そう決められたのは、先生が僕に向かい合ってくれ、多くの人が真剣に向かい合い、関わって頂いたからだ。
人は人との関係の中で変われる。
そして「変わろう」という意思を持てる。
それが何より、家族の関係、患者さんとの関係で大切な事だ。

 


2人組で前にいる相手を呼び止める。
呼ぶ。呼ぶと言うことを、全く今までしたことが無かった事に気付く。
生活の中で、気付いて貰えなかったことが、とても当たり前。
相手に無視されたとか、こっちを見ていないとかではなく、お互い様なんだと思うと、納得しかない。

 


 

手が触れられているだけで、あんなに力の入りが違うとは思わなかった。
触れられた瞬間に力が抜けていく時が確かにあって、嫌とかではなく気持ちが悪い感じ。
力を入れようとする気にならない。
一方触られた瞬間に、力を入れると思わなくても踏ん張れる。
根拠なく大丈夫だと思う感じ。
ただ触れるだけなのに、ただ触れるだけではないのだ。

 


ジャンケンの後の木刀での向かい合いは、より相手と向き合う事が出来ていたように思うので、
意識の切り替えもおそらくしていたのだと思います。
今取り組んでいることを必死でやる。
考えることよりも「今、何をしているのか」ということを自覚しているかどうか。
そしてそのことを必死でやれている自分なのかどうなのか。
日常では分からなかった事が「このこと」だと、このセクションで気付かせていただきました。

 

ふれることが出来なかったのはもちろんのことだが、その原因が何なのか、意識の上での手がかりは少し見えてきた気がする。
それをもっと追求していきたい。
その上で、他の人のフィードバックはありがたい。
そして身体は正直だ。
自分の相手に対する意志がボヤけている。
弱いと直ぐに分かる。
そこをどうするかだ。
意図的にならずに、相手と向き合う。
今はその事で頭が一杯。

 


今回特に感じた事は、あれこれ考える自分がいなくて、そのテーマに集中している事。
だから疲れない。
もちろん、「ナマムギ」を全力でやった後の頭痛は有るが、それは一時的な事で、全く気にならない。
この頭にゴチャゴチャ無く、集中している自分を知ることは、
1 回 1 回の「武禅」を無駄にしていないことからの変化だと思います。
まだまだレベルが低いので、次回までにエネルギーをもっと使わなければ、と思いました。

 

人に対して何らかの感情を持つこと、それを表現することが自分にとってタブーであって、どうしていいのか分からないように感じた。
その後、ジャンケンをした時、人に向かって何かを届けようということが、思考抜きに少し出来ていたように、後から思った。
自分の腹の中の思いを、全く無視、抑圧して、頭で考えて行動してきたことに気付く。
先生から感情が行動原理である事のお話を伺い、まずは自分の感情を出せるようになる為に、この 3 日間を過ごそうと思った。

 


ワークショップを通して、日常でもっともっと感情、エネルギーを使おうと意識していたのですが、日常生活に埋もれてしまっていたと思いました。

 

ピラミッド状に座り声を届ける。初めてなので、聞き逃してはいけないと、疑わしいものにも手を上げた。
自分の番となると届かない。
繰り返すが届かない。
感情がどんどん大きくなり、まとの幅は狭くなる。
エネルギーは凝縮される感じだ。
どんどんクリアになっていく。
そして届いた。
本当にスガスガしい気持ちだ。
声を受け取る側へ戻ると、今後は本当にバチッと来ないものには手を上げなくなった。
それが相手の為であると、理屈抜きで感じたからだ。
今日で3日目の色々なワークも、全て目的は同じように思われた。
「相手」に対して「自分の意志」で「関係する」その為には、相手をしっかり感じ、意志を言葉と共に伝える。
それをやる為に、「相手を感じる訓練」と、意志を放出するパイプの大掃除が急務である。


 

「ナマムギ」のデンジャラス版は、相手に向かって言っている人と、そうではなくて態度だけエセヤクザになっている人がいた。
同じ大声でも聞こえ方が違うので驚いた。

 

まず、人の腕に触れることが、とても不自然な動きになってしまった。
人の腕や身体にきちんと触れた事が無いことに気付く。
そして、腕を握って前の人を連れていく動きでは、腕の結合部分で S さんの手とずれている事に中々気づかず、先生のご指摘頂いた後、先生の腕を握らせて頂いたら、全く感触が違った。
これはきちんとブレずに握られていることと、先生が「主体的に」ついて行くことをされているからであると知り、「主体的に」関わるということをしたいと強く思う。

 


歌はすごく勉強になった。
というのも自分のやっていることと、他人からのフィードバックを重ね合わせてみると、自分の思い込みが具体的に見えてきた。
それから取り組み方を変えて、また再度やってみて、どう変わったかを調べてみる。

 

相手と向かい合って、後ろから「おい」と呼んだようにやってみろ、という指示では、相手から「オイ」と呼ばれた時、私はこんな気持の悪いことを同じように相手もやっていたのかと愕然としました。
向い合ってはいるけれど、私を通り越して完全に無視されていました。
後ろから前からの問題ではなく、相手に呼びかける事が全く出来ていないし、それをやろうともしていなかったと思います。

 


稽古が続いている途中で「今、何をしている」という問いかけに、何をしているんだろうと思う時がある。
変化をつけようとすること、言い方を変えようとしているところに意識が向きすぎてしまう。
伝わらなくて悔しい、という気持ちの前に、何で伝わらない、伝えられない、という方向に気持ちが向いて、悔しさのエネルギーの発動にストップがかかっている。

普段の生活でやっていた事が、まさにそうだと感じた。

 


ピラミッドでは、どの人にしようかを決める前に、皆の後ろに行った時は、スッとその人の首の赤い目印しか目に入らず、その目印にズームが行くように感じ、そのまま「オイ」と呼びかけていました。
一発でその人の手が上がったのでビックリしました。


皆で歌う時、「目で聴く」と聴こえ方が全く違うことに驚きました。
目は見るものだけと思っていましたがそうではありませんでした。
目→見る、耳→聴くではなく、「私が見る、聴く」で、部位でそれぞれの役割に分けるのではなく、自分の全身で見る、聴くなのだ!!と感じました。

 


腕に触られた時、触られているのかいないのか、とても気持ち悪かったです。
何をされているのかよく分からない状況は気持ち悪いです。
相手の人も触らないといけないけれど、「どうかな?こうかな?」と迷ったり考えたりで、触っていることをおざなりにしているのだと思いました。

 


二人で向かい合って、声を届けるですが、初めは聞く側でしたが、全く相手が自分に声を届けている、自分に言っている感じがしませんでした。
また、自分も届けられていないと言うことが分かり、考えてしまうと余計に違和感を感じさせてしまいました。


 

 

このセクションが終わった時、この 2 日間で初めて「クソー」と思った。
悔しいと思った。
今まで日常の様々な場面で、きっと無理だろうと思い、諦めてきた時には、持ったことの無かった思いを久し振りに感じた。

 


相手の顔を見ても、相手の背中を見ても、本当に相手のほんのほんのほんの一部分を情報として捉えているだけで、目の前の人の全身の中の目、全人生の結果としての目、というものは全く、0 % 、見ていない。
自分の見ているモノがどれほど、自分の頭の都合よく作られたものなのかがよく分かった。
そして、それがとてつもなく寂しかった。
俺の人生は何だったのか。
気持ち悪くて仕方がない。

 

何かをしようしようと思えば思うほど、逆方向に行きます。
ただ、それを行う事が何故出来ないのだろうと思います。

 

Yさんとの会話の中で、「ジャンケンの時と木刀の時と、身体の中のエネルギーのスイッチを消してしまったように、ハッキリ違う事が分かるね。
けれど大事な人には、きちんと向き合わないといけない。
スイッチは消してはいけない」と話をお互いすることが出来ました。
全く会ったことのない、数時間前に出会った方とこんな話が出来たことを嬉しく思いました。

 

私達の隣にいた 2 人組が、ただ「オイ」と叫び続けている。
それに対して「もっと、もっと」といっている事に、「何をやっているのだろう」と疑問を感じつつも、
それを口に出せませんでした。
言ってどう思われるのか、とか、やはり人に嫌われたくないからと、自分を抑える、怖がるのが強いです。
ずっとそう生きてきたことに気付きました。

 

Tさんと正面向い合いをして「オイ」と呼ぶ時、お互い真剣に向かい合うことで、自分の問題があること。
それが何かは今は分かりませんが、問題があるということに気付くことが出来ました。
あの時の感覚は、真剣でなければ気付くことの出来なかったものだと思います。

 

途中先生を相手にリードさせて頂く。
目の前に先生はいらっしゃるが、手の平から伝わる感覚では、目の前に人はいない。
つまり、全く抵抗を感じない。
絶句する。
余りにも自然すぎるのと、視覚と皮膚感覚の違いに、気持ち悪いくらいの凄さを感じる。

 

 

 

93回武禅一の行 平成27年3月20日~22日

 

93回目の「武禅」。
20年前「武禅」としてこの「関係性」のセミナーを起ち上げる前からのお付き合いをしている女性が久しぶりに受講した。
おかげで、「武禅」にふさわしい大きなドラマが生まれた。(さむらいなこころ

そのドラマに触発された人が、自らが「正面向い」が自然と出来るようになった。

「関係性」というエネルギーは、確実に人に伝播しこころを動かす。

その典型的な姿が今回生まれた。
何時も大なり小なりそういったドラマがあるが、今回のは格別だった。
同時に全体の雰囲気も、緊張感と爆笑とが適度に混ざり、素晴らしい空間になっていた。

「先生、これは私のことだったのですね」と、その久しぶりの女性が正面からの必死の向い合いの後、私にしみじみと言っていた。
それでこそ「関係性」なのだ。
他人に対して行っている行為を、自分に対していることだと思える素晴らしさ。
そういったことを、まるっきり分からない人もいるだろうが、今回はきっと全員に響いたことだろう。

また今回は、外科医を初め沢山の医療関係者が受講していた。
その意味では、毎回の「武禅」とは違った集中のされ方だったのだと思う。

自分自身の成長は自分では分からない。
しかし、他人からはよく見える。
「そうか、そんなに成長したのか、であれば俺だって、私だって」となるのだ。
その気持が一番大事だ。
だから、そういった切磋琢磨出来る仲間が人には必要なのだ。

しかし、一つのセクションが終わりレポートを書いている皆を見ていて、つくづく思うことがある。
この空間は異常だと。
小さな部屋に多くの人がいる。
しかも、年齢も職業もバラバラである。
その人達が一つの目的に集っている。
「関係を持てる自分になりたい・人として強くなりたい」と。
この空間は、皆が言うように、また感じているようにどこにもないだろう。
それは「武禅」そのものが、時代から時流からコマーシャルから離れているからだ。

ここには、どうすれば?という所謂How toは無い。
「ほんとの自分の言葉」「ほんとの自分が出来る関係」そして「ほんとに自分が生きる」を目指すからである。
何よりも、それを知識として知るのではなく、実践的に稽古をし、自分で獲得していく事だからだ。
その為には自分の持つ「固定観念」をぶち壊さなければ、自分のこころは外には出てこない。

自分のこころが外に出た時、ほんとの言葉もほんとの関係も、人間関係の全ては解決出来るからである。

 


 

3回「武禅」に参加した中で、もっともリアルに関係や向き合うを体感した「武禅」でした。
多くの大人が真剣に向き合い、笑い、取っ組み合いににも似たぶつかり合いをする。
その根底には色眼鏡無しで、本気で人を見、感じ、接する、そこから強さや賢さ、本当の知恵を身につけていく、があり、なんて豊かで幸せな時間であろうかと、感謝の気持ちで一杯です。

 

「どう生きたいのか、しっかり自分の心の中に聞いてみて」Sさんが、若い女性に伝えた言葉。
その言葉は、本人に跳ね返されていた。
けれど、その場にいた参加者には響いた。
普通考えれば、絶対に有り得ない。
たった1日前に出会った人に本気で、70代の女性がぶつかってくれることなど無い。
その場にいれて本当に良かった。
感謝の気持ちが自然に湧いて来ました。

 

今回で2度めの「武禅」でしたが、改めて本気の場で生まれるドラマに沢山感動させて貰えました。
一人一人の事が大切に見える場は、そうはないです。
先生も言っていましたが、自分を成長させるには他人の存在が絶対に必要。
~そもそも人と交流する大切さ、素晴らしさ、厳しさというものを、リアルに学ばせてくれるのが「武禅」だと感じました。

 

今回、初めての「武禅」に参加して、本気で向き合ってくれる人達と、時間を共有できてとても嬉しかったです。
人と関係したいという気持ちを忘れずに、日々の生活を大切にしていきます。

 

常連の女性が、初参加の女性に目を覚まさせようとする、必死な姿をみて涙が止まらなくなりました。
「人間てええな」って。
これを見せられて自分に変化が無かったら嘘だと思う。

 

70を過ぎた女性が、赤の他人の為に、本気で向かい合うなんて、僕の常識の中にも世間の常識の中にもない。
◯◯さんのようになりたい、生きたい。
そうじゃなきゃ嘘だ。
ならばこの常識を常識で守る事を止めないとスタートラインにも立てない。

 

70歳の女性の取っ組み合いには感動した。果たして私は他人に対して、あそこまで出来るのか。
自分は自分の為だけにしか生きていない事を痛感した。
自分の人生は毎日精一杯生きているつもりだけど、もっともっとやらないといけない。
一秒も無駄にせず、思い切り生きたい。

 

同じ組の人、2人のやりとりを見ていて、人に対して本気になっている70歳を超えた女性に感動しました。
僕は何をやっているんだ?何をしてきたんだ?と自問自答してしまいます。
もっと、もっと変わりたいです。

 

70歳、若い女性、その取組をみていて、自然に涙が出てしまった。
向き合う姿勢、そのエネルギーに反応していた。
人に対して、あそこまで真剣になれる、なることが出来る「武禅」という場に参加して良かったです。

 

エネルギーを出し切り、着ている衣を全部脱ぎ捨ててぶつかり合える時間、場所、「武禅」ここは素晴らしい。
問題を持ち込んでくれた人、それに正面からぶつかってくれた70歳に感謝、感謝。
こんなピュアな70歳がいるんだ!
ここに集う人達、凄い!!
また、こんなピュアを見せつけられて変われない人も凄い。
すべて勉強になった。
「武禅」ありがとう!

 

70歳の女性の姿にただ涙。
ただ涙しているだけで、自分は何をしているのか。皆、相手に対して、自分に対してエネルギーをぶつけてくれる。
受け取るばかりで省エネしている自分は何か。

 

最後のハーモニー、これもすごいハーモニーを奏でていた。
全てに感動ばかり。
ちゃんと聞く、ちゃんと声を発する。
そうすれば雑音じゃない。
ほんの少しずつ「武禅」から持ち帰るものが違っている事を実感している。
はっきりした言葉になるものはないが、「武禅」で同じ内容のお稽古をしても、もらった宿題を収納する引き出しの場所が違う。
すぐには答えが出ないが、とても大切なモノだから、少しづつ小出しにして、毎日浸かって大きく育てよう。
この種をちゃんと育てたら、大輪の花が咲く気がする。

 

「相手の合図で立つ」の時、先生に自分の手を持ってもらい、相手の合図に合わせて手を上げてもらいました。
自分が聞こうとしていた合図は遅すぎ、それよりももっともっと前の、物凄く微妙な合図を聞き取っていることに気付きました。
「立つ」という行動が津波だとしたら、その波が来る前の津波を知らせる一番最初の波をキャッチしなければいけない。
が、一番大きな波で何時も立とうとしていました。

 

最後の向かい合い。
皆との挨拶。
当然人によって異なるが、輝いた表情や姿が気持ちよかった。
自分の事ばかりに陥ってしまう自分の小ささと、そんな自分と向き合ってくれる仲間のありがたさ。

 

相手の方の意思が見えた時に、お互いに相手に届けたいと強く感じているのが分かり始める。
相手と自分が一緒になったような感覚。(これは、ピラミッドで声を届けるセクションの話です)
届いた時、お互いに本当に喜んだ。
嬉しさという感情がやっぱりこれだと思いました。
嬉しさを知る喜びを知る、これが出来たこと。
本当に相手がいることの大切さを教えて頂きました。

 

相手を無視した声の出し方発声は、相手に不快感を与えるだけ、と言うことが明確に分かった。
子育ての時、また、今までのダンスクラスの指導の時、この事が分かっていたら…、と思ってしまった。
しかし、この「武禅」に参加していなかったら、一生こんなことは知らなくて、一生を終えていたに違いない。
これからの人生に活かせていける。
幸せを実感している。

 

最後に全員で歌ったのは素晴らしかった。
こんな風に生きていること、お互いが関係仕合い、感動できる場は他にはないと思います。
今回は特に今までで一番深い感動を味わいました。

 

今回の武禅では、様々なドラマがあった。
70歳の女性の向き合う姿。
医療チームの急成長の姿。
カナダの人が言ってくださったアドバイスが気持ちを切り替えるキッカケになったりなど、それ以外にも私の知らないところで、色々なドラマがあったのだと思う。
この場に居られた事を本当に感謝したい。
そしてこの体験を必ず自分の成長の糧にする!強く思います。
ではなく、そう決めた!

 

木刀向い合いで、一人の男性に変化があった。
セクション1では、まるで岩みたいで、人間じゃない様に感じたが、人に見えるようになっていた。
この変化は何なのか?様子をみていると、感情の起伏がその人に有ることに気付いた。
やはり、理屈抜き、感情が動いた時に、人は変わるものかもしれない。

 

早口言葉合戦は、本当に苦しいくらい自分の中からエネルギーが出せた。
その苦しさに楽しみが交じっているのだから不思議だ。
本気の場でしか人は成長しない。
ナマムギを通してそんなことも改めて思った。

 

久々に「ナマムギ」を行った。
自分の体力があんなに有り、声があんなに出ることを久し振りに確認できた。
今までの生活で、どれだけ体力や色々なものを含めたエネルギーを使ってこなかったかを知ってしまった。
もっともっとエネルギーを出して行かないといけない。
死んだような顔をしては生きていたくない。

 

 

「輪になってのアイコンタクト」は、初めて来た時に全く動けず固まっていた事を思い出します。
目が合っただけで動くのではなく、きちんとコンタクトをとってから動こうとすると、相手によって違いがあって面白かったです。
ちゃんとコンタクトが取れて動けた事は無かったです。

 

ここはどこの細道じゃ、やっていると辛くなって頭も痛くなる。
遊ぼうと力を抜くと、力を抜いたのに体からエネルギーが湧いてきて、感じたことのない感覚で楽になった。
こちらが楽になると、相手に変化が起きて、良い相乗効果が起きた。
関係性そのものだった様に思う。

 

朝食後の話の中で、質問事項は自分の中にとどめておき、日々の行動を重ねる中で、自分の答えを見い出していき、決して人に答えを求めない。
という先生の話を聞き、以前から先生がおっしゃっていた事で、私も心がけていた事だったけれど、忘れてしまっていた。
ついつい、答えを直ぐに出そう、見つけよう、知りたいとしていたことに改めて気付いた。

 

頭をクリアにすることがどんな事だか、初めて少しだけ実感出来ました。
相手を感じると今まで思っていたのは違っていて、もっと相手の垣根を無くして一緒になる感じだと思いました。

 

相手に違和感を与える手をどうするか。
気持ち悪い手、持っていない手、意思の無い手等色々言われた。
患者さんを相手に、この手では駄目だ。

 

ピラミッドで椅子に座って声を掛けられる側にいる時は、実際に自分を基点にして左右、遠近、強弱がその都度違うことが感じられた。
自分に声を掛けられた時は、背中で感じたというよりも、全身に声が当たり響いた。

 

ピラミッドは座る時に、ココに居るように座ろうとしました。
そうしたら声が当たった時には自然に手が上がって、今まで当たったのが全部違っていたと分かりました。
とても嬉しかったです。
又、「オイ」の意志の無い人の声が、とても気持ち悪く、だんだん気分が悪く頭が痛くなってきました。
今まで、それも分からず、自分も他人にも不快な思いをさせて来たのだと思うとゾッとしました。

 

ずっと言われ続けている「届いた」か「届いていない」なのですが、その間のプロセスの中で教えられる事の凄さというか、生きるとはこういうことなのかと思われる事が多々あります。
稽古の捉え方の難しさ、取り組み方の難しさ、そしてその中身の深さ。
学んでは壊れ、壊れては学ぶ。
永遠に続く感じが、今、この中で有り、そして皆の中にそれぞれの何かが有り、それが縁として学び合える。
改めて「ありがとうございます」。


 

 

向い合いをした仲間からは「立っているだけ」「見ようとしている」「遠い」というジャッジが殆どで、動揺していた。
~やはり、相手に集中するよりも、自分に集中している自分が出ていた。

 

相手の歌の歌詞はよく理解できなかったり、自分が歌っている歌詞もよく分からなかったりしましたが、お互いに通じあっている感覚が会ったことが不思議でした。
一緒にワークした方と感想を交換したところ、その方もそのような感想を抱いたそうです。
相手と通じ合うというのは、歌詞の意味を理解しあうというところにもないのを体感しました。
みんなで通じ合うということも、言葉の意味を超えたところにあるものかなぁと思いました。

 

前回のセクションから、段々と「見え方」が変わってきた。
人がとてもクリアに見えて、不思議な感じです。
ようやくチャンネルが合ってきたような感覚です。
背後から相手が近づいて来る時は、本当に気持ちが悪かった。
他の組が肩を持たれているのを見ているだけで、寒気がしました。
自分勝手にやっているのは、寒気しかしませんでした。

 

2人が向かい合っている様子をみて、私は何かを感じているのに、それを発信して間違っていると思われたりするのが恐いと思う気持ちや、その様子をうまくコメントする言葉が、私には無いと思い込んでいるから、コメント出来ない自分がいたのでは、と思いました。
正面向い合いをした後コメントを色々頂きましたが、一番多く頂いたコメントは「遠くにいる・気持ちが向いていない」でした。
遠くにいるというコメントは、私は日常生活をおくっている際に、感じている気持ちでもあると思いだしました。
物や、人物が目の前にあったとしても、その物事・人物から距離をおいて、水槽の中にいるような気分です。
それは、物事・人物ときちんと関わるのが恐いと思っているから、遠くに自分を置きたいという気持ちの現われなのだと、改めて認識しました。

 

煮詰まって、追い詰められた時逃げる。
これが成長を妨げている大きな問題だ。
組んでいる人が大きなヒントをくれた。
自分勝手に走っている自分に、ちゃんと向き合ってくれる。
自意識過剰の自分になり、あげく逃げる。
やれないから明鏡塾や武禅に来、皆とともにレベルアップするのだろう。
何をしに来ているのか。何を気取っているのか。

 

「伝える気あるの?」私のはじめの態度は、その一言に尽きる。
そもそも声が小さい。
その声を大きくすると緊張する。
が、その緊張がスイッチになったようだ。
大きな声でやって見て、自分の声が小さく伝わる筈がないと気付いた。
何回もやってみる。すると今度は、相手を無視していると伝えられる。


「こんにちは」のぶつけ合いは、何も考えずに取り組めた。エネルギーを外に出すと言うことが、関わり合いの原点だとしたら、省エネですまそうとしている自分は何をしたいのだろうか?
もっともっと、相手と関われる自分になりたい。

 

身体に触れている時、また触れられている時に考えた事があります。
それは「何に触れているのか?」です。
単に言葉においての意識や単純に皮膚に触れているのではなく、「自分は何に触れているのか?」を実際に触れていることで感じ取ることを、ずっと考えています。
もちろん、実際に触れている時は、そんなことは考えませんが、後で「何に?」というのが疑問となっています。

 

自分の顔は直接見ることが出来ない。
しかし、他人は私の顔を何時も見ている。
自分の事は他人の方が知っているかもしれない。
そう思うと恐ろしい気がする。
自分が思う自分と、他人が思う自分は別人なのかも。
自分の表情は自分では分からないが、お稽古をしている中で他人の表情は一回づつ変わっていく。
これを見れるのがすごい!!
この「武禅」でしかできない。
素晴らしい。
一瞬で顔はこんなに変わるんだ。
1回も同じ表情はない。

 

 

今回は、AさんBさんCさんロシアさん他、初めを知っている男性が別人のようになっているのを目にして驚き、人がそのように変われる事を体験して嬉しかったです。
自分がそのようにならなくてはと思いました。

 

「こんにちは」で、自分の声が詰まっているのが、自分でも分かる。
何をしているのか。
今まで自分は何をしてきたのか。
患者さんになんという態度をとってきたのか。
何の関係性も持っていない自分が情けなく悔しい。

 

「とおりゃんせ」では、今までに感じた事のない感動があった。
例えるとしたら、普段は肉体で包まれている心臓を胸がパカっと開いて、ドクドクと動いているナマの心臓を手で掴んだ感じです。
それくらい相手のこころが開いて、普段は見えない部分や優しさを感じました。
2人の間がピタッとくっついて、違う次元にいました。
こんな感覚は初めてです。
とても嬉しかったです。

 

自分は伝える事も、聞くこともままならないというのが、よく分かった。
分かったが何をどうすれば出来るようになるのか分からない。
そして本当にわかっていないのか、気付いていないだけじゃないのかも。
周りをもっとよく見てやっていきます。

 

何時も感じる事ですが、木刀を持っての正面向い合いが、その前のセクションの流れで入った時が一番良くて、その後ああだのこうだのと話し合った後は、どんどん悪くなる。
自分の事を他人の意見で意識が元に戻る行動が見えました。

 

「ナマムギ」真正面からエネルギーをぶつけ合うことが、気持よかったです。
腹の底から声を出した事も初めてでした。
それを人にぶつける事は、今までなら怖くて出来ないです。
「武禅」の場だったからぶつけられました。
社会生活では逃げてばかりいたけれど、もっと本気で人に関わりたいです。

 

 

 

92回武禅レポート(2泊3日)

92回目の「武禅」は、行楽シーズンまっただ中だった。
バスも自動車も道路もここはどこ?というくらい満杯だった。
皆が乗ってくるバスも40分も遅れてしまった。

「武禅」は参加者によって変化する。
今回も「声を届ける」セクションで、新しい方法が思いついた。
もちろん、それが失敗に終わることもある。
その場合は即座に却下する。
「あかん、やめよ」
受講者は何度と無く道場で聞いたことだと思う。
しかし、その失敗の時に、深刻になっていただろうか?
決してそうはなっていなかった筈だ。
笑って次に行く。
それは人生も同じ、仕事も何もかも同じだ。
「失敗するのが怖い」という若者や、年配の人までいる。
それは「武禅」とて例外ではない。
というよりも、そうだから「武禅」を受講するのだ。
誰にでも話すように、私の人生は失敗の歴史でもある。
だから笑って次に進めるのだ。

もちろん、私が大した人間になっているというのではない。
それは皆が知っている通り、ただの大阪弁のガラの悪いおっさん、いやオジイだ。
しかし、そのただのオジイの身体の中には「出来るまでやる」だけしかない。
但し、「これはあかん」と思ったら、即座に方向を変える。
それの基準はリスクの大きさによる。
だからそれ以外の、単純な失敗は笑って次へだからだ。

1回限りの自分自身の人生だ。
社会や世間に振り回される事無く、自分の力で生きて欲しい。
そして、他人という自分以外の人を感じて欲しい。
ただそれだけで、関係は瞬時に築くことができる。
しかし、それがすこぶる難しい。
それは自分の頭が判断という邪魔をするからだ。
決して巷にある、話し方や笑顔の作り方、傾聴という方法ではそれは出来ない。
それらは全て自分の判断のシロモノだからだ。
そこを乗り越えていく為に、そこを乗り越えたい人の為にあるのが「武禅」だ。


今回は初めての参加者が半数以上いた。
どうなるのかな、という心配をよそに粛々とセクションは進んでいった。
珍しく極めて素直な感性の受講者もいた。
常連の一人は、直ぐにそのことに気付き「彼は良いですね」と私に話しかけた。
そういう具合に、人を感じ取る能力が長けてくるのが「武禅」の成果の一つでもある。
決して判断ではなく感性でである。
その彼は、セクションを追う毎に、自分に気付き、また組んでいる相手を感じていった。
行を終えた後の写真では、精悍な顔つきになっていた。
女性も、どんどん変化していく。
セクションの中で涙し、悔しがり、喜び、という正しくこころに響いていったのだ。
この葛藤が人を成長させるのであって、冷静な判断が成長させるのではない。
それは単に知識や理解を増やしたに過ぎない。
大事なのは、こころが成長することにあるのだ。
その意味で、今回の「武禅」は久方ぶりに、そういった大きな変化が見られた行会だった。

 


 


自分がいかに、自分の頭にとらわれて生きてきたかが分かりました。
そしてその考えにはまるかが分かりました。


最後のセクションで、自分が静かになっている、お互いが静かになったのが不思議でした。
ずっと向かい合いたかったです。
セクション8での気付きと、声を届けてもらったドキドキ感と、ひとに向かい合ってもらったうれしさに、感情が高ぶりました。
皆から沢山いただきました。
うれしいと感謝の気持ちが一杯です。
最後に写真を撮る時の静かな感じが、とても印象的で、とてもきれいだと感じました。


「武禅」に来る前は3日間は長いな、と思っていたが、終わってみるとあっと言う間。
もっと長くこの場を共有しておきたいと思った。
日常生活でこんな感情になる事はそうあるものではない。
私の問題点がはっきりと見つかった。
それは私一人で見つけたのではなく「武禅」の仲間かがいてくれたから見つかったのだ。
生きてきて一番駄目出しを貰った。
でも、素直にその駄目出しを受け入れることが出来た。
今日帰ってから、人と関わる、自分から他人と向き合う。


最後の向かい合いでは、最初の向い合いとは全く違った感覚が有りました。
この3日間みなさんに向かい合って頂いたり、駄目出しをもらったりして、自分なりに少しでも前進できたんだと嬉しい思いです。


最後の全員挨拶する時が、一番の向かい合いが出来た気がします。
木刀での向かい合いでは、目的(意志の動き)がないから伝わらないと言われましたが、最後の挨拶が向かい合えたのは、ちゃんとお礼を言いたい、という目的があったからだと思います。


今回の「武禅」では何か変わったように感じる。
何よりも「他人がいないと成長できない」の実際を少しでも感じ取れたことが嬉しい。
ほんとうに、他人が成長させてくれるのだ。
それをもっと拾いに行きたい。
執念深くありたい。


最後のセクションで、向い合いは言葉の無い会話をしているようで、お互いに嬉しくなったり、名残り惜しさに悲しくもなった。
正直、初日はメンバーの一体感を余り感じられなかったのだが、最終日、今皆が一つに感じる。
今回のメンバーに出会えて良かったと思う。

 

 

 

 

 

5人並んで木刀を構えている、そこを順番に回るワークは、進んでいく毎にコメントが代わりました。
最初は「見ていない・遠くにいる・壁がある」と言われました。
それは自分でも気付いていたことでした。
自分は一体どこにいるんだー!という感じでした。
最後の方で、一番嬉しかったのは「人を見る時ジャッジしているって言ってたけど、ジャッジされている感じはしなかった」と言われた事です。


自分が相手に対して「余り何も感じません」としか言えなかったことが悔しかった。
相手がどうこうではなく、自分が感じようとしていないだけだ。
一人の女性が向かい合っている最中に吹き出した。
どうしたのか、と聞くと「なんだかナルシストな感じがして」と教えてくれた。
自意識過剰な自分の事を見透かされて恥ずかしくなったが、その言葉のおかげで何かが吹っ切れた。
それまで、相手を見ているようで、自分がどう見られているのかを想像していただけだった。
だが、そうではなく相手のありのままに集中できるようになった。
そこからは相手への興味が一気に加速し、木刀を向けられているのに思わず笑みが零れそうだった。
相手を知りたくてワクワクしている感じが、心地よかった。


自分の中にあるものは、自分で出さないと相手には分からないし、何も伝わりません。
人には、自分を知って欲しいと望むくせに、それを分かって欲しいとただ思うだけで、何も自分はしていませんでした。
そして、相手を受け取る。
受け取ろうともしていない自分に気付きました。
私はただ何もせず、相手に分かって欲しいと思う人間だと思いました。


これだけ大きな声をだしたのは、初めてかもしれません。
いかに普段、エネルギーを出さずに生きてきたのか思い知りました。
話をしても、聞く方に回っても「上手く伝えよう」とか「ちゃんと聞こう」という意識が働き、自分中心の世界になっています。
ここでも少しパニックです。
これまでこんな風に人と関わってきたのか?と思うと、情けなく恐ろしいことでもあります。


大きな声を出していると、その分エネルギーを出しているつもりになっていたのだと、思い知らされました。
率直にダメ出しをもらい感謝しています。
けど、かなり落ち込んでいます。


自分の部屋で先生のサイトやブログを読んで、少しは分かったつもりになっていたけど、まだまだ、自分が出来ないことを認めていなかったんだと気付いた。
時間はあっという間に過ぎてしまう。
常連の方達は色々な風に取り組んでいるのを見て、自分は努力をちっともしていないのだと、このセクションの終わりでようやく気付いた。

 

 
   

声を届けようとしても、何か置物に話しかけている感じがする。
さらに聞いている、受け取っているというフリだけはしっかりされる。
自分自身を見ているようでもあり、今までの人生で自分が真剣に向き合おうとしてくれた人達は、こんな気持だったかと思うと、申し訳ない気持ちになった。
と同時に、届ける力がまだまだ弱かった事も教えて貰った。
先ほどの相手の方も、先生がやればしっかりと届く。
強い気持ちで向き合ってくれた人に、支えられてきたんだと思った。


グループのメンバーの女性の変化が嬉しかった。
最初は出来ないことを言い訳していたが、時間が経つに連れてどんどん変わっていった。
出来ないことが出来るようになったのではなく、気持ちが変わった。
それを見ていると嬉しかった。私も変化する。


自分がやっている姿をビデオで見せて貰った時に「死人みたいやで」と言われている意味が分かりました。
確かにやる気のない人が、何か言っている、そんな自分が画面の中にいたんです。
それを見たからと言って、直ぐに変えられるものでもないのですが、少しでも前進できるようにしたいです。


自分の話している動画を見た時は、正直気持ち悪かった。
今までこんな風に人と話していたのか?と思うと怖いし情けない。


動画に写った私は、“なまむぎ”を一生懸命に言う、だけでした。自分の中には何もない、けど、“なまむぎ”を言うワークだから、それを言うだけ。
動画の私は嘘っぽく気持ち悪い変な奴でした。


「姿勢を正してみたら?」というアドバイスをもらい、姿勢を正してみたら、今までとは違った感じがしました。
この時大事だなと思ったのは「姿勢が悪かった」ということよりも、自分以外の人の意見を素直に聞いて、やってみるということでした。
自分自身のだけの考えで「あ~しよう、こ~しよう」では絶対に経験出来ない事だったと思います。
実生活でも他人がアドバイスをしてくれている事は多々ありますが、今の稽古のように素直に聞くということはしていませんでした。
それが出来たのは昨日ダメ出しをしてくれた方々や、この「武禅」の場のおかげだと思います。
これをキッカケに、実生活でも他人のアドバイスを大切にしていきたいと思います。

 

 

 

私が勝手に一人で照れるのはいい。
勝手に恥ずかしがってろ!だけど、これらの取り組みは他の人と一緒にやっている。
私が照れて本気で取り組まないと、一緒にやる人の練習時間を無駄にすることになる。
まじめに誠実にセクションに取り組んでいる参加者の方達を見ていると、幼い自分が本当の意味で恥ずかしい。
皆真剣に考えて「こうじゃない・こうやってみたら」と工夫をしている。
そういう人達の姿を見るのも、生まれて初めてだ。
良い刺激になる。

 

先生は以前「全部同じことをやってんねん」と言っていたけど、そのことをちゃんと聞いていなかった。
言葉だけ読んで“そうなんだ”と理解しただけでだった。
ナマムギも歌も余計なことを考えなければ相手と向かい合える。
合唱も同じ。
なのに結局自分は『日常で相手を打ち負かす為の技』が欲しかったんだと思った。
そんなもの無くっても、それぞれに向かい合えば良いだけだ。


ナマムギ合戦、とにかく楽しかったです。
エネルギーのぶつけあい、本当のやりとり、言葉なんて“なまむぎ”でも十分じゃないかと感じるくらい、皆が光っていました。
その場全体がクリアになるので、涙が出るくらい大声で笑いました。
相手にぶつかって初めて出てくる素直な自分をようやく感じることが出来ました。
まだ糸口をつかんでいませんが、この感覚を獲得したいです!


若い女性に声の出し方についてのアドバイスをしたら、とても喜んでくれて、以前の自分のようです。
実はアドバイスをした私の方がその事で勉強しています。
先生がおっしゃるように、人は一人では成長できない、という事がよく分かりました。


皆を聞きながら歌を歌う。聞いているだけで楽しい。
何だか聞きたかった音楽、理想の音楽のかたちを見た気がする。
最後の方は自分の声じゃないような声が勝手に出てくるし、皆が別の歌を歌いあっている筈なのに気持ち悪くないどころか心地良い。
「これが聞くということや!」その心地良いことをしないように生きている。
何という馬鹿か。


最後の全員で同時に違う歌を歌った時は、すごく心地よかった。
感じる事が出来た。
もっと長く歌っていたかった。
もう後半日……あっという間だ。
もっと長くやりたい。


同時に歌を届けるワークで再びドツボにはまった。
相手に届かない、ぶつかる、グループのメンバーが色々とやり方を変えてくれたりして、3人で肩を触りながら歌うことになった。
歌い初めてしばらくすると、すごく一体化することができ、涙がでそうになった。


他のグループに入り一緒にやらせて貰った。
その時に、とにかく“聞く”ということに集中する。
すると出ないと思っていた声が出ることにビックリした。歌っているうちに、どんどん一体感が増してくる。
全体がうねり個々が有機的に繋がっている。
聞くという事に集中する事によって、自分の余計な頭の働きが無くなったようだ。
“聞く”ということの凄さを見た。


最初に後ろから「オイ」と呼ばれた時、自分も聞こうとして前を歩いているけど、日常の場合、私はきっと呼ばれても素通りしてしまうだろうと思いました。
同時に、今までの人生で自分は誰かに明確に呼ばれた事が無いことに気付きました。


後ろから「オイ」ではA女性と組んだ。
A女性に声を届かなかった。
それをまどろっこしく感じたのか、A女性が涙した時を忘れられない。

 

 

 

相手が歩いている時、ここと思うところで声をかけると止まる。
相手にどのような感じだったと聞いたら、やはりそこしか無いという感じで。
背筋がゾクゾク来て、楽しさが湧き上がってきたと言ってくれた。
不思議だ。
この感覚を離したくない。
これが何だか分からないが、宝物みたいで取られたくない。
盗られたくないが、それを盗るのが他でもない自分自身だから苦しい。


先ほどのワークで自分の顔をスマホで撮ったのを見て、怖い顔だったので柔らかい表情が出るようにしたら少しマシになったと言われ、自分では「ホンマかいな?」という感じです。
自分が感じている事と、相手に与えている印象の違いの大きさに驚きです。


今更ながら、パートナーが変わると、相手の反応もこちらの意識も全然違うことに気付いた。
こちらに意識を向けている人、向けていない人の違いも分かるようになってきた。
アンテナが立ち始めたようだ。


“指パッチン”から相手を誘導するワークの時、常連の方々のワークの楽しみ方がとても素敵で、自分達が楽しんでいるというより、場を盛り上げる様にしているのが印象的でした。
私も少しでも、自分のことだけでなく、周りの為にそういう事が出来るようにしたいと思いました。



「武禅」に来て本当に良かったです。
とても感動しました。日野先生をはじめ、真剣に取り組む参加者の人達は「出来ない人」を小馬鹿にして決して笑わないということが分かりました。
私が暮らす日常の人々は、人の失敗をバカにして嫌味に笑う人ばかりです。
それは、耐えられないくらいひどい、醜い事で、だから私は絶対に恥をかきたくなかった。
でもここに来ている人は誰一人、人を小馬鹿にして笑いません。
出来ない人をのけものにしません。
出来ないことに取り組んで失敗しても絶対に。
憧れの姿がそこにありました。
私は真剣に生きる人達の中で生きたいです!

 

91回武禅レポート(2泊3日)

91回目の「武禅」の幕開けは、雷を伴った土砂降りの雨だった。
全員傘の用意がなかったので、びしょ濡れになった。
「そんな事も有るよ」
しかし、この荒れた天気は荒れる「武禅」を予見しているのか。

こころが振るえるとは、確かに巷にはゴロゴロ転がっている言葉だ。
だが、子供の感性がこころを振るわせても意味が無い。
大の大人だからこそ意味があるのだ。
「声を届ける」のセクションで、それは起こった。
声を届けられた初体験の人が振るわせた。
また、逆に相手を完全に受け取った時、声を届けた人のこころが振るえた。
もちろん、そんなことは毎回起こっているが、今回は顕著に見えたのだ。
良い意味で、荒れた「武禅」には違いなかった。

また、今回はセクションの中で、姿を撮影し客観的に自分の姿を見るを取り入れた。
もちろん、誰でもある程度は、自分の姿を客観的に評価出来るが、「武禅」のカリキュラムが進行した中で、つまり、お互いに向かい合い、真剣に印象を突っ込み合っている、という時間を経過しての自己評価だから、余計に自分の姿に愕然としていた。

誰でも自分を正当には評価しない。
多少の甘さがあり評価しているのが、写真という客観的な視点を取り入れる事で、その「甘さ」を皆が実感した。
一人が「鏡で自分を見るのとは違いますね」と言うので「鏡は自分の見たい事、見たいところしか見ない。
だから、鏡で自分を客観的に検証するのは、一寸難しいよ」と答えた。

今回の参加者の一人は、「自分は好き嫌いで、人を判断しているところがあるから、それを克服したいと言うのが、今回の目的です。だから苦手な人とも積極的に組んでいきます」と言っていた。
行が終わった時、「あれっ?苦手じゃなくなっている。『正面からの向かい合い』を続けていると、消えてしまってました」と自分の変化に驚いていた。
そういう嬉しい報告は、こちらも嬉しくなる。

それぞれが、それぞれの目的を持ち集う「武禅」。
それぞれの持つ目的だが、最高級何度の「関係性」というところで共通する。
それが仲間意識を形成する。
仲間意識とは、独立した人間だけが持てる価値の高い意識のことである。

 


「ナマムギ合戦」でエネルギーのぶつけ合いをした後、とても身体も気持ちも心地よく、日常省エネで生きているという事がハッキリした。
目の前にいる方がしっかりと見え、本当に声を届ける事だけが出来たこと、自然と声が出ていた事に気付きました。

 

自己紹介をした時、「何を言っているか、全く分からない」と言われ、今迄の人生で出会った人達に、何も伝わっていなかったんだと気付かされ、非常に申し訳ない気持ちになった。と同時に、こんな自己紹介しかしてこなかった自分が恥ずかしくなった。

 

「武禅」に来てから、ズーッと「正面向かい合い」が苦手で、今も変わらず、そして何時も四苦八苦して取り組んでいますが、ほんと向かい合っている時だけが、気持ち良い時間です。
その向かい合っている時というのが、武道では、次のどんな変化にも対応出来る状態だと言う事が分かってきました。
親との関係、家族との関係も、正面向かい合いしかないんやと、改めて今回教わりました。

 

人は人からしか学べないこと、人は人の影響を既に受けていること、身体の大切さ。
…様々なことの学びの中で、先入観を持って人を観ている自分がどうでも良い事なのだと思いました。
好き嫌いなどといった感情は持ったとしても、その感情が自分に重要なのではなく、人と向き合う事の方が大切だと、今回の「武禅」で皆様から教えて頂きました。

 

対人恐怖感を無くせればと、数十年前から思って色々なカウンセラーや、セラピストに通ったが、それは実際に人と関わることでしか克服出来ないということを実感した。
仮にセラピー等で対人恐怖感が消えてもあまり意味がないし、かえって有害である事が分かった。

 

人にはエネルギーのある人と無い人がいて、自分はエネルギーが人よりも無く、それは生まれつきのもので仕方が無いと思っていた。もちろん、それもあるかも知れないが、この稽古(ナマムギ合戦)のように普段以上のエネルギーが出せるということは、普段、目的や目標が明確ではなく漠然としているから、エネルギーが出せないのではないか?

 

自分が届けたい相手以外の人も手を上げた時の気持ちは、何かセールスをしてことわられた様な「あっ、売れたと思った瞬間があり、結果的に断られた様な」そんな感情が起こった様に感じました。
そのすぐ後、頭をクリヤーにして次のターゲットへ。
感情の中に起こる純粋な喜びは、本当の意味での快感で、その体験が無意識下で「人とかかわりたい」という気持ちにさせる。

 

一度目に先生が受け取り側をして頂いた時、嬉しくてこころが震える感じがして、思わず涙が出てしまいましたが、2回目はもっと届けようとしたのですが、まだまだ自分が省エネだと感じました。

 

「どうぞ」は出来ていると言われても疑心暗鬼になってしまい、自分が反対の立場の時に、自分の感情も疑ってしまいます。
このような体験は、感じたことを一生懸命伝えてくれる仲間がいてこそです。
他人がいなければ自分の中を深く感じたり、探ったりする事もできません。他人の有り難みを改めて感じます。

 

元の3人組に戻っての「正面向かい合い」では、力の抜けた何も考えられない状態で行ったのですが、今迄の中で一番良いと言われたことは、とても意外でした。

 

自己紹介の度に駄目だしをもらう。
このジャッジは、やっぱり「武禅」にこないと日常では誰もしてくれない。
だから、通うしか無いのかもしれない。

 

日常、自分が省エネで生きているから、見えるものを見えなくさせていたのだと思います。
自分が今迄何を見て、何を見てこなかったのか?疑問に思いました。
自分が関わっている人に対し、もっと積極的に向き合っていきたいと思いました。

 

最後の「こんにちは」を届けるところで、皆の表情や声がまるで別人のように変わっている事に気付いた。
中には、一日目二日目と、ひたすら煮詰まっていた仲間もいて、その変わった姿を見ていると、たまらなく嬉しくなった。
何だか分からないが、嬉しくてならなかった。

 

先生が「聴く」ことを、私を相手に見せて下さった。
柔らかい真綿にくるみこまれているようであり、そのまま受け入れて下さる。
安心感で何を話してもOKという感じになり、自分と先生の境界線はない。表情もとても穏やか。私もこのように人の話が聴ける様になりたい。

 

自分が声かけをする番になり、この3日間の中で一番切実な思いで声を出しました。
他のセッションでは「伝えたい」という思いが湧いてくる事が少なく、どうしたものか…と思っていましたが、人との関わりを深く求めて来なかった事が積み重なり、人との関わりたいという気持ちが、沈み込んでいたのかも知れません。
拒絶されるのか怖くて、自分が傷つきたくなくて、人との関わりを持とうとしなかったこともあります。
この押さえ込んでいること自体が、自分自身を傷付け、大きなストレスを自分にも他人にも与えて来たのでしょう。
「武禅」でオープンに受け入れてくれる仲間達が、私との稽古で苦しそうにしている姿を、幾度も見せて下さったことで、「自分は変わりたい」と切実に思いました。

 

長年臨床心理士として、相談者に向き合い、声が届いていると思っていたが、それは自分だけの思い込みだったと突きつけられ、これは改善しないと、人としてもプロとしても成長しないと痛感したので、本気を出して生き、向かい合い、声を届けて行きたいと切に願い、今その為には何が出来るかを考え、実行していきたい。

 

三人組で写真、動画を撮りながらの自己紹介。
自分の姿を見た。
余りにもひどい。
ベースがこんな状態で稽古で出来た出来ないとか、バカらしい。
話すフリをしているだけ、聞くフリをしているだけ、空のうなずき。
相手の人をバカにしているとしか思えない。
空っぽの声、全部自分一人でやっているだけ。
だからこそ、こうして自分の嘘くささを具体的に客観的に捉えていく必要がある。

 

自己紹介を静止画や動画で撮影して、自分の姿を確認してみた。
画像として自分の姿を見てみると、真剣に聞いているフリ、緊張の面持ちで自分の前の人に伝えきれていない等の様子が見て取れた。
思ったような自分とは、かけ離れた自分だから、人は自分が思う様には受け取ってはくれないという、当たり前のことを今更ながら気付かされた。

 

今回の「武禅」では、同じ方ばかりではなく、色んな方と組んで稽古をしています。
それは休憩時間の時の先生のお話であった事ですが、日常で相手を好き、嫌い、苦手などといった感情を優先し、他人の事を先入観のある目で見て接している自分を何とかしたい、と思ったからです。
他人は自分と同じではない。当たり前のことですが、当たり前だと思っていない自分を少しでも克服したかったからです。
結果、正面向かい合いをする程に、苦手な人だと思っていた人に対して、一切そんな気持ちが湧いて来なくなっていました。

 

そして始まった自己紹介。
今回は携帯を使って自分の姿を撮影。
自分が相手の自己紹介を聞いている様子を撮影したのを見ると、余りにも聞いていない。
本当に正面には相手がいるのかと思った。
そして表情は硬い、仏頂面だった。
自分の自己紹介は、何か一人で話しているという印象。
先生が自分の正面に座って下さった。
座られた瞬間嬉しかった。
自分から思わず言葉が出て来た。
撮影したものを見ても、自分の表情がまるで違った。
先生のように、こんな風にならないといけない。

 

自分勝手に突っ立っているだけで、相手との関係性が持てないでいる自分。
息苦しくなり、頭痛迄してきてしまいました(緊張のせいでしょう)。
以前の「武禅」から10年近く経つというのに私はこの間、成長していない!?
少しは成長したと思って今回やってきた自分が笑えます。

 

自己紹介や「こんにちは」を写真や動画で撮影することで、客観的に自分を見たのだが、イメージしていた自分の姿ではなかっただけに、愕然とした。
こんな顔つき、こんな姿勢で言ったり聞いたりしていたのか…。
ある意味興味深い検証だった。

 

いざ改まって自己紹介をしようとすると、失敗してはいけない、自分を良く見せたいという意識が働いて、余計に何も伝わらないという事が、自己紹介をされる側に回った時によく感じられた。

 

Aさんとペアになった。
終わった後、先生が私の代わりに聴き役をやり、その後再度聴き役をやった。
Aさんは先生に聴いて貰った時は、感動し思わず涙を流し、私が聴いた時は、悲しく寂しくなると言われ、最終的には気持ち悪いと言われた。

 

人の前に立つと緊張してしまう、構えてしまうということは、日常の中でも度々有る事に気付いていましたが、今日の練習ではそれがクローズアップされたように思います。

 

「自分の在り方に責任を持つ」今回の武禅を終えて、まずこの様に感じた。
例えば日々の生活の中で、言葉を介して人に影響を与え合う場面が多々有る。
私なら患者さんに対して症状の説明や養生指導といった場面だ。
話しての在り方を通じて、他者の身体は緩んだりストレス状態を与え合っている。
当然、一緒にいて心地よい人の言葉が受け入れやすいだろう。
理屈抜きで他者を心地よくさせられるような在り方でいられる自分作りを目指して行こう!

 

自己紹介の時に初参加のAさんと組んだ。
完全にドツボにはまった。
Aさんはずっと笑って誤摩化していた。
それを見て気がついたので本人に「誤摩化さないで」と伝えると、最初は気をつけているようだった。
しかし、しばらくすると又笑って誤摩化していた。
そんなAさんに対して、自分は何も出来なかった。
内心では腹立たしく思っていたのに、本人に本心でぶつかる事ができなかった。
それが相手に対して一生懸命ぶつかっていない証明だ。

 

挨拶をやるが、受け取り側が悪すぎて全く稽古にならないので、とにかく受けに重点を置いて稽古をした。
普通の人が持っている「聞く」のイメージと武禅の「聞く」が全く違うので、中々ピンとこない。
ただ、ボーッと聞いてしまう。とりあえず形から入って、動きを大きくして流れを感じる様にした。
それだけでも言う人の声が大分変わった。
先生の受けの見本では、言う人がとても言いやすそうで、表情も変わり、声ものびてきれいになる。
人によっては、同じ人と思えない程変わる。
日常では、人への気遣いも含めて、受けが本当に重要だ。

 

子供の頃には、大人の嘘くささが見えていた筈なのに、何故その目が見えなくなってしまったのかと思う。
何故自分にそれを当てはめないのか、当てはめて来なかったのか。
結局、人と関わろうとせず楽をして来た、の一点に尽きる。
それでいて、口先では人と関わりたいとか言っている。
利益だけ得たい、利己主義者だ。

 

自分の曖昧な言動や、自分勝手な態度が今迄どれだけの多くの人達にストレスを与えていたのかと思うだけで、申し訳ない気持ちで一杯だ。
気付いた時が「今」、「今」このしゅんかんから全てに対して、覚悟を決めて一つ一つ丁寧に真剣に生きることを宣言する。

 

 

90回武禅レポート(2泊3日)

今回は 1/4 が女性だった。
平均的というか、前回が偶然女性の参加者が多かったのだ。

今回は、そんな男女比だったが、前回よりも「なまむぎ合戦」は盛り上がった。
その分、日頃の自分とは違う自分を発見したり、本当はこうだった、という自分を発見したりが多かった。
何れにしても、自分の持つエネルギーを、他人に直接ぶつけるのは楽しいものだ。
日常では、喧嘩くらいしか無い。
その喧嘩も殆どの人は体験が無い。
だから、他人に直接自分のエネルギー、つまり「意思」をぶつけるということはしていない。
当然、省エネ生活、省エネ人生だ。
そのくせ知識だけは、持っているし、意識が肥大化し、頭を納得させることに時間を費やしている。
意識は、直接的な人との関わりが無くても、納得する。
つまり、「出来た気になる」のが意識だ。
もちろん、それと実際の人との関りは、全く異なる。
現実は、自分の思い描いたような反応や、思い描いた自分を見てはくれないということだ。
そういった、引き篭もった自分では、残念ながら「意思」は相手には届かないし、受け取ることも出来ない。
しかし「出来た気になる」ことは出来る。
そういった自分にどれだけ気付くか。
そしてそこを突っ込めるか。
それが「武禅」だ。
しかし、武禅をお稽古だと勘違いしている人もいる。
お稽古が出来た、出来ない、と一喜一憂する幼い姿もあった。

今回は、 6.7 年前まで参加していた人、 10 年前まで参加していた人、初めての人、ずっと続いて来ている人等、新旧取り混ぜての行会だった。
その意味では、初めての人も行に馴染みやすかったようだ。
厳しい中にも大笑い有りの、かなり密度の濃い時間を持てた。

 

自分の人生の中で、自分が成長する為には、他人にこんなに支えられている事を実感させてもらった経験はないと思います。
又、自分は全て相手に反映している事も実感しました。
こんな経験が出来るのは、ここしかない!!
皆さんありがとうございました!!

 

「なまむぎ合戦」は、過去の武禅では経験した事のない盛り上がりだった。
以前参加されたことのある方、毎回来ている方、初めての方等、それぞれの起こす化学反応のようなものが、全員のテンションを一気に上げたようで、一つになった気がした。
最高だった。
2 泊 3 日で「変わりたい」「何か掴みたい」という気持ちが多くの人に見られ感動した。

 

みんなの前に立った H さんは本当にきれいだった。
Y さん、凄いな!
今回の女性はみんな素晴らしい。
うじうじしている男は引っ張られっぱなしだ。
ビシッとした男になろう。

確実 ピラミッドで I さんの番の時、真っ直ぐに私に届けて貰えた事が、安心感というのか嬉しく感じ、思わず表情が弛んだ。

 

肩を掴む、触れるは、全員気持ちが悪い。
ふれられる事に集中し意識を向けると、こうまで嫌なものかと、普段何気なくやられ、やっている行為なのでショックでした。

 

皆さん初日とは 日野先生に触られた方の表情を見ると、自然ととても心地良さげだったので、体を通して心にも触れている印象を受けた。
治療家として、少しでも先生に近い触れ方を目指したい。

 

「なまむぎ合戦」の威力は凄かったです。
限界だと思っていた以上のエネルギー吐き出した後、皆さん凄かったです。
正面向かい合いがとてもやり易くなり、以前とは別人のようになりました。
普段からこの感じで生きていれば最高だと思います。


身体のレッスンの脇の伸びからの弛みの動きで「意識のつながり」の大切さを知った。
また股関節に乗ってねじる動きも目から鱗状態だった。
5 番ポジションも足先からの繋がりで、自然に胸骨も引きあがるきれいな形になるのも感動した。

 

「おい」では、 6.7 年前に先生から頂いたアドバイスの意味が初めて「あ、こういうことだったのか」という事が分かった。
過去の「武禅」では浮かんでこなかった皆の変化、やっていること、アドバイス、そういったことが「ああそうなんだな」と感じたのは、恥ずかしながら初めてでした。
前は、武禅のお稽古をしに来ていただけなのだ。
そんな事に、気付けたのが嬉しかった。


人の身体に触る仕事をされている方は、触り方が弱く感じた。
一見優しいような気がするけれども、安心感がまるで無かった。

 

うたを相手に届ける時に、まず相手とのものを感覚できない自分がいた。
それは「うたをうたう」という事、そのものに自意識が働いている為に、正面向かい合いが全く出来ないことに起因するものに感じた。

 

この 3 日間、本当に生きていることを実感した。
今まで独り善がりに生きていた事を痛感した。
日頃の生活、人間関係あらゆるものを見直していきたい。また他人の存在が明確に感じとれたのも大変重要なことでした。

今までの武禅でも、相手によっては声を出しやすい人と、そうでない人がいると思っていましたが、今回は顕著で、どうしても声を出したくない感じになりました。
他の人もその人が相手になると、やはり声が出て無かったのです。
自分も日常でそうならないようにしなくては、と思います。

 

円になって「なまむぎ合戦」では、とにかく相手に対して意思をでかい声に乗せて伝えようとした。
それまで自分は強い意識があったが、とにかくまず相手に意思をぶつけなければならない状況だったので、半ば強制的に自意識が解放された気がした。
と同時に伝え方や伝えようとしている自分がいただけであった。
本当に今まで何もしてなかった事に気付いた。

 

 

初めから全く変わらず同じに見える人がいる。
工夫しているかもしれないが、同じように見える。
日頃の自分も同じなのかもしれない。
他人からそう見えているのか、自分だけがやったつもりではなく、キチッと相手に伝わるようにしたい。

 

相手と 本気で他人を「感じ取りたい・伝えたい」と心から思えました。
だから S さんの声に応えられて、 I さんが声に応えて頂いたとき、こころが震えて泣いてしまいました。
今までは、自分は生まれつき無感動な人間だと思っていましたが、それは違うことが分かりました。
本当は、他人が怖くて怖くて仕方がないから逃げて、こころが引き篭もって無感動になっていただけでした。
勇気を出して向かい合いえば、相手のこころと共鳴して、こころが震えることを知りました。
とても嬉しいです。

 

自分の中で、何かが必死に自分を押さえつけて、自分を開くことが出来ない。
一人だけ夢の中にいるような感じで、全くリアルではない。

治療業に携わっているので、普段から身体に触れ慣れしている筈なのに、触れている相手に異和感を与えてしまう事がほとんどだった。
ということは、治療においても実はしっかりと相手を感じて触れていない事になる。
診察では、これまで緊張や弛みがどこにあるのかという事に意識が行き過ぎて、目の前の患者の存在を無視した触り方をしていたのではないかと、思い知らされた。

 

後ろに並び、一人ずつ腕を触るというレッスン。
一瞬にして気持ち悪さが感じられた事が面白いと感じた。
手を使うこと、触れることがこんなにもデリケートな作業で合ったことに、人間の身体の素晴らしさをつくづく思い知らされた。

ピラミッドで、一番感度が悪かろうと思える人に狙いを定めてみた。
やはり、中々伝わらなかった。
回数を重ねるにしたがい、言葉に思いを込めること、きちんとフォーカスすること、自分自身が力み無く、ただ伝えること一点に意識を集中させると、狙う人に声が届いたので、本当に嬉しかった。
「伝えた」ことがちゃんと「伝わった」という事が体験できると、こんなにも嬉しく幸せな気持ちで一杯になれるのか…。
これまでどれだけ雑に人に接して来た事で損をしてきたのか、と反省した。

 

相手に嫌悪感を与える挨拶や、自己紹介をこれまでの人生で繰り返していたと思うと、本当に恥ずかしい限りです。聞く立場に回っても、相手が話しやすい状態になっていないことが分かりました。

 

前にいる人に声を届ける筈なのに、実際には自分だけで言って満足している。
あるいは、変な気を遣っていたり、カッコを付けたりと、自分で壁を作っていた。
片方がそういった事をすると、相手にも伝わってしまいお互いが駄目になるのが、とても良く分かった。


どの顔も輝いており、みんな正面からビタッと合う!
人の暖かさが、身体の中から湧き上がって来る!!

向かい合うという行為だけで、自分自身のエネルギーが高まっていく様な感覚を得られただけでも、「武禅」に参加した意義は非常に高いものだった。

 

自己紹介の声が、自分で聞いていても嫌な感じがして、他人の声もはっきり届けられているのではなく、音として聞こえ耳を塞ぎたくなりました。

目的とする動作を行う為に、意識の設定の仕方一つで、意図する動作と全く異なるものになってしまう、という事を知った事は大発見だった。

 

この 3 日間を通じて、これまで如何に自分が余計な思い込みや、知識でもって武装していたかを実感出来たことは、今後の自分の人生にとって非常に大きな収穫であった。

 

相手の手を握ることが出来ない。
今回の最高のおもしろい体験でした。
この一般的に有り得ない「握れない」は強烈でした。
どうした握れるようになるのか?
今後の私の頭からは離れない新たなチャレンジになりました。
相手が握られている気にならないのだから、どうしようも無い。

全く 相手からコメントを貰った時に、自分の都合の良いように解釈しようとする自分を見付け、愕然とした。
最悪にも、相手の問題にしようとしたことすらあった。
どこまでアホだろう。

 

人は人によってしか変われない。
人は人によって変われる。
これが私の中で実証できました。
この事は一生の宝物。
「武禅」に来た事で得られた、大きな大きなお土産です。

 

相手の二の腕を掴むことをやっているのに、いざその場になると、全く別のことをしている。相手の「気持ち悪いです」という言葉で我にかえる。自分で勝手にやっているだけだ。

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