拳銃という「武器」から見た武の姿勢

   
● 日常がトレーニング
 
6月1〜3日と行なわれた武神館オランダ大会では貴重な体験をさせて頂いた。
その内の一つが、シークレットサービスの人達を指導するモーガンさんに、シークレットサービスとしての拳銃のレッスンを受けたことだ。
この体験は武神館ならではのことだ。
つまり、初見宗家を慕って学びにきている外国の人達の多くは、国防や要人警護、警察官他といった、日常において「リアルに『武術』の実際を要求される」人達がいるということだ。
大会が終了した4日目の朝、ホテルのロビーで待っていると、その仲間の一人が迎えに きてくれた。
途中で初見宗家にお別れをしアウトバーンを車で飛ばすこと約4時間、モーガンさんの生徒の一人である女性が師範をしている道場に着いた。
そこでは、先々月号で紹介した子供たちが稽古をしていた。
アウトバーンでは私達を含む3台の車が並んで走る。
最後尾に付けた私達の車からトランシーバーで前の車に指示を出す。
つまり、3台の車が単に目的地に向けてドライブを楽しんでいるのではなく、要人警護の為のシミレーションをしながら走っているのだ。

途中でコンビにより清涼飲料水を購入、
「これはね、警護を車でするときトイレに行くことが出来ないだろう、そのためにこういった口の広いものを買っておくんだ」
「そんな場合、女性は大変なんですよ」
と女性のインストラクター。
そういったレクチャーをしながら車が快適にアウトバーンを走る。
「ミスターヒノ、こういった道路では走るのが単調になり集中力が欠け眠気が起こることがある、だからスピードを変えたりコースを変えたりしながら走らなければ駄目なんだ、だから今のこの走り方は間違っている」
と言いながら、トランシーバーで車を停めるように指示を出した。
車の外に見える牧草地帯、牛はなぜ立っているのか、なぜ寝ころんでいるのか、天気はどう変わるのか、この草はトレーニングの後によく効くハーブ、とにかく全てがトレーニング何から何まで意味がある行動。
もちろん職業だから当たり前といえば当たり前のことだが、その全ての事柄は、実は日本で昔武士と呼ばれた人達がとっていた周りへの配慮、自分への気遣いと何ら変わることが無いことに改めて気付かされた。
正に武士は生きているのだ。
果たしてこの気遣い周りへの気配りは日本に残っているのだろうか?

● 安全の為のレッスン

子供たちの稽古が終り、ドアに鍵がかけられレッスンが始まった。
ドアに鍵が掛けられ、ドアを塞ぐ形で人が立つ。
この情況だけでも妙に緊張した。
日本ではない、日本とは違う現実の中に自分がいることを実感せずにはいられない。
十代か二十代前半の少年も入り、合計5人くらいがレッスンを受ける。
まず、オートマチックの拳銃が確か三挺テーブルの上に並べられた。
遊底が引かれ弾倉が抜き取られており安全な状態だ。
しかし、私自身の実感では、本物の拳銃といっても現実感が余りにもなく、モデルガンという感じだ。
最初私にオートマチックの拳銃の構造を説明してくれた。
安全装置、撃鉄、遊底、照準、弾倉等など、私は小学生の頃「拳銃百科?」なる本を暗記できるほど読んでいたので、トレーナーの説明は一挙に小学生の頃の私に引き戻すと同時に、写真でしか知らなかった拳銃がリアルな実感として、頭と身体、そしてイメージとを結び付けはじめた。

トレーナーが「拳銃を手に持つのはこれで良いか?」と拳銃を手に持ちながら質問、私を除く全員が「ノー」。
「そうだ、この持ち方ではいけない、拳銃に弾が入っていないのは目に見えているが、万が一ということが有る、そのためには、どう持つのが良いのか?」と質問、皆は、それぞれに部屋を見渡して、ごみ箱の上に新聞が積まれているのを発見、そこを指さした。
「そうだ、そこなら安全だ、他にはこの部屋の隅に当たる木の柱の床寄りの所だ、これだと、弾が発射されて跳ね返っても誰にも当たることはない、それ位銃口の方向には注意を払わなければダメだ」。
拳銃という武器がいかに危険で、注意の上に注意を重ねて扱わなければダメだ、というレッスンが繰り返される。
日本人の私にとって、拳銃はモデルガン位のイメージしか持てていなかったのが、徐々に拳銃が人を殺傷する武器になっていくのが実感できた。
一通りのレッスンが終わったとき、「ミスターヒノ、両手で拳銃を持つ形をしてごらん」そう言われて、とにかく拳銃を持つ形を両手で作り、映画で見るように何気なく胸の前で銃口を上に向けた形をとった。
彼が何気なく私の前に来て「ミスターヒノ!」と大声で叫んだ。
私はびっくりした、その拍子に銃口が彼の方に向いていた。
「ミスターヒノ、人はびっくりしたとき、必ずこういった状態になるんだ、だから拳銃はそこに持っていてはいけないことが分るだろう、要人を護衛していて何かアクシデントがあったとき、間違って要人に発射することもあるだろうし、仲間に発射したり近くにいる民間の人を撃つことだってあるんだ、だから細心の注意を払えしかも自分自身も安全な形でなければいけないんだ」
拳銃を撃つ、という行為は、それこそグァム辺りに観光でいっても撃つことは出来るが、拳銃という道具、そして使い方、使うということなど本当の意味で知ることは出来ない。
このレッスンを通じて、つまり、拳銃という道具を媒介として、改めて「趣味と本職の違い、スポーツと武術の違い」また、「武術と格闘技の違い」を教えられた形になった。

拳銃は先程言ったように、外国の射撃場に行きお金さえ払えば「誰にでも撃つこと」は出来る、つまり、職業や人間の質や素質を問わず出来るこれが趣味だ。
本職とは、拳銃を撃つということだけが目的ではなく、要人警護が目的だから拳銃は単なる手段の一つだ。
しかし、その手段の一つに対する気遣いは、自分自身の全ての行動を気遣う気遣いであり「生き方」だ。
といった違い。
また、スポーツと武術の違いからくる目的の明確な違い、つまり、安全な場所で身の安全を保障され「決められた的に当てること」だけが目的であるスポーツと、危険な場所で身の安全を誰にも保障されないところで「要人を守るという目的の中にある射撃」の違い。
格闘技と武術の違い、それは「どこに敵がいるのか、誰から守らなければいけないのか、何時襲ってくるのか来ないのか?」が分からない武術と、「試合相手が決まっており、時間の中で決められた技術内で勝ち負けを争う」格闘技の違い等々が頭の中を駆け巡ることで、学ばれている日本の文化としての武道が、本職として武術として存在するのかが問題として浮かび上がってきたのだ。
「ミスターヒノ、質問はないか?」と聞かれたとき、私の頭は、「日本に武術は有るのか?私の言う武術はまだまだ甘いのでは無いか?」ということに回っていて、質問をするどころではなかった。

● 9ミリ弾を体験

レッスンが終り外に出た。モーガンさんが道端に生えている雑草に目をやり、「ヒノ、この草は稽古の後に有効な草なんだ、興奮している身体や気持ちをリラックスさせてくれる効果がある、一寸匂いを嗅いでみるか」と、草をむしって渡してくれた。
匂いは、いわゆるハーブの一種を思わす甘く柔らかかった。
「もちろん、このまま口でしがんでいても効果はあるんだが、これは口に入れたらだめだ、犬が小便を掛けているかもしれないからなハッハッハッハッハ……」
こういったように、常に日常の中で周りを観察している姿勢、正にプロだ。
「ワクワクするでしょう?」と女性のインストラクター。
食事を済ませ、今から拳銃の撃ち方のレッスンだ。
プライベートの射撃訓練場に到着、鉄の扉を開けると映画などで見慣れた光景があった。
的が天井からぶら下がり前後に移動するマシンが6台あり、距離が壁に刻まれている。
オートマチックの拳銃の遊底が引かれた状態で台の上に並べられた。
もうその時はモデルガンではなく、武器としての拳銃だという実感があったから不思議だ。
「それでは、弾倉に弾を込める、三発込めて」という合図があった。
弾は9ミリと大口径だった。
つまり、十二分に人を殺傷させる能力のある弾だということだ。
弾倉に弾を込める、そしてその弾を抜く、という作業を何回か繰り返す。
もちろん、目線は自分の作業の方に向いてはいけない、周りに対する気配りができていなければならない。
どこから敵が来るか分からない、あくまでも実戦に則した訓練だ。
さらに、手触りで弾が残っているのかいないのかも確認する。当たり前のことだが、夜何も見えないところでの拳銃操作を正確にするためのものだ。
一つの弾倉に三発弾を込め、ホルスターに装着、もう一つの弾倉にも弾を三発込めポケットに。
オートマチックの拳銃も腰のホルスターに装着、防音されているドアを開け射撃場に入る。
「拳銃を撃つ準備をするのには三通りの方法がある、その中で警護に向いているのは二番目の方法だ」とレクチャーが続く。
的から三メートルのところに立つ。
「この三メートルと言う距離が拳銃を撃つのに適した距離だ、これよりも近づくと拳銃を抜くより人の動きの方が早いから危険なのだ」拳銃を撃つフォームの説明。
的の狙い方、それにそって空撃ちを何回かする。いよいよ実射だ。
「弾倉を込めて、遊艇を引いて撃鉄を起こす」「撃鉄を掴んで……」「拳銃をホルダーへ」「防音ホルダーを付けて」「安全装置を外して」「撃て」引き金を引いた。鈍い低音がした想像以上に衝撃は少なかった。
横で、「グッド」と声が聞こえた。続け様に三発発射。遊底が開いた状態で止まる。開いた遊底の中に指を入れ、本当に空かどうかの確認。
弾倉の交換、そして発射。
撃ち終わると、両手を上に上げて立っている。
インストラクターが後ろに回り、拳銃に弾が残っていないかチェック。
インストラクターに肩を叩かれたら弾が入っていない大丈夫という合図だ。
それまで動いてはいけない。
射撃をした三人のチェックが終わったら、的を見に行く。
とにかく、一から十まで安全に対する配慮だ。
道場では木刀を使ったり棒を使ったりするが、ここまで安全に対する配慮が出来ていることはない。
つまり、日本人の危機管理能力から来る気配りはゼロに等しいと実感する。

● 身体の形が弾痕を射抜く


「ヒノ、素晴らしい、一発目はど真ん中に来ている、本当に拳銃を撃ったのは初めてなのか?、二発目三発目は膝が少し緩んだので下の方にずれているが、見た通り全弾が掌の範囲に留まっているので充分だ、ちゃんと狙えているよ」
的を狙うには、片目を瞑って照準を合わせるのだ、と教えてもらったが、刀の剣線を整える稽古は両目を開いてやっているので、どうも片目で狙うのは出来ない。
それに、老眼なので的がはっきりと見えない。
だから、片目であろうが両目を開いていようが的の真ん中の黒点などおぼろげにしか見えていなかったのだ。
にもかかわらず真ん中に当たっていた。
このパターンを何回も繰り返す。何十発撃ったのかは覚えていないが、何度目かの的をチェックしたとき、「ヒノ、素晴らしい、この弾の痕しか無いということは、ピッタリ同じところに命中しているということだ」
何と、9ミリの弾痕の中に三発ほど打ち込んでいたのだ。
オイゲン・へリゲルの「弓と禅」に出てくる阿波師範のように、射た弓が割れて次の矢が、そして叉その弓が割れて次の矢が刺さった、と同じだとは言えないが現象としては似たようなことが起こったのだ。

これは、日頃の武術トレーニングの成果だ。
身体の形が決まっているから同じところに弾が飛んでいって当然だということだ。
私は、拳銃を構える時、刀での稽古をそのままやっただけだ。
その時、腕から肩にかけて含胸抜背(胸を緩め、背中が丸く緊張し、肩が前の方に抜けた状態)になっていたのだ。
だから、拳銃を撃ったときの衝撃も少なかったのだ。

日頃道場で口が酸っぱくなるくらい言っている「頭で判断して狙うのではなく、身体が狙っていなければダメだ」を正に実践した。狙うのではなく、身体が決まれば自動的にこういう結果が生まれる、つまり、「身体」そのものの正確な管理がいかに大事か、「身体」の管理ができていれば、どんなことにも応用でき力を発揮する、ということがここでも証明された形になった。
逆に言えば、「身体」を無視した運動(独り善がりの)は、全てに渡って応用が出来ないばかりか、そのこと自身が武術の限界性、日常運動の限界性を低いレベルで作り出すことにほかならないということになる。
こういったことの検証は、今回「拳銃」という私にとって全く未知の武器に取り組むことで確認できたことになる。

● 日本に武道はあるのか?


「ヒノ、拳銃の構えは不動拳と同じでいいんだ、それ以外の方法だと余計なところに力が入って的を外すことが多いし、効率的ではないんだ」モーガンさんは、武神館の基本の突きである「不動拳」を身体定規にしていたのだ。
2時間余りの実射の訓練が終った。
外に出てバーでビールを飲んだ時新たな現実に戻った。
ビールは格別の味であったのは確かなのだが、初めて体験した「拳銃」の使い方や、射撃場の雰囲気を半分引きずった身体は、まるで風邪のひきはじめのように熱っぽかった。
「ヒノ射撃はどうだった、今度は一週間くらい時間をあけるようにしておいたらサバイバル訓練に行けるぞ」「サバイバル?考えておくよ、年だから、素晴らしい時間だった、おかげで日本の伝統武術について色々な問題点が頭に浮かんできたよ」「よし、ホテルに帰ってゆっくり寝よう」
「私は武道のホビーピープルではない」といったモーガンさんの言葉は、丸24時間の付き合いの中で大げさなことでもなく、また、単なる比喩でもなく実際の生活であることが実感できた。

このシビアな体験は、本来日本の武術の稽古にも生活になければならないことだ。
でなければ、何が武道であり武術なのかが余りにも曖昧になる。
「武」は日本にあるのか?ホテルに向かう車の中で頭がヒートしかけていた。
日本を除く外国にとって「武術」は軍隊のするものだ。
そこは一体どうなっているんだ?

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