Contemporary Dance

コンテンポラリーダンスとはどんなダンス?

色々と考えさせられるジャンルである。
それは、そこには明確な基準というものが無いからだとも言える。
シルビー・ギエムが踊るコンテ。
フォーサイス・カンパニーが踊るコンテ。
ピナ・バウシュのコンテ。
NDT のコンテ。
その他様々なカンパニーや個人が踊るコンテ。
ヨーロッパ的には、クラシックバレエを修得したダンサーが踊るコンテと、全くそこを経過していないダンサーのコンテ。
そして、ダンサー以外の人が踊るコンテとがある。
ダンサー以外の人が踊る、踊ってお金を得る、あるいは、評価を得る。
となれば、もはやそれはダンスではないし、ダンサーという技術ではない。
したがって基準が無いがゆえに、もはやダンスと呼ぶよりも、パフォーマンスと呼ぶ方がシックリ来るものも多い。
あるいは、パントマイム的なものもある。
そうなると、つまり、多種多様なコンテということになると、観る側としては舞台展開の面白さや、その場限りの面白さ、あるいは奇妙な動きの面白さを観る以外には、何を観ているのか分からなくなることがある。
ピナやフォーサイスは、舞台装置にアイディアを凝らす場合もある。
もちろん、「舞台」ということだけで言えば、観る側にとっては非常にスリリングで面白い場合も多々ある。
しかし、その場合でも舞台で行われていることが、ダンスと呼べるものかどうかは分からない。
そんな混沌としたジャンルが、コンテンポラリーダンスだ。

まるでショーパブのように、トマトを身体にぶつけるだけの舞台もあった。
しかもコンテンポラリーの世界では、相当有名なダンサーの作品だった。
何やらセリフが沢山あるコンテもあった。
子供のお遊戯のようなコンテもあった。
それらは、私がどうのこうの言う前に、既に存在しており、評価を得ているものもある。
もちろん、大きなコンペティションで賞を取っているものもある。
大学の卒業生が組んだグループもあり、それはダンスというよりも、学校体育の延長としての創作舞踊だ。

もちろん、オリジナルな振り付けは、全て創作であり、ダンスだから舞踊なのだが、創作舞踊と呼ぶ時、それは特別な意味を持つ。
どこまでいっても、学校で習ったもの、つまり、教師やコンクールの価値観という域から超えることが無い、という意味だ。
それもコンテだ。
それら雑多なコンテなのだが、それを一括りに出来る言葉がある。
それは、「頭で作るダンス」あるいは「頭で作る動き」だ。
だから、全ては計算の中であり、その計算だけが見えてくるので、本当につまらない。
もちろん、ダンサーそのものが稚拙だということや、精神が幼いというのもある。
それも目に付いてしまう。
ピナバウシュのカンパニーは、そんな中で異彩を放っている。
何よりも観客ありきの舞台であり、それぞれのダンサーからは舞台を楽しんでいる大人の匂いがする。
もちろん、それがダンスなのかどうなのかは定かではない。

私はそんなコンテをつまらないと思っている。
コンテ云々という前に、まずダンスなのかどうなのかが不明だからだ。
もちろんダンスの定義は無い。
それは、それほどダンスは生活や人と密接に関っているからだ。
コンテに限らずヒップホップなど、若い人が気軽に取り組めるジャンルもあり、大きな意味でダンス人口が相当広がっているからでもある。

バルセロナに行ったとき、大きな教会の前で、 10 数人が輪になり手を繋ぎ、軽やかでいて荘厳な雰囲気を持つダンスと出会った。
それはその民族を改めて認識する為のものだそうだ。
そのように世界には、多種多様にダンス・踊りと呼ばれるものは存在する。
その意味で「ダンスとは?」を定義することは出来ない。
ただ「私はこう踊りたい」ということが目的である場合だけは、ダンスではないと言うべきだろう。
「私はこう踊りたい」という以前に、生命が躍動しているのかどうか、感情が爆発寸前なのかどうか、愛が溢れているのかどうか。
何かに対して向かい合い、そのことで溢れる感動があるのかどうか。
そこを問いたい。

昔、私の友人のピアノ弾きが、トラで河内音頭の伴奏を頼まれていた時期があった。
私は河内音頭と言えば、昔の鉄砲光三郎さんくらいしか知らなかったが、色々あるそうだ。
それぞれの違いは、節回しが少し違う事らしい。
もちろん、その違う節回し、つまり、ニュアンスの違いがそれぞれの生命線的価値なのだ。

その世界の人、その世界のファンであれば、節回しの違いにうっとりしたり、逆に「やっぱり○がいいわ」となるのだろう。
しかし、全くそれを知らない人にとっては、よく分からない。
「あんまり変わらないけど、そんなに違うの、だからどうなの」ということになる。
私自身もそれを聞いて、へえ〜そんなものなのか、と思ったことがある。
それぞれの世界の中には、そういった微妙な違いを「明らかな違い」だとして、それぞれに付加価値を作り出している。
もちろん、それは間違ったことではない。
その世界ではそのことが存在理由になるからだ。

同じような事がダンスの世界にもある。
特にコンテンポラリーダンスの世界には「変わった動き」という価値観があるようだ。
その変わった動きというのは、ヨーロッパではクラシックバレエが、ダンスの基礎や基本になっているが、話を簡略すると、そのバレエ以外の動きが高じて「変わった動き」という事になっているのだ。
しかし、変わった動き、そのものが目的になった時、それはダンスと呼べるものなのか、という大問題が浮かび上がってくる。
ヨーロッパでは、コンテンポラリーダンスというのは、ダンスという括りではなくパフォーマンスという括りになりつつあるという。
それはそうだろうと思う。
「変わった動き」を目的とした時、それこそ変わった動きコンテストのような様相を呈してくる。
だから、一挙にアカデミックなダンス(この場合はバレエ)界以外の人達がなだれ込んでくる。
それが極端化すると、昨日まで事務の仕事をしていた人、絵を描いていた人、全く芸術とは無関係の人。
とにかく多種多様な人達がその世界になだれ込み、変わった動きを目指す。
というよりも、ダンサーではないのだから既に変わった動きなのだ。

別の角度から見れば、それらの人の変わった動きとは、稚拙な動きでもあるのだ。
しかし、それを稚拙な動きとは評せず「面白い」と、無責任に自分自身の成長していない主観でものをいう人も少なくない。
もし、その「面白い」と評した人が、有名な人であれば、その稚拙な動きを「面白い=価値がある」と、烏合の衆は誘導される。
そうなると、確かに変わった動きではあるが、舞台としての質が、とんでもなく低いものも舞台に現れる。
それは、一過性の舞台としては、成立するかもしれないが、舞台に歴史を創っていくことは出来ない。
また、成長していない主観とは「面白い=興味深い」と「面白い=滑稽」という意味の使い分けが、自分の中で出来ていない人のことだ。
大方がそうだ。
それが今のコンテンポラリーダンス界の現状であり、取り巻く環境の現状だ。

しかし、ここで見方を逆転させると、観客は「変わった動き」だけを本当に見たいと思っているのか、がある。
もちろん、観客に迎合する必要など全くない。
しかし、いずれにしても観客を感動という武器でノックアウトする必要はある。
でなければ舞台表現という相互関係は成立しない。
つまり、観客から入場料を貰う、その見返りという関係が成立しないということだ。
冒頭に戻るが、それぞれの河内音頭の節回しの差異は、知らない人にとってはさほど分からない。
つまり、違いは分かっても、質的に横並びに聞こえるということだ。

それと同じで、そんなコンテンポラリーダンスの世界を知らない人にとっては、変わった動きというけれど、何一つ質的に変わったものはない、ということなのだ。
そこにこころの感動など湧き上がる筈も無い。
そこで、違いを出す為に舞台装置や照明を工夫する。
もちろん、それも舞台表現として大切な要素だ。
しかし、それら付属物を取り払った時、そこに見える動きや身体は、観客に幻想を見せさせるような、こころを震え上がらせるような、高度な質をもっていない。
舞台装置の工夫は大事だ。
そこに必然があれば、という話だが。
大方が、道具の為の道具でしかない。
それは家電製品と同じで、一度家電の便利さを覚えると、もっと便利なものという欲求が生まれる。
しかし、欲求している自分自身は、欲求のレベルは高くなっても、生活は何一つ変わらない。
それと同じなのだ。
スイッチを押している自分は、家電が便利になったからといっても、何一つ成長していないのだ。
あるいは、全く別のジャンルの有名な人と共演する、という手法を取る。
それ自身が相当興味深いものであれば、つまり、相互に優れた芸術性を持ち合わせているのなら、そこに起こることが予測不可能な素晴らしいものになるだろう。
しかし、それも大方が「面白い」のはきちがいで、何も起こらない。
ただ、そこに、つまり、舞台で異種の人が一緒にした、というだけなのだ。

大分以前に、能だったか、狂言だったかの人と、コンテンポラリーの若い人がコラボをしたのを見た。
当たり前の事だが、明らかに舞台での在りようが違う。
当然、舞台では何も起こらなかった。
身体の違いが赤裸々に表出されていたから、表現しようとしているものなど素っ飛んでしまったのだ。
それを分からないダンサーだったし、製作スタッフだったのだ。
つまり、そこに関係性など存在していないのだが、舞台では同じ時間が経過される為、面白いコラボだったと評されていた。
つまり、大方の評論家など、その程度のものなのだ。
その混沌さが、観客の劇場離れ舞台離れに繋がっているのだ。

ヨーロッパでは、コンテンポラリーの客がサーカスの方に客は流れているという。
それはそうだろうと合点がいく。
サーカスは単純にやっている事が面白い。
例えば、定番の綱渡り等、何をするか分かっているが、その事自体の難易度が高いので、スリルがある。
相当単純なレベルで感動できる。
と、エンターティメントの殆どを備えているから、そちらに流れて当然だ。
もっと、根本的な事を言えば、観客を楽しませる為、という大前提が明確にあるのがサーカスであり、そこが欠落しているのが、コンテンポラリーダンスなのだ。
もちろん、観客に迎合することではない。
もっと根本的な、観客と対峙することが抜け落ちているのだ。
もっともっと根本的には、ダンスという核を持ち合わせた人など、皆無だということだ。
だから「変な動き」に価値を持たせるしかないのだ。

ダンスとは何なのか?そこには定義は無い。
であれば何でも良いのか?

そんな考えも持ち、 2011 年 10 月 15 日は、京都芸術センターへ行った。

15日は、来日している Forsythe Company の Fabrice と Yannis の公演を、京都芸術センターに見に行っていた。
公演後久しぶりに深夜まで飲んだ。
途中で、明日本番の高原伸子さんも顔を見せてくれた。
ヤニスはヨーロッパでする、クラシックバレエのワークショップは「 BUDO-Ballet 」と呼んでいるそうだ。
正面向かい合いから始まり、 胸骨操作やねじれ、連動等を使い指導する。
その方が、従来のバーレッスンよりも身体が伸びやかになるし、動きやすいと言う。
そしてその事が、即興にも結び付くという。

何とも本質を得た解釈だ。
Forsythe Company のディレクターも来日していた。

彼とは、フランクフルトで何度か顔を合わせている。
ヨーロッパは今転換期だと判断しているという。
それは、古いスタイルを残したい人達と、それは駄目だから新しいスタイルに移ろうという人達とが入り混じって、混沌としているのだ。
もちろん、ダンスもそうだと、ファブリズも Yannis も口を揃えて言う。
そうだろうと思う。
全部行き詰っている筈だ。
そんな事にいち早く気付いた若い人達は、 Forsythe Company を辞めていった。
Yannis もその一人だ。
Yannis は、私の個人レッスンを受ける為に日本に2カ月間来た事もある。
その時、学んだことで、ヨーロッパで今新しい立場を作りつつある。
そんな話で、かなり密度の濃い時間を過ごした。
ついでに、新しいワークを教えた。
Fabrice が英語のブログと youtube を作ってくれと言う。
彼らとは、来年1月、ベルギーでのワークショップで会う。
今日教えた事が、どれくらい熟しているのか、見るのが楽しみだ。

公演のプログラムには、スペシャルサンクスとして私の名前が書かれてあったので、思わず「おっ」と思った。
ヤニス達に武道の身体を教えているのをはじめ、この作品を作る4年前に何か所か演出を頼まれてやったからだ。
ヨーロッパは不況で、文化芸術面の予算がどんどん削られている。
そうなると、ヤニスを始めプロのダンサー達が、食べていけなくなる。
その意味で、彼らは生き残りをかけて必死だ。
世界各地のプロデューサに認めて貰おうと売り込みにも力が入る。
それに引き換え日本人ダンサーは、その辺りの事がピンとこない。
というのは、彼らは子供の頃からバレエをし、義務教育終了後すぐにバレエやダンスの専門学校に入り、その後それぞれカンパニーに入り、ダンスを生業として来ている。
つまり、潰しがきかないということであり、ダンス馬鹿なのだ。
ヤニスなどは、ギリシャの学校、フランスの学校と転々としたため、どちらの言葉でも、正式な文章など書けないという。
だから、ダンスか振付を仕事とするしかないのだ。
しかし、日本のダンサーは、ダンスを生業にしなくても、他の仕事でいくらでも生活を成り立たせる事が出来る。
というよりも、他の仕事が出来る保険的役割である、大学や高校を出ている。
だから、その切羽詰まった状況は実感できないのだ。
だから、日本のダンサーは、本当にダンスで生活しなければならない、というようなことは有り得ないとも言える。
その意味で、一度ダンスを止めて見れば良いのだ。
そして、普通の仕事で生活をし、それでもダンスを生業としたいかどうか、を見定めればいい。
でなければ、ダンサーということでの基準の違いが、ダンスそのものの質の違いを生み出している事に気付かない。
気付かないということは、もしダンスを生業とするならば、そこを何で埋めるかという具体的な作業にも気付かない。
ということは、永遠に彼らのクオリティに迫る事は出来ないということだ。
それは、また日本の高校に当たる一番感受性が強い時期に、彼らは専門的にダンスをしている。
それは、日本での高校でダンスをしたり大学でダンスをしたり、というのとは、全く異なる。
その時期の感性や意識の形成が、趣味と職業の差として現れるのだ。
格闘技の世界では、ハングリー精神という言い方があるが、タイのキックボクサー達は、ここでいうダンサー達と同じで、子供の頃からキックボクシングを生活の糧としてきている。
だから強いのだ。
しかし単に、子供の頃からやっている、ということで同一線上に並べることは出来ない。
子供の頃を支える生活基盤、社会基盤が全く違うのだから。
そして多感な時期を、そのものを体感しながら過ごしているが、日本では殆どの高校生は塾や大学受験に時間を費やしている。
つまり、感性の成長度や、そこに蓄積された様々な情報がまるで違うということだ。

ヤニス達のステージは、何が良かったか。
それはまさしくコンテンポラリーだった。
つまり、作品に対する古典的な思い込みや、それぞれがやるべきことへの拘り、幻想、気持ちの悪い思い込み、それらが、全く見えなかったこと。
そして、 1 時間に及ぶ時間の中で、意識が全く変化しなかったこと。
そういったことが、彼らの作品を際立たせていた。
両者とも NDT の出身であり、フォーサイスカンパニーのメンバーだ。
つまり、両者が何を否定し、どんな手段を知っているかが共通しており、だからこそのこのパフォーマンスになった、ということが良く分かった。
そして、私がフォーサイスカンパニーで指導していたことが、この作品の核になっていることもよく見えた。
ただ、舞台設定が限られているので、満席になってもペイ出来ないというのが問題でもある。
助成金なしには成立しないということだ。
しかし、この日舞台を見ていて、観客はどんな反応なのかな、と思って注意していたが、どうも何を見ているのか分からなかった。
カーテンコールは4回程あったが、何が良くて手を叩いていたのか、よく分からない拍手だった。
隣に座っていたフランス人は、明確に反応し楽しんでいた。
拍手も、自分の中からの拍手だった。
最後のコールで、ヤニスが私に敬意の手を差し伸べた時も、「この人は何?」と反応していた。
他の観客はもしかしたら技術を見ていたのかも知れない。

さらにヤニス達のことで言えば、幻想を完全に排除したことが、彼らそのものを際立たせた。
この幻想を排除する、というのは、フォーサイスカンパニーに始めて招聘された 2005 年に、皆に話した事だ。
観客が幻想を見るためには、演者に幻想があってはいけない。
演者のもつ幻想は、気持ちが悪いだけだと。
そして、演者の幻想は、身体の輪郭をぼかしてしまうという実際も見せた。
クサイ舞台と、そうではない舞台の話もした。
彼らは全員ショックを受けた。
しかしもちろん、どちらをとるかは自由だ。

ただ、過去数百年殆どの舞台は、演者の持つ幻想で培われてきた。
だからここらで本当のコンテンポラリーをやったらどうだ?と話したのだ。
そんな話に、一番最初に食い付いたのがマーツだった。
ヤニスやファブリーズは、その時は反応しなかった。
しかし、彼らのキャリアや時間と共に、そして、私が帰国後マーツと練習をする程に、その事が彼らに定着していったのだ。

私の誤算は、その事が彼らよりも早く日本で定着するのでは、と思い日本でのワークショップを繰り返したのだが、残念ながら、大方のダンサーは彼らよりもキャリアが浅く、ダンスにもダンスシーンそのものにも危惧を抱いていなかった事だ。
だから、きっと私の言うことは「何のこっちゃ」と受け止められているのだろうと思う。
まるっきり理解していないな、というのは、ダンサー達と話していて薄々は感じていた。
しかしそれは仕方が無い事だ。
幻想を持つな、という私自身が、日本のダンサー達に幻想を持っていただけだから。

11 月の末には、スエーデンのダンスとサーカスの大学に招聘されているので、メソッドを教えに行く。
その後は、クルベリバレエ団と続く。
日本のダンサー達が、外国では貴重なメソッドになりつつある、連動や胸骨操作。
それらを駆使し、全く新しく幻想の無いクリアな舞台を展開してくれる、日本人ダンサーが世界を席巻する日を夢見ているのだが。

目次

シルビー・ギエムという芸術 
文楽 
文楽「吉田玉男」に見る芸の伝承 
名人は「普通」という事だった 
ウイリアム・フォーサイス
シルビー・ギエムという身体
産経新聞から
フジ子・ヘミング

ダンサーへ
Contemporary Dance

 

シルビーギエム・文楽    NDTを観て

身体塾 武道塾 武禅 ●お問い合わせ

TOP

●過去のワークショップ