舞台での「存在感」とは

役者にもダンサーにも要求されることの一つに「存在感」がある…そうだ。
それは観客からの観賞という点でも要求される。
その事は、今年の早春ベルギー・アントワープにある、芸術学校でのワークショップで知った。
その芸術学校でダンサーから「存在感の出し方は?」と質問されたからだ。
しかし、それは「何を今更」であり「人に聞くものか」というくらい、表現者にとっては当たり前のことである。
だから答えに困ってしまった。
というよりも、そんな大事なことを問題にせず舞台で踊っていたの?と逆に質問したくらいだ。
もちろん、当たり前だと言っているのは、存在感が有るのか無いのかではない。
そのことを演技について、舞台について、ダンスについて、表現について、を学ぶのと同じように学び取っていないのか、あるいは、学び取る努力をしているだろう、という意味で当たり前ということである。
だからこそ、舞台を見せることでお金が貰えるのだ。
いわば、素人かプロかの違いが、存在感の有る無しとも言えるのだ。
西洋ではそういった漠然とした言葉は、決して使わないし問題にされないと思っていた。
それがここに来て、初めて外国人のダンサーの口から聞いたので驚いたのだ。
もちろん、日本でも感覚的にあるいは情緒的に「存在感の有無」は使う。

「身体性」という言葉

日本では他に「役者の身体・ダンサーの身体」とか「身体性」という言葉を聞くし目にする。
それも存在感というところに重なっていくのだろう。
しかし、普通に考えれば「役者の身体」とか「ダンサーの身体」というのは、一体何のことだろうと思ってしまう。
パッと聞くとイメージとしては分かるが、具体的には分からないという代物だ。
もちろん、職業的に役者やダンサーというのが有って、それに見合った身体はある。
それは料理人や音楽家も同じで、その職業に見合った身体はある。
しかし、それはそれほど重要な事ではない。
なぜなら、身体を作ることが重要ではなく、その職業としての技術が重要だからである。
しかし、役者やダンサーは身体そのものが、一つの商品である。
その点から「役者の身体」とか「ダンサーの身体」という言葉が有るのだろうと想像出来る。
と想像すれば、なるほど「身体性」なる言葉もあるだろう、と合点が行きそうになる。
その身体性なるものが、単にダンサーとしての技術、役者としての技術を身に付けた身体、ということであれば合点が行く。
もしそうであれば、身体性なる言葉を使わずに、「技術がある身体」とすれば良い。
また、それらダンサーや役者の身体を定型化出来る筈も無い。
それは役者といってもダンサーといっても多種多様だからだ。
バレエダンサーの身体と、バレエを基礎としていないコンテンポラリーダンサーは、身体が全く違う。
バレエでもフランス式のバレエと、ロシア式のバレエで全く違う。
役者も同様で、それらを定型化して捉えることは出来ないし、してはならない。
となると、身体性なる言葉は、文学的意味哲学的思想的意味はあるかもしれないが、舞台人にとっては具体的でない以上、意味を持つものではない。
単なる下手なダンスを見て、「このダンサーの身体性は…」と延々と評されてもピンとこない。
それは「ただの下手やろ」「役者に向いていない・ダンサーに向いていない」で良いのだ。
ただ言えることは、例えば、ダンサーの身体としたとき、それはダンスとは全く別のエクササイズで作り出せるものではないし、役者の身体としたときも同様で、演技とは別のエクササイズで生まれるものではない、ということだ。
ダンサーとしての必然(自覚)、役者としての必然(自覚)、役としての必然が身体を作り出していくものである。

もちろん、ここで混乱させてはいけないことがある。
それはダンスが好き、演劇が好き、ということと、今ここで書いていることは全く別の話だということだ。
ダンスが好きなのはそれでよい、演劇もそうだ。
ただ、舞台の上で観客を前にそれが出来代価を得る、それに挑戦するというのは、好きだけでは出来ないという話であり、プロフェショナルなダンサーにとって、役者にとっての話である。

「存在感」は肉体ではなく意識が作り出す

問題の「存在感」だが、それを問題として解析する多くの演出家や振り付け家が着目しているのは、肉体としての下半身だ。
例えば、代表的な演劇の鈴木メソッドによると、それは【下半身の弱体化にあり、その事によって重心が上がってしまっているから】としている。
だから、肉体運動として下半身強化がメソッドの中枢軸になっている。
確かに、役者でもダンサーでも、舞台で観ると、舞台に足が付いていないことが多い。
もちろんそれは、国内外を問わずだ。
私の言い方では「身体が見えない」あるいは「足も手も無い」と言う。
しかし果たして、その存在感は、そういった下半身の弱体化という視点で解決されるものなのか、存在感が出てくるものなのか。
それには多くの疑問が残る。
つまり、役者という仕事は、役者という「人」全体の問題であって、肉体のしかも下半身強化という部分に視点を当てるだけで、その存在感は増すのか、という疑問である。
もっと言えば、役者の身体は、役者がその「役」を引き受けた時点から作り出すものであって、「役者」という身体ということで言えば、どんな「役」にも適応出来る自在の身体、という身体のことを指すのだ。
それこそ、格闘家が試合に臨み、リミット何キロに絞り込めるというような自在性のことである。

では、舞台で存在感が薄い原因が、あるいは無いというのは、肉体鍛錬では育め無いとすればどういうことか。
それは、舞台上で自分のやるべき事をやるのではなく、やるべき事をやっている「つもり」あるいは「思っている」状態の人の事である。
つまり、その役そのものになっていない、ダンスそのものになっていないということだ。
素の自分がそのまま舞台に立っている。
もちろん、ここで言う舞台は、公演の予定の無い裸の舞台ではなく、何かの演目を上演する状態になっている舞台のことだ。
その舞台に、自分は舞台に立っていると「思って」おり、その上に自分のやることを「やろうと思って」いるのだ。
そうなると、上演するべき舞台に一切の現実感が無い。
それがもう少し進歩すると、自分のやる「段取りを」常に頭の中に思っているという状態なのだ。
それが舞台上で身体が見えて来ない状態のことで、ここでいう「存在感が無い」ということであり、鈴木メソッドの言う「重心が上がっている」状態なのだ。
それは、全てはその人の「頭の中で完結している」からである。
つまり、その人の意識が頭の中で、全速力で運動会をしているようなものなのだ。
となると当然、演出家から見ても、振付家から見ても、観客から見ても、その人の頭部に視線が向く。
だから、重心が上がって見えるだろうし、地に足が付いていないように見えるし、手足が無いように見えるのだ。
つまり、舞台上に役も筋書きもダンスも表現されていないということである。
であるから、当然下半身強化という肉体運動的稽古を積めば、それが無くなり存在感が出る、というものではない。
全ては、その役者なりダンサーなりの、役作りの間違い、あるいは、それ以前の「演劇」や「ダンス」に対する考え方の間違いなのだ。
そして、舞台という特殊な空間に対する認識の間違いが、二重に重なってあるのだ。
もっと言えば、ダンスや演劇に対する情熱の欠如が根本にある。

BS テレビで、興味深い番組が放送されている。
題して「アメリカン・ダンス・アイドル」だ。
全米各地でオーディションをし、エンターティメントなダンサーを発掘するのだ。
その番組の何が興味深いのかと言えば、外国の人はダンスの何を見ているのか、舞台上で踊る人の何を見て評価しているのか、を審査員の言葉から知る事が出来る。
そこが興味深いのだ。
ピンからキリまで様々な自称ダンサーが舞台で踊る。
その一人一人に対して、的確なコメントを審査員は出す。
最悪に近いダンスには、明確に最悪だという。
何が最悪なのかは、当然ダンス技術だ。
合格して勝ち抜いて行くダンサーには、技術も「存在感」もあり、こちらのこころに響いたという言い方をしている。
今、書いている「存在感」という言葉随所で出て来るのだ。
そのオーディションに出て来る人達は、大方が若い。
10 代の若者も沢山いる。
「それはゾンビのパーティだろ」という審査員のコメントには大笑いしたが、それは正に存在感の無い、つまり、誰かに見せる為のものではなく自己完結しているダンスだった。
これには大笑いしたが、日本のコンテンポラリーダンスの多くはこれだ。
情熱も意思も見えないし、当然ダンスが好きだ、という肝心なことも見えて来ない。
にも拘らず観客を前に踊る。
正気の沙汰とは思えない。
まさに「ゾンビのパーティ」だ。
「お掃除をしながら踊っているというレベルで観客に見せるものではない」と言われたダンサーもいた。
ダンスに対する情熱や意思、そして技術、それ以上にそれを超えたもの、つまり、それらを持つ自分を超えようとしている意思が見えるダンサーを審査員は評価していた。

では、この「存在感」を舞台上で明確に表すにはどうすれば良いのか。
まず、役者にしろダンサーにしろ、溢れ出る情熱は有る、という大前提にしか話を進めることは出来ない。
というのは、この情熱は、学習できるものでも習えるものでも無い、その人個人の欲求だからである。
ダンススタジオでダンスを習ったから、演劇教室で演技を習ったから身に付くというものではないということだ。
つまり、その人は舞台に向いているのか向いていないのかは、既に決まっているということなのだ。
だから、この肝心なところに触れることは出来ないのだ。

「存在感」の第一は情熱

というところで「存在感」の出し方だ。
それは、ここで記していることの反対の事をすれば良いだけである。
【その役そのものになっていない、ダンスそのものになっていない】その役になりきれば良いし、ダンスになれば良い。
つまり、舞台上で余計なことを考えてはいけない、ということだ。
余計な事というのは、舞台上で「ああしよう、こうしよう」と思う事だし、「ああしなければ、こうしなければ」と段取りを追いかけることだ。
そして、もう一つの複線として「間違わないように」とか「良く見えたい」というような、幼い自意識の問題もある。

先ほどの「アメリカン・ダンス・アイドル」でも、審査員はそこを明確に指摘している。
また「裸のお前を見せて欲しい」という言葉も出てくる。
ではどうしてそうなるのか、というと、単純に稽古不足だということだ。
具体的な稽古をせずに、頭だけを働かせていればそうなる。
だから単純に舞台でやることの稽古量を増やせば良いだけである。
それでも駄目なら、もっと稽古すれば良いのだ。それでも駄目なら、もっともっと稽古すれば良いだけだ。
要するに、稽古量が足りない、その役に対してダンスに対して、かけている時間が短すぎるということでしかないのだ。
だから、どれほどの情熱を持っているのかが、問題になってくるというのである。
それがなければ稽古の量を増やすことなど不可能だからだ。
情熱が無ければ稽古さえも「やらなければならない」という気持ちを持った義務になるし、最悪「やらされている」ということにもなり兼ねないのだ。
したがって、自分にどれほど情熱があるのかを知る為に、死ぬほど、飽きる程稽古をやってみれば良い。
途中で飽きてしまうようであれば、情熱は無いということだ。
それは悪いのでも、間違っているのでも無い。
舞台に向いていないということなのだ。
向いていないような役者やダンサーの舞台を見せられたら、当然観客も感動しないし、それをきっかけに舞台を見ないようになるだろう。
自分が好きでやりたい、と言うのは間違っていない。
しかし、そのことで観客が減って行くという、全体に対する迷惑をかけているという事を忘れてはいけない。
どだい舞台上で「存在感」が無い、ということなど論外である。

また鈴木メソッドには【自分の周囲の状況を良く観察すること、その中で自分が起こす行動の対象をしっかりと見定めること、行動を起こしたら自分の身体はどのような状態に置かれるのか、その時に移動している重心をすばやく感知していくこと、これは我々の日常生活でも行っていることである】と日常生活を分析しているのが鈴木メソッドだ。
そして、これらを極端化した形で行っているのが、一流の舞台人であったり、武道をやっている人だとしている。

だが、本当にそうなのだろうか。
つまり、日常の行動でしかも熟練された日々の行動、例えば、歯を磨く、お茶を飲む、ご飯を食べる、トイレに行く、起きる、寝る、歩く、他、全ての動作は無意識的である。
もしも、このメソッドのような視点を持つとしたら、スムーズな日常生活などおくれる筈も無い。
それは、日常の状況を観察して いた 、行動の対象を見定めて いた 、という結果(視点)であって、決して意識的作業として、それらで日常を過ごしてはいない。
ましてや、「重心をすばやく感知していく」などということは絶対に概念にはない。
アスリートのコーチやトレーナーならいざしらずだ。
つまり、当事者の視点ではなく、客観的視点の人から見れば、もしかしたら、「重心を〜」が見えるかもしれないということだ。
もしも、役者やダンサーがその目を持ったとしたら、それは最悪だ。
演技とは直接何の関係もないことに、時間を費やすことになるからである。
だから鈴木メソッドは、そういった具体的身体運動のことではなく、意識の働きや、欲求の働きの有りようのことを重心だと捉えているのかもしれない、という仮説は出来る。
しかし、鈴木メソッドの不思議なところは、先ほどの仮説ということではなく、具体的に身体における重心をトレーニングするところだ。
この具体的な身体トレーニングで、重心や軸を意識的に取り入れ、それを表現のレベルに応用するというものは沢山有る。

「重心」という幻想

2005 年にフォーサイスカンパニーに招かれて初めてワークショップを開いた。
その中で質問された事が「重心をぶらさずに歩くには」という、ここで取り上げているものだ。
それはフォーサイスのある作品で、椅子を持ちダンサー達が歩き回るのだが、どうも重心がふらついていて「静か」なシーンンにならないらしい。
それでカンパニーでは、椅子の上に水が一杯入ったコップを置き、その水をこぼさないように歩く、という稽古をしているという。
しかし、誰がチャレンジしてもコップの水はこぼれ、それが出来ないので、何か方法は無いか、というものだ。
それはいたって簡単な事だ。
稽古でフォーサイスが拘っているのは、コップの水をこぼさないように歩くことだ。
しかし、本当に実現したい事は、舞台上で重心がブレることなく歩く、あるいは、「静か」が見えればよいというだけのことだ。
つまり、実現したい事と実現する為の稽古は全く違うということなのだが、拘っているばかりに、その事を見落としてしまったのだ。

では、どうしてこの混乱が起こったのか、と言えば、「重心」という言葉を知っていたことが、混乱の元だ。
重心がブレていようがブレていまいが、「静か」というシーンを実現する事は出来る。
意識がブレ無ければよいだけだからだ。
しかし、逆に重心がブレずに定まっている身体があったとしても「静か」なシーンが出来るとは限らないのだ。
つまり、実現できない原因は「重心」という幻想なのだ。

では、私はどうしたのかというと。
まず、椅子に乗せた水の一杯入ったコップを揺らさずに、そして水をこぼさずに運んだ。
フォーサイスやダンサー達は「どうやったのだ?」と不思議なものでも見るように私に聞いた。
丁度、カンパニーでのワークは「意識」という事をやっていた。
だから、この時の意識の一つに「胸骨をリーダーとして立ちあがる」があり、その次には、「任意のところに行く」という二つの意識の連なりで成功させたと説明した。
そして、フォーサイスのいう「静か」なシーンが出来ていた、つまり、私が水を一杯入ったコップを椅子に乗せ、それを零さずに運んだのが「静か」だったのだ。
もちろん、私は重心などに注意した事など全くない。
重心を注意するということなど、私の身体では理解出来ないからだ。
何故なら「重心」というのは、私にとっては抽象概念であり、物体に付随するだけのものだからだ。
もちろん、それが建築物であったり、なんらかの物理的物体であれば、その重心点そのものが強度と関係したりするので、問題になることが多々ある。
しかし、こと身体パフォーマンスに関しては、重心は概念の域を出ないのだ。
したがって、巷のワークショップやメソッドの言う、様々な身体安定のエクササイズは、エクササイズであって、それが直接役者の身体に役に立つというものでは無いという事になるのだ。
そのエクササイズをする事で、下半身の筋肉は丈夫になるだろうが、その事と安定した身体、役者としての身体は全く別のものなのである。
安定した身体なり、役者の身体というのは、全てが「意識」の問題なのである。
それは繰り返しになるが、舞台上で自分のやるべき事をやるのではなく、やるべき事をやっている「つもり」あるいは「思っている」状態の人の事である。
つまり、その役そのものになっていない、ダンスそのものになっていないということ、つまり、「自分の頭の中で全て完結している人には存在感が無い」ということである。
日常を過ごす自分をよく観察してみれば、答えは自ずと分かる筈である。

 

演劇人類学を読んで
「表現」を特別扱いすることから混乱が始まる

*演劇人類学とは、個人あるいは全体の伝統的慣習や、様々な役柄やジャンルの根本となる、舞台空間での表現者の前表現段階での行動を研究するものである。
ある設定をされた表現の場においては、表現者の身体的、精神的な存在感は、日常にあてはまる原理、法則とは違ったそれに則って形成されている。この非日常的な心身の使い方を、技術あるいはテクニックと呼ぶのである。…。

「そもそも、表現の場ということと、日常とを区別しているところに、新たな技術が必要だという発想が生まれるだけであって、それは日常そのものをどう分析するのか、の分析力が貧しいだけである。
また、非日常的な心身の使い方、という非常に心地よい響き、そしてその言葉が持つ幻想の世界に惑わされるが、非日常的な心身の使い方など、非日常なのだからもとからこの世にある筈も無い。
この言葉そのものに既に矛盾があるのだ。
その矛盾は、どうして生じるかと言えば、表現と言う現場そのものに対する幻想や認識不足が、言葉の持つニュアンスを現実だと錯覚させているのである。
舞台という場は、表現を見せる特殊な場には違いない。
そして、上演される演目も特殊であり、非日常である。
その意味では非日常であり、非日常的心身の使い方と言える。
しかし、表現する人間は、非日常に生きているのではなく、日常に生きており、舞台に出演するのも買い物に行くのも、恋人と語るのも、舞台で相手役と語るのも同じ日常である。
要は、「表現」という実際をどう捉えるのかという問題である。
非日常という言葉がまかり通るのは、日常での表現は、舞台での表現とは別次元であるという考え方だ。
あるいは、日常では表現が行われていなくて、舞台でのみ表現という行為が行われているという考え方である。
しかし、それは大いなる間違いである。
つまり、先ほどの日常ということに対しての観察力が余りにも乏しいということに他ならないのだ。
つまり、いくら新しい言葉を生み出しても、新しい理論を生み出しても、現場としての舞台に立つ人間が進化したり演技が深くなったりすることはないということだ。
舞台に立つ人間が進化成長する、あるいは、重要なパフォーマンスが展開できる為には、いかに舞台上にリアリティを持ち込めるかに掛っているだけである。
もちろん、そこを追及する為のトレーニングは必要だがそれは肉体トレーニングではない。
意識そのものをどう使えるかだけである。
そして、関係性が見えるかどうかである。 」

「芝居は聞くもの、そして関係性」

先日俳優の平岡さんと話をしている時、イギリスでは芝居を聞くという、と興味深い話をしてくれた。
聞くとなると、声、となる。
というところで、声を出す方法ということに走る。
しかし、それは間違っている。
その声が出る身体ではなく、その役だからその声なのだ。
そして、一番大切なのは、関係性だ。
関係性が見える手立てとして声があり台詞があるのであって、声が単独であるのでも台詞が単独で有るのでもないのだ。
もちろん、それはダンスとて同じだ。
何らかの関係性が見える、あるいは、感じられる手立てとして、ダンスがあるのだ。
難しいのは、舞台上での関係性と、舞台と観客との関係という二重の関係性を表現できなければダメだというところだ。
そして、そのことが冒頭の「存在感」に繋がり、観客から見て「存在感がある」ということになるのである。
存在感がある、それこそが観客と関係性がある、ということの証なのだ。

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