人との関係性をよくする為に

東京都江東区森下3丁目
11-12千葉ビル1F
東京教室

大阪市北区中崎2-3-29
らこてん中崎内(毎週水)
大阪教室

 ぶどう塾 こころを鍛える からだを鍛える  

■2007〜2013合宿

2013夏合宿

2013 夏合宿。
今年は、フランスから 3 人が参加した。
他にもフランスから参加希望者がいたが、仕事の関係で都合がつかなく「来年は絶対にいくから」と断念した。
果たして彼らが来ていたら、合宿はどんなことになっていたのか。
言葉が通じないところから、テンヤワンヤは必至だ。
もちろん、それはそれで面白い事ではある。
途中からスペイン人も参加。

しかし、 6.7 年前等はダンサーの参加が多かったのだが「あれは一体何だったのか」という程、痕跡も無い。
海外では、真剣に学ぼうとしている人が増えているのに、全く逆の現象だ。
ま、日本ではそんなものだろう。

通年なら、様々な状況を設定し、身体操作の応用から始めるが、今回はフランス人がいたので、基本中の基本から始めた。
外国でのワークショップは、基本もやるが大方は基本から応用へと直ぐに移行する。
それは、退屈な基本よりも、応用の方が楽しく感じられるからだ。
で、真剣にやりたい、と思う人を選り分けているのだ。
先生方やキャリアの長い人、武道に対して疑問や問題を持っている人は、直ぐにそれに気付き、基本的なことを知りたがる。
来日したフランス人やスペイン人も、その真剣組だ。
基本稽古は、生徒たちにとっても、私にとっても有意義な事だった。
こんなことは、教室に通うものなら誰にでも出来ているだろう、と思う様な事が甘かったり、全く出来ていなかったりをチェック出来たからだ。

今回の一番の年配者は、 55 歳の女性だ。
体力が持たないかも、と事前に歩いたり走ったりと、体力をつけて合宿に臨んでくれた。
生徒達の日常は、当然の事ながら様々な仕事を持つ。
公務員や会社員、職人や空手の先生等色々だ。
会社員といっても、事務系から営業、 IT 関連、建設会社の現場監督と一言では括れない。
その現場監督の話しだが、職場では「自分で仕事を考える」ということが出来ない若い人が多いという。
指示された事を鵜呑みにするだけだそうだ。
それは、私は 20 数年前から気付いていた。
だから、その傾向が顕著に表れるようになっただけだ。
つまり、大多数がそうなって来ているということだ。
そんなことは、合宿の中でもよく見かける。
「今」「自分」は「どこにいて」「何をしているのか」であれば「自分」は「何をやらなければいけないのか(どんな役目を担うのか)」ということを常に話す。
私自身の体験からの話。
私の先輩から聞いた話。
色々な事例を出し話す。
しかし、その言葉は、頭の中には入っているのだろうが、実際の行動としてはあまり見えてこない。
「話」と「自分」、「他人」と「自分」を結びつける術を、体験的に持っていないのだろう。
だから「話」を話としてしか聞けないのだろう。
もったいない事だ。
みすみす自分の成長の機会を逃しているのだから。

応点や三角形、突き、距離のとり方。
身体を錯覚させる方法。
相手との繋がり。
肘を抜く、肘のコントロール。
何と言っても考え方をノートに記す方法など、かなり深い話を盛り込んだ。
以前「守・破・離」に付いて、図を書いて稽古法を説明したが、果たしてどうだろう。

いくら合宿だとは言っても、時間に限りがある。
一つの事に割ける時間も限られている。
そんな話や実際も交えて、合宿は進んだ。
途中、「円容拳」の型を、黒帯全員がやった。
それを見ていて、私も最初はこうだったのかな?と思ったがしかし、まるで記憶に無い。

フランス人やスペイン人が参加しているので、改めて武道というのは全て関係性の中で成り立っている、ということの説明や、そこを重点的に稽古をした。
もちろん、関係性のことは全て言葉で理解出来る。
言葉で伝えられることしか話せないからだ。
だから、実際に出来るかどうかは別だ。
自分では出来ていると思っても、実際には自分は出来ている、と「思っているだけ」だ。
それも含めて、他人を見ることで実際を知る。
もちろん、他人のやっているのを見ても、上っ面しか分からない人もいる。
そこは仕方が無い。
毎年合宿は、かなり中味が濃い。
稽古の合間に、新しく参加している人達に人を観察し、見えている事を説明する。
人の見方だ。「他人」を見ることで「自分」を知るという実際だ。
セクションが終わるごとに、フランス人はノートに何やら書きとめていた。
時折、「これはこうだったか?」と質問を繰り出す。
そんな一時が、一番の安らぎの時間だ。
好きな武道の話。
武道の実際の話。
それをしたいから、集まっている筈なのだが。

合宿が終わり、お礼のメールが届く。
ある参加者からのメールに嬉しい記述があったので抜粋した。

「…何時もは技術的な反省点ばかりが浮かぶのですが、今日は何時もの相手と練習をした時、今までとはまるで違う体の感触が忘れられず不思議な感じがしました。
…今日の練習では、今までより遥かに相手の動きを繊細に感じていたのではないかと思います。これが本当にそうだったのかは分かりませんが、今はポジティブに、「きっとそうだった」と捉えています。
そう気付いた瞬間に、とてつもない感動に包まれて涙があふれてきて、シャワーを浴びながら号泣してしまいました。
……「ダメ、悔しい、何かがいけない」という単純な回路にならずに「不思議な感触」に気づけたこと、そしてもう一つは先生のおっしゃっていた「人間はスーパーマン」というように、人には計り知れないものがあるという事に、実際の練習の中でほんの少しですが触れることができ、「本当だっ!!」と驚きと感動が私の体全体に大きな衝撃を与えました。
生き物すべてにその力があると思うと、ただただ「本当にすごい!」としか言いようがありません。しかも、今日の感動は氷山の一角だと思うと、これから出会えるかもしれない感動と未知の力の大きさにワクワクしてしまいます。」

以前、ダンサーやアクター達が多数参加していたと書いたが、このような実感を掴んで欲しかったのだ。
もちろん、メールの主は教室に来て 4 年目になる。
そこまで、自分の可能性に対して信じられなかったのだろうし、自分に対して好奇心も期待もしていなかったのだろう。
何よりも、「出来ない・出来る」という表面的なことしか見えてなかったのだろう。
見えていることは、見えないことの積み重ねだと考えられなかったのだろう。
もちろん、武道に取り組んでいる人達も、だてに時間だけを費やしているだけで、こういった肝心のことを頭にしまっているだけの人が多い。
「出来る・出来ない」と「自分が身体で発見した感動」その違いは、男と女の違いほどの根本的な違いだ。
何時になれば、価値観の転換が出来るのか。

人間関係     武道教室   身体操作   

2012夏合宿 8月11日〜14日

昨日(8月11日)から毎年の合宿が始まった。
基本の稽古に気持ちの良い汗を流している。
洪水警報やがけ崩れ警報が一昨日から出ていたので、どうなることかと思っていたが、列車の遅延だけですんだ。

基本というのは、一番簡単なことを言うのではない。
自分でも予想できないレベルへ行く為のものだ。
つまり、一番難しいことを、一番簡単な形式で行うのが基本である。
大方の場合は、そこのところが理解されていない。
それはきっと学校教育的発想があるからだろう。
一番難しいからこそ、最初からやっていなければ、目指すところに辿り着くことも無い。
私の教室の古い人達は、そこのところを理解しているが、新しい人は中々理解できない。
頭が切り替えられないのだ。

刀の型を使ってやる。
最近あまりやっていない刀の稽古に、初めての人達は四苦八苦している。
それを見ていて、やはり「動き」には型が必要だとつくづく感じた。
今回は、武道に低通する「関係性」を徹底的に訓練して見た。
形としては単純なので、誰でも手を付けることが出来るが、中味が余りにも濃く四苦八苦するのだ。

関係性なる言葉は、それこそどこにでもある。
ダンスでも演劇にもある。
しかし、関係性とはいうものの、誰がどのように判断し、あるいは検証する方法があるのか。
大方は、それぞれのジャンルのカンパニーや私のようにワークショップを主宰する人が判断する。
それであれば、主宰する人の判断だけであって、客観的な判断ではない。だから判断を信用できない。
誰が見ても明らかな判断でなければ嘘だ。
そうすると、まず判断基準となる「関係性」の手本が必要だし、それを判断できる感覚を育てることが必要だ。
大阪教室に古くから通っている男性と、最近東京教室に来る男性が組み、その関係性に取り組んだ。
数 10 分見ていたら、良い方向に進んでいった。
そこでその組みに「何となく感じが分かりますか」と声をかけてみたら、新しい東京の男性は「分かりません」と正直な答えを返してくれた。
分かりません、は正しい表現だ。
ただ感じるということに集中しているだけの筈だからだ。
その後も様子を見ていたら、案の定どの組よりも早く、関係性そのものが出来上がっていった。
そこで、全員を相手に「その感覚」が使えるのかどうかを試す。
そんなことの繰り返しが、全員のレベルを上げていく。
それを掴み難い組は、どうして掴み難くなっているのかと言うと、言葉数がやたらと多いことだ。
説明の言葉がやたらと多い。
それと現象での形にしか注意が向いていないことだ。
だから、現象としての形にばかり注意がいく。
結果、その本質は全くそこに含まれないことになる。
現象はその言葉通り現象だ。
だから、現象を修正するのではなく、原因に気付いていかなければどうにもならない。
しかし、そこが難しいところでもある。
見えているのは、いや、見ようとしているのが現象だけだからだ。
「どうしてそうなるのか?」
そこを一歩踏み込まなければ、永久に現象だけ、つまり、形だけ、運動だけでしかなく、成長を望める筈も無いのだ。

12 日には、先日全国少年少女レスリング大会で、 2 位の成績を収めた兄弟が父親と共に参加した。
折角なので、その兄弟も刀での稽古を体験させた。
本当に頭へ打ち込む、それを察知して動く。
この稽古は、何よりも集中力が高まる。
意外と子供は楽しんで遊ぶ。
だから、直ぐに何かを掴む。
そんなところを大人たちは見習って欲しいものだ。

やっぱり、宴会は盛り上がった。
しかし初日は、午前 2 時 30 分で切り上げた。
明日も明後日も、きっと盛り上がるからだ。
初めて参加した人は、合宿に来て良かったと本当に楽しんでいた。
それは、一つのテーマを角度を変えて取り組むからだ。
だから、初めは分からなかっても、角度を変えれば「あっ、そうか」となれるからだ。
空手をやっていた人や、合気道、居合い他様々な前歴を持つ人達。
そんな人達は、自分自身の抱える問題が明確だから、合宿のような稽古方法を楽しむ。

合宿最後の夜、シャワーを浴び食事を終えると倍音声明だ。
これも毎年やっているが、良い響きになるときと、「なんやこれ」になる時がある。
合宿常連者は、その意味で毎年楽しみにしている。
もちろん、良い響きになるに越したことは無いが、それはその時にならなければ全く分からない。
今年の声明は、数年ぶりの最高の響きだった。
天井から倍音が、皆の身体に美しく降ってきた。
その一時の穏やかな感覚に酔いしれた。

終われば、打ち上げの宴会。
カラオケよろしく、歌合戦で宴会の幕を閉じた。
合宿で成長した人、何かを掴んだ人、問題を持った人、それらは様々だが、何よりも 1 年に一回の合宿を楽しみ、そして再会を楽しみにする。
そんな素晴らしい仲間だということを再確認し、それぞれの帰路に着いた。

合宿参加の一番古い人で 10 年。
そんな人達も、今では結婚をしている。
つまり、平均年齢がどんどん上がるということだ。
ただ前回も、今回も参加してくれた 18 歳の女性が、一人で平均年齢を下げてくれている。
「こんなマニアックな道場に誰も来ないで」
そんな話でも大いに盛り上がった。

武道教室   身体操作   人間関係   

2011夏合宿

人は何を見て、どんな言葉に翻訳するのか。
結局は、そんなことに焦点があたってしまう。
それは組み稽古で、お互いにアドバイスのしあいをさせるからだ。
二人の組み稽古から、多人数グループの稽古になると、お互いの口から出てくる言葉が問題になる。
よく聞いていると、見た印象でしかない。
あるいは、相撲の解説の如く結果論の羅列だ。
つまり、アドバイスにはならないのだ。
それは、どこででも見かける風景で、何も特別なことではない。
印象などどうでも良い。
出来ない原因を見つけ出さなければ、技術が出来上がっていくことなど絶対に無い。
何がどう間違っているのか。
そこを具体的に提示できなければ、言われた人も言われたことを「思うだけ」に留まり、 10 回やっても 20 回やっても同じ間違い、同じ事をやり続けることになる。
「この動きのポイントをしっかり確認すること、相手との位置関係を明確にすること」
取りあえず、的をその 2 点に絞らせてやらせた。
しかし、人は自分の理解出来ること、自分の印象に残ることにしか意識は向かない。
つまり、実力差が言葉として表れる、ということになるのだ。
だから、いくら的を絞らせても、その的の中の「自分の見えていること」になり、的を絞り込んだ意味が消えてしまう。
その印象にしても、結果論にしても、正しいというものではない。
それぞれの視点、それはその人のクセであったり、価値観の集積だ。
その意味で、誰もそのものを見ているとは言えないのだ。
もちろん、それに気付いていくこと。
それが日野武道研究所の稽古の側面でもある。
今回の合宿では、 17 歳の武道経験の全くない女性が参加していた。
人数の関係で、私が彼女と組み稽古をすることが多かった。
何しろ、武道経験が無いから、武道的なことを話しても、何も分からないし、分かったところで出来ないのだから、それも意味が無い。
だから、具体的なポイントとざっくりとした動きを教える。
すると、武道を知らない彼女の目は、動きを容易に覚えさせ、誰よりも早く動きが出来るようになる。
素直な目や、素直な取り組み方が出来る特権だ。
方や武道を知っていて、武道的な動きも理解している先輩達は、中々出来ない。
それを見ていると、やはり自分自身で分かる細部に拘ってしまって、身動き取れない状態になっているのだ。
客観的な視点を持つことが、どれほど難しいのかということだ。
つまり、ここで分かることは、 17 歳の女性のように、素直な目と素直な取り組みが必要で、そして、細部をより深く考える力だ。
つまり、意識を明確に切り替えられなければ、技術の修得は難しいということでもあるのだ。
そして、ザックリとした全体像を捉える力。俯瞰力とでもいうか。
それが大事なのだ。
ラフスケッチを何枚も描き、全体イメージを捉えていく、という手法だ。
こういった「学び方」を知らずに、やみくもに練習量を積んだところで、細部の側面は出来たとしても全体は仕上がらないのだ。

8 月 12 日

道場を拭き上げた頃、大阪組の一人が早い到着。
車だから混むと思い早めに家を出たそうだ。
しばらくすると、車の二人目、そしてバスで東京組みが到着。
今回は型の手直しをやろうと思っていたので、取りあえず型から始めた。
一通りの動きの後、分解をする。
分解はあくまでもその型に沿った動きでしかない。
そこに含まれている要素は、要素だからそこから生み出されるものは、ある意味で無限だ。
それを様々な角度から探求していくのが、日野武道研究所の稽古だ。
30 分ほどの休憩を入れ、夜の食事の 8 時までぶっ通しだ。
そこのセクションでは、要素として重要な「体重を落とす」を特訓した。
それを突きに応用したり、投げに応用したりだ。大阪教室の一人は、浸透する突きを一応完成させた
食事後は 11 時頃まで稽古は続く。
「ありがとうございました」でシャワー。
そこから深夜 3 時に終わるか、明け方まで続くか分からない飲み会が始まる。
それぞれの近況報告や、事件など大笑いで盛り上がる。
「あかん、もう寝ようや、朝稽古がでけへんで」

8 月 13 日

今日から東京の役者 2 人と大阪の一人が合流する。
前日に引き続いて、体重を落とすを重点的にやった。
腕で言えば肘を動かす、ということが、重要なところだ。
ただ、肘を動かしてもどうにもならない。
全体の動きの中で、その動きの流れやリズムに乗っていなければ駄目だ。
つくづく思うのは、身体の各パーツを動かす練習は重要だが、全身との兼ね合い、全身移動との兼ね合いで操作できることが重要だ。
それこそが、「全身を使う」ということだからだ。
そうする為には、全身の動きに対して客観的な知覚点というべきものが必要になる。
その知覚点に注意をどれほど向けることが出来るかなのだ。
逆に言えば、自分のやりたいこと、やるべきこと、というような意識が支配している身体では駄目だということだ。
昨日の型の続きと分解をやる。腕が放たれる、ということがここでは重要な要素になる。
その為に、腕を放ることを集中的にする。単純に言えば、金槌を使う要領だ。
私の場合は、ドラミングからヒントを得た。
ドラミングと違う点は、スティックの先端に力が出なければならないのと、拳から力が出ないといけない、という違いだ。
拳から力を出すことの難しい点は、拳、つまり、手を握らなければならないことだ。
手を握ることで、腕が力んでしまうと、拳から力が出ない。
その辺りの工夫が大事だ。
夕食後の稽古は、意識の同調からの動作をやってみた。
むろんこれは武道の入り口だ。
しかし、表現というところで言えば、関係性の要素なので最重要事項だ。
目には見えないことなので、全員悪戦苦闘を繰り返していた。
やっかいなのは、芝居染みてくることだ。
稽古が終わり、また飲み会だ。
「今日は早く終わろうぜ」結局 2 時過ぎに寝た。

8 月 14 日

「体重を落とす」からの応用系として、相手のミットに拳を接着したままでの、体重移動を試みた。
みんなは、初めて眼にすることなので訳が分からない。
体重を落とす、ということに、摩擦を加えたとき、どんな威力があるのかの想像が尽かないからだ。
それぞれの混乱を経過して、工夫を重ね、その現象が出来るようになった。
様々な角度から取り組むメリットは、その積み重ねが、ある時その要素が見えてくるようになることだ。
角度を変えなければ、一つの方法が「技」だと錯覚してしまい、要素として捉えられなくなる。
音楽で言えば、非常に簡単に説明が付くのだが、残念ながら身体系は、武道やダンスも含めて、音楽ほど発達していないので言葉が無い。
音楽で言えば、一つのスケールに対しての練習曲のようなものだ。
それを沢山こなすことで、コード進行を体感できるようになる。
また、音楽系ということで言えば、ドミナントモーションという考え方がある。
それは、ドミナントからトニックやダイアトニックへ移行するということで、不安定から安定へという雰囲気に移るということだ。
そのことは、武道におけるバランスを崩すということや、ダンスにおけるオフバランスということと同じだ。
そういった事も、別の角度からのアプローチだから分かりやすい、イメージし易くなるのだ。
という、置き換える、という作業が出来るか出来ないかも技術修得の鍵でもある。
と同時に、置き換えられるということは、そのことの本質を把握しているのかいないのかの判別にも繋がるのだ。
もちろん、この作業は知っているからといっても出来ない。
だから日頃から、どんなことでも置き換えて考えるという訓練が大切なのだ。
もちろん、その置き換えが正しいのか間違っているのかを、使うことで相手の反応から知るという作業も必要だ。
稽古の仕方を見ていても面白い。
進んで出来ていそうな人に、相手をしてもらう人と、一度組んだ相手と最後まで続け、他の人には全く無関心な人がいる。
こんなことは、初歩中の初歩的なことなのだが、自分自身を矯正していくことをしなければ、何も進まない。
しかし、それも仕方の無いことだ。

8 月 15 日

仕事の都合で今日だけしか参加できない人もいる。
わざわざ 1 日の為に東京から参加する気持ちが嬉しい。
全員から突込みが入る人気者でもある。
今日は型の残りを分解していった。
刀や棒も稽古したかったのだが、それはまた次の合宿だ。
型のそれぞれには、それぞれの目的があると同時に、全ての型に共通する要素がある。
また、型を使う時の共通の要素もある。
もちろん、それらは層構造になっているので、同時進行だ。
稽古は、それら一つ一つをテーマにしてやらなければ、どうにもならない。
昼食の時、東京からの最後の一人が到着した。
「今日は Love is over やで」「ええ〜っ!」
稽古終了後の話に盛り上がる。
突きでの組み手をする時、やけに突っ込む者がいる。
それは、相手からのカウンターを全く想定していないからだ。
約束組み手であっても、それでは話にならない。
そこを修正していかなければ、その突っ込みでは相手は技術を獲得することが出来ないのだ。
技術はまず獲得するのが目的で、ざっくり獲得出来たら、それを徐々に壊していく。
その徐々にが無ければ、技術を考えながら修得することが出来ないのだ。
もちろん、立場を変えれば直ぐに分かることなのだが、残念ながらそれをしない。
思い切り突っ込んでこられたら、未熟な人はやれることもやれなくなる。
それは絶対にやってはいけないことだ。
夕食が終わったのが 9 時。
「先にシャワーしようか」
8 月 15 日は合宿にとって大事な日だ。
お盆ということもあるので、全員で先祖供養を声明でやるのだ。
毎年行っているが、中々うまくいかない。
上手くいかないというのは、倍音が天井から降ってこないということだ。
とんちんかんな声を出す人、自分だけの人、そんな人が混じっていると、天井から天使の声は降ってこない。
ここ数年、全く降ってこなかった。
という中で、声明が始まった。前半はあまり良くなかったが、後半久しぶりに天使の声が降ってきた。
終了後、合宿最後の夜の飲み会が始まった。明け方まで…。

8 月 16 日

最後の日は、意識同調だ。
これは、自分が無くならなければ出来ない。
自分を無くすと思うことではない。
相手を感じることに集中するだけだ。
そのものになるだけだ。やっかいなのは、それを意識的にやってしまうことだ。
身体を動かしてしまう、と同じだ。
それでは、同調しない。試行錯誤の時間が過ぎる。
この感覚を掴まなければ、相手と対立したままになる。
もちろん、難しい。
意識に支配されてしまうから、難しいのだ。
しかし、それは楽しい時間だ。とてもじゃないが出来ない、ということに挑戦していく。
だから、基礎を見直したり、考え直したり出来るのだ。
日野武道研究所での行き着く先はここだ。
昼食は、定番のオリジナルカレー。
みんな我先にとお代わりをする。
そして、解散。
お疲れ様。
みんなも旅で直ぐに稽古だから疲れただろうが、我々も年齢だから疲れが残る。
毎年合宿が終わった後思うことは、来年は出来るかな?だ。
今年も同じように、それを思う。

 
武道教室   身体操作   人間関係
ダンスワークショップ
 

2010夏合宿 8-13/16

毎年恒例の夏合宿。
恒例といっても何年になるのだろう?
10 年以上にはなるだろうか。
皆で顔を合わせば、そんな話になる。
「一番古い人は?」そんなところから、合宿といってもどちらかと言えば、東京教室と大阪教室の親睦会的要素の方が強いかもしれない。
今年は新しい顔もあり、稽古が盛り上がった。

自分の目の前で、自分に対して攻撃しようとする人がいると、相手の少しのブレも見逃さない。
何の話かと言うと、俗に言う「テレホンパンチ」や「テレホンキック」と言われていることで、予備動作がありパンチやキック他が、こちらに飛んでくるというものだ。
であれば、自分自身は相手の予備動作を見逃さないのであれば、自分の前にいる相手もそう見えている。
どうしてそこを練習しないのか、あるいは、どうして予備動作が起こるのか、それを徹底的に考え無ければ駄目だ。
しかし、それをしない、そこが疑問だ。
そこを問題視しない自分とは何なのか?
一日千秋の如く、まるで宗教のように稽古をしている自分は何なのか?
そんな話で、合宿は幕を開けた。
しかし、話は理解出来ても、実際に身体を動かし、相手と組み稽古が始まると、話は頭から飛んでしまう。
つくづく、頭で理解しても、実際にはどうすればよいのか、という回路は別のものなのだと感じる。

自分の身体に、相手からの負荷がかかる場所、そこに注意を向ける。
そして、身体のそれ以外の部位で、負荷のかかる場所に通じる道を探す。
それが連動や連関の実際だ。
その為に腕のねじれや縦系の連動を繰り返す。
腕のねじれも、縦系の連動も手段であって目的ではない。
この辺りの考え方は、どうすれば身に付くのか?
多分、その「考え方」という単独のものは身に付かないと思う。
単純な例で言えば、「一寸ダイエットをしなければ」と思うとする。
そして、三日坊主を繰り返しながらも、様々な方法を試みる。
しかし、どれも成功しない。
ここの原因は、目的が全く無いところだ。
「ダイエットをしなければ」という、どうでもいいようなことが目的だと、頭が勘違いしているだけだ。ダイエットを、というのは、その前に、自分にとって切実な問題がなければならない。
それは、検査数値が悪い、でもいいし、細身の服を着たい、でもいい。
とにかく、他人から見ればどうでもいいようなことでも、本人にとって「どうしても」ということ。他人から言われたもの、他人の言葉ではなく、自分のこころからそれが沸きあがってきたものが必要なのだ。
それが無いのに、雰囲気としてのダイエットをしよう、なのだから、成功などするはずもないのだ。
おかげで、その産業は繁盛するのだが。皆がダイエットを成功させれば、その産業は無くなってしまう。
手段自身が目的に取って代わった時、身に付くものはない、ということだ。
たとえ身に付いたとしても、それは手段の一つが身に付いただけだ。
だから、「次は何をすればいいのでしょう」になるのだ。

今年は人数が少し少なかったこと、そして、柔道の選手や格闘技の選手、それにダンサーも混じっていたことから、一つ一つの基本的な身体操法を丁寧にやった。
そして、そこからの実際的な応用へと繰り返す。
合宿の 4 日間の内、後半 2 日が晴れたくらいで、後は雨だった。
おかげで湿気がものすごくて、それが疲れの原因になったかもしれない。

棒を使った稽古は難しいが楽しい。
棒は胸骨で動かす。
単純には上半身で動かすのだ。
決して足の突っ張りで操るのではない。
最初に棒の運動線がある。
いわゆる型だ。
そこに、自分の動きを当てはめて行く。
一人でやると、ある程度それは出来るが、その棒を誰かがしっかり捕まえると、たちまち型崩れを起こし、腕力勝負になる。
原因は、身体操法が出来ていないからではなく、相手と衝突する力に対して反応し、「なにくそ」「あれっ」「負けないぞ」「投げてやる」「どうしよう」というような、心理が働くからだ。
それは、手の握りと足の突っ張りに現れる。
その二つの部位が必要以上に、緊張するのだ。
だから、力は外に出ない。力が入った状態になる。
だから身体は動かないし、相手にバランスされてしまうのだ。
もちろん、皆それは頭では理解している。
しかし、現実化するのは難しい。
というよりも至難の業かもしれない。
その心理的反応を起こさない為の一つには、発想を転換させれば良いと言う方法もある。
発想を転換するとは、別の価値観を持ってくるということだ。
そして、もう一つ同時に 3 点に注意を向けることだ。
一つは、棒そのものの握り、一つは、動くべき自分の上半身のポイント。
一つは、棒の動かし先を明確にする。
という 3 点だ。
言葉で並べると難しいようだが、これは必須能力だ。
これの厳密性が、力の出方や身体の動きが比例するからだ。

しかし、 2 日目の夜の宴会は盛り上がった。
結局終えたのは午前 4 時前くらいだった。
訳の分からないドゥワップコーラスが、朝方 4 時まで続いた。
ハーモニーもどきを付けて、一生懸命に歌うから、汗びっしょり。
おかげで余り酔わない。
一人がハッピーデーを歌った。
これはお任せ!
というのは、数年前のクリスマスコンサートの時、このハッピーデーを有志でコーラスを練習したからだ。
酔ってきたのは、お開きになってからだ。
席を立つと、全員酔いが回ったようだ。
私もフラフラ。訳の分からないドゥワップコーラスが勢いをつけ、歌うというよりおがりまくる。
「じゃかましいわ!」
を完全にかき消すドゥワップコーラス。
収集の付けようが無いので寝た。
棒を使った基本的な身体操作で、全員ぐったりなのに、全くダウンせずに最後までガチャガチャ。

今日も前半は、肘打ち連発だ。
酒が残っていた。
全員鏡の前で、椅子に座り肘打ち。
「とりあえず 200 回!」
こんな基本的な練習を徹底的に出来るのは、合宿しかない。
身体操法は、ある意味で数学のようなものだ。
だから、これが出来ていないと先に進めない、ということが起こる。
それを点検できるのが合宿なのだ。

相手に手を握られて引っ張られる。
それに付いていく。
握られた部位は微動だにしない。
日野武道研究所の定番の稽古だ。
ここでも重要なのは、握られている部位だ。
しかし、だからといってそこに注意が向くと、手から腕、そして肩が緊張する。
となると、そこにブレが生まれてしまう。
その時には、注意はその部位に向けるが、それ以外のところにも注意を注ぐ必要がある。
例えば、他の人を観察するなどだ。
そして、握られている相手を感じる。
つまり、常に 3 点に注意を向ける必要があるということだ。
ダンサー同士が組んで、徹底的に注意を出し合い稽古に励んでいた。
一人の動きが良くなった。
そこを本人が自覚しなければ、何が出来たのかが分からない。

夕方 3 時 40 分、全員バスや車で帰途に着いた。
湿度の関係が、今年は何時に無く疲れた。
稽古は、身体の使い方がメインだが、趣味で使う人、仕事で使う人、競技で使う人、それぞれによって、取り組み方もその時の目的も異なる。
その意味では、皆が一緒に稽古できる場合と出来ない場合がある。
今回は、そのことが如実に見えた。
例えば、趣味の人は身体操法が出来ても出来なくても支障が無い。
しかし、ダンサーはそのことを舞台で使おうとしている。
そこには、明らかな温度差がある。
もちろん、あって当然だ。
しかし、その人たちが組んで稽古をしたら、とんでもない方向に行くことがある。
それは、趣味の人が古くて、ダンサーが新しい場合だ。
古い人は、知っていることを言う。
しかし、それはダンサーにとって的確かどうかを判別できない。
だから、ダンサーにとってどうでもいいようなことに、時間を費やしてしまうことも起きる。
「さて、どうするものか」
これは、以前から気になっていた問題なのだが、それは、「分をわきまえる」という事が、実際に出来る人ばかりだという前提の下では問題にならない。
しかし、そういう人もいるが、そうではない人もいる。
もちろん、それを選り分けるというのも稽古だが、そうは言ってられない場合もある。
それは、個々の事情が異なり、ある人は、稽古がそのまま近々の仕事と直結していることもあるからだ。
そんな問題を、今回の合宿では明確に見えた。
ということは、個々が一つのテーマの中で「何を稽古しているのか」を、もっと明確にしなければいけない。
そこをどうすれば自覚化できるかだ。

「お疲れさま!」

人間関係  武道教室  身体操作    

2008−8・12〜15 夏合宿

2008−8・12〜15 夏合宿

 

イタリアから帰国して直ぐの夏合宿。
予定していたとはいえ少し疲れた。
一日早く、東京教室のみんなが乗り込んでくれた。
屋根の修理がはかどらないと言っていたから、気を使って修理の手伝いに来てくれたのだ。
屋根は、思いのほか傷んでいて、屋根を剥がしたとたん「こらあかん」と思った。
即刻材木屋に材料を発注。
ワークショップ後、ごそごそとやるしかない。

今回の夏合宿では、何をテーマにするかは、全く考えていなかった。
その前が余りにも忙しかったので、その余裕がなかったからだ。
しかし、 BAB ジャパンから DV を出して欲しい、と何年も前から頼まれていたのを収録することになったので、その DV のテーマである「対人関係」を稽古することに決めた。
もちろん、 DV に撮ることを稽古するのではない。
私は基本的には、常に「即興」だからだ。

 

相手に腕を握られる、という条件から、相手を明確に感じなければ、相手は無意識的に反応し、予期せぬ攻撃を仕掛けてくる。
したがって、絶対条件は明確に相手と接して入る部位を感じ、尚且つ、その部位を微動だにさせないこと、これが絶対条件になる。
ということは、自分勝手な動き方をすれば、絶対に駄目だということになる。
ここで曲者は「相手が接している部位を微動だにさせない」だ。
これはパントマイムの如く、具体的に動かないということではなく、もっと難しい「相手が、こちらと接している部位を、動いているように感じてはいけない」という条件だ。
こういった条件が、精密でデリケートな身体感覚、身体運動を養うのだ。
その握られた腕を通して、相手に対してこちらの体重を移動させる。
とどうなるか。
相手は無意識的な反射をすることなく、こちらの体重が相手に移動し崩れ落ちるのだ。

 

ほんとうに、うちの稽古は地味だ。
それは仕方が無い。
「本当に出来る」を身に付けようと思えば、ひたすら地味な稽古を繰り返すしかないからだ。
もう一つは、「何が分らなくて、何が出来ていないのか」を自分の身体で探し出すしかない。
また、組稽古が一つのメインでもある。
「相手に働きかけているのか」だ。
見た目には、自分の前に相手がいる。
そこに突き、あるいは、組技をしかける。
だから、一般的には「相手に働きかけている」ことになる。
しかし、相手に働きかけるとはそういうことではない。
それは、一つの条件、あるいは約束がそう見せているだけであって、自分自身の気持ちなり意思なりが相手に働きかけているのではない。
そこを突き詰めていくのも稽古だ。
実際問題、相手にきちんと働きかけている人は稀有だ。
だから、そこだけを取り出して稽古を積み重ねていくしかない。
そこだけを取り出しているのが「武禅」だ。
相手にひたすら声をかける。
ひたすらだ。
ただ武道の場合は、日常的な働きかけでは話しにならない。
俗にいう「鬼気迫る気迫」が必要なのだ。
つまり、旺盛な生命力を源とする本質的なものだ。
そんなことを繰り返し、あるいは、混ぜながら合宿は進行した。
また、何時もそうだが、今回も皆で考え一番良い方法を探すという作業をした。
それぞれ異なった視点、あるいは、レベル差から出てくる言葉が違う。
それを理解する。
そのことで、自分のレベルを知る、という訓練だ。
打ち上げ前日の夜、相手とコンタクトをする、相手と意識同調する、という稽古をダンサー達だけに行った。
イタリアから参加していた女性もいたので、練習方法を知っていれば帰国しても稽古が出来るだろう、と思ったからだ。
「やさしい気持ちになりました」
と飛び上がって喜んでいた。
その稽古中、何かに気付いたダンサーがいた。
「やった!」
という気持ちになった。
見ている誰もが、その男性の身体がクリアに見えると言ったからだ。
どうしてそうなったのか。
頭の中が空っぽだったからだ。
空っぽというのは、
「こうしよう、ああしよう」とか「どう見えているだろう」とか、「うまくしなければ」とか、「こんな気持ちで」といったような、最低の雑念が消えていた、ということだ。
当たり前だ。
これらの雑念があると、何が見えているかと言えば、その人の顔だけ、あるいは、頭部だけしか見えないのだ。
やっと、ダンサーが一人舞台に立てる身体を手に入れた。
もちろん、まだまだこれから本格的に「動き」をやりながら、この状態を維持できるかどうかを試したり、更新させたりしなければならないが。
しかし、コンタクトの感覚を実感したのは事実だから、何かがあればそこに戻ればよい。
しかし、そう見えているのは「私」であって、彼ではない。
一体彼は、何を感じ取り、どう自分のものにしていくのか。
そう易々とは、自分のものに出来るとは思わないが、出来るだけ早く自分のものにして貰いたいものだ。
どうして、そう易々とは出来ないのかといえば、今までの自分の考え方が、実感したことを捻じ曲げていくからだ。
考え方が間違っている、という気付きも難しい。
結局「出来た」「出来ない」というレベルでしか、頭を働かせることは出来ないのだ。
それが一番大きな壁だ。
実感したことをそのまま身体に置いておく、記憶に留めておくというのは、至難の業だ。
ということも、きっと知らないだろうから、つまり、そんな体験を山ほど積んでいないだろうから、易々とではないのだ。
結局のところ、自分の頭との勝負なのだ。

怪我人もなく、今年の合宿も無事終えた。

沖縄、イタリア、と続いての合宿は、さすがにこたえる。
この後に、 1 週間のワークショップ、そしてショーケースと続く。
来年も夏はこのスケジュールで動くのなら、合宿は無しや!身体がもてへんで!

人間関係 武道教室 身体操作
 
 

2007-8 ・ 12 〜 15 日 夏合宿 

2007-8 ・ 12 〜 15 日 夏合宿 

 

13 回目の夏合宿。
ということは、合宿を企画してもう 13 年になるということだ。
13 年前のことを少し思い出して、皆に話をした。
しかし、その話をする中で「何時も、同じことをしているなぁ」と感じた。
同じことしか稽古をすることはない。
つまり、それは本質だからだ。
「技」と称する手練手管をいくら覚えたところで、現場がないものには意味がない。
したがって、私の道場ではそこに価値を置いていない。
武道そのものには現場はないが、武道の本質はどの現場にも応用が効く。
そこを指導しているのだから、当然自分の持つ現場という視点で取り組まなければどうにもならない。
役者は役者の目で、ダンサーはダンサーの目で、サラリーマンはその目でである。
つまり、自分の立場に立って取り組むということだ。

でなければ、色々と提示するテーマが、そのテーマというものになり、数学の為の数学、武道の為の武道、という自分の日常とはかけ離れたものになってしまうからだ。
そのことを、知らず知らずに分かっている人は、例えば「この体重の移動一つで、多くのヒントがあります」という。
しかし、それを分かっていない人は、ただ体重の移動を上手くなるためにやっているだけに過ぎない。
そういった人は上手くなるはずも、出来るようになるはずもない。なにしろ、使う場所を持っていない、あるいは、日常で使おうと考えていないからだ。

今回は、「間違う」ということを徹底した。というよりも、指示に対しての取り組み方が余りにも曖昧だったから、「間違いを知る」を徹底したのだ。
稽古の定番の一つで、掌を互いに合わせ、どちらかリーダーになりそのリーダーの通りに動く。条件としては、互いの掌を絶対に動かさない、その一つである。そう指示を出すと、みんなは直ぐに色々な動きをする。
それを見ていて「一寸待って、本当に掌は動いていないのか?」私には微妙なずれも見えてしまう。
というよりも、掌に注意は向かず動きに熱中しているのが見えるからである。

そういうと、皆は改めて互いの掌に注意を向ける。しかし、注意が向いているだけであって、掌のズレには注意が向いていない。
「掌がズレているのを分かっているのか ? 掌がズレているというのは、どんな感触なのか分かっているのか?」と皆に問うと、沈黙した。
「であれば、まず最初にそのズレているという状態を知らなければ、ズレていない、つまり、掌が本当に合わさっている状態にはならないだろう」という流れの中で、「間違いを知る」つまり、間違いを知っていなければ正解には辿り着けない、を実際として行うことを指示したのだ。

というように、全てを厳密にしていくのが合宿だ。
そのことで、自分の何が抜けているのかを知る、それが目的だ。そして、最も大切なことは、掌に注意が向いていない点で、それは、そこを意識的に表現として使うことが出来ない、ということなのだ。
武道で言えば、腕を伸ばしているだけで「突き」には、なっていないということだ。だから、徹底的にそこを注意するのだ。

 

 

参加者中一番の年長者は、私と同い年の男性だ。
武道歴 40 数年で、もちろんある武道の師範だ。
「とにかく、自分のやっていることは間違っている。
だから、自分の考えている事の反対をしてみようと、いつも思っている」と、夜みんなに話してくれた。
ここが一番大切なところだ。
「自分のやっていることが間違っている」のか、「方法が間違っている」と思っているのか、この開きはどうにも埋まらない溝だし、成長するのかしないのかの分水嶺でもある。
この「間違いをやってみる」を、一番的確にやっていたのは、この男性だった。
結果、大きなヒントを得ることになった。

相手に本気で向かう。この言葉は余りにも抽象的で、みんなはピンと来ない。特に女性は、ピンと来ない。
であれば、どうして人と関われることが出来るのか、だ。
もちろん、それが人の基本であり、生きるための基本だ。
武禅での「声を届ける」武道での「突き」が、それを実感するためのものだ。
合宿でも「ナマムギ」が響き渡った。

自分が今取り組んでいることの難しさに気付いた一人が、皆にそれを披露。
理解できるか出来ないかは別にして、男性の話を聞く。
そのことが、その男性のレベルになったとき気付くのだ。
そして、同時に自分の進路の灯台にもなるのだ。

腕を掴み、相手の動き出しに別の動きを加える。
タイミングではなく、相手の意志を察知しこちらは行動を起こす稽古だ。
コンタクトということでの、実際だ。
相手の動きではなく、それ以前の意志とコンタクトを取る。
もちろん、これも一番必要なのは掌の感受性だ。
それぞれが、出来ている人を観察したり、質問したりで、工夫を凝らし上達していく。

声明。
毎年お盆だから先祖供養もかねて行う。
それぞれの人の真言を探し出し、倍音声明になる。
六角の天井から、倍音が降り注ぐ。
身体中がその音に洗い流されていく。

名物、竹刀の多人数掛け。いかに自分の注意力は散漫かを思い知る。
さらに、多人数に見られている自分をどうコントロールするか。
表現の現場そのものだ。

合宿最後の夜は、炊き込みご飯。17人分の食卓は豪快だ。今回はみんな良く食べた。この夜食は18合。

稽古が終わると、懇親会だ。
連日明け方まで楽しく騒いだ。
広島からわざわざ合宿の為にと送ってくれた日本酒。
その人情の味に宴は一段と盛り上がった。
コネクトする。
その身体の不思議な現象に、大騒ぎ。
これも合宿の名物の一つだ。
台所を一手に引き受ける妻の膝は、少しヤバイ状態。来年は持たないかも……。

合宿のまとめ1
合宿のまとめ2

合宿のまとめ3


●日野武道研究所サイトマップ/English

武禅一の行
・ 武禅で何をするの
・ 行会案内
・ 参加者のレポートから
・ 武禅の一日

武道塾
・ 武の存在意味
・ 武道に極意なし
・ 武道的対人論
・ 合宿レポート
・ 教室 
・合気道研究

●海外での指導

身体塾
・ 骨格で考えよう
・ 身体を連動させる
・ 身体の法則性
・ 身体の学び方
・ 表現者へ
●海外での指導

●武道を学校に導入?
●稽古と意識
●ギエムという芸術
●文楽は武道だ
●胸骨トレーニング
●メンタルトレーニング?
●トレーニングとは?
●稽古と学ぶ
●故伊藤先生のこと
フォーサイスカンパニーでの一週間

●練習の仕方

●過去のワークショップ一覧


・日野晃の著作物/DVD他

・メディアでの紹介

・予定表

・ブログ(毎日更新)

・グッズ・本やDVD・Tシャツ販売

・リンク

・過去の更新履歴

・お問い合わせ

アクセスカウンター
ボディピアス通販カラコンネックレス時計買取ウォッチング