2012京都ワークショップまとめ

昨年は外国が忙しくて、他人任せの京都でのワークショップは流れてしまった。
おかげで関西方面の多くの人から「無いの?」と催促メールが届いていた。
で、今回の京都は、私達の手でやることになった。
しかし、京都と道場を行ったり来たりが難しいので、京都在住で俳優の平岡秀幸さんに全面的に手伝って貰った。
おかげで、急な開催にも関らず、良い場所がみつかり、今回の開催にこぎつけられた。

私のワークの殆どは、人との関わり、ということをメインにしている。
それはワークを通して、もっと人との関係を真剣に見つめなおして欲しいからだ。
にも拘らず、昨年ワークが流れてしまった。
つまり、主催してくれた人は、「人との関わり」を現実の日常として、全く理解していなかったということだ。
こういったワークショップを開くということは、そこに何らかの関係が生まれる、あるいは、生まれる種をまいたということだ。
だから、それは育てていかなければ育たないのだ。
したがって、気分でやれるものではない。
もちろん、全てのきっかけは気分かもしれない。
しかし、一度幕を開けるとそれは個人の気分を通り越し、否応なしに他人との関わりが出てくる。
それを大切にしていくことが大事なのだが、そのことを優先するのではなく、自分の気分や自分のやりたいこと、やりたくないことを優先するのが、昨今の風潮になっている。
それは間違いだ。
それしかやらないから自分の枠から出ることが出来ないのだ。
もちろん、そんなことを理解出来る感性はない。
しかし、ここ数年、出会う人達はそんな人達ばかりだ。
つくづく嫌になる。
横浜から参加してくれていたミュージシャンが
「あれ、昨年の公演に出ていたダンサー達は?」
「来てるよ、 3 人」
「何で?」
そう、皆にとっては単に一過性のものだったのだ。
とそのミュージシャンを呆れさせていた。
そんな中で、ワークショップに常に顔を出してくれる、俳優の平岡さんとワークをするのは一服の清涼剤だ。
また、ダンスの先生や、設計師、整体師、パティシェ、音楽家、普通のサラリーマン、教師など、ダンサー以外の人達が、私のワークを必要としてくれる。
ダンサーではないのだ。
これは何とも皮肉な話だ。
それを考えると、私が何か間違っているとしか言いようが無い。
なまじフォーサイスカンパニーと関ったことが、ダンスの世界と関るきっかけだった。
そのフォーサイスカンパニーのダンサー達と、日本のダンサー達が同じ土俵に上がっていると思った間違いだ。
としか言いようがない。

今回は、青年団の松田さんが、公演の合間を縫ってわざわざ参加してくれた。
そんなことも嬉しい事の一つだ。
常々平岡さんと松田さんを引き合わせたいと思っていたからだ。
それが今回の京都で会うとは思っていなかったので、嬉しさもひとしおだ。
ベテランで芝居のこと表現のことを、真摯に考えている人同士が出会うのは、新しい何かが生まれるキッカケになる。
二人は嬉々としてワークを楽しんでくれていた。
「もっと真剣にやらなければ駄目なんですよね」
「当たり前やんけ、何を今更」
で大笑い。
打ち上げでも、芝居談義に華が咲き、この人とこの人ともと構想が広がっていた。

4 月 21 日

遠くは熊本や広島に岡山、愛知、東京他から 3 日間しかないワークにわざわざ京都へ来てくれた。
もちろん、地元京都の人達も沢山いた。
総合格闘技 8 年という女性もいた。
初めてワークに参加する人も 1/3 はいた。
頭の中では 3 日間しかないと分かっているから、どんどんワークを進めようと思ったが、始めるとやはり一つのことを丁寧にやってしまう。
おかげでかなり集中された場になって行った。
初めての人は戸惑いっぱなしの 2 時間 30 分。
ワークに顔を出してくれている人にとっては、やっぱり戸惑う 2 時間 30 分。
しかし、身体の不思議、あるいは、自分の意識の頑固さに気付き、笑い声が絶えない和やかな雰囲気に包まれた 2 時間 30 分だ。
身体塾はまだしも、関係塾となると「自分勝手にするな」という絶対的な前提があるから、何も進まない。
その事が駄目なように、あるいは間違っているように、初めての人は捉える。
しかし、それで良い。
「自分勝手にしない」ことなど、自分勝手にしている自分を自分の手で発見しない限り、そこをクリアすることなど出来ないからだ。
その事に気付き、自分の行為の全ては自分勝手である、ということを認識すれば良いだけだ。
もちろん、その事も難しい。
しかし傑作だったのは、役者の平岡さんが正面向かい合いの中で、円陣を組み一人ひとり対峙して行くワークで全敗だったことだ。
一人一人の前に立ち、駄目だしをもらう。
もちろん、 OK が良い。
それで全部の人から駄目だしをくらった。
もちろん、駄目だったのではない。
ジャッジする側が、ジャッジをするという作業に没頭しているから、平岡さんに対して向かい合っていなかったからだ。
そしてジャッジするセンサーが出来ていないから仕方が無いのだ。
それこそ体験の科学なのだ。
皆頭に汗をかき、疲労困憊のまま 1 日を終える。
何時ものパターンだ。
そんな中でも、自分として成長した、という人と再会するのは、本当に嬉しい。
それは自分の手で、自分の身体で何かに確実に気付いた人だからだ。
関係塾と表現塾とは少しかぶっている。
なので、表現塾の定番「正面向かい合い」的要素を関係塾から盛り込んでいった。
何しろ 3 日間しかないのだから。

今日は 2 日目。
とはいうものの、明日で終わりだ。
何をベースにワークを展開してやろうか。
昨日もワークが終わったら眠眠へ餃子を食べに行った。
地方から参加してくれていた人達を伴って、餃子と生ビールに舌鼓をうった。
「うまい!」

4 月 22 日

どうして自己弁護の言葉が先にでるのか。
自己弁護の言葉だらけになるのか。
それを言う暇があるのなら、どうして一回でもよけいにやって、どうすれば良いのかを発見しようとしないのか。
性質の悪いのは、その自己弁護の言葉が持論であったりすることだ。
それを相手に押し付け、さも自分は理解しているかのごとく振る舞うことだ。
うんざりする。
しかし、その事に気付かない相手の人にもうんざりする。
もちろん、社会的に相手のことを正面から否定しない、悪く言わない、意思を明確に相手に伝えない、という日本人の悪くもあり良くもありという性質があるから仕方が無い。
しかし、それは社会生活、団体生活、集団生活であればそれでよい。
場次第、その時々に応じてだ。
しかし、ここは私の教室、ワークの場、技術を研鑽する場である。
技術の研鑽だから、雑音は邪魔になる。
もっと言えば、自分の時間、自分のお金を使ってワークに参加している筈だ。
であれば、そこで世間話をしていたらもったいないだろう。
前にも書いた事があるが、いい歳をしても
「私はこんなことが出来る・私は凄いだろう」
と自慢をしたい子供じみた欲望の強い人がいる。
そんな人を見ていたら、いっそ別の場所で自分で教えればいいと思う。
そんなことを言っても理解できないだろうが。
追い出しても良いのだが、そうすると雰囲気が悪くなる。
難しいところだ。

さて、今日は最後。
2 コマしかない。だから、余計なことに気を使わずにスムーズにコマを進めたいのだが、どうなることやら。
しかし、腐ったリンゴ一個で、その箱のリンゴは全滅する、という言葉が当てはまらないのだけが救いだ。
その意味では、それ以外の人は、人をよく見極めており、自分が学ぶものに集中しているのは凄い。

4 月 23 日

京都ワークショップは、慌しく終わった。
打ち上げは 2 次会まで。
睡魔がガンガン襲ってきたので深夜 12 時過ぎ解散した。

5 分の休憩が終わった時、正面向かい合いからコンタクトを平岡さんと松田さんの 3 人で突然やってみた。
もちろん、何もかも決めていない。
2 人で、 3 人で、 1 人で。
任意に変化する。
突然のパフォーマンスに受講者は息を呑む。
コンタクトされている緊張感はたまらなく良い。
ここにセリフが乗っかれば、本当に面白い芝居になる筈だ。
3 人は感じた。
最後は裏切って終わり。
参加者からは拍手拍手。
「何だか分からないけど凄かった」
「そうやろ、人が関係し、その関係が見えていたらこうなるんやで、面白いやろう。これをフォーサイスカンパニーや外国のダンサー達はやりたいんやで」「これをやろう」打ち上げで改めて確認した。
具体的にどうするか。
一寸面白い仕掛けが打ち上げの最後に浮かんだ。

今回のワークショップは、どういうわけか治療家の人達が多かった。
整体や鍼灸、理学療法士の人達だ。
その人達も、身体の精密さ繊細さに目が点になるばかりだ。
どの領域までを身体と呼ぶのか。
それによって要求されるレベルが変わる。
武道では生理的反応までを身体と呼ぶ。
だから必然的に精密にならざるを得ない。
そこから作り出しているワークだから、相当敷居は高い。
それでも受講者の笑い声は絶えず、嬉々として取り組んだ。
もちろん、毎度の怒鳴り声も響いたが。
3 日間のワークショップは余りにも短すぎて、何のことやら、という感じがしないでもない。
しかし、毎年各地で行われるワークショップに参加してくれている人達にとっては、色々な確認検証の場になっているから、それでも良いのかなとも思う。
「秋にもお願いします」
沢山の人から言われた。
さて、どうするか。

 

過去のワークショップ